『マルセル』(高樹のぶ子著、文春文庫)
写真》大学ノートの手触り
 
 2H、すなわちテレビの2時間ドラマが好きだということは当欄でも繰り返し書いてきた。鉄道もの、温泉ものなどのあのまったり感が60歳超の心的リズムにぴったりくるからだが、それ以外にもわけがある。きっと、僕が新聞記者だったからだろう。
 
 日本の全国紙記者は、入社するとたいていは地方勤務となる。最初に割り当てられるのは、警察や裁判所の取材だ。そこで目の当たりにするのは、日常性の破れである。凶悪な事件ばかりではない。善良な市民が、ある日突然に過失事故の加害者になることもある。新聞社に入る前はぬるま湯に浸かっていたような若者が、そんな安穏の裂け目を日々見せつけられるのだから、生涯忘れがたい記憶が刻印されるのは無理からぬことだ。
 
 新聞記者や記者経験者が、なにかというと駆けだし時代を語りたがる理由の一つは、そこにある。2Hの劇中で事件現場に立ち入り禁止の規制線が張られているのを見ると、僕の血が騒ぐのもそのためだろう。だが、現実はドラマと違って重い。人の生と死、遺恨と後悔が絡む。あの殺人事件の被害者家族や被疑者は数十年後のいまどうしているだろうかという思いが浮かんだとたん、この昔話は口にできないな、と踏みとどまるのである。
 
 記者にとって駆けだしの数年間は忘れがたく、同時に苦くもある個人史のひとこまである。このアンビバレンスな思いは当欄にぜひ書きとどめたいが、実話にはなかなか立ち入れない。そんなことを思っていたら、恰好のフィクションに出会った。
 
 『マルセル』(高樹のぶ子著、文春文庫)。毎日新聞が2011年にまるまる1年間をかけて連載した長編小説。翌12年に単行本となっていたものが、今年5月に文庫化された。主人公の女性、瀬川千晶は新聞記者、その亡き父謙吉もかつて同業だった。記者の目で記者の軌跡を追う構造になっている。余談だが、連載途中に東日本大震災が起こった。新聞小説らしく、そのときの人心の揺らぎまでリアルタイムに作品へ取り込んでいる。
 
 作品の主題は、マルセル盗難事件。「本書はフィクション」とのことわりがきがあるので、筋立てはあくまで虚構だが、事件そのものは実際にあった。1968(昭和43)年暮れ、京都国立近代美術館で開かれていたロートレック展で、人気の名画「マルセル」が何者かに盗まれたのである。そのころ、僕は高校生。この本を読んで、そう言えばそんなこともあったなあと記憶を呼びおこされた。
 
 マルセルはフランスの女性名。娼婦のようでもある。だが、貴婦人かもしれない。そんな人物を描いた絵だ。それを新聞記事の切り抜きでみて、千晶はこんな印象を受ける。「どちらかと言えば大人しい女性の横向きの肖像画で、全体的にたっぷりと豊かで、目鼻立ちもくっきりしている。胸元がはだけ気味なのと後れ毛が首を這う風情が、女の疲れというか気だるさを感じさせはするけれど、夜の賑(にぎ)わいはどこからも伝わってこない」
 
 千晶は、当時の報道に「『怪傑ゾロ』に舌を巻いている空気感」もみてとる。「同じ一二月に三億円事件が、東京の府中市で起きている」「時代の風が、何か途方もないことをしでかす人間に、圧倒されつつもひきこまれている気配がある」とも感じる。東の三億円、西のマルセル。人の殺傷を伴わない二大事件が相次いだ。ただ、それも悲劇と無縁ではない。マルセルでは、美術館の警備員が責任を感じて自殺したのである。
 
 マルセルは、7年が過ぎて時効となった直後に戻ってくる。だが、事件の真相はベールに覆われたままだ。そんな史実に、著者はまろやかなミステリーをしのび込ませた。主人公の恋がある。母親探しもある。そして、その向こうに絵画盗難の大きな構図が控えている。
 
 ミステリーの鍵は、謙吉が最期の病室まで手もとに置いていた取材用の大学ノート。「ページの真ん中に縦の折り跡がついている」というから、現役のころ、ポケットに突っ込んで使っていたのだろう。表紙には「М」の文字。マルセルのМらしい。ページを開いて驚くのは、そこにあるのが「自分で書いた新聞記事に対する、徹底的な反論であり、否定や疑問だった」ということだ。
 
 右ページに発表事実があり、そこから矢印が延びて左ページに、おそらく記事にはしていない「自分の見解や意見」が書き込まれている。一例を挙げれば、右に「マルセルは縦四六・五センチ、横二九・五センチの油彩八号、時価三五〇〇万」とあり、左に「犯行時には額縁ごとの盗難であり、この寸法は目撃者の記憶を惑乱する可能性あり。なぜ額縁を含む大きさを公表しないのか」という具合だ。
 
 千晶は文化部記者だが、自らの社会部時代の体験をもとに「これは通常の記者の習性とは少し違っている」と思う。記者は「発表される内容に関して足りない質問はする」。だが、ノートなどに「記者自身の意見を書き留めることはまずない」。ここにあるのは、発表を鵜呑みにしない見事な批判精神だ。僕がいる科学ジャーナリズムの世界には、科学者が言うことをかみ砕いて伝えるだけで事足れりとする傾向もあるので、謙吉の姿勢に脱帽する。
 
 ところが先へ進むと、ノートの書きぶりが変わってくる。「女の足音、カックカック、ビリジャン・ヒューの匂い」「イメージこそ事件、深い緑のまさかのまさかだ」。千晶の恋人であるオリオは、これを読んで「オンナの匂いと違いますか」「動揺してますよね、お父さんの文章」と言う。千晶も「短く、刹那(せつな)的になってます」と同意して「新聞記者としてはダメになってる」と断ずる。
 
 ここで、ビリジャン・ヒューは絵の具の深緑色だった。そこにあるのは、絵心がある女の影。やがて千晶とオリオは、山田花子という絵描きの存在に行き当たる。ノートが書かれていたころ、謙吉とつきあいがあった元捜査員松井から、こんなひと言を得る。「私が申し上げられるのは、瀬川謙吉は、ハナと呼ばれる女性を、とても愛していたということです。瀬川さんみたいな堅物が恋をすると、ああなる」
 
 千晶は、母を知らずに育った。「わたしのお母さんはだれ?」と聞くと、父は「死んだんだ」と答えるばかりで、その問いそのものに怒った。きっと、この花子が母に違いない。千晶の母親探し、謙吉の青春、そしてマルセルが重なって、ぼんやりと像を結びはじめる。
 
 謙吉は、松井にこんなエピソードも打ち明けていた。花子は「瀬川さんがルノアールの少女の絵が好きだと言うと、一週間後にその絵そっくりの少女を描いてプレゼントした」というのだ。どうということもないようなのろけ話だが、ここにこそ事件の核心があった。
 
 そして松井は、千晶とオリオに重大な証言をする。「瀬川さんは、マルセルを盗んだ犯人がはっきりしたと言われました。けれど自分は、この事件から手を引くつもりだと」――これを聞いたときの千晶の胸中をめぐる思いは、いかにも新聞記者らしい。「けれどもし犯人を突きとめたのなら、新聞記者としては公器に書くべきで、たとえ時効が成立したあとで刑法上は罪に問えないとしても、社会的な責任はあるはずだ」
 
 建前は、その通りだ。だが、記者もまた人間であり、男か女であり、父であることも母であることもある。だから、事実を知ってもそれを語らず、墓場までもっていきたいということもあるのだろう。謙吉にとって、マルセル事件の真相がそれだったのか。ただ、もしそうならばなぜ、取材ノートを死の床まで手ばなさずにもちつづけたのか。ここにこそ、この小説最大の謎がある。読了すると、その答えが見えてくる。
 
 僕もいま、謙吉晩年の心理がわかる年ごろとなった。墓場に道づれにしようにも特ダネ級の情報はもち合わせていない。ただ、見聞きしたのに書ききれていないことは少なからずある。これをどうしたらよいものか。当欄を続ける理由の一つは、そこにもある。
(執筆撮影・尾関章、通算269回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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