『昭和怪優伝――帰ってきた昭和脇役名画館』(鹿島茂著、中公文庫)
写真》サングラス、だれが似合う?
 
 生まれて初めて観た映画は何だったか。そんなことに思いを巡らせていて、はっとさせられたことがある。何をではなくどこで、についてだ。もしかして、それは映画館でなかったのではないか。幼稚園の園庭? 小学校の校庭? あるいは児童公園? いや縁あって訪ねた豪邸の主が芝生の庭で開いた上映会だったかもしれない。真夏だったのだろう。戸外に張られた映写幕が祭りの夜のような気分を醸していた。
 
 映しだされたのは「ノンちゃん雲に乗る」(倉田文人監督、新東宝)。1955年の作品。石井桃子のベストセラーを映画化したもので、鰐淵晴子が子役で主演した。白布に浮かぶモノクロ映像が遠い思い出のなかにある。
 
 都心の映画館に出かけることもあった。作品を一つ挙げれば、「野ばら」(マックス・ノイフェルト監督、1957年)。ウィーン少年合唱団の物語だった。いま調べてみると、筋立てには56年のハンガリー動乱が織り込まれ、時代性に富んでいたらしい。
 
 こう書いてくると、幼少のころは文部省推薦もしくはそれに準ずる映画ばかりを観させられていたような気もする。だが、そうとばかりは言えない。僕が住んでいた町には映画館が二つもあったからだ。一つは、駅を降りてすぐの裏道に面した「東洋映画劇場」。もう一つは、寺の山門前にあった「南風座」。僕の家に下宿していた大学生に連れられて、芝居小屋然とした館の暗がりに入り、その淀んだ空気を吸ったのだった。
 
 この2館にどんな映画がかかっていたか、定かには覚えていない。脳裏に焼きついているのは、新選組の防具の胴に大書された「誠」の文字。波しぶきが飛び散る岩場を背景にした「東映」の文字。僕の町の映画館はハレではなくケ、定番娯楽作品の上映館だった。
 
 で、今週の一冊は『昭和怪優伝――帰ってきた昭和脇役名画館』(鹿島茂著、中公文庫)。著者は1949年横浜生まれで、仏文学が専門。近現代フランスの文化、思想、生活、風俗の語り部でもある。当欄で訳書『ジャーナリストの生理学』(オノレ・ド・バルザック著、講談社学術文庫)をとりあげたときも、巻末の訳者解説に教えられることが多かった(「バルザック、ジャーナリズムへの愛憎」2015年1月9日付)。
 
 だから、この本を手にしたとき、そこに出てくるのは、「昭和」とあるので邦画だとしても松竹ヌーベルバーグ風の名作ばかりだろうと思った。だが、それはうれしいほどに裏切られた。定番作品、いわゆるプログラムピクチャーが満載だったからだ。
 
 ここにもやはり、「町の映画館」が出てくる。著者は、少年時代を振り返ってこう言う。「小学生(一九五六年から六一年まで)時代、とりわけ高学年になってから、隣町の駅前にある杉田東洋という新東宝の三番館に毎週のように通っていた」。実家が酒屋を営んでいて、映画のポスターを張る見返りに無料招待券が手に入ったからだという。商店街の店先の煽情的な張り紙。そういえばあのころ、そんな風景がどこの町にもあった。
 
 新東宝は戦後、東宝の労働争議から生まれた映画会社。「ノンちゃん……」もつくったが、主力は別路線だった。著者も「私は小学生だったにもかかわらず、東映の時代劇よりも、新東宝のエロ・グロ・ナンセンス映画を好んでいた」と打ち明ける。「海女」シリーズ、「十代」シリーズ、「肉体」シリーズ……それが「はっきりしたエロもの」で18歳未満入場禁止になるときは前の週に足を運んだという。「予告編なら見ることは許されるから」である。
 
 新東宝映画にはセミヌードの踊りがよく出てきたとも著者は指摘する。「裸体でのラブ・シーンに厳しかった映倫規定」のせいか、「ほとんど脈絡がないのに、いきなりキャバレー・シーンになるなんてことは日常茶飯事で、それがお色気の『文法』にさえなっていた」。
 
 この映画会社は1961年につぶれた。だがまもなく、作品群がテレビでよみがえる。著者は中学生時代、「マルマン深夜劇場」という番組にかじりついて「放映される限りの新東宝映画を全部見た」と豪語する。
 
 新東宝作品は悪役や敵役に凄味があった、というのが著者の分析だ。そのツー・トップは丹波哲郎と天知茂。丹波が「実悪(じつあく)」を演じたのに対し、天知は「二枚目の悪党」である「色悪(いろあく)」を得意としたという。この本は副題に「脇役名画館」とあるが、著者はそれから逸脱していることを認めつつ、天知主演の『憲兵と幽霊』(中川信夫監督、1958年)について語る。
 
 天知の憲兵少尉が、下士官の結婚式に出る場面。花嫁は久保菜穂子。その美しさに同席者が小声で「さすがの少尉殿も、今回は負けですな」と軽口をたたくと、少尉は「不気味に『そうかな』とだけ答える」。しかも宴のさなか、「一人で杯を重ねる天知茂の『横目』が怪しく光り、ジロリと新妻の久保菜穂子を見つめる」のである。怖い。思い浮かべただけでも背筋が凍る。その後の筋書きの深淵が垣間見えるような一瞬だ。
 
 「そう、天知茂の色悪としてのキャラクターのすべては、顔は正面を向きながら、目だけはヒーローやヒロインのほうに向けてスキをうかがうこの『横目』にあるといって差し支えない」。この一文は、役者の真価を的確に見抜いている。
 
 どの章にも、そんな見事な鑑定眼がある。俎上にあがるのは、文字通りの怪優伊藤雄之助、黒幕をやらせたら右に出るものがない佐々木孝丸、鋭利なイケメンだったが夭折した岸田森、「性が禁圧されていた時代」に「『エロ』を体全体で表現してみせた」とされる三原葉子、日活ロマンポルノで「純情さが図太さであり、繊細さが大胆さであり、可憐さが猥褻さ」という「両面可逆性」を見せつけた芹明香……個性の強い男優女優が並ぶ。
 
 ここでは、当時の青年二人をとりあげる。まずは、ヒット曲「空に星があるように」で知られる荒木一郎。彼は「893(やくざ)愚連隊」(中島貞夫監督、東映、1966年)などの映画に出ていた。著者は、彼を日本にまれな「サングラスの似合う俳優」と位置づける。
 
 日本の俳優は、石原裕次郎であれ高倉健であれ、「あまりに多くの『言うべきもの』を抱えこんでいた」ので、サングラスが「言うべきもの」を隠す「黒メガネ」にしかならなかった。ところが「無表情を貫く荒木一郎には『言うべきもの』も、逆に『隠すべきもの』もない」。だから、「日本映画は荒木一郎を待って初めて、サングラスのよく似合う『実存的』なヒーローが誕生したことになる」――こう読み解くのである。
 
 もう一人は、川地民夫。「狂熱の季節」(蔵原惟繕監督、日活、1960年)では、鑑別所を出てすぐ万引きして外車を盗み、遊びまわる若者を演じた。ここでも、石原裕次郎との比較論がある。この本によれば、裕次郎には「童顔とは不釣り合いの身体の大きさからくる『持て余し感』」があり、それが「戦後のアッパー・ミドルの青年の肥大した自我(オレはいまここにいるオレではない)の隠喩」となっている。対する川地は「余りなし感」だ。
 
 著者は、そこに「自己実現の可能性を決して超えることのないローアー・ミドル」の「自我の表現」をみてとる。そのイメージが、60年安保が終わって「オレの居場所はここではないといつまでも言い続けていることができなくなった」状況にぴったりきたのだという。
 
 ちなみに著者には、少年のころ、川地出演の青春映画を野外鑑賞した経験もあるという。秋祭りの神社境内。シーツのような映写幕の前に敷いたゴザに空きがないので「裏側に回り、柿の木の大枝によじ登って、そこから左右反転画面を眺めた」とある。
 
 いま映画の多くは、シネコンの清潔な映写空間やテレビ、IT端末の画面のなかにある。風も吹かなければ、かび臭い匂いも漂ってこない。むかし戸外や小屋の銀幕には、それにふさわしく、アクが強く、クセのある俳優たちがいっぱいいた。そのことは忘れないでいたい。
(執筆撮影・尾関章、通算271回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
《ところで雲霧仁左衛門をご存じですか?実在の真偽不明な江戸時代の盗賊の頭。多くの「主役級」の役者が演じているようですが、これはもう、天地茂が群を抜いていますね》(虫さん)
なるほど、ただの「色悪」ではないということですね。
この本は、怪優一人ひとりの個人史にも触れていておもしろい。その記述によれば、佐々木孝丸は、革命歌「インターナショナル」の訳者の一人だった。あるいは、成田三樹夫は、いったん東大に入ったが水に合わず、郷里の山形大に入り直したという。そして、天知は少年時代、日本画の修練を積んでいた――知的体験に富む人たちが多かったようです。
ちなみに、アマチのチは「地」ではなく「知」。その名の通り、知的な人だったんですね。
  • by 尾関章
  • 2015/07/06 5:58 PM
尾関さん

私の町にも映画館が二つありました。現在60才超の私が観たのは、ゴジラ、マタンゴ、妖星ゴラスなど、いずれも特撮もの。
ゴジラもマタンゴも放射能の落とし子。妖星ゴラスは今で言えば小惑星の衝突から地球と人類を守る科学奮闘もの。但し、ゴラスは地球に接近するにつれ巨大化してくるので、破壊は不可能。結局、それでは私が退きましょうとばかりに地球の公転軌道を変えてしまうという壮大な物語と記憶しています。今にして思えば、いずれも随分と現代の問題意識を先取りしていますね。

徒歩圏で映画が観られ、テレビのある家が少なく相撲放送にご近所さんが賑やかに集まる時代から、家族の一人に一台テレビがあり、いそいそと映画館に出かけて行く昨今。たしかに見事にハレとケが逆転していますね。

ところで雲霧仁左衛門をご存じですか?実在の真偽不明な江戸時代の盗賊の頭。多くの「主役級」の役者が演じているようですが、これはもう、天地茂が群を抜いていますね。「色悪」は不十分なレッテル貼り。天地の仁左衛門に「色」も「悪」もありますが、「色」の対象を巡って「父性的な感情」と「欲」の間に仁左衛門は生きているんですね。こんな役を自然に見事に天地茂は演じることができるんです。脇役?とんでもない。

  • by 虫
  • 2015/07/06 3:48 PM
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