『テロリズム――歴史・類型・対策法』
(J=F・ゲイロー、D・セナ著、私市正年訳、白水社・文庫クセジュ)
写真》パリのテロ第1報(朝日新聞2015年11月14日夕刊)
 
 またもや、見たくもない映像を見させられてしまった。パリで起こった同時多発テロである。狙われたのは、金曜夜のコンサートホール、サッカー場、レストランだった。そこにいたのは、平日の緊張から解き放たれ、気分を弛緩させている人々である。
 
 テロという言葉で浅沼稲次郎の刺殺事件が真っ先に思い浮かんだのは、もはや遠い昔だ。オフィスビルで働く人が航空機の直撃を受ける。通勤電車ですし詰めの人が有毒ガスに逃げ惑う。そんな事件が相次いで、僕たちのテロ観は変わった。テロリストの主張と直接には結びつかない人々が攻撃されるようになったのだ。その極限にあるのが、今回の惨劇だろう。覚悟という心境からもっとも外れた場所で血が流れた。
 
 こうしたテロの実行者には、自爆や反撃によって命を落とすことをいとわない人がいる。他人のみならず自分も含めて個人の生命を超えたところに価値を見いだす人々だ。だから報復や厳罰をもってしても、なかなか抑えることができない。そういう行いに武器をもたない僕たちはどう向きあえばよいのだろうか。たぶん、個を重んずることがそれぞれの文化を尊重することの原点にあると訴えていくよりほかないだろう。
 
 思い出すのは2年前、当時の自民党幹事長石破茂さんが、いったんはブログに載せた失言だ。後で取り消したが「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」と書いたのである。特定秘密保護法案に対する抗議行動が盛んだったころだ。「デモはテロ」という思い込みが日本の保守政治家の間にあることが仄見えた瞬間だった(WEBRONZA2013年12月5日付拙稿「石破発言の陰に『コンプラ』ばかりをみる風潮」)。
 
 この数年、日本社会では組織動員型とは異なるデモが定着した。3・11原発事故後に強まった国策への不信や、一強多弱で突っ走る国会への警戒が背景にある。だから、脱原発であれ、機密や安保にかかわる法案への異議申し立てであれ、その風景からは国家に対峙して個の大切さを訴えるという構図が見えてくる。その限りでは、デモはテロと「あまり変わらない」どころか、その対極にあると言えるだろう。
 
 いま、このように世界がテロの脅威に曝されているときに、なによりも備えるべきは、そうした個を尊重する精神だ。デモの力はテロの力に対抗しうる。それなのに逆の発想しか出てこないのは嘆かわしい。
 
 で、今週は『テロリズム――歴史・類型・対策法』(J=F・ゲイロー、D・セナ著、私市正年訳、白水社・文庫クセジュ)。パリのテロの数日後、ふらりと立ち寄った学生街の古書店で、この背表紙を見つけた。クセジュと言えばフランス本。キーワード検索にならえば「テロ×フランス」だ。このめぐり合せに、すぐさま手にとった。訳者あとがきによれば、著者二人は法学や犯罪学の学位があり、警察や司法の実務にも通じているらしい。
 
 この本は2000年代、米国の9・11同時多発テロの衝撃が冷めやらぬなかで執筆された。したがって、今日的な切実感を踏まえている。だが、学究らしく一歩退いた視点に立って、歴史軸を見通した考察も忘れていない。
 
 テロの源流探しは、「フランス革命」に遡る。「テロリズム」は革命後の「恐怖政治(ラ・テルール)」に由来する言葉で、そのころ「『テロリスト』は『共和主義者』の同義語」だったという。では今日、それはどう変わったのか。著者は「テロリズムを定義する試みは、大抵はわれわれを当惑させる」と打ち明ける。目的、手段、影響のどれを強調するかでいかようにもなるからだという。
 
 実際、今とはずいぶん違うイメージもかつてはあった。例に挙がるのは、ロシア革命の活動家ボリス・サヴィンコフが綴った『あるテロリストの回想録』の表題だ。「人びとはテロリズムということばにそれほど、うしろめたさを感じていなかった」。だが、テロが非難の的になると、反権力の活動家は「パルチザン」と呼ばれたがるようになったという。そのほうが「ある種の合法性」や「政治的正当性」を感じさせるからだという。
 
 このくだりでは「占領者や植民者によって『テロリスト』として名指しされた者が、国家指導者や政府指導者の『地位』に変わったり、ノーベル平和賞の『地位』を得たりした政治家たちは数えきれないほどいる」という指摘に、はっと驚かされる。ノーベル賞受賞者とはだれか。注には「ネルソン・マンデラやヤセル・アラファトなど」とある。なるほど。テロリズムという言葉の曖昧さに便乗するレッテル貼りが横行していたのだとも言えよう。
 
 この本は、近代テロリズムの変遷を欧州史に沿って語っている。たとえば19世紀末から20世紀中盤にかけて「無政府主義者」の時代があり、次いで「バルカン半島」の時代があったという。このあたりは僕たちの皮膚感覚にはピンとこない。だが、そのあと「脱植民地化と冷戦」の時代が1990年代半ばまで続き、今は新しい時代区分に入っている、という分析は同時代人としてストンと腑に落ちる。
 
 では、テロリズムは冷戦終結の前後でどう変わったのか。著者によれば、冷戦期のテロには三つの特徴がある。一つには「間接的」だった。それは「不利な力関係を覆すための巧妙な策略」として仕組まれ、「神経戦」の様相を呈した。二つめには「政治」が中心にあった。通常の犯罪とは違って「抽象的観念や主義主張に基づいて実行されていた」のである。そして「国家」の関与。「特務機関による指揮や援助」の影がちらつくこともあった。
 
 ところが冷戦後、「世界的カオスのテロリズム」が到来する。「新しい世界は、分裂し、騒然としている。その結果、テロリズムは大規模になり、脱地域化し、非合理的になり、突発的で流動的であり、犯罪性も増し、国家の統制から離れている」。現在のテロは、相手を「交渉の場に引き出すため」の間接戦術ではなく、「彼らの世界観をおしつけ、古いモデルを彼ら自身のモデルに置き換える」ことを主眼とする直接攻撃になったという。
 
 この本で、今回のパリ同時多発テロを予言しているようにも思われるのは、現代テロリズムの「演劇化」を論じた一節だ。まずは、一つの都市が「舞台」になること。「都市には、政治的、経済的権力、また情報やその他の権力が集中するようになったが、かえってそれが権力を不安定にさせることになる」「人口集中は、テロリストの活動にきわめて適した環境を準備する」。だからそれは「テロリズムにとって、願ってもない舞台」なのだという。
 
 もう一つは、「観衆」を求めることだ。「テロリズムは、情報の海からはっきりと姿を現わすために、強い劇的性格を持たなければならない」「テロ行為は、みずからを他の行為と区別させるために『メディアが伝える大衆の批判』なるものを獲得しなければならない」。批判もまた存在感の誇示を助けるという逆説。その結果、「観衆をひきつけるために、ますます多くの死者を必要とする」という論理に結びつく。背筋が凍る話だ。
 
 現代のテロは「時と場所における予測不可能性」に効果を見いだす。そのこともあって、一般市民が「戦略的手段」になりやすいという。「政府に圧力を加えるために、通行人を殺害し、観光客を誘拐する」――それとほぼ同じことが、パリで起こった。
 
 この本には、後段でフランス国内や欧州レベル、世界レベルのテロ対策も紹介されている。だが、読み進むほどに決め手はないことを痛感させられる。ひとつ心にとまるのは「テロ対策は、国家の独占ではありえない」「世論、メディア、議員、知識人、企業など社会全体に関係する」という記述だ。たしかに、当局が取り締まりを強めてもイタチごっこが続くばかりかもしれない。では、僕たちは何をすればよいのか。
 
 たぶん、密告社会をつくれということではあるまい。テロ報道の「観衆」から抜けだして、それぞれのやり方で個の尊厳を守り抜くこと。それしかないように僕は思う。
(執筆撮影・尾関章、通算291回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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コメント
《尾関さん、ご自分の読者が“デモンストレーション”参加者か“テロリスト”かの識別がつかない、その境界線は?等々の理由で識別が必要かと思って今回の“デモとテロの違いがわからない人へ”を書いたのですか?
尾関さんのコラムを読む人達はそんなにナイーブではないと思います。テロリズムを理解するうえで、“デモ”と比較するのは少し無理があるのでは?》(Mayumi Takagiさん、前回コメント欄へのご投稿)
痛いところを突かれました。アップしてから、この見出しは反感を招くかなと心配していたのです。僕自身は、読んでいてくださる方の何人かを頭に浮かべ、似たような考え方を共有しているのだろうなと思いながら書きました。
ブログは、読まれる方が多くはないとはいえ、不特定の人々、すなわち世の中へ向けて発信しているつもりなので、そんな連帯感に似た気分を抱いて執筆することがときどきあります。
テロとデモの同列視は、僕の取材経験から言っても、日本社会の中高年層にはたしかにあるように感じています。
ちょうどきのう、日本国内のテレビでは三島由紀夫事件45年ということで、当時のニュース映像が流れました。そのなかには国際反戦デー当夜の新宿駅一帯の光景もありました。それで考えたことが二つ。
1)テロとデモを同列視する人は、あのようなデモがデモだとの固定観念にとらわれているのではないか。
2)あのデモに参加した若者にテロの意志はなかっただろうが、その一方で、彼らはどれほどに「個」としての主体性をもっていただろうか。
いずれにしても僕たちは今、レジスタンスのありようが問われる時代を生きているのではないか、と思いました。
  • by 尾関章
  • 2015/11/25 10:08 AM
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