『チェルノブイリの祈り――未来の物語』
(スベトラーナ・アレクシエービッチ著、松本妙子訳、岩波現代文庫)
写真》文学賞発表資料と朝日新聞2015年10月9日朝刊
 
 今年のノーベル週も、僕はしばしばnobelprize.orgのページをのぞいた。このサイトでは、受賞者に対する電話インタビューをライブや録音で聴ける。文学賞を受けることになったベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんの第一声もその一つだ。
 
 彼女がしゃべっているのがどこの言葉かはわからなかったが、画面の注釈に「ロシア語」とある。科学者の間では、いまや英語が共通語なので、医学生理学、物理学、化学の理系3賞の受賞者は英語で話すのが習わしだ。だが、文学賞となれば事情が違う。コトバの文化を称える賞である。作家たちが日々頭のなかで思考を組み立てている言葉を用いるほうがふさわしいように思われる。
 
 で、ここで気づくのは、彼女はベラルーシ人でありながら、ロシア語の作家だということだ。ベラルーシは旧ソビエト連邦の共和国だった。日本では「白ロシア」の名で呼ばれていたものだ。日本外務省のサイトで調べると、「ベラルーシ語」と並んで「ロシア語」も公用語とされている。僕が1991年と94年にこの国を訪ねたときも、取材に同行してくれたのはロシア語の通訳。隣の大国の影響下にあることは否めない。
 
 だが、そこには欧州小国の落ち着きがあった。たとえば、ミンスクで立ち寄ったレストラン。たしか、石畳の旧市街にあった。女性客が晩餐を終えて出口でコートを着るとき、必ずと言ってよいほど連れの男性が手を貸していたように思う。しかも、彼女たちの手にはブーケがあったと記憶しているのだが、それは後付けの幻想か。ただそうしたしぐさのなかに、強国の風圧に曝され、社会体制の激変があっても揺るがない日々の営みが感じられた。
 
 一度目のベラルーシ滞在は、ソ連崩壊の直前だった。このときはウクライナにも入ったのだが、印象はだいぶ違った。ウクライナにはソ連離脱を求めるナショナリズムの熱気があったが、ベラルーシは静かだった。その分、内に秘めたものが大きかったのだろう。
 
 スベトラーナ・アレクシエービッチは1948年5月、母親の母国ウクライナの生まれ。父親はベラルーシ人で、やがて父の故郷へ移り住んだ。ここにすでに複眼の視点がある。日本流に言えば団塊の世代。西側のベビーブーマーは、大戦後の解放感のなかで育った。だが、東側の同世代は違う。彼女も少女期、青春期に旧ソ連の政治体制をくぐり抜けてきた。そのことが、作家として生きる動機につながっているのは間違いないだろう。
 
 さらにもう一つ、彼女が思考を深めることになった大きな出来事が37歳の春に起こる。1986年4月26日土曜日の未明、ウクライナ北端にあるチェルノブイリ原子力発電所が爆発したのだ。放射性物質が風に乗ってベラルーシにも流れ込み、上空を漂い、大地に降った。汚染地域の国土に占める割合はウクライナよりも大きかった。放射能禍が森や畑や牧草地を台無しにして、人々の暮らしをズタズタにしたのである。
 
 で、今週は『チェルノブイリの祈り――未来の物語』(スベトラーナ・アレクシエービッチ著、松本妙子訳、岩波現代文庫)。虚構の小説ではない。ウクライナやベラルーシで事故の直撃を受けた一人ひとりの証言集だ。事故から10年ほどして雑誌に発表された。
 
 文庫版の訳者あとがきによれば、著者はあえて「緊急レポート」を避け、「長い年月をかけて『自分の頭でじっくりものを考えている』人々をさがしてはインタビューし、彼らが体験したこと、見たこと、考えたこと、感じたことを詳細に聞きだした」のである。
 
 原発に近いウクライナの町プリピャチに住んでいた女性の話。事故当日の昼ごろ、夫が「原発が火事らしい」と聞きつけてきた。アパートから見えた「暗赤色の明るい照り返し」は、ずっと目に焼きついている。「ふつうの火事じゃありません。一種の発光です。美しかった」。夜には、ベランダというベランダが入居者やその友人知人で人だかりに。原発技師も物理教師も「悪魔のちりのなかに立ち、おしゃべりをし、吸いこみ、みとれていた」。
 
 同じプリピャチで少女時代、事故に遭遇した人の回想。「女の子や男の子たちは自転車で発電所にすっとんでいった」「発電所の上にたちのぼる煙は、黒や黄色ではなく、青色でした。でも、私たち、だれにもしかられなかったんですよ」。子どもたちは「危険なものは戦争だけ」とたたき込まれていた。ここで見ているのは「ただの火事」ではないか。そう思ったらしい。事故直後、原発近隣の人々には頭の片隅にも放射能という言葉がなかった。
 
 知識の欠如は、放射能への恐怖感が芽生えると逆に過剰反応を呼び起こした。アパートで「火事」を見た夫婦がベラルーシへ避難すると、息子は転校先の学校から「泣きながらとんで帰ってきました」。周りの子たちから「放射線をだしている」と怖がられ、「ほたる」というあだ名をつけられたのだ。原発の「火事」を見に走った少女も、大人になってから結婚相手の母に「まああなた、赤ちゃんを生んでもだいじょうぶなの?」と言われたりする。

 そんななかで働き手は、除染に駆りだされた。ロシア生まれの化学技師は「軍事委員部」に呼びだされ、「ミンスク郊外の野営地」へ送られる。1986年夏のことだ。任務が汚染土を削り、埋設地に運び込む作業だとは現地で知ったらしい。報酬は20km圏に入れば2倍、10km圏内では3倍、原子炉付近なら6倍と言われる。2カ月ほど働いて「ぼくらは決死隊じゃない」と訴えると、「交代させたんじゃ、採算が合わん」と一蹴された。

 
 原発というエネルギーの巨大生産装置が旧ソ連の政治体制に組み込まれ、暴発した。このとき、一方で人々が知るべきことを知らされないでいる閉鎖社会の膿が噴きだし、もう一方では人を労働力としてしかみない人間疎外が極限に達したのである。
 
 著者は、原子力科学者の証言も拾っている。ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所の幹部は、著名な核物理学者が口にしたとされる「核爆発のあとでオゾンのとてもいいにおいがする」という言葉に「私の世代はロマンを感じる」と打ち明ける。原爆が広島、長崎に投下されたころは10代。「SFが好きで、ほかの惑星に行くことを夢み、私たちを宇宙に打ち上げてくれるのは核エネルギーだと思った」

 この人は大学で、物理エネルギー学部という「最高機密の学部」に入って、エリート集団の一員になった。待ち受けていたのは、徹底した「秘密主義」だ。原爆開発の細部もアメリカの文献で学んだという。チェルノブイリの事故後、現地に派遣された科学者の多くがひげ剃りを持って来なかったという話も興味深い。調査は「数時間」で終わると思っていたからだ。重大事態の情報は専門家の間でも共有されていなかったということか。
 
 同じ研究所の元所長も登場する。事故は、モスクワ出張中に知った。ベラルーシ中央委員会に電話で「住民と家畜を一〇〇キロまで立ちのかせてください」と助言したが、返事は「火事があったが、鎮火したということだ」。ソ連には「山ほどのタブー、党機密、軍事機密」があり、「わが国の平和な原子力は泥炭や石炭と同じくらい安全なんだと、みんなが教えられていた」。国民は「信念という迷信」で「がんじがらめ」だったという。
 
 エリート集団の「秘密主義」。原発は安全という「信念」。これらは、僕たちが東電福島第一原発の事故後にまざまざと見せつけられたものだ。その意味では日本社会も、「社会主義体制」という一点を除けば、似たような病に冒されてきたと言えるだろう。
 
 ただ、それだけで収まりきらないメッセージも、この本からは感じとれる。学校教師の回顧談――。事故後、生徒の親たちは通学服を毎日洗うよう求められたが、ピンとこない様子だった。そのことを教師はこう理由づける。「母親にしてみれば、汚れというのはインクや泥、油のしみであって、短寿命アイソトープとかいうものの影響じゃない」。科学技術は僕たちに人間の実感をはるかに超える難物をもたらした。そのことを忘れてはなるまい。
(執筆撮影・尾関章、通算286回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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