『フランスの内乱』(カール・マルクス著、木下半治訳、岩波文庫)
写真》フランスの食
 
 この1年を振り返って思うのは、一極化はついにここまできたか、ということだ。ここで安全保障法制について論ずるつもりはないが、その法案一式をさらりと通してしまった国会の姿には愕然とする。対抗勢力があまりにも弱い。弱すぎる。
 
 もちろん、有権者も黙ってはいなかった。一強多弱の勢力図に支えられた強引な立法に異を唱える抗議行動が全国で繰り広げられた。シルバー世代だけではない。若者も前面に出た。頼もしいことではある。だが、だからなおさら違和感があるのは、それを受けて政権を脅かす政治勢力が生まれる気配がないことだ。これでは、権力を手にした者が思うままに突っ走ろうとすれば、なんでもできてしまう。
 
 1960〜70年代はどうだったか。あのころは若者たちの街頭行動とは別のところで大人の対抗勢力がちゃんとあった。新左翼に対して既成左翼と呼ばれたりしたものだ。その最大党派は、社会主義の旗を掲げて労組に寄り添う野党であり、党内の左右対立でゴタゴタしたり、国会で与党との駆け引きに明け暮れたりして頼りなくもあったが、それでも「保守」に対する「革新」として存在感を示していた。
 
 象徴は革新自治体だ。京都府、横浜市などには国政野党に後押しされた強力な首長が早くからいたが、1967年に美濃部亮吉東京都知事が現れると、その流れが一気に加速した。大都市圏はオセロゲームのように革新色に塗り変わったのである。
 
 1967年の都知事選では革新政党が共闘して、無党派層を引き寄せる「明るい革新都政をつくる会」が生まれた。街には、青いドーナツマークの青空バッジをつけて賛意を表す人々が大勢いた。革新のイメージが「アカ」から青に変わった瞬間だった。
 
 美濃部知事が再選を果たした1971年の選挙戦は、事実上の保革一騎打ちで、いっそう盛りあがった。街頭演説ではターミナル駅周辺が両陣営のシンボルカラーで埋め尽くされた。僕の不確かな記憶をネットで見つけたブログ情報と突き合わせると、「東京燃ゆ」と言われたのはこのときだ。大佛次郎のパリ・コミューン史伝『パリ燃ゆ』にあやかる形容ではなかったか。今思い返すと、含蓄のある譬えだったと思う。
 
 あのころ、美濃部さんがよく口にしたのが「ストップ・ザ・サトウ」だ。中央では、佐藤栄作首相の長期政権が続いている。経済の高度成長に乗っかって安定感はあったが、歪みは公害などのかたちで噴出していた。ベトナム戦争がドロ沼化して米国一辺倒の外交政策にも批判があった。そんななかで、中央の言いなりにはならないぞ、という政治勢力が地方自治体にあった。それが「東京燃ゆ」だ。あの平衡感覚が今は見あたらない。
 
 で、今週は『フランスの内乱』(カール・マルクス著、木下半治訳、岩波文庫)。1871年に生まれて消えたパリの自治政府パリ・コミューンの実録だ。著者は、その崩壊直後にコミューンを振り返って「国際労働者協会総務委員会の宣言」を執筆した。「国際労働者協会」は、1864年結成の「第一インタナショナル」。この本は、その「宣言」を中心に据え、多くの関連文書を添えている(引用では漢字の旧字体を新字体に直す。以下も)。
 
 訳者序には、こうある。「三月十八日に、パリ・プロレタリアートは、首都をプロシヤ軍に売ろうとするブルジョアジーの陰謀に奮起して、パリ・コミューンを布告した。これぞ即ち歴史上最初の労働者政府である」。それは、72日間続いて中央政府に屈した。
 
 その政体を、著者は「宣言」でこう要約する。「コミューンは、市内各区における普通選挙によって選出され、有責であって短期に解任され得る市会議員から形成された」「コミューンは、代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた、行動体であった」
 
 コミューンがどんな政策をとったかは、後段に収められた史料やフリードリヒ・エンゲルスの文書に詳しい。家賃には事実上の免除とも言える支払い延期措置がとられた。製パン労働者の夜勤が禁じられた。経営者が放棄した工場については労働者の協同組合方式による経営という方針が掲げられた。その一方で、コミューン吏員の俸給には上限が定められた。徴兵制は「廃止」になったが、「一切の健康市民は、国民軍を構成する」とされた。
 
 血なまぐさい側面もあった。「パリ大司教を先頭とする、六十四名の人質の、コミューンによる処刑」という残虐行為もあった。「処刑」は、ヴェルサイユに拠点を置く中央政府軍の「絶えまない捕虜の銃殺」への報復だった。「宣言」は暴力も正当化している。コミューンの戦いぶりが中央政府から放火呼ばわりされたことに対しては、戦史をひもときながら「戦争においては、火災は、いかなるものとも同様に正当な武器」と反論した。
 
 史料や巻末の解題からは、コミューンが中央政府の暴虐に遭い、血みどろの戦闘を強いられていたことがわかる。著者の暴力肯定論も、その生々しい報告に触れて出てきたのだろう。だが、64人の処刑などはテロリストさながらで、今の僕たちには到底受け入れられない。
 
 横道にそれると、大司教らの人質は、コミューンが中央政府から取り戻そうとしていた一人の革命家の交換要員だった。その人物は、ルイ・オーギュスト・ブランキ(この本では「ブランキー」と表記)。彼には別の顔もあった。獄中で奇抜な宇宙論を思い描いていたのである。その話は当欄の前身で紹介した(文理悠々2012年11月12日付「革命家のトンデモでない宇宙」)。量子力学の多世界解釈を先取りするような着想だった。
 
 閑話休題。この本を読んで感じるのは、著者マルクスがコミューンを階級闘争の立場から買い被りすぎてはいないかということだ。それは、エンゲルスについても言える。解題で引用されたウラジーミル・レーニンの言葉からも感じる。
 
 フランスは19世紀、共和政、帝政、王政の間で揺れ動いたが、そこにはいつも新興階級の力があった。1830年、復古王政が自由主義の側に立つルイ・フィリップの王政に置き換わった七月革命を、著者はこう言う。「地主から資本家への政府の移転ということに帰着したのであるが、それは政府を、労働者階級のヨリ遠い敵手からヨリ直接の敵手へと移転したのであった」。これに比べてコミューンでは、労働者が中心にいたのは間違いない。
 
 だが、その戦列は一色ではなかった。マルクスの女婿であるジャーナリストのシャルル・ロンゲは、この本に収められた一文で、コミューンの議員について「多数派は、極めて雑多な分子からできていた」と強調する。社会主義色はあったが、「共産主義とはおよそ縁遠い」人や「まだハッキリした学説には属していない」人、「経済学説に縁のない」人もいたという。なかでも特記すべき人物として、敬虔なカトリック教徒の獣医を挙げる。
 
 パリ・コミューンは『資本論』の第1巻が世に出てわずか4年後に起こった。このとき著者は隣国のロンドンにいて、コミューンの情報は文通で入手していた。助言や指導を求められたのは確かのようだが、影響は与えていないという見方もある(解題の注)。「宣言」が引用するようにコミューン文書には「プロレタリアート」という言葉が前面に出ている箇所もあるが、この闘争に託された思いはさまざまだったように思う。
 
 むしろ僕が目を引かれるのは、そのボトムアップ思想だ。そこには、新しい国のイメージがある。「宣言」はパリ・コミューンを「フランスのあらゆる大工業中心地への模範」と位置づけ、各地に林立する「地方議会」が「パリにおける全国代議員会に代議士を送る」というしくみを構想している。「国民の統一」が「コミューン憲法によって組織化される」というのが、「宣言」がうたう理想だった。

 この主張はその後、雲散霧消したように見える。マルクス主義はむしろ旧ソ連型の中央集権国家を生み、トップダウン型の政治を広めた。そして、社会主義が嫌いな政権もトップダウンは好きなようだ。いまコミューンから学ぶべきは、ボトムアップの気骨ではないか。
(執筆撮影・尾関章、通算294回)
 
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