『最後の紙面』(トム・ラックマン著、東江一紀訳 日経文芸文庫)
写真》新聞に新聞の買収話(朝日2015年7月24日付朝刊)
 
 日本経済新聞が、英国フィナンシャル・タイムズ(FT)を買収するというニュースをみてつくづく思うのは、新聞業界の苦境もついにここまで来たかということだ。日本語メディアというガラパゴスの生きもののようにローカルな存在が、英語メディア大手というグローバルな怪物をのみ込むという皮肉。それは、新聞社がコトバを紙に刷って売るという素朴な業態から抜けだそうとする脱皮の苦しみを如実に物語っている。
 
 買収劇に出てくるのが日経とFTというのも象徴的だ。ともに、経済情報を最大の売りものにしている。それを伝えるのに英語も日本語もない。原初的な自動翻訳で言語の壁を乗り越えられるコンテンツである。コトバではなくデータに生き残りを賭けようというのか。
 
 人々の新聞ばなれは、もはや否定できない。それは、僕自身も肌身で感じている。7年前、単身赴任でワンルームを借りたときのことだ。大学町だったので、そのマンションには学生、院生、ポスドクと思しき若者が多く入居していた。月に一度、古紙回収がある。どんな新聞が読まれているのか。引っ越してからしばらく、興味津々でその朝を迎えたものだが、古新聞の束を出してきたのは三十数戸のうち数戸に過ぎなかった。
 
 記者という仕事は、紙の新聞が消えてもデジタル報道の書き手として存続するだろう。だが、見聞きしたことがらを頭のなかで整理して、朝夕刊の締め切りごとにコトバを絞りだし、そのつど紙に落とし込む職業人は、もはや絶滅危惧種の域に迷い込みつつある。
 
 そう思うと、僕が半生の過半を費やしてきた記者生活をもう一度、振り返ってみたくなる。とりわけ愛おしく感じられるのは、そこで出会った新聞人たちだ。語弊を恐れずに言えば、変人ぞろいだった。
 
 彼らは、行動様式が世間一般とちょっと違うのである。一つだけ言えば、上昇志向の強い人はいても、お金に突き動かされる人はほぼ皆無だった。だから、新聞批判の常套句としてときどき耳にする「売らんかなの姿勢」という言葉は、個々の記者を形容するつもりなら的を外している。損得抜き、とにもかくにも自分の書いた記事が大きく出ればうれしい。そんな稚気にあふれた人々なのである。
 
 それは、売名とも違う。新聞は最近でこそ署名入りの記事がふえたが、かつては、海外特派員は別として、筆者名が紙面に出ることはめったになかった。世間はもちろん社内であっても、だれが書いたかは調べなければわからない。それでも記者たちは、自分の記事が載ればほっとし、きちんと扱われれば満足し、見出しが大きければ喜び、ボツになれば胸のうちに怒りを募らせた。あの心理をどう説明すればよいのだろうか。
 
 で、今週は『最後の紙面』(トム・ラックマン著、東江一紀訳、日経文芸文庫)。著者は英国生まれ、記者出身の作家だ。この小説では、2000年代、ローマを拠点とする新聞社を舞台に老壮青、男女、そして地位職種がさまざまな新聞人たちの物語を、私生活に踏み込んでオムニバス形式で描いている。原題は“The Imperfectionists”、直訳すれば「不完全な人々」か。僕が「変人」と呼びたくなる愛おしい人々が次々に姿を現す。
 
 おもしろさを倍加しているのは、一話が終わるごとの幕間に、この新聞社の社史もどきが人間臭い筆致で断片的に差し挟まれていることだ。こちらは時間軸が長めで、1953年を起点とする。サイラス・オットという米アトランタを本拠に事業を繰り広げる富豪が、かつて心を寄せた女性とローマで再会する。彼女は当地在住のジャーナリスト、そばには同業の夫がいた。オットは、この地で英語の国際紙を創刊することを夫妻に提案する。
 
 こうして、一人の男のロマンティシズムが一つの新聞を生んだ。だがそれは、社主がサイラスの子や孫に代わるうちに苦難に直面する。社史もどき2004年のくだりには「新聞の地位は、錐揉(きりも)み状態で降下していった」とある。「即座に更新されるインターネット上のニュースは、インク刷りの一日遅れの見出しへの不満を育んだ」「ネット上では、料金を支払うかどうかは見る側が決めた」。それは、今の新聞業界の苦境そのものだ。
 
 本編の物語に目を移すと、僕が共感を禁じ得ないのは、報道部長クレイグ・メンジーズが夜遅く帰宅する場面だ。「最終版を校了にすると、ほかの全員が退社し、メンジーズが編集室を寝つかせる」「バスの中で、メンジーズの脳裡を、ニュース受信テープのように、延々と続く見出しの文字列が横切っていく」。中東の国のミサイル試射、海洋生物の絶滅予測、宗教指導者のスキャンダル……。
 
 ニュースの想念は、マンションに入っても追いかけてくる。ところがドアを開け、妻に迎えられ、台所で料理の味見をして、彼女が語る身辺雑事に耳を傾けていると「一分前までの関心事が、すべて関心事ではなくなる」。毎夜毎夜、そんな瞬間が僕にもあった。
 
 新聞の内情もいろいろと明かされる。これは世間の常識からみれば失礼極まりない行為なのだが、新聞社では、有名人の生涯を評伝ふうに綴った原稿を予め用意しておく慣習がある。突然の訃報でも即応するためだ。訃報記者アーサー・ゴパールは、その取材で高齢病身のフェミニズム系女性知識人を訪ねる。名士録の更新を理由にしたのだが、「わたくしの死亡記事をお書きになるためだと考えてよろしいのね?」と見抜かれる。
 
 さもありなんと思わせるのは、先方から「できあがった記事に、わたくしはいつ目を通せるの?」と聞かれるくだりだ。新聞には、取材相手に原稿を見せないという原則がある。批判者の視点が損なわれないようにするための伝統だ。アーサーが断ると、先方が心にグサリと刺さることを言う。「残念。自分がどんな形で人の記憶にとどまるのか、知ることができたらさぞ楽しいでしょうに」。どんな有名人も、自分の死亡記事は読めないという逆説。
 
 パリ駐在のロイド・バーコウの話は、ベテラン記者の行く手に待ち受ける魔の手を見せつける。パソコンが使えないこともあって活躍の場がなくなり、自称外務省勤めの息子を呼びだして特ダネをとろうとする。「何かあるとすれば、ガザへの進駐かな」と息子。「誰がガザに進駐するんだ?」「細かいことまではわからないよ」「いや、それで構わん。とにかく、省内でガザ進駐の話が出てるんだな?」「小耳にはさんだ気がする」――こんな具合だ。
 
 手練れのロイドには、これだけで「フランスが国連平和維持軍のガザ進駐を画策」と書くのに十分だった。「ただひとつの源泉から物語の流れを引き出し、背景となる素材でふくらませ」「架空の情報源には、“匿名という条件で”“近い筋では”“この分野に詳しい専門家によると”などの但し書きをつける」。だが、いまは新聞社も虚報リスクに敏感だ。編集主幹が「情報源の扱いをきちんとする必要がある」と注文をつけ、化けの皮ははがされる。
 
 老記者がいれば、老読者もいる。圧倒されるのは、編集主幹キャスリーン・ソルソンの元カレの母親、オルネラ・デ・モンテレッキ。新聞を隅から隅まで几帳面に読むので、1日分を1日で読み切れず、2007年のいま、1994年4月23日付で足踏みしている。翌24日は亡夫との間に辛い出来事があった日なので、先へ進めないのだ。それでも勇気を奮い立たせて息子に収納棚を探させると、その日の新聞だけがない。
 
 新聞社に出向いて旧知のキャスリーンに1部分けてほしいと頼むが、「うちは何年も前に、保管してたバックナンバーを廃棄したんです。全部デジタル化して」。彼女の思い出話から「24日付」が欠けた理由もわかる。そういうことか! 家で自ら脚立に昇り、収納棚から既読紙も未読紙も放り投げる。下りるときに新聞の山で足を滑らせ、「どすんと尻もちをつく」。滑降して止まったとたん、笑いがこみあげる。「何やってるのかしら!」
 
 元新聞記者には、紙の新聞へのこだわりがある。新聞紙が鍋敷きに使われると、ムッとしたりもする。だがもはや、そんな思いは断たねばなるまい。奇しくも日経系の出版社が出した小説がそれを教えてくれた。オルネラのように僕も言おう。「何やってきたのか!」
(執筆撮影・尾関章、通算275回)
 
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コメント
《世界の新聞が言語や文化や国の違いを超え、複雑な買収劇を経て二大新聞社に収斂》(虫さん)
妄想というよりも興味深い思考実験ですね。ここで思い浮かんだのが三越伊勢丹。テイストが違う2社が一つになる、ということが商いの世界ではよく起こる。それがかえって顧客層を広げる、という企業論理があるのでしょう。
だから、二大新聞の構図が「保守」対「リベラル」になるとは限らない。統合でタカ派系とハト派系が一緒になる、というようなこともありえます。いや、日本の大手全国紙が、それほどまでにとんがった主張をしないで膨大な部数を維持してきたのは、その論理を先取りしていたと言えるのかもしれません。
新聞社という企業体が経済の論理で動く。そのなかで、新聞記者という職業人が自らのテイストをどう反映させ、アイデンティティーをどう保つのか。そんな葛藤があからさまになる時代が来たような気がします。
  • by 尾関章
  • 2015/08/02 11:42 AM
尾関さん

日経のFT買収の報に接してまず心に浮かんだのは、「一般紙でもあり得るだろうか」ということ。英語圏では当たり前らしいことは、マードックの派手な買収劇などでメディア業界に関係のない私でも耳にして久しい。しかし、例えば日本のA新聞がボストングローブを買収する可能性は、などなどと想像が妄想に発展・・・・但し、新聞社の苦境や生き残り戦略などの現実的な問題は妄想の楽しみを半減してしまうので、僭越ながら没とさせていただきました。
さて、妄想の次なる展開は、言語や文化あるいは国民国家の枠組みを超えた新聞やメディアはあり得るのかということでしたが、妄想なので、これはあり得るといたしました。
そして次に現れた疑問は、それでは、買収判断の寄って立つ基準あるいは価値観は?ということ。これには幾つかの解答がありましたが、月並みながら『保守vsリベラル』の構図に。言い換えれば、『自己責任vs友愛』(文化や国の制約は既に取り除かれているので、保守=自己責任となりました)。
世界の新聞が言語や文化や国の違いを超え、複雑な買収劇を経て二大新聞社に収斂。楽しい妄想でありました。尾関さん、記者としての長年の豊富な経験を生かして私の妄想を小説仕立てにしていただければ、真っ先に書店にまいります。
  • by 虫
  • 2015/08/01 3:09 PM
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