『13日間――キューバ危機回顧録』
(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)
写真》アトランタにはジミー・カーター大統領の資料館
 
 来年の今ごろは、アメリカ合衆国の新しい大統領が決まっていることだろう。当選するのは、たぶんあの人だと思うが、もしかしたら違うかもしれない。よその国の選挙なのに、そんなふうに気を揉むのはどうしてか。
 
 一つには、最高権力者公選の醍醐味が海を越えて伝わってくるからだ。絶大な権限を委ねはするものの居座りは許さず、4年ごとにみんなで選び直す。我こそはと思う人々が次々に名乗りをあげ、支持のとりつけに東奔西走する。二大政党は、それぞれ党大会で候補を一人に絞り、最後はガチンコ対決だ。有権者は間接的に「選挙人」を選ぶが、勝者総取りの州が大半なので死に票はいっぱい出る。欠点も多い。でも動的興奮に満ちている。
 
 長丁場のレースにはいくつものヤマ場があり、どこの陣営もショーアップに余念がない。それらは、テレビニュースの格好の素材だ。お祭り感覚のカラフルな選挙戦も世界の耳目を引き寄せているのである。
 
 この選挙に、僕は子どものころから熱中した。1960年、民主党のジョン・F・ケネディ(JFK)と共和党のリチャード・ニクソンのテレビ討論は、日本にない政治家像を見せつけた。68年はJFKの弟ロバートが民主党の候補者指名をめざす遊説中に凶弾に倒れた。72年は民主党候補ジョージ・マクガバンが反戦旋風を巻き起こした。どちらも最後はニクソンが勝ったのだが、夢破れた二人こそ若者の希望の星だった。
 
 その熱気は、ロバート・ケネディ暗殺の日を、事件現場のホテルを舞台にオムニバス形式で描いた映画「ボビー」(エミリオ・エステヴェス監督、2006年)を観れば、うかがい知れる。この人によって世界は変わるだろう。そんな思いが人々の間にはあった。
 
 考えようによっては、米大統領選を前にして人々には二つの未来が用意されていたとも言える。冷戦がますます深刻になるのか、それとも雪解けに転じるのか、という真反対の道筋だ。だれが勝者になるかによって、そのどちらかが現実になる。それは世界の運命と密接不可分なので、遠い島国にいる高校生も無関心ではいられなかった。米国の大統領とは、そんな存在なのである。
 
 で、今週の一冊は『13日間――キューバ危機回顧録』(ロバート・ケネディ著、毎日新聞社外信部訳、中公文庫)。JFKが大統領だった1962年10月中旬、米政府はソ連がキューバに攻撃用ミサイルの基地を造りつつあることに気づく。第3次世界大戦のリスクを抱えながら、軍事行動をとるべきか。著者は司法長官として、そして兄の腹心として、政府中枢の議論に加わり、対ソ工作もした。この本は、その生々しい記録である。
 
 このとき、僕は小学5年生だった。給食の時間には、教室のスピーカーからラジオ番組の児童向けニュース解説が流され、たいていは聞き過ごしていたのだが、あのときばかりは緊張して耳を傾けた。一触即発の事態であることは、子ども心にも感じとれた。
 
 キューバ危機の展開はこうだ。米政府内では10月16日、偵察機が基地建設現場を撮った写真の解析結果が大統領にあがる。ミサイルは核弾頭を積める。首都ワシントンも射程に入っている。喉もとに刃物を突きつけられたかたちだった。統合参謀本部には強硬論が強かったが、大統領は軍事行動を避けて海上封鎖で対抗する。そしてソ連のニキータ・フルシチョフ首相と書簡をやりとりして、28日にミサイル撤退の譲歩を引きだした。
 
 著者は、この13日間に焦点をあて、米首脳部の会議の流れをたどる。出席者として居並ぶのは、ディーン・ラスク国務長官、ロバート・マクナマラ国防長官……財務長官もいる、中央情報局(CIA)長官もいる、大統領顧問もいる、もちろん著者も入る。この一団がその後、大統領を委員長とする「国家安全保障会議執行委員会」(エクス・コム)のメンバーに正式に任命されて連日、危機管理に当たったのである。
 
 驚くべきは「みんな対等の立場で発言した」ということだ。国務長官が議長役ということになっていたらしいが、公務で抜けることが多く、仕切り役なしで「自由かつ無制限」の議論が許されたという。それは、マクナマラ長官が「海上封鎖の最も強い主唱者」だったのに、統合参謀本部のメンバーは「即時軍事行動」を訴えたという記述からもうかがえる。この段階では、国防総省(ペンタゴン)でさえも一枚岩を強いられなかった。
 
 著者も、封鎖支持の立場から論陣を張る。大国が小国を奇襲することの是非をとりあげて「われわれが国内において、そして地球上において、道義上の地位を維持すべきであるなら、米国はそのようなことをしてはならない」と主張したのだ。「われわれは最初の五日間、この道義の問題について、他のどの問題よりも多くの時間を費やした」。組織人としてではなく、一個の人間に立ち返って論をたたかわせたのだろう。
 
 これは、キューバ危機への対応だけでなく、政策決定全般にあたってJFKが好む手法だったらしい。大統領は、自分が出る会議の顔ぶれを絞る動きには抵抗したという。地位などと無関係に「質問を発し、批判し」「信頼できる判断を示し、賢明な見解を表明する人々」を強く求めたのである。「一つの特定の行動がもたらすすべての考え得る影響が提示され、それに論争が挑まれること」――それが、JFKが切望したことだった。
 
 この本から見えてくるのは、そんなきれいごとばかりではない。JFKは、フルシチョフの心を読んで巧みな外交戦術をとった。たとえば、海上封鎖が始まっても、ソ連のタンカーは通過させる。「われわれは彼を押しまくって軽率な行動に出させたくない」「彼を逃げ場のないコーナーへ追いつめたくない」。初臨検は、パナマ船主が保有するレバノン船籍の米国製輸送船。ソ連はチャーターしただけだ。「直接の侮辱」を避けたのである。
 
 著者は後段で「キューバ危機の究極的な教訓は、われわれ自身が他国の靴をはいてみる、つまり相手国の立場になってみることの重要さである」と総括する。JFKは「ソ連を、一インチでも必要以上に押しまくるつもりはない」と語り、危機が過ぎ去ってからも「エクス・コムと政府の全員に対し、どんな形でも勝利をうたうようなインタビューや言明を、いっさい行なってはならないと指示した」。
 
 ケネディ兄弟の絆の強さも随所に見てとれる。ソ連がフルシチョフ書簡で、いったん柔軟な申し出をしたあと、新たな交換条件を付け加えたものを送り直してきたときのことだ。米国ミサイルのトルコからの撤去を求めたのだ。会議では、後者の提案を拒否する返書の草案が用意されたが、著者は前者だけに答えるべきだと言い張った。JFKは、その代案に沿って文面を決める。最初の提案を踏まえて合意しようという内容だった。
 
 ここでJFKは、もっとも大切な役回りを著者に割り振る。ソ連の駐米大使を相手に根回しをさせたのである。著者は、兄が送ったばかりの書簡で追加の交換条件に応じていないことを明かしたうえで「大統領はもう長いことトルコとイタリアからミサイルを撤去したがっている」「こんどの危機が過ぎればほどたたぬうちに、これらのミサイルはなくなるであろう」と参考情報を言い添える。水面下の駆け引きの見本をみるようだ。
 
 兄弟には、危機を通じて痛感したことがあった。JFKは、軍部が「限られた軍事面以上にはものを見ることのできない」ことに手を焼く一方、軍人の職業意識には一目置いていた。「彼らが戦いたくないとしたら、誰が進んで戦うのだろうか」と、著者も書く。こうした組織と対峙したことが「文民による指導と支配の重要性」を教えてくれたという。防衛庁が防衛省となり、防衛体制の厚みが増した日本社会に、この認識は備わっているだろうか。
 
 映画「ボビー」を思い出しながら、ロバート・ケネディが暗殺されず、大統領に就いた世界も生きてみたかった、とつくづく思う。
(執筆撮影・尾関章、通算290回)
 
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コメント
Mayumi Takagiさま
いただいたコメントは、翌週11月20日付の拙稿に対するものですので、僕の返信はその回のコメント欄に載せました。
  • by 尾関章
  • 2015/11/25 10:33 AM
尾関さん、ご自分の読者が“デモンストレーション”参加者か“テロリスト”かの識別がつかない、その境界線は?等々の理由で識別が必要かと思って今回の“デモとテロの違いがわからない人へ”を書いたのですか?
尾関さんのコラムを読む人達はそんなにナイーブではないと思います。テロリズムを理解するうえで、“デモ”と比較するのは少し無理があるのでは?
  • by Mayumi Takagi
  • 2015/11/25 2:21 AM
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