『失われた時のカフェで』(パトリック・モディアノ著、平中悠一訳、作品社)
写真》ある日、12桁の数字が……
 
 マイナンバーがもうすぐやって来る。この秋、くまなく日本列島の家々のポストに簡易書留で届くらしい。住む人一人ひとりに割り振られた12桁の数字だ。この動きに僕たちの世代は身構えてしまう。「あっ、いよいよだな」。
 
 ピンとくるのは「国民総背番号制」という言葉だ。僕たちが若かったころ、管理社会の象徴として嫌われていた制度である。だからコンピューター社会になっても、行政官庁が個人に番号を振りたがる風潮にずっと神経をとがらせてきた。この警戒感は、IT(情報技術)とともに育った世代には不可解なのだろう。僕が新聞社の論説委員室にいたときも、議論がなんらかの番号制に及ぶと老若の年齢層で見方が分かれたものだ。
 
 たしかに、もろもろの公的な手続きがITの統一管理のもとに置かれれば無駄は激減する。朝日新聞の記事「教えて!マイナンバー」(連載第1回目、2015年5月13日付朝刊)には、こんな記述がある。「それぞれの役所で管理されていた個人の情報が、12桁のマイナンバーで結びつけられ、役所同士で情報を共有できるようになる」「子育て中の人が児童手当を継続して受けるための手続きでも、添付書類が減り、手間が省ける」
 
 もう一つ、マイナンバー積極導入論には強力な応援団がある。それは、公正で透明な社会を求める世論だ。「教えて!」の記事にも「役所にとっては、年金の不正受給や脱税といった不正行為を防ぎやすくなるというメリットがある」と書かれている。
 
 一方、いまマイナンバーにブレーキをかけるものがあるとすれば、それは「情報漏れ」の心配だ。先ごろ日本年金機構が抱え込む個人情報がサイバー攻撃に遭い、流出したことで現実味を帯びた。そこにあるのは、プライバシー保護に敏感になった民意である。
 
 こう見てくると、マイナンバー制度は、公正の追求とプライバシーの尊重という二つの気運の綱引きで揺れ動いている。だが、論ずべきはほんとうにそれだけなのか。マイナンバーがはらむ最大の問題はもっと深いところにある、と僕は思う。それは、僕たちが識別番号を付与されることで鉄壁の官製アイデンティティーを手にする代わりに逃げ場を失うことにある。人間は、それに耐えられるのか。
 
 なにも、犯罪者、あるいは革命家のことを考えているわけではない。ふつうに市井に生きるふつうの人々にも逃げ場は欠かせない――今週は、そんなことに思いを巡らせてしまう小説。『失われた時のカフェで』(パトリック・モディアノ著、平中悠一訳、作品社)。著者は1945年生まれのフランスの作家。去年、「記憶の芸術」を授賞理由にノーベル文学賞を贈られた。
 
 この本では巻末に、自身も作家である訳者が、注を含めると50ページを超える文章を載せており、思い入れの深さが伝わってくる。そこで僕が共感したのは、著者と米国のポール・オースター、日本の村上春樹を「1940年代後半生まれの作家」として括り、「彼らは世界で同時多発的に何を行っているのか」と問いかけていることだ。三人の作品世界はそれぞれ独自のものだが、いずれも僕の世代にしっくりくる感性を宿しているように思われる。
 
 『失われた時の……』は、五つの章から成る。一つひとつが小品の趣を漂わせているが、それらを貫く縦糸となるのが、若いのに謎めく女性ルキ。四つめの章までは語り手が次々に入れ代わるが、その人々はパリ・セーヌ左岸の一角にあるカフェ、ル・コンデを接点につながっている。カフェという一つの空間に居合わせたことで生まれる緩い面識が、五つの小品を束ね、一つの物語を紡ぎだすのである。
 
 冒頭はこうだ。「カフェのふたつの入口の狭いほう、陰の扉と呼ばれていたほうから、いつも彼女は入ってきた。そして小さなカフェの奥、いつも同じ席に座った。最初のうち、だれとも口をきかなかったが、やがてみんなとうちとけた。そのカフェ、ル・コンデの常連と」――町のたまり場という社交の培地で人々のつながりが芽生える様子をコマ落としの映像で見ている気になる。
 
 この最初の章の語り手は、後段で「国立高等鉱業学校」に通っていることが明かされるエリート学生。ルキに心惹かれているらしく、彼女に向けられた観察眼は鋭い。「ルキ」はこの店で呼ばれるようになったあだ名だが、「この新しい名前で彼女は気が楽になった」とみてとる。「彼女はここに、コンデに、避難しにきていたのだ。まるで何かから逃げようと、なにか、危険からのがれたいというように……」
 
 その裏づけとなるのは、ルキ自身が語り手となる章。「私が15のとき、人は私を19といった。はたちとさえ。私の名前はジャクリーヌ、ルキじゃない」で始まる。少女時代、母が仕事でいない夜、街をさまよい歩いていて補導されたときのことだ。警官に聴かれて、家族史の情けなくなるような詳細を語っていると「私は重石(おもし)を取り除かれていくようだった。もうそれは私とは関係ない、私は、だれかほかのひとのことを話してた」
 
 「私の人生の一部が、いま終わった。私に押しつけられていた人生が。これからは、私が自分の運命を決めるんだ。全ては今日からはじまる」。自分の一切を吐きだすことによって、そこから遊離するような感覚か。
 
 自分自身から逃げようとするルキの心情は、僕たちがマイナンバー時代に襲われるかもしれない心のありようを予感させる。人はときに自らの正体を打ち消したくなる。だれかれとなく訪れ、後腐れなく去っていくル・コンデは、それを実現してくれる場所だった。
 
 この小説は、語り手が長い時間幅の過去を振り返る形式で叙述されるので、ル・コンデは永続して存在しない。1番目の章に「何年もあとになって、界隈(カルティエ)の通りに高級ブティックのショーウインドウばかりが並び、皮革品店がコンデのあとに置きかわった頃」という記述がある。最終章では、その店を見た登場人物が「パリはずいぶん変わったね。ここ何年かで」と感嘆する。逃げ場もまた逃げてゆく。それが都会なのかもしれない。
 
 ル・コンデには、人の「逃げよう」という衝動に対抗する因子もあった。それを具現するのは、最初の章に出てくる店の常連、ボーイングという男がつけていたノート。「そこにはコンデの客たちが、毎日毎日、3年間、一覧となっていた」。たとえば、ある年の3月18日。「14時。ルキ、16番地、フェルマ通り、14区」。名前や住所をなんとか聞きだし、来店時刻とともに書きとめる。歩く国勢調査ともいえる人物が店にはいた。
 
 そのボーイングに近づいてきたのが、自称「美術出版者」。ル・コンデの写真集を出したいので、と言ってノートを一晩借りるのに成功した。あくる日に返却されると、なんと「ルキの名前に全て青鉛筆でアンダーラインが引かれていた」のである。
 
 「美術出版者」は、実は私立探偵だった。二番目の章は、そのケスレィという探偵が語り手になる。不動産会社に勤める依頼人の命を受けて、その失踪妻ジャクリーヌ、すなわちルキの行方を追う話だ。彼女の人物像の輪郭が見えてきたあと、依頼人にどう伝えるかで心を決める。「僕はあとなんどか彼の電話に答え、漠然とした情報を与える――ぜんぶ嘘のだ、いうまでもなく。パリは大きな街で、だれかをそこで見失うのは簡単だ……」
 
 探偵が「見失う」ことに価値を見いだすという逆説は、僕たちが管理社会を生きていくうえで何が求められているかを示唆していないだろうか。
 
 人々が個人情報に敏感な昨今、ルキのようにあだ名で呼ばれる自由は失われまい。ネットにはハンドルネームが溢れつづけることだろう。だが、たとえ表面で匿名が保たれても、根っこにお仕着せの「キミは何番」がある。それこそがマイナンバーの怖さだと僕は思う。
(執筆撮影・尾関章、通算273回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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