『ハムレット――シェイクスピア全集1』
(ウィリアム・シェイクスピア著、松岡和子訳、ちくま文庫)
写真》王族とその側近
 
 この夏も2H漬けだった。2Hとは、テレビ民放の2時間(hour)ミステリーである。マンネリとは、この手のドラマのためにあるのだろう。始まって20分、出演の顔ぶれが出そろい、登場人物の相関図がわかれば、おおよその筋書きは読める。このとき、一見ワルが善人で、善人そうなのが実はワル、というひっくり返しを勘定に入れれば、すべては想定内に収まる。それが、実生活で想定外をくぐり抜けてきた60歳超の心を癒やしてくれる。
 
 もっとも最近の作品には、そのマンネリから脱しようという苦心の跡が見てとれる。ドラマの見せ方を今日風にしようとして、カット割りを小刻みにしたり、機械音や電子音を鳴らしたり、映像を青っぽくしてみたりする。筋もわかりにくいものがふえてきた。事件の鍵を握る人物を後段で新規参入させて不自然な展開になることもある。そのせいで、あのまったり感が失われつつあるのが残念だ。

 ということで僕のお薦めは、古典2H。地上波を離れ、BS、CSのチャンネルをのぞいてみると、1990年代から2000年代の旧作再放映を見ることができる。ときには、1980年代の蔵出しもある。
 
 旧作系にみられるパターンの一つは、家元ものだ。ほとんどは、跡目相続をめぐる争いで血族高弟の間にゴタゴタが起こるという流れになっている。舞台は京都のことが多いが、小京都と呼ばれる地方都市も定石に含まれる。ときに、伝統技芸の流派を同族企業に置き換える亜種もある。そこで繰り広げられるのは、情愛、憎悪、嫉妬、忠誠、裏切りといった人間関係のありようが渦巻く世界だ。


 これぞ、2Hの王道と言えるだろう。もちろん、ミステリーには現金強奪や猟奇犯罪や経済事犯を扱ったものもある。ただそれでは、あのまったり感が出てこない。あまりにも生々しく、現実社会を思いださせてしまうからだ。

 そもそも、2Hの本質は犯罪にはない。凶器は刃物や石塊のことが多いが、そこで演じられる凶行場面は様式化されている。犯行後の凶器に残る血痕は、どんなに嘘っぽくても赤ペンキのようなものがよい。リアルにしないところに意味がある。僕たちがそこに見たいと思っているのは、日々の生活で自身の内心に芽生えながら、あからさまに口にすることを控え、なんとか宥めすかしている思い――情愛、憎悪、嫉妬、忠誠、裏切りなのである。
 
 で、今週はTo be, or not to be. 『ハムレット――シェイクスピア全集1』(ウィリアム・シェイクスピア著、松岡和子訳、ちくま文庫)。そこには、欧州王政時代の王族、支配層の骨肉の愛憎が詰まっている。2H家元ものの原型と言ってもよいだろう。この邦訳は1995年に蜷川幸雄の演出で舞台化され、翌年、すぐに文庫本となった。あまたある先行本と比べると最近になってからの訳なので、現代語感覚で読むことができる。
 
 余談になるが、僕がこの本を中古本ショップで手にとり、思わず買ってしまったのは、中ほどのページに鉛筆の書き込みを見つけたからだ。宰相の娘オフィーリアが、恋人であるハムレットの正気を失った様子に「あらゆる人の注目の的でいらしたのに、みんな、みんなおしまい!」とあるところで、「おしまい」を「おしめーい」に直している。欄外には、ト書きのような「かぶき風」といった言葉もある。
 
 演出家や俳優をめざす青年男女が、この本を手にしながら新機軸のシェイクスピア劇を構想していたのだろうか。志の一端を垣間見た気がした。中古本を読む楽しみは、そんなところにもある。
 
 閑話休題。この戯曲の登場人物とその人間関係を素描しておこう。主人公はデンマークの王子ハムレット。父であった先王が亡くなり、叔父クローディアスが後継者として即位する。母ガートルードは時をおかず、義弟にあたる新しい王の妃となる。側近たちも、先王が尊敬を集めていたことを忘れたかのように新しい王になびく。オフィーリアの父、ポローニアスもその一人だ。そんななかで王子の苛立ちは募る。
 
 最初のヤマ場は、ハムレットが父の亡霊と出会う場面だ。亡霊は言う。「私の死因については、庭園で眠るうち/毒蛇(どくじゃ)に噛まれたと公表され/デンマークじゅうの耳に/その作り話の毒が流し込まれている――だが、いいか、/お前の父を噛み殺した蛇は/いま王冠を戴いている」「ああ、悪辣な知恵と才能は/誘惑の力を持つ!――己の恥ずべき情欲を満たすため、/貞淑の鑑と見えた妃の心を惑わしたのだ」
 
 「命も、王冠も、妃までも、いちどきに実の弟に奪われた」という亡霊は、ハムレットに報復を促す。「極悪非道な殺人に復讐せよ」「お前に親を思う心があるなら、奮い立て」
  
 ここでハムレットが立派なのは、それをすぐさま真に受けて軽挙妄動に走らないことだ。たまたま城下にやってきた旅回りの一座に芝居をさせることで、ことの真偽を確かめようとする。「あの役者たちに言いつけて、/父上の殺害に似た場面を/叔父の目の前で演じさせよう。その顔つきをじっと窺い、/痛いところを探ってやる。少しでもひるんだら/ただではおかない」。こうして劇中劇につなげるところは、さすがシェイクスピア。
 
 この企てを心に決めた後、ハムレットの口をついて出るのがTo be, or not to beで始まる名台詞だ。この松岡訳では「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」となる。「やみくもな運命の矢弾(やだま)を心の内でひたすら堪え忍ぶか、/艱難(かんなん)の海に刃(やいば)を向け/それにとどめを刺すか。死ぬ、眠る――/それだけのことだ」。これに続く独白に映された彼の死生観に、僕は興味をもった。
 
 「眠れば/心の痛みにも、肉体が受け継ぐ/無数の苦しみにもけりがつく。それこそ願ってもない/結末だ」「眠ればきっと夢を見る――そう、厄介なのはそこだ」「死という眠りのなかでどんな夢を見るか分からない」。ハムレットは、生か死かということだけで心迷いしているのではない。死は無の世界か、それとも夢の世界なのかをめぐっても判断がつきかねているように見える。


 その懐疑は、亡霊に対する態度にも見てとれる。彼が、亡霊との遭遇に居合わせた親友らに「今夜見たこと、決して他言してはならない」「誓ってくれ」と迫ると、奈落からも「誓え」という声が聞こえてくる。亡霊だ。しかも、あちこち動く。これに対して「ほほう、小僧、貴様もそう言うのか?」「いいぞ、モグラ先生。地下でも素早く動けるんだな?」。とても、尊敬する父への言葉とは思えない。死後の世界を素朴には信じていないようだ。
 
 亡霊の言い分を芝居によって試そうかと思案するときも、「俺が見た亡霊は/悪魔かもしれない。悪魔には変化(へんげ)の力があり/人の喜ぶ姿を取るという」と、ひねくれた見方をする。亡霊は悪魔が父になりすました姿ではないかと疑っているのである。
 
 舞台に墓場の作業現場が現れるところでは、唯物論に近づいていく。墓掘り人が頭蓋骨を穴から放りなげると「あの頭蓋骨にも舌があった、昔は歌も歌えたんだ。それがあんなふうに地面に叩き付けられて」と感慨に耽る。そして、ハムレットの思いは歴史に名を残す人物にも及ぶ。「皇帝シーザーも死して土と化せば/隙間風を防ぐ穴ふさぎ」「世界を恐れおののかせた土も/木枯らしを締め出す壁の繕い」
 
 シェイクスピアは愛憎劇を描きつつ、人は物なのか心なのか、という問題提起もしているように思える。英語にすればTo be material, or notか。そこには、近代世界観の芽生えもある。ハムレットを2Hの家元ものに脚色したら、さぞ奥の深いドラマになるだろう。
おことわり 台詞を引用する際、改行は/で表しました。
(執筆撮影・尾関章、通算281回)
 
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