『「満州国」見聞記――リットン調査団』
(ハインリッヒ・シュネー著、金森誠也訳、講談社学術文庫)
写真》括弧がつく国(本の扉から)
 
 初秋にアメリカのことを2回にわたって書いた。米国南部への私的な旅行がきっかけだった。そこで焦点をあてたのは、奴隷主と奴隷の関係という不幸な過去をもつ多人種、多民族社会の歪みだった。だが、このときに忘れてはいけないことが一つある。北米の大地は、奴隷主のものでも奴隷とされた人々のものでもなかったということである。彼らは移り住んだ人であり、連れて来られた人だった。
 
 その大陸には、もともと住む人々がいた。ところが大航海時代が始まると、欧州人が新天地を求めて乗り込んでくる。最後に優位に立ったのは、後発組の英国人だった。先住の人々はインド人でもないのに「インディアン」と呼ばれ、その居住域が狭められていく。英国の植民地支配層が大きな勢力をかたちづくるようになって、やがて宗主国に反旗を翻す。こうして産声をあげたのがアメリカ合衆国だった。
 
 僕たちにとって、米国の美点として羨むものは多い。たとえば、民主主義。日本では付け焼刃の制度でしかないものも社会風土として定着している。あるいは、自由。とりわけ表現や言論をめぐっては束縛を嫌う精神が横溢している。そして公正。これは当初からあったとは言えないが、公民権運動などによってかちとられてきた。そうしたもののすべてが先住民族を除けものにした元植民地のうえに乗っかっているという逆説。
 
 一つ言えるのは、米大陸の植民地は、弱肉強食がふつうだった時代に欧州の強国が切りひらいたということだ。中世は終わっていたにしても前近代の価値は生き残っていた。それを脱する二大事件が、18世紀後半にほぼ同期して起こった米国の独立とフランス革命だ。近代思想にもとづく民主主義体制の一つが植民地から芽生えたというのは、なんと皮肉なことだろうか。だが、それこそが時代の位相だったとは言えるのかもしれない。
 
 翻って、戦前日本の中国大陸進出はどうか。それを植民地支配と言うかどうかは別にして、大日本帝国が大陸に軍隊を送り、「外地」を実質支配していたことは間違いない。その政策が進められたのは、近代思想の一つ、民族自決論が世界に広がろうとしているころだった。だから、現地の人々や国際社会の強い抵抗を受ける。1931(昭和6)年の満州事変勃発から日中戦争(1937〜1945)に至る泥沼の状況は、こうした力学を映している。
 
 で、今週の一冊は『「満州国」見聞記――リットン調査団同行記』(ハインリッヒ・シュネー著、金森誠也訳、講談社学術文庫)。この本を選んだのは、そろそろ「満州」という言葉に真正面から向きあってもよいかな、と思ったからだ。
 
 僕たちの世代の新聞記者は、引用でない限り「満州」を「中国東北部」と言い換えるよう教わってきた。たしかに、前者は旧日本の負の国策と密接不可分だ。だが、年配の人が「私は満州育ちでね」と口にするとき、「中国東北部ですね」と言い返すことにはためらいもあった。一つの国を押し立ててまで「外地」での権益を守ろうとした日本の戦前戦中史をたどるとき、当時の日本人の心に刻みつけられた「満州」の一語は掻き消せない。
 
 この本の副題にあるリットン調査団と言えば、教科書に出ていたあの写真が思い浮かぶ。背広姿の男たちが線路を調べている光景。満州事変の引きがねをひいた柳条湖事件の現場だ。1931年9月、ここで南満州鉄道(満鉄)の鉄路が爆破された。だから、調査団の狙いは事件の検証にあると思いがちだが、実は違う。満州・極東情勢を第三者の立場で調べるため、国際連盟が派遣した「政治、行政、軍事、外交」の専門家チームだった。
 
 邦題副題に「同行」とあるが、著者自身も調査団員。1910年代にドイツ領東アフリカ知事を務めるなど植民地政策通だった。団長のビクター・ブルワー=リットン(英)をはじめ英米仏独伊の委員には植民地経験の豊かな人が多かった。そこには宗主国目線がある。
 
 調査団の旅は、半年をかけた長丁場だった。船旅の時代だから当然とも言える。欧州勢は1932年2月に出港、米本土やハワイを経て日本へ。著者はシベリアを通って9月に帰国した。そんなこともあって、この見聞記には弥次喜多の趣もある。たとえば、米領海内では船内でも表向きは飲酒ができなかったようで「アメリカの禁酒政策はきつかった」と書く。ハワイではオアフ島観光もして、9年後に日米開戦の着火点となる真珠湾を訪ねている。
 
 調査団を受け入れた日本も接待を欠かさない。東京滞在中は芝居見物あり、カモ猟あり。もちろん、団員は宴会にも招かれる。「三階建ての料亭に着くと、玄関で芸者衆がそろってあいさつした」。座敷では熱燗のお酌攻勢に遭うが、「どの芸者も一人のお客の前にたかだか五分坐るだけ、その間になにか話題を見つけようとつとめていた」。芸者さんにしてみれば、たとえ通訳がいたにしても、何を話したらよいか戸惑ったことだろう。
 
 長旅は、物見遊山をもたらしただけではない。団員は、極東の不穏な情勢をリアルタイムで実感した。日本滞在時には、三井財閥を率いた團琢磨男爵が、会って2日後に暗殺された。著者は事件当日、海軍大臣らとの昼食の席で、一報をリットンから耳打ちされる。「つい数日前、われわれ一同を招いてくれたこのすぐれた産業界指導者が殺されたというニュースには、衝撃を受けた」が、日本側の出席者は「事件については一言も触れなかった」。
 
 興味深いのは、調査団が5・15事件を挟んで、その前後に日本内地の土を踏んでいることだ。この事件で凶弾に倒れた犬養毅首相には、2月末の日本到着直後に表敬訪問していた。そして、大陸に渡った後の7月に再び朝鮮半島経由でやって来る。
 
 どちらの来訪時にも会った人のなかに、荒木貞夫陸軍大臣がいる。7月に再会したときの様子を、著者はこう書く。「初対面以来、何ヵ月も経っていないのに、荒木将軍は急に老けこんだように見えた」。前回は「豪放磊落な態度」だったのに、こんどは「どことなく不安そうな面持ちで、時々手にした紙片を見ながらゆっくりと考え深そうに語った」。そこに著者は、陸軍の士官候補生を含む集団が起こした5・15事件の影をみる。
 
 この年、大陸では3月1日に「満州国」の建国宣言があり、まもなく清のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀が「執政」となる。日本政府は「『満州国』は民衆の自発的運動によって成立したもの」と主張した。だが、調査団が「満州国」で受けた印象は違った。「満州人はたえず中国人と結婚していたし、中国文化が圧倒的強みをみせた関係上、自ら満州族だと感じている者はごく少数にすぎなかった」。著者は「自発的運動」を見いださない。
 
 調査団は、建国の実態も目の当たりにした。「政府機関のいたるところに実権を握っている日本人顧問がいた。われわれの滞在中、制度が変り、これら日本人顧問の多くが、『満州国』から委託され、正式に『満州国』の官吏に任命された」。満州国領に組み込まれた関東州でも、石炭や大豆などの活用法を開発する研究施設を訪ねると、所長は日本人。産業博物館も、運営している幹部は日本人。「満州国」の資源力は「民衆」の掌にはなかった。
 
 この本には当時の日本の政情分析も出てくる。「いまのところ日本は国家主義一点ばりで議会の各政党もこれを支持している。もともと政党といっても、その相違点は国家主義的立場をどの程度支持するかという度合のちがいにあるだけである」「新党が結成されたが、これは二大政党以上に国家主義的立場をとっている」。リベラリズムの受け皿が乏しいことでは、今の政治状況とよく似ている。
 
 本の末尾で著者は、日本政府が「満州国」にとどまらず軍を進めれば「全世界を敵にまわす」ことになり、「危険かつ困難な状況に身を置く」と予言している。それが不幸にも的中して、日中戦争から太平洋戦争へと深みにはまっていった。この警告を発したのが、理想主義者というよりは自ら植民地統治にも腕をふるった実務家だったことは注目に値する。それほどまでに、日本の国家主義は時代の位相からずれていたのだと言えよう。
(執筆撮影・尾関章、通算287回)
 
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