『蝉しぐれ』(藤沢周平著、文春文庫)
*題名で「せみ」の漢字は正字だが、技術上の理由で略字を用いる。
写真》鶴岡の思い出
 
 「裏日本」という言葉がかつてあった。日本列島の日本海側を総称したものだ。なんとも失礼千万な呼び名だが、僕たちが育ったころは、世間に違和感なく受け入れられていたように思う。ちょうど高度成長期で、京浜や中京、阪神といった太平洋岸、瀬戸内海沿岸の工業地帯が日本経済の牽引車だった。その構図が、誤ったイメージを定着させたのだろう。そもそも「く」の字形の列島に表も裏もない。
 
 1977年、僕が駆けだしの新聞記者として越前福井に赴任したころには、そのことへの反省気運が強まっていた。紙面では「裏日本」がタブーで、代わりに「日本海側」と書いた。あのころ盛んだった言葉狩りの一つだったのかもしれない。だが僕にとっては、日々の取材で日本海側のイメージが塗りかえられつつあったので、この言い換えが当然に思えた。一例を挙げれば、三国町(現・坂井市)という港町の明るさである。
 
 三国は、今でこそズワイガニ漁の水揚げ港として有名だが、江戸時代は北前船という商船の寄港地だった。港町に開放感が漂うのは横浜や神戸をみればわかる。三国にも、似たような雰囲気があった。「かぐら建て」と呼ばれる建築様式が残る町並み。お雇い外国人が建てた小学校校舎の復元構想。そんな話題を取材しているうちに、この町の人々は本人も気づかないまま心のどこかで遠い世界とつながっているのではないか、と思えてきた。
 
 北前船は、大坂(大阪)から北海道まで、瀬戸内海と日本海沿岸の港を結んでいた。幕藩体制下で諸藩の名産特産が取引されるためのインフラだったと言えよう。そうした交易は、港町に異文化との接触をもたらした。三国の明るさは、きっとそのせいだ。同じことは当然、ほかの寄港地にもあるに違いない。そんな思いもあって、ずっと行ってみたいところが僕にはあった。主要港の一つ、山形県の酒田である。
 
 その念願が今秋、叶った。そこには、三国よりもひとまわり大きな近世コミュニティーの面影があった。江戸時代、豪商たちが商港都市の自治に乗りだし、武家社会にも影響を及ぼしていた。中心にいたのは本間家。絶大な資金力で庄内藩の政治に関与して、侍の身分も得た。本間家旧本邸を訪ねて驚いたのは、家が二分されていたことだ。片方は武家屋敷、もう一方は商家づくり。封建制度が資本主義に移り変わる現場を見た感じだった。
 
 そのころ、武士社会にも変化があった。僕は今回、庄内藩の城下町鶴岡で、藩校の到道館を見学した。驚いたのは、藩が緻密なカリキュラムで知的人材を育てようとしていたことだ。教えられていたのは、個性尊重の徂徠学だ。幕府が朱子学に肩入れして道徳偏重の教育をしているときに、藩主の酒井家は譜代大名であるにもかかわらず、リベラル路線をとった。この背景にも、藩内の商都酒田の資本主義があったのではないだろうか。
 
 で、今週は、その鶴岡と深くかかわる長編時代小説。『蝉しぐれ』(藤沢周平著、文春文庫)。著者は鶴岡市の出身。1927年生まれ、97年に亡くなった。米国の作家ウィリアム・フォークナーが「ジェファソン」という町を仮想したように、庄内を思わせる架空の藩を置いて、いくつもの作品の舞台にしている。その城下を流れる「五間川」は鶴岡の内川に、藩校の「三省館」は致道館にそれぞれ対応することを、僕は今回の旅行で確かめた。
 
 『蝉……』は、その代表作。書きだしはこうだ。「海坂(うなさか)藩普請組の組屋敷には、ほかの組屋敷や足軽屋敷には見られない特色がひとつあった。組屋敷の裏を小川が流れていて、組の者がこの幅六尺に足りない流れを至極重宝にして使っていることである」。ここで「普請組」は今流に言えば建設行政をつかさどる役所、「組屋敷」はその職員官舎である。藩を実業界とみれば、ゼネコンとその社宅をイメージしてもよいかもしれない。
 
 実際、この小説には現代社会に置き換え可能な描写がいくつもある。主人公牧文四郎の父親、助左衛門の日課はこうだ。「朝食が済んでから間もなく、登城する父が家を出て行った」。今のサラリーマンと変わらない。未成年も同様だ。「文四郎は昼前は居駒(いこま)礼助の私塾に行って経書(けいしょ)をまなび、昼過ぎからは鍛冶(かじ)町にある空鈍流の石栗(いしぐり)道場に行く」。授業と部活に明け暮れる少年少女と重なる。
 
 武士は帯刀していた。だが、刀はめったに使わない。塾仲間がいじめに遭って、文四郎たちが救出にかけつけるくだり。このとき、親友の逸平が口走ったひと言は「抜くなよ。刀を抜くとあとがめんどうになる」だった。別の箇所では、文四郎もいさかいの止め男になり、片方を羽交い絞めにしながら、もう一方に「刀をおさめて早々に立ち去られてはいかがかな。ぐずぐずしていると、あとの責任までは持ちかねますぞ」と諭すのだ。
 
 「あとがめんどう」「あとの責任までは」といったもの言いには、よく言えば法と秩序、悪く言えば官僚主義の匂いがする。こんな言葉が飛びだすのは現代作家の小説だからで、当時の実態は違うという見方もできるだろう。だが今回、僕が酒田の商家や鶴岡の藩校で感じとったのは、江戸時代、商人にも武士にもホワイトカラーの感覚が芽生えていたらしいということだ。藤沢作品は、そこを巧く切りだしている。
 
 もちろん、封建武士の「ホワイト」は血に染まることもある。この作品では藩内の権力闘争が、その残酷な一面を浮かびあがらせる。文四郎が道場の帰りに不穏な空気を察知する場面。川沿いの道に「襷はちまきに抜身の槍を光らせた一隊」が次々に現れる。「城下に異変が起きたときは、物頭(ものがしら)のひきいる御槍組、御弓組が動いて四方の木戸を固める」と言われていた時代だ。なにかが起こったのは間違いない。
 
 それは、藩上層部の派閥争いが招いた政変だった。藩主の世継ぎ問題で側室派が正室派を追い落としたのだ。助左衛門は後者だったので、同士とともに切腹となる。反逆の罪だった。文四郎は正式の沙汰が出る前日、拘置所となった龍興寺という寺へ接見に赴く。「何事が起きたのかお聞かせください」と問うと、父は言った。「私の欲ではなく、義のためにやったことだ」「文四郎はわしを恥じてはならん」
 
 寺を出ると、逸平がいた。二人は、蝉しぐれのなかを歩く。文四郎は、父に「尊敬している」と言えなかったことを悔いて泣いた。このとき、「ぞっとするようなつめたい風」が吹き、「大粒の雨」とともに「腹にひびく雷鳴」が轟く。「その日城下を襲った嵐は、龍興寺に死を待つ人びとがいるのを憤るかのように、夜半まで風と雨が城下の家々を打ち叩いた」。当時の派閥抗争は、今とは違ってポストの争奪にとどまらなかったのである。
 
 この小説には、切ないが美しい縦糸も織り込まれている。組屋敷で隣同士だった文四郎とふくの物語だ。それぞれ15歳と12歳だったころの朝、洗面台や流し場代わりにしている裏の小川で顔を合わせる。ふくは、文四郎の挨拶に「そっけない態度」で応じるが、指を蛇に噛まれて傷口を吸ってもらうと「小さな泣き声をたてた」。異性を意識しているが子どもでもある。これが、数十年に及ぶ静かな恋の出発点だった。
 
 だが、ふくは運命のいたずらで、文四郎の手の届かない身分に引きあげられてしまう。背景に血筋による家の存続を第一に考える側室制度があった。これもまた血にまつわる話と言えるだろう。
 
 この点で僕が興味をそそられるのは、著者が、文四郎を助左衛門の養子としていることだ。助左衛門の妻、すなわち母が実の叔母という関係。だから父子は血がつながっていない。だが、そこには父を慕い、敬う子の姿がある。理由の一つは、父がどこまでも民衆の側に立つ武士だったことだ。大水で五間川上流の土手を切らざるを得なくなったとき、田んぼの被害を小さくするよう切り場所を変えさせたのも父だった。
 
 近代の条件の一つが人々を血の呪縛から遠のかせることにあるのだとしたら、この親子関係にも近代がある。僕はそう思うが、これは深読みに過ぎるだろうか。
(執筆撮影・尾関章、通算288回)
 
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