●『洋食屋から歩いて5分』(片岡義男著、東京書籍)

 「1週1冊」という僕の気長な大事業は、新しいステージに入った。古巣の新聞社を離れて完全自立したのである。月並みなたとえで言えば、大型ショッピングモールのテナント店舗を引き払って地元商店街に小さな店を出したことになる。
 
 店名は「本読み by chance」。本を偶然のなすままに読みたい、という思いを込めた。二つの意味がある。一つは文字どおり、偶然の出会いを大事にしたいという気持ち。積ん読本の山が崩れ、はじき飛ばされた1冊を開くと未知の世界が見えてくる、なんていうことが人生にはままある。もう一つは、本選びを自分自身の気まぐれに委ねたいという気持ち。読みたいものを読みたいときに読む。そんな読み手の特権をフルに行使しようと思うのだ。
 
 と、ここまで書いて、だったら一人で読書日記をつければいいじゃないかと自問する内心の声が聞こえてくる。ブログの開店にあえて意義を見いだせば、それは、僕の気まぐれが世間の関心事とかなり重なり合っていることにあるのだろう。新聞記者という仕事を36年間も続けたためか、意識の底に世情が伏流水のように流れている。そうならば、店を開いてなにかを書けば、ときに来店客の思いと共振することもあるのではないか。
 
 世間の関心事と言っても、新聞紙面に居並ぶニュースばかりではない。一つひとつのニュースをつないで見えてくるかたち、理系用語で言えば「包絡線」のようなものこそ時代を映している。そんなメタニュース志向で本の話を語っていこうと思う。
 

 で、今回は『洋食屋から歩いて5分』(片岡義男著、東京書籍)。2月のことだったか、いい本があるよ、と友人が貸してくれた。その時点で、文理悠々の店仕舞いやby chanceの店開きを伝えていたわけではないので、本好きの厚意の域を出るものではなかったのだろう。それが、めぐり合わせの妙で、はなむけの一冊となった。しかも、このエッセイ集には今の世の中にあってほしい空気が詰まっている。この偶然を生かさない手はない。

 

  僕は、かつて朝日新聞読書面の書評で『白い指先の小説』(片岡義男著、毎日新聞社)をとりあげたことがある。『スローなブギにしてくれ』が忘れられない世代を代弁して「この短編集は晩夏の夕暮れの白ワインか。もはや『強いジン』ではない」「静かで、しかもキリッとした女たちが登場する」と書いた。『洋食屋から……』の33編も「夕暮れの白ワイン」の趣だ。そしてやはり、「静かで、しかもキリッとした女たち」が折々顔を出す。
 
 冒頭の「いつもなにか書いていた人」がそうだ。「僕」、すなわち著者が交差点を渡っていると、同年代の女性が「カタオカさん」と声をかけてくる。「今日も喫茶店?」。彼女は「僕」がまだ二十代で雑誌のライターだったころ、原稿書きに入る喫茶店でウェイトレスをしていた人だった。「僕のテーブルにコーヒーを置いて、配膳のカウンターへと戻っていくときのうしろ姿が、素敵だった」「あらまあ、すっかり小説のなかの台詞ねえ」
 
 彼女には「妙齢」の娘がいて、小説が好きだという。「ほんのしばらく私とつきあって。まず、書店へいきましょう。あなたの本を買いましょう」と、僕の手をとった。遠い昔に「お母さん」が働いていた店では、後に小説家となる人が「いつも雑誌の原稿を書いてたのよ」。そのことを娘に立証するためだ。彼女と「僕」は手をつないだまま書店へ向かう。「僕」の本を2冊買って「ひと言、添えて。娘が完全に信じるように」。
 
 「僕」は「素敵なお母さんとそのお嬢さんへ」と書こうとしたが、「嬢」の字がすぐに出てこない。試しにレシートの裏に書いてみると「そうよ、それでいいのよ」――ここまで読んで僕は、成熟した男女の関係っていいな、と思った。
 
 「僕」と彼女は、恋人同士だったわけではなさそうだ。今もこれからも、夫婦や愛人関係になりそうにはない。かと言って、老境の茶飲み友だちというほど枯れてもいない。ほどよい距離感で性を意識する大人の男女だ。最近、性愛のねじれがもたらす事件のニュースを目にするたびに思うのは、そんな男女のありようが世の中に欠乏していることである。「僕」と彼女の再会は、成熟男女が輝きを放つ一瞬を巧く切りとっている。
 
 もう一つ、この本で印象深いのは、著者のコトバへのこだわりだ。片岡作品には、題名から入る、という作法があるらしい。以下は、「栗きんとんと蒲鉾のあいだ」という一編に出てくるエピソード。夏至の日、女性編集者を交えて鰻を食べた後、彼女とふたり喫茶店に入ってコーヒーを飲む。代金を別々に払って店を出るときにひらめいたのが「割り勘の夏至の日」。約2週間後、実際に「割り勘で夏至の日」という短編を書いたという。
 
 そうかと思えば、イタリア料理店のメニューに「三種類の桃のデザート」を見つけて「これはいい、題名に使える」と感じる。居酒屋でも、壁に貼られた短冊の品書き1枚1枚に目をやる。「僕がいまもっとも好いている品書きは、塩らっきょう、とだけ書かれた短冊だ」「これを部分品に使って、塩らっきょうの右隣り、というフレーズをひねり出すと、そこには物語がすでにある」
 
 次の一編「こうして居酒屋は秋になる」では、隣駅の町にある居酒屋の名物「わさび」という飲み物の話がいい。焼酎ソーダ割りのジョッキに胡瓜の細切りを入れ、わさびを落としてかき回し、飲むというものだ。
 
 ここから著者の想像が広がる。ウールのシャツを着てバーボンを飲む男の横に「秋の服にたおやかにその身を包んだ妙齢の女性がいる」とする。そんな彼女に勧めたいのが「わさび」だ。「端正な手つきでわさびを完成させた彼女が、それをひと口飲む。暑かった夏の日を思い出します、とでも彼女が美しい笑顔で言うなら、そのときからその居酒屋は秋になる」。そうか、片岡義男の小説はこんなふうに組み立てられていくんだ、と僕は思った。
 
 「鮎並の句を詠む」では、著者のコトバへのこだわりが俳句趣味に及んでいることがわかる。電車に吊るされた酒の広告に鮎並(あいなめ)の句を見つけて、同乗の編集者と「せっかくだから自分たちも鮎並の句を作ってみようか、ということになった」。著者は1駅ごとに1句ずつ詠む。小田急の代々木八幡、参宮橋、南新宿、新宿。そのとき、日常性の象徴である各駅停車は至福の乗り物に変わっていたことだろう。
 
 コーヒーや桃のデザートや俳句や町や電車があり、「静かで、しかもキリッとした女たち」もいてコトバと想像力を触発する。僕が今、若いころとは違う意味で片岡義男を好きな理由はそこにある。このブログで愛おしみたいと思うのは、そんな世界の「たおやか」な空気だ。


写真》片岡義男的な空気は1杯のコーヒーから=尾関章撮影
(通算207回)

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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コメント
アウグスチヌスさま
さっき、町のコーヒー店で本を読んでいたら、隣のテーブルの女子二人の会話が気になってしようがない。
年のころなら、僕より10歳くらい下か。もともと同郷で、今は隣町に住んでいるマダム同士がお茶している、という感じでした。
話の中身に共感するところがあったので、割って入ってお茶仲間になりたいという気持ちもなくはなかったが、それってやっぱり「ナンパ」かと思って控えました。
耳をふさがない限りは聞こえてしまうおしゃべりから、女子の興味のありどころを取材する。これも「ほどよい距離感」なのかもしれませんね。
  • by 尾関章
  • 2014/04/14 4:34 PM
「82歳、87歳を刺す。ホーム内の女性入居者をめぐって」
こんなタイトルのニュースをたまに目にします。
これが30代であれば、「32歳、37歳を・・・」とは書かないでしょう。高齢者は男であること、女であることをやめているはずという「あるべき姿」を、無意識であるにせよ、高齢者に強いているように感じ、残念な思いを抱きます。
一方で、一部週刊誌の「死ぬまで・・・」シリーズ。地域に戻ってしまった長年の愛読者である団塊の世代をつなぎとめようという、涙ぐましい戦略なのでしょう。人間は死ぬまで男であり女であるという事実への「気づき」の促しに一定の貢献をしているという意味で評価はしているのですが(笑)、いかんせん、人間生活のいち要素をアンバランスに拡大した偏りは常軌を逸していると言わざるをえません。
このような両極を思う時、片岡ワールドが醸し出す「ほどよい距離感で性を意識する大人の男女」というありようが今の世の中にもっとあって欲しいと願う尾関さんの思いに共感を覚えます。
  • by アウグスチヌス
  • 2014/04/14 3:39 PM
とあるドラマ制作者さま
さっそくのコメント、ありがとうございます。
きのういただいていたのに、きょうになってひらけました。
技術的にみて、この時差はなんなのか。
まだまだ自立ブログに慣れない僕ですが、どうかよろしく。
  • by 尾関章
  • 2014/04/13 1:09 PM
「1週1冊」と聞いただけで、優雅な時間の流れと確かな教養への憧れと目下の山積する仕事を投げ出したい誘惑に駆られます。時流に埋没しがちな仕事柄、このブログを見ることでおこぼれにあずかり、本の知識を得、自らを客観視する契機としたいと思います。今後のブログも楽しみにしています。
  • by とあるドラマ制作者
  • 2014/04/12 11:55 AM
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