『永遠平和のために』(イマヌエル・カント著、宇都宮芳明訳、岩波文庫)
写真》カントの故郷ケーニヒスベルクと言えば……
 
 この初秋、日本列島にめずらしく政治の嵐が吹き荒れた。安全保障法制の審議が参議院で大詰めを迎えていたころだ。それと歩調を合わせるように、自然界でも天候が大荒れで、積乱雲が線状降水帯をつくって、篠つく雨を降らしたり、雷鳴を轟かせたりしていた。国会周辺をはじめ、全国津々浦々で盛りあがった抗議行動は、その空模様とぴったり重なる。天が人に呼応したように思えた。
 
 で、今回も最近の句会に出した駄句を一つ。
 悪法を撃つ稲妻にカント読む(寛太無)
 安保法制反対の気運に荒天のイメージを重ねた。時事を五七五に込めるというと川柳が思い浮かぶが、俳句にもあってよいのではないか。風刺とは別次元でメッセージを伝えたいこともある。句友の一人は、それを「ステートメント俳句」と名づけた。
 
 俳句には季語がある。拙句のそれは「稲妻」だ。季節は秋である。同じ大気現象でも「雷鳴」は夏だ。雷は光ってから音がするが、季語では順番が逆になる。先人の鋭敏な感性が、聴覚と視覚で季節を感じ分けたことに驚かされる。
 
 閑話休題。この作句で苦労したのは、誰の著作を読むのがよいか、ということだった。安保つながりで、まずは1970年前後によく読まれた本が頭に浮かび、サルトルはどうかと思った。字余り、却下。カミュは? うーん、ちょっと文学に傾きすぎる。ニザンは? 若い世代には、あまりに遠い存在か。そんなことをあれこれ考えているうちに気づいた。今回、僕が抱いた失望感は、半世紀さかのぼれば済む話ではない!
 
 僕は、安全保障の切れ目をなくすという方針そのものを悪いとは思わない。危急の事態に武力関与の可能性を想定することも、現実をみればやむを得ないのかもしれない。だが、法制づくりを急ぐ現政権の姿勢で受け入れがたかったのは、そこに平和志向の大きなベクトルがなかったことだ。核時代の戦争は破滅をもたらすのだから、武力を備えるにしてもそれを使わずにいられる国際社会を築こう、という強い決意が感じられなかった。
 
 ひとことで言えば、理性の希薄さである。最近は反知性という言葉をよく目にするが、嘆くべきはむしろ反理性の兆候ではないか。中世まで神が一手に引き受けていた役割の一部を人間の理性が担うようになった近代、そこに倫理を組み込んだのが、ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804)と言えよう。理性乏しき立法を前にして天の怒りとともに開くべき本は、この人が書いたものをおいてほかにない。
 
 ということで、今週の一冊は『永遠平和のために』(イマヌエル・カント著、宇都宮芳明訳、岩波文庫)。1795年、古希の境地に達した著者が著した。その序文では、「実務にたずさわる政治家」が「理論的な政治学者」を「机上の空論家」とみる風潮が皮肉交じりに記されている。僕たちが今年、現政権と憲法学者との間に見てとったすきま風は18世紀の欧州でもすでに吹いていたらしい。
 
 巻末に収められた訳者解説によると、著者を執筆に駆りたてたのは、同じ年にフランスとプロイセンが結んだバーゼル平和条約だった。それは、第1章の冒頭で第1条項として「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない」を掲げていることからもわかる。それによってもたらされるものは「たんなる休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではない」(「平和」に傍点)という。
 
 第1章では、このあと五つの条項が続く。国家はほかの国家を取得できない(第2条項)、常備軍はいずれ全廃する(第3条項)、対外紛争で国債を発行しない(第4条項)、他国の体制や統治に暴力で干渉しない(第5条項)、戦時でも将来の平和時に信頼関係を結べなくするような行為(暗殺、毒殺、降伏条約違反、裏切りの教唆など)があってはならない(第6条項)――要約すれば、こうなる。
 
 第2、第5条項では、戦前日本の外地政策や米国のベトナム戦争を連想する。第6条項からは、歴史認識問題が尾を引く現実が見えてくる。第3条項ですぐ思い浮かぶのは、日本国憲法だ。二百余年前の問題提起は、今も干からびていないということだろう。
 
 ここでもう一つ言い添えたいのは、著者がただの「机上の空論家」ではないことだ。それは六つの条項を二つに分けて考えていることからもわかる。第2、第3、第4条項については「事情によって」「実行を延期することが許容されている」(「延期する」に傍点)と、留保をつけている。僕たちからみれば、第2条項などは即刻アウトの禁止事項だが、著者はまだ植民地主義時代の人だった。
 
 第3条項は、憲法9条との関係でとりわけ気になる。ここで見落とせないのは「常備」の2文字だ。著者は「国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備すること」を「まったく別の事柄」として排除していない。
 
 ではなぜ、常備軍はダメなのか。一つには、それが軍拡競争を招き、軍事費を膨張させて開戦のハードルを下げるからだという。もう一つの理由は、いかにもカントらしい。「人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいる」ので「人格における人間性の権利とおよそ調和しない」とみる。だからこそ、非常備でも「国民が自発的に」なのだ。
 
 第2章は、人間世界の自然状態を「戦争状態」と指摘するところから始まる。戦時でなくとも「敵対行為によってたえず脅かされている」からだ。したがって「平和状態は、創設されなければならない」(「創設され」に傍点)。条件として挙げるのは、それぞれの国が戦争をするのに「国民の賛同が必要となる」ような民主的体制にあること、国同士が緩やかな連合体をつくることなどだ。ここにも、今につながる分析や提言がある。
 
 興味深いのは、二つの章に続く第1補説「永遠平和の保証について」で、再び「自然」が出てくることだ。第2章で自然状態を平和でないとしているのとは一見矛盾するようだが、こちらでは「諸物の巧みな造り手である自然」が永遠平和を保証するとみる。「自然の機械的な過程からは、人間の不和を通じて、人間の意志に逆らってでもその融和を回復させるといった合目的性がはっきりと現われ出ている」というのである。
 
 著者が目を向けるのは、人間社会に備わった力学だ。そこでは「利己的な傾向の力が相互に拮抗して、一方の力が他方の力の破壊作用を抑制したり、あるいはそれを取り除いたりする」ので、「あたかも双方の力がまったく存在しなかったのと同じ」という状態が可能となる。これは「人間の道徳的改善ではなくて、たんに自然の機構」で、国レベルの対外関係でも働く。このしくみを採り入れれば、平和が促されるという。

 この理屈は甘いとも言える。その通りに事が運べば、人類は二つもの大戦を経験しなかっただろう。さらに現代では、核抑止力の正当化につながりかねない危うさもある。ただ、それでも注目すべきは、そこに20世紀エコロジー思想の兆しがみてとれることだ。近代の哲学者にとって、平和の拠りどころは神よりも自然だった。生態系(エコシステム)では、構成メンバーの動的な均衡で調和が保たれる。平和外交のヒントがここにある。

 最後にどうしても触れておきたいのは、第2補説の次の一文。「公けの平和を可能にする諸条件について哲学者がもつ格率が、戦備を整えている諸国家によって、忠告として受けとられなければならない」(すべてに傍点)。ここで「格率」は、それぞれの原理原則にもとづく意見と解釈してもよいだろう。防衛力を高めるほど、見識ある人々の声に耳を貸すべきだということである。安保法制成立までの経緯を振り返ると、悲しくなってくるではないか。
(執筆撮影・尾関章、通算289回)
 
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