『事件!――哲学とは何か』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、河出ブックス)
写真》ブログは「私」か「公」か
 
 先日、当欄で米国の物理学者リチャード・ファインマンの伝記風読み物を紹介したとき、お読みいただいた方から「さっぱりわからない」という感想をいただいた。一人ならず二人からである。読み手の総数は限られているので、僕は今流に「重く受けとめた」。
 
 ファインマンと言えば、スペースシャトル・チャレンジャー事故の調査で大統領委員会のメンバーとなり、歯に衣着せぬNASA(米航空宇宙局)批判を展開したのが有名だ。気骨の人。そんな話だけを切りだせば「さっぱりわからない」と煙たがられなかっただろう。
 
 だが僕は、物理学者としての「カレ流」に魅せられたので、それに焦点を当てたかった。失敗は、最初に大きな構図を示さなかったことにある。前提として、現代の物理学者の頭のなかでは相反する二つのイメージが拮抗していることを、まず書くべきだった。一方は、空っぽの空間に粒子が散らばっている。もう一方は、空間が海のように満たされている。どちらもそれなりに正しく、片一方を切って捨て去れないところに現代物理の葛藤がある。
 
 20世紀の量子論では、前者と後者が併存する。光に粒子の一面があることがはっきりして前者が勢いを増したが、電子には波の顔もあるとわかって後者も盛り返した。粒子の間には力を伝える場があり、その場にも粒子が現れるという前者後者が相乱れる量子世界。その混迷のなかで、後者含みの理論を受け入れつつも前者のスッキリ感に心惹かれていたと思われるのが、ファインマンだった。
 
 数式を読み解く能力がなくては、物理学の頂は踏破できない。だが、物理学を遠くから眺め、ときに麓を歩き回ることで、その山容を知ることは僕たちにもできる。この体験を分かち合いたいというのが、先日の当欄に僕が託した思いだった。
 
 当欄は前身を「文理悠々」という。科学を長く取材してきたので、在籍していた新聞社のサイトで、この看板を掲げた。文系本と理系本を取り交ぜて読みあさることで、理系知を文系知へ、あるいは文系知を理系知へ溶かし込みたいという野心が僕にはある。
 
 で、今週の一冊は『事件!――哲学とは何か』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、河出ブックス)。原著が2014年に出た新鮮な本だ。著者(1949〜)はスロベニアの今をときめく哲学者。文系本でありながら、随所で理系知も引き合いに出されている。
 
 書名「事件!」は、原題の“Event”を訳したものだが、ここで論じられているのは、メディアを日々賑わして世の中に衝撃を与えるニュースとは違う。「出来事」くらいの訳がぴったりくる。版元はメリハリをつけたくて強めの言葉を選び、びっくりマークまで添えたのだろう。ただそれは、あながち的外れではない。読み終わると、著者自身も「事件」と呼ぶべきものを待望していることがわかる。
 
 本は、地下鉄の路線図仕立てで構成されている。六つの章がそれぞれ本線の駅という設定で、駅によってはそこから支線が延びているところもある。「出発進行!――通過中の事件」と題された前書きでは「まずは地下鉄に乗り込もう。これから次々に通過する駅は、それぞれが事件の異なる定義をあらわしている」と呼びかける。すなわち著者は、事件もしくは出来事を、いくつかの違う角度からつかみとろうとしている。
 
 圧倒されるのは、どの駅をのぞいても批評精神であふれ返っていることだ。映画、芝居、楽劇、詩、俳句、ミステリー……と古今東西の創作物が縦横無尽に語られる。その一つひとつは見識に富んでいるが、それが事件もしくは出来事とどう関係するのかピンとこないものも多い。で、僕は腹を決めた。前書きにある譬えも、「通過する駅」で停車駅ではない。過ぎ去るプラットホームの光景を窓からぱっと見て、その印象を拾うことにしよう。
 
 目につくのは理系知の援用だ。一例は「究極の〈事件〉とは〈堕落〉そのもの、つまり一度も存在したことのない原初の統一と調和(これらは遡及的幻想にすぎない)の喪失である」と断じたくだり。宇宙史では、自然界の小さな揺らぎが「体系を、均質な無秩序状態から、二つの明確な状態のうちのどちらかへと移行させる」という「対称性の破れ」があったとされる。こうして「均衡が崩れ」「物が出現する」のも〈事件〉だというのである。
 
 別の箇所では、脳科学も俎上にあがる。それは「客観的な神経の働き」を重んずるあまり、「自律した自由な主体としての〈自己〉の概念」を「幻想」ととらえているというのだ。意表を突くのは、これを仏教の「悟り」や「無我」と結びつけていることである。著者は「現代の科学的自然主義と仏教とはたがいに補完し合っている」「自由で責任ある主体としての〈自己〉を斥けるという点で共通している」とみる。
 
 ここでは、著者の事件観も披歴される。「脳科学における人間の根源的な自然化という〈事件〉」も「仏教における悟り、涅槃に達するという〈事件〉」も最後には失敗するとして、真の〈事件〉は「それが幻想であろうとも、主体性そのものの〈事件〉である」という。
 
 自然科学のキモの部分を、「堕落」や「悟り」のようにすぐれて人文的な概念に重ね合わせることには抵抗を感じる人も少なくないだろう。ここに挙げた2例については僕も、ちょっと強引すぎるかなと感じないわけではない。ただ、それでも強調したいのは、こうした思考回路は排除すべきでないということだ。いや、もっと推奨すべきではないかとすら思う。自然科学が知の営みである以上、それは人文科学の参照文献になりうるからだ。
 
 理系がかかわる話では、本の後半部で今日の技術社会の位相を切りだしているところのほうが、説得力があるかもしれない。なかでも考えさせられるのは、街に雨後のタケノコのように現れた監視カメラが隠しもつ意味だ。
 
 そこでは、年配の人が転ぶのを見たときにどうするか、という話が出てくる。倒れた人を助けた若者が、かえって転倒の原因になった人物として疑われたという話を踏まえ、監視カメラの前でなければ人助けをしない傾向が出てきたことに著者は着目する。


 浮かびあがるのは「公共空間の位置づけの変化」だ。現代人は街の通りを歩いていても「依然として自分の私的空間の内に留まっており、人びととの間にやりとりはないし、彼らを認識してもいない」。ではいつ、どのように「公共」が立ち現われるのか。著者は「他者と共存し、相互作用する(あるいはしない)空間が『公共』空間になるためには、監視カメラが必要なのだ」と見抜く。
 
 ネットワーク社会やソーシャルメディアに対する考察もある。こちらは一見、公共空間が拡大しているように見えるが、むしろ逆だというのだ。例にあがるのは「自分のヌードや個人的なデータや猥褻な夢をウェブ上にさらけだす人」。この行為は、自分の私的空間を押し広げて「他人の私的空間に侵入しているだけ」であり、公共空間の「私物化」だという。著者はそこに、「近代化という解放的〈事件〉」が「無効化」される流れをみる。
 
 ここまで「地下鉄」に乗って見えてきたのは、著者の鋭敏な時代意識だ。現代の科学と技術は、近代が人々にもたらしたものを奪いつつある。主体性、そして公共性。これらをもう一度取り戻すような〈事件〉が求められているということだろう。
 
 締めくくりの「終着駅」で、著者は「ここ数年、われわれはずっと事件前夜のような状況下にあるが、目に見えない壁が、真の〈事件〉の発生、つまり〈新しい〉何かの出現を、繰り返し阻止しているかのようだ」と分析する。「壁」除去の特効薬は示されない。ただ、「深刻に危機的な状況において何よりも必要なのは真の分裂、つまり古い枠組みの中に留まりたい人びとと、変革の必要性に気づいている人びととの分裂」という見立ては示唆的だ。
 
 〈事件〉を回避しようと、いい子になっているだけでは、なにも変わらない。
(執筆撮影・尾関章、通算295回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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