『反哲学入門』(木田元著、新潮文庫)
写真》コップで哲学
 
 哲学ほど、遠くて近く、近くて遠い学問はない。そう思うのは、ある年齢になるまでテツガクとは何かが、はっきりしなかったからだ。わかりやすく言ってしまえば、小学校の科目にそれに該当するものがない。
 
 数学は、算数が高等になったものだ。文学は、国語のかなりの部分を占める。物理学、化学、生物学は、理科を小分けして高級にしたものだ。地理学、歴史学、政治学、法律学、経済学は、社会科を細分化、高度化したものとみてよい。そう考えていくと、哲学には初等教育でぴったりくる科目がない。「道徳」がそうかと言うと、ちょっと違う。あえて言えば、国語や社会科でその匂いがかげるような学問と言うことができる。
 
 その一方で、テツガクは僕たちの日常にごく自然に入り込んでいる。アフターファイブの歓談で、職場の上司や同僚の品定めをしているとき、「あの人は頑張り屋だけど、テツガクがないんだよな」という辛口コメントを耳にすることはないだろうか。この用法は、さまざまな局面に出てくる。野球解説者が「采配にテツガクがある」とほめ、経済評論家が「経営戦略にテツガクが欠けている」と腐す、というように。
 
 ここで「テツガク」という言葉は、大局観、歴史観に立って状況をつかみ、信念と論理によって事を進めるという姿勢に向けられた賛辞と言えよう。こうした思考や行動の様式は、マニュアル依存の風潮に押されて廃れつつあるように見える。だから、そんなテツガクを見かけると、僕も心のなかで拍手する。と同時に頭をかすめるのが、このテツガクとあの哲学は、どこでどうつながっているのだろうか、ということだ。
 
 「哲学」に親しんだころが僕にもあった。当欄の前身「文理悠々」に記した青春期の回想。「喫茶店でコーヒーを飲み、飲み干せばあとはグラス ――あのころはコップと言った――の水だけとなり、そのガラスの感触を手のひらに感じながら、事物の存在に思いをめぐらす。ときには、自分の前に同様のことを考える友がいて『このコップがここにあるってことは……』みたいな話になる」(2010年6月17日付「サルトルを覚えてますか」
 
 コップを手にとって、それが存在すること、あるいはそれを認識することが何かを考える。具象の物体から抽象の概念を引きだすあたりは、いかにも「学」だ。だがそれは、日々の実感とは切り離されていた。コップ片手の空論は、その語り手が喫茶店の外に出て無力な学生という現実に引き戻されたとたん、色褪せた。たぶん、それではダメなのだ。哲学は、どこかでテツガクとつながらなくてはならない――。
 
 で、今週の一冊は『反哲学入門』(木田元著、新潮文庫)。著者は1928年生まれの哲学者で去年、他界した。日本の哲学好きにとってはマルティン・ハイデガー、モーリス・メルロ=ポンティの紹介者であり、著書『現象学』(岩波新書)は広く読まれている。今回の本は、インタビューをもとにしたもので、2006〜07年に新潮社『波』誌に連載された。がんの手術を終えてまもなくのころで、その心境を率直に打ち明けるところから始まる。
 
 「だいたい、ほんとうに肉体的に苦しい時には、生死の問題のような抽象的なことを考えている余裕はありません。ものが食べられないとか、治療のためにムリしても食べなければいけないとか、眠れないのに眠らなくてはいけないとか、考えるのはそんなことばかりでした」。哲学者は「観念的で抽象的というイメージ」でとらえられがちだが、「わたしはそういうご期待には応(こた)えられそうにありません」と宣言する。
 
 著者は「哲学なんかと関係のない、健康な人生を送る方がいい」と言い放つ。理由は、プラトンに始まり、ニーチェが現われるまでの西洋哲学が「自然に生きたり、考えたりすることを否定している」からだという。そこでは、「自然は超自然的原理――その呼び名は『イデア』『純粋形相』『神』『理性』『精神』とさまざまに変わりますが――によって形を与えられ制作される単なる材料になってしまいます」。
 
 「イデア」はプラトン、「純粋形相」はアリストテレス、「神」は中世キリスト教哲学、「理性」「精神」は近代の哲学ととらえると、中身が変わっても「超自然的原理」を想定するところは同じだ。一つの思考構造が2000年を超えて生き延びてきたことに驚かされる。
 
 著者は、この視点に立って西洋哲学史を読み解く。そこには、はっとさせられる洞察が満載だ。たとえば紀元380年、古代ローマ帝国がキリスト教を国教にしたときの話。「ギリシア的な教養を身につけたローマ市民に布教しなければならなくなり、急いで教義体系の整備を迫られました。そこで、ギリシア哲学を下敷にして、超自然的原理の部分に『神』を代入して、教義体系を作り上げたというわけです」
 
 「理性」の時代、ルネ・デカルトが「私は考える、それゆえ私は存在する」という言葉に込めた「私」も同じ流れにある、という。「彼の言う近代的自我、理性としての私というのは、神的理性の出張所のような私にほかなりません。プラトンが『イデア』と呼び、アリストテレスが『純粋形相』と呼び、キリスト教神学が『神』と呼んだ超自然的原理の出張所のようなものが、人間のうちに設定されたと言ってもよいかもしれません」

 人間が超自然的原理を担うという発想を極めたのは、イマヌエル・カントらしい。そこには「われわれが認識するのは、『物自体の世界』ではなく『現象界』」という見方がある。現象界とは「人間の認識能力に特有の制限を通りぬけて現われ出てきた世界」だ。物自体が呼び起こす「感覚」を「直観の形式」で受けとめ、「思考の枠組(カテゴリー)」で再構成することによってもたらされる。この人間理性は「超越論的主観性」と名づけられた。
 
 超越論的主観性は近代科学、とりわけニュートン物理学と響き合う。それは「理性的概念だけを使って得られる理性的認識」だが、「われわれの認識する現象界に当てはまり、普遍性と客観的妥当性をそなえた確実な認識の体系として成り立ちうる」とわかったからだ。
 
 脈々と続く超自然的原理の流れに敢然と立ち向かったのは、フリードリヒ・ニーチェである。プラトンのイデアのようにこれまで最高の価値と崇められてきたものは「人間の支配機構の確保と高揚」をめざして「人間の手で設定されたものでしかない」と見抜いた。見えてきたのは「プラトン以後のヨーロッパの哲学と宗教と道徳は、総力を挙げてこのありもしない超感性的価値の維持につとめてきた」という概史だ。「反哲学」の原点と言えよう。
 
 自然は、超自然的原理が否定されると「おのずから生きいきと生成していくもの」に立ち戻る。そこでニーチェは「新たな価値定立の原理」を「生きた自然とも言うべき感性的世界の根本性格、つまり『生(レーベン)』にもとめる」。これが「力への意志」である。
 
 反哲学のバトンは、マルティン・ハイデガーに手渡される。著書『存在と時間』の未完部分では、デカルトの近代哲学に「〈存在者(エンス)〉をつねに〈被造的存在者(エンス・クレアートウム)〉として受けとっていた中世存在論の伝統」を見いだす批判的論考が構想されていたという。著者はここに、「存在」すなわち「ある」を「被造」「作られてある」ではなく「生成」「成りいでてある」ととらえるハイデガー思想をみてとる。
 
 著者の解説によれば、ハイデガーは「それはなんであるか」と問うたとたん、「問われているものに対するある特定の態度決定がおこなわれてしまっている」と気づいた。問うことで、対象との間にある「始原の調和が破れる」という。それは、量子力学の世界で物質を観測した瞬間、その状態が定まることに似ている、と僕は思う。哲学者や科学者が、人が問う行為、見る行為そのものを考慮しなければならない時代となった。
 
 この本を読了すると、ちょっと気が楽になる。プラトン以来の「哲学」はもはや絶対ではない。一方、ニーチェ以来の「反哲学」も今なお「哲学」の重しを取り払う作業の途上にあるようだ。ならば僕たちは、それらを参照して自分流のテツガクを豊かにすればよい。
(執筆撮影・尾関章、通算280回)
 
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