●『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』
(コリン・ジョイス著、谷岡健彦訳、NHK出版生活人新書)


 「片岡義男的な空気が吸いたい」と言ってはじめた当ブログ。吸いたい空気はもっとあるな、と思いめぐらせて脳裏に浮かんだのが「英国」だ。その魅力については2年前、ロンドン五輪の直前に「英国のあの『緩さ』がたまらない」という一編を書いた。そんな表題にしたのも、「緩い」が「無責任」の同義語となってしまった日本社会の心のありように異を唱えたかったからだ。「緩い」ことでほめられるのがユルキャラだけ、というのでは困る。
 
 僕自身のロンドン特派員時代を振り返っても、英国の「緩さ」に圧倒されることは幾度もあった。一例は、新聞の「誤報」の始末のつけ方である。新聞記者にとって絶対にあってはならない誤りの一つは、生きた人を「死なせる」ことだ。死んでいない人の死亡記事を出すことは、それこそ致死的な誤りとされている。いまの日本の新聞であれば「おわび」記事の掲載にとどまらず、僕の嫌いな言葉だが「処分」問題にまで発展するだろう。
 
 英国ではどうか。ある日、新聞を読んでいたとき、紙面の片隅にある奇妙な記事に出会った。もはや証拠物件が手もとになく記憶をたどるしかないのだが、「われわれは、その知らせを聞いて、とてもうれしく思っている……」という切りだし方をしていたと思う。いったいなんのことかと読み進むと、死亡記事を載せた人が実は生きていたという話だった。事実上の訂正記事にpleasedだかhappyだか、そんな言葉を見つけて驚いたものだ。
 
 これをもって、英国の新聞がすべてそうだとは言えない。この新聞が、タイムズやガーディアンのようないわゆる高級紙ではなかったことも言い添えておくべきかもしれない。ただひとつ言えるのは、こんな人を食ったような対応にも怒ったり眉をひそめたりせず、むしろニヤッと笑ってすます寛容な人が英国には多いらしいということだ。そんな文化がなかったら、死人にされた当事者はもちろん、読者も黙ってはいないだろう。
 
 で、今週の一冊は、英国の新聞記者が書いた日本社会評。『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(コリン・ジョイス著、谷岡健彦訳、NHK出版生活人新書)だ。著者は1970年生まれ、オックスフォード大学で歴史を学んで来日、高校の先生などをした後、ジャーナリストとなり、英紙デイリー・テレグラフの東京特派員を務めた。ちなみにテレグラフは、保守色が濃いといわれる「高級紙」である。
 
 拙稿冒頭の段落でリンク先に飛んだ人は気づいただろうが、著者は「英国のあの『緩さ』……」でとりあげた『驚きの英国史』(森田浩之訳、NHK出版新書)を書いた人でもある。出版年は『「ニッポン社会」……』が2006年、『驚きの……』が2012年。僕は後者の本で英国の風土は緩くていいなあと改めて感じたのだが、その著者の目に日本社会がどう映っていたのかがわかるのが前者である。
 
 緩さをめぐる彼我の差のことは、「壱」の章「プールに日本社会を見た」にさっそく出てくる。「もちろん、イギリスのプールにも規則はある。ただ誰もそれを守ろうとしないし、守らせようともしないだけだ。一方、日本はたくさんある規則にみんながしたがうことで、うまくやっている国である」。休憩時間の厳守、水泳帽の着用、潜水の禁止、レーンの一方通行。そういえば、いろいろなルールが決められている。
 
 著者は「好きな規則は五分間休憩の規則だ」と皮肉る。「ぼくはぜんぜん疲れてないし、むしろ、ちょうど調子が出てきたところ」と言って監視員を困らせたくなるからだという。ただこれには、休憩はプール点検のためでもあるという反論が出てくるかもしれない。
 
 だが、スキンヘッドの知人が水泳帽なしに泳ぐことを許されなかったという話からは、なんのための規則かを吟味せず、順守だけを強いる日本社会の狭量さが見てとれる。水泳帽を着ける最大の理由は、髪で水を汚さないことだ。ほかにも頭部を守るとか、子どもにかぶせて目印にする、といった効能もある。帽子がない人がいたら、それらを勘案して柔軟に応じればよいのに、思考停止でダメなものはダメということになってしまう。
 
 これで僕が思い出すのは、緑地が広がる公園で禁止事項のアナウンスが延々と続くのにうんざりした経験だ。野球、サッカー、自転車、一輪車、遊戯用円盤……といった具合で、新しい遊びが広まればそのつどふえていく感じだった。唐突だが、それは日本の政治をみていて感じることに通じる。コトが起これば国会はすぐ法律をつくりたがる。今の世情で言えば、ゴーストライター規制法案や論文不正防止法案が出てきそうではないか。
 
 その一方でこの本は、日本社会にも緩さがあるという。著者の行きつけのプールでは、宵の口から常連集団が「ひとつのレーンをすごい速さで往復し始める」。その水しぶきと騒々しさは「ひとりで泳ぎに来ている人には迷惑」なのだが、無頓着だ。「プールの利用客から本物の暴走族やヤクザにいたるまで、大きな集団の悪事に対して寛容すぎるのは、日本人の弱点」と、痛いところを突いてくる。
 
 裏を返せば、英国の緩さは規則を個々人にあてはめるときに生ずる摩擦を和らげるためにあるのかもしれない。それが必要なのは、英国、とりわけロンドンに民族文化の異なる人々が大勢共存しているからだと僕は推察する。一方、著者が言うように「東京は世界の首都の中でも抜きん出て民族的多様性に乏しい」から杓子定規が通用するのではないか。著者は、この多様度の違いも理由に挙げて、日本と英国は似ているという見方に同意しない。
 
 この本でもう一つ興味深いのは、日本の科学技術のイメージだ。日本発の話題で外国人を引きつけるものに「ロボットの魚や踊るロボット」の記事があるという。著者が街で見かけて興味をそそられたのも「バイクの荷台についている出前の岡持ちを吊り下げる装置」だ。
 
 これを読んで僕は、「英国人が見た、もう一つの戦前日本」に書いた『東京に暮す』(キャサリン・サンソム著、大久保美春訳、岩波文庫)の一節のことが頭に浮かんだ。外交官の妻である著者は、そば屋の出前持ちの技に見惚れたという。岡持ち装置はこの流れのなかにある。日本のハイテクはとことん器用で芸が細かいが、そのことと科学技術を賢く使うこととは同一ではない。それを思い知らされたのが、3・11だったように思えてならない。
 
 その意味で「日本の『失われなかった』十年」という章は必読だ。ちょっと奇抜だが、「サッカー」と「ビール」がバブル崩壊後の日本を「黄金時代」にした、と著者は言う。「このふたつの点において、日本はここ十五年の間に、どうしようもなくダメな国から世界でも指折りの国へとめざましい進歩を遂げた」というのだ。Jリーグが津々浦々に根を張り、地ビールがあちこちに生まれて多様なビール文化が育ったことを指している。
 
 これは、英国人ならではのユーモアだろう。だが、3・11後の今になってみると、深い洞察をはらんでいたことがわかる。Jリーグも地ビールも「集中から分散へ」のベクトルをもった現象だ。未曽有の原発事故でエネルギー集中生産の危うさが歴然となり、今こそ求められているのが、分散志向のベクトルである。原子力重視にまたもや舵を切った国策の動向をみるとき、Jリーグと地ビールに学べ、と言いたくなる。
 
写真》英国と言えばフィッシュ・アンド・チップス。東京・世田谷のなじみのレストランで撮らせてもらった。本場英国のものは、もうちょっとワイルド。紙にくるんで歩きながら食べると、たまらなくおいしい=尾関章撮影
(通算208回)

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
ルールは、それを決めた人の思いに立ち返って理解すべきだ、ということではないでしょうか。
その意味では「解釈改憲」はあっていい。たとえば「環境権」は第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と読むことができます。このことは「文理悠々」でも「日本国憲法を読むという読書」(2013年9月17日付)という回で書きました。
法に対する柔軟さが危うい方向ばかりで発揮されている、というのが今の日本社会ではないでしょうか。
  • by 尾関章
  • 2014/04/25 10:08 AM
西洋文化を形成した二大源流のひとつと言われる「ヘブライズム」。ユダヤ人の宗教文化として我々日本人にはあまり馴染みがありませんが、西洋文化を理解するうえでは必須と言って良いでしょう。
さて、このヘブライズムの大きなテーマのひとつに「律法と人間の関係」があります。もっと一般的に言えば、「規則と人間の関係」となるでしょう。旧約聖書のいわゆるモーセ五書に律法が記されているわけですが、ここで注目すべきは、律法の研究を専門とする律法学者が「解釈改憲」ならぬ「律法解釈」を行って膨大な体系を築いたこと。例えば、「安息日の遵守」についてもさまざまな解釈と規定が加えられられています。
こんな中で登場したのがイエスで、彼の「安息日が人間のためにあるので、人間が安息日のためにあるのではない」という言葉は、おそらく、西欧の人々であれば誰もが知っているか、少なくとも聞いたことがあるでしょう。つまり、「規則が人間のためにあるのであって、人間が規則のためにあるのではない」ということであり、今や死語ともいえる「疎外」という言葉を使えば、規則のための人間疎外に対する警句といえるでしょう。英国人の規則に対する柔軟性や緩さの源流にもヘブライズムがあるのかもしれません。
  • by アウグスチヌス
  • 2014/04/24 5:57 PM
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