『フォークナー短編集』(ウィリアム・フォークナー著、龍口直太郎訳、新潮文庫)
写真》チャールストンの白い家
 
 今週も、米国南部旅行の話。チャールストンというダンスがある。その軽快なリズムで森山加代子という歌手が「五ひきの仔ブタが……」(日本語詞・漣健児)と唄っていたのが懐かしい。名前の謂れは発祥地、米サウスカロライナ州の港町だ。9月初めに探訪した。
 
 チャールストンは、米国史を植民地時代まで振り返るとき、明暗が交錯する町である。「明」は、美しい街並みだ。さまざまな宗派の教会が尖塔を聳え立たせ、コロニアル様式の木造邸宅群が白や深緑の彩を添える。「暗」は、かつて港にアフリカからの奴隷船が着き、人身売買の市場があったことだ。郊外にはプランテーションと呼ばれる大農園がいくつも控えていて、そこへ連れていかれ働かされる奴隷も多かった。
 
 その一つで、今は観光名所となっているブーン・ホール・プランテーションを訪ねた。1680年前後に開かれた時点で160haもあった。農園主が住む母屋へは一本の並木道が延びている。樹種はブナ科の常緑広葉樹ライブオーク。スパニッシュモスいう植物が枝々に着生して垂れているのが幻想的だ。現存の母屋は豪邸で、1930年代にコロニアル風に建てられたという。往時をとどめるのは、並木道の傍らに並ぶ奴隷小屋だ。
 
 話は横道にそれるが、僕が「奴隷」という言葉を初めて耳にしたのは昭和30年代、NHKラジオが流していた連続ドラマだった。ハリエット・ビーチャー・ストウ原作の「アンクル・トムの小屋」。番組名が思いだせないのでネットで調べたら、愛聴していた人のブログや投稿が見つかった。邦訳せずに「アンクル・トムス・ケビン」としていたようだ。トムズでなくトムス、キャビンではなくケビンというところが、いかにも当時らしい。
 
 僕は60年の歳月を経て、その「ケビン」の現物を目の当たりにしたことになる。ブーン・ホールでは、木造小屋でなく煉瓦造りだったが、豪邸に比べれば納屋か物置ほどのたたずまいで、あまりにもちっぽけだった。
 
 あのラジオドラマでおぼろげに記憶しているのは、黒人奴隷のトムが綿花を摘む仕事をしていたということだ。ブーン・ホールも当初は綿畑が広がっていたということで、トムと同じ境遇の人々がいたはずだ。ただ、19世紀には農園が煉瓦業者の手に渡り、主な収入源は煉瓦づくりに移る。南北戦争の直前、ここでの生産は年間400万個に及び、それを奴隷85人の労働力が支えた(民間情報サイトSCIWAYによる)。
 
 美しい町と奴隷市場。豪邸と奴隷小屋。この強烈な対比を見せつけられれば、人々の内面は歪むに違いないと思えてくる。白人が良心的で黒人が温厚であれば、心を通わせられると言われても、素直にはうなずけない。アンクル・トムがリベラルの立場からも批判されるのは、トムの従順さが卑屈に見えるからだけではないだろう。米国南部の情念をリアルに感じるには、もっとひねりの利いた物語が必要なのである。
 
 で今週は、米国への行き帰りに機内で読んだ『フォークナー短編集』(ウィリアム・フォークナー著、龍口直太郎訳、新潮文庫、8編所収)。フォークナー(1897〜1962)は、『八月の光』などの長編小説で知られ、20世紀前半の米国文学を代表する作家の一人だ。生まれ故郷であり、終生離れがたい土地であったミシシッピ州に「ヨクナパトーファ郡ジェファソン」という架空の町を置いて、そこを舞台とする小説を次々と世に出した。
 
 この短編集でもっともかぐわしい作品は「バーベナの匂い」(1938年)。ジェファソンの有力者サートリス大佐の死を、息子ベイアードの視点で描いた好編だ。父の妻で、ベイアードにとっては継母にあたるドルーシラの髪を飾っていたのが、バーベナの花である。彼女は、南北戦争が終わってもなお戦場に生きているような女性で「バーベナこそは、千軍万馬のうちにあってもその匂(にお)いを失わない唯一(ゆいいつ)の植物」と信じていた。
 
 ドルーシアが8歳年下のベイアードに求愛のキスを迫る場面がある。「彼女が私にたいして異常な視線を投げかけ、彼女の髪にさしたバーベナの匂(にお)いが百倍もまし、百倍もつよくなって、あたりのうす暗がりのなかに瀰漫(びまん)し、なにか、いままで夢みたこともないようなことが起りかけているのに気づいた」。濃厚な匂いだ。長いキスのあと、「彼女はバーベナの小枝を髪からぬいて、それを私の折り襟(えり)にさしこんでくれた」。
 
 父は、政敵に撃たれて死んだ。その死体の手は、不細工にだらりとなって「人を殺すような大それた行為を、いままでいくたびとなく重ねてきたとはとうてい思われないほどだった」。ベイナードは、復讐せよとの期待を一身に背負って政敵のもとへ向かう。襟もとには、このときもバーベナ。匂いが「もうもうたる葉巻タバコの煙のように立ちこめる」。それを嗅覚で感じながら、彼はどんな選択をするのか――。
 
 「エミリーにバラを」(1931年)も、ジェファソンの話だ。主人公は、74歳で死んだミス・エミリー・グリアソン。有力者の娘だったようで、父の死後、当時の市長――なんと、これがサートリス大佐――から税免除の特別待遇を受けた。市長が代わっても「ジェファソンの町では、わたくしに税金を課さないことになっております」と言って憚らない。その邸宅の描写は、僕にチャールストンを思いださせる。
 
 「かつては白く塗られていた、大きな、四角ばった、木骨造りの屋敷であって、七十年代(訳注 一八七〇年代をさす)特有の、ひどく優雅な様式にのっとって、いくつかの小さな円屋根や、尖塔(せんとう)や、渦巻模様を施したバルコニーなどで飾られていた」
 
 エミリーは生涯独身だったが、30代のころに浮いた話があった。相手は、歩道舗装工事の現場監督として町へやって来た北部男。彼女と四輪馬車でドライブする姿が見かけられたものだが、あるときからぷっつり姿を消した。そして、家から異臭が漂うようになる。今で言うごみ屋敷か。近所から市に苦情が寄せられるが、市長は「きっとあの婦人が使っている黒人が庭で殺したヘビかネズミのせいでしょうよ」と、まともに受けあわない……
 
 この作品で、それなりの役回りを演じる黒人と言えば、長くエミリーに仕えてきた「召使」の老人くらいだ。ただ、彼の固有名詞は文中にない。それでいて主の秘密を知り抜いているらしいという皮肉。彼女が亡くなり、弔問客を迎え入れたあと、「まっすぐ家のなかを通りぬけると、裏口から出ていったきり、二度とふたたび姿を見せなかった」。ここにも、南部社会の歪みがある。
 
 「乾燥の九月」(1931年)で冒頭の場面は、ジェファソンの床屋。「天井の扇風機はただよごれた空気をかきまぜるばかり」で「ムッとするようなポマードとローションのにおいといっしょに、ムッとするようにくさい彼ら自身の吐息と体臭を、送り返してくる」。
 
 店内では、ウィル・メイズという黒人が白人女性を凌辱したという町の噂が白人たちの話題になっている。理髪師ホークショーは「あいつはいい黒人」「そんなことをしたとは、どうしても考えられない」と言い張る。そこに現われるのが、軍隊経験のあるこわもて、マクレンドン。「まず事件の真相をつかむのが第一」と聞いて、怒りを爆発させる。「このろくでなしの黒人びいきめが――」。尻のポケットには自動拳銃。ウィルの征伐に出る。
 
 ホークショーは、それを思いとどまらせようと追いかけていく。マクレンドンはウィルが夜警をしている製氷工場から彼を呼びだして、なぐる。いっしょに来た男たちも同調する。これに対してウィルは「よろめきながら彼らをののしり、手錠をはめられた両手で彼らの顔に襲いかかり、理髪師の口もとをひどくなぐりつけた」。このあと、「理髪師も彼をなぐりかえした」とあるのを見て、僕は南部の深淵をのぞき見たような気がした。
 
 大地に咲く花の濃厚な匂い、渦巻き模様のバルコニーへ漏れでる異臭、拳銃をもった男を突き動かすようなポマード臭。そのどれもが米国南部社会の原風景を感じさせる。フォークナーは、嗅覚なしには読めない。
(執筆撮影・尾関章、通算283回)
 
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