『私の個人主義』(夏目漱石著、講談社学術文庫)
写真》新春に寄り添う本
 
 年が改まれば、漱石を語る。これが、当欄恒例の年中行事となった。あと何回、それができるかはわからないが、認知が果てるまでは続けたいと思う。なぜ漱石か。理由は八割方、年始気分にふさわしいということにあるが、それだけではない。
 
 1年間、さまざまな騒動が次々に起こり、あれやこれやものを考えて当欄を綴っていると、ふと自分はどこに立っているのだろうと途方に暮れることがある。そんな浮遊感を払拭して、視点を定め直す手助けをしてくれる基準点が漱石ではないか。
 
 僕は、漱石という人を上から下まですべてまるごと尊敬しているわけではない。欠点めいて見えるのは、シャイで臆病そうな一面だ。英国での内気な暮らしぶりを作品から推察して、ほぼ同じころロンドンに滞在した南方熊楠と比べると、違いがはっきりする。ただそれは、鎖国を解いて急激に海外との交わりをもった明治という時代にあっては、当然のように思える。熊楠のほうがスゴすぎるのだ。漱石には普通人の感覚がある。
 
 僕が漱石に魅せられるのは、彼の地で孤独感に苛まれながらも、学ぶべきことを学んで帰ってきたことである。だからその後、西欧文化に対する傾倒と反発を率直に内省できたのだろう。そして、このアンビバレンツは日本の近代が宿命として背負ったものでもあった。

 この欄で本読みを重ねてわかってきたことの一つに、日本では江戸時代にすでに近代精神が芽生えていたのではないか、ということがある。無手勝流に歴史のイフを言わせてもらえば、黒船があと50年遅れて来れば、日本には日本なりの近代文明が花開き、日本なりの近代の自我が育っていたのかもしれない。だが、現実はそうはならなかった。中途半端な文明と中途半端な自我に、西欧のそれらが接ぎ木されたとも言えるだろう。

 そして、その後遺症は今に至るまで続いている。政治の領域では、一極化が進んで「右」寄りの路線が勢いを増しているが、その勢力は「左」を嫌うあまり、保守主義こそが誇るはずの個の尊重を置き忘れているようにみえる。理系の領域でも、近代の批判精神が育っていない。反原発の気運は強まったが、科学そのもの、技術そのものへの向きあい方は成熟せず、宇宙の話となれば「夢とロマン」の常套句ばかりが飛び交っている。
 
 で、新年の一冊は『私の個人主義』(夏目漱石著、講談社学術文庫)という講演録集。「道楽と職業」「現代日本の開化」「中身と形式」「文芸と道徳」の4編は1911(明治44)年の真夏、明石、和歌山、堺、大阪と回った関西講演会の記録。大阪の朝日新聞が催したものだった。最後に収められたのが「私の個人主義」と題する講演で、1914(大正3)年晩秋に学習院に招かれて生徒に語りかけた。
 
 思わず膝を打ちたくなったのは、この本が1年前の当欄(2015年1月2日付「新春の漱石、『個』に根ざすリベラル」)でとりあげた長編『行人』とつながっていることだ。そこには、主人公が大阪から和歌山へ赴くくだりがある。朝日新聞に1912年から翌年にかけて連載された小説だから、講演の旅は取材旅行にもなっただろう。和歌山講演(「現代……」)で話題にのぼる名勝和歌の浦のエレベーターは、その作中にも登場する。
 
 講演録なので、漱石像が口語体でわかるのがうれしい。明石講演(「道楽と……」)では、話の枕で地元の人々の心をくすぐる。「明石という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまでも知りませんでした」「ところが来て見ると非常に大きな建物があって、彼処(あそこ)で講演をやるのだと人から教えられて始めてもっともだと思いました」。今では笑いをとれない明治風の長閑なユーモアだ。
 
 さて、ロンドン生活の孤独は学習院講演(「私の……」)で正直に打ち明けている。「私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない」。そんな「嚢(ふくろ)の中」の心境で渡英したと述べた後、こう言う。「この嚢を突き破る錐はロンドン中探して歩いても見付(みつか)りそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。詰らないと思いました」。熊楠なら町中を歩き回ったことだろう。
 
 だからこそというべきか、著者には冷静な文明開化観がある。それが披歴される講演は「現代……」だ。「西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います」「今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応(いやおう)なしにそのいう通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります」
 
 横道にそれると、この開化論では著者の理科好きがみてとれる。「人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて弧線を幾個(いくつ)も幾個も繋(つな)ぎ合せて進んで行く」「甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない」として結論を導く。「一言にしていえば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります」
 
 「科学」という言葉が唐突に出てくるのは「文芸……」講演だ。維新前の道徳を論じて「今のように科学的の観察が行届かなかった」「人間はどう教育したって不完全なものであるということに気が付かなかった」と言う。この見方に立って維新前の道徳に「ロマンチック」、維新後のそれに「ナチュラリスチック」という言葉を与えて、「ロマンチックの道徳は大体において過ぎ去った」と断ずる。
 
 興味深いのは、このくだりで著者がナチュラリズム、すなわち自然主義を擁護していることだ。漱石は島崎藤村ら自然主義の流れと一線を画していたというのが僕たちの習った文学史だが、そう単純にはくくれないようだ。「自然主義といえば堕落とか猥褻(わいせつ)とかいうものの代名詞」という決めつけを戒め、「何もそう恐れたり嫌ったりする必要は毫もない」と言い切っている。
 
 この視点は、著者には自家薬籠中のものである個人主義と結びつく。もはや、「ロマンチックな道徳を人に強いても、人は誰も躬行(きゅうこう)するものではない」。躬行は自ら行うの意だ。「天下国家を憂(うれい)としないでも」「差支ない時代」なので、人々は自身の職業と生計に専念する。だから、「吾々の道徳も自然個人を本位として組み立てられ」「自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている」というのである。

 一人ひとりが自分の仕事をきちんとこなすことで社会が回っていく。そんなイメージは「道楽……」講演で詳らかにされる著者の職業観に呼応する。ここでも理系思考が顔をのぞかせて「己(おのれ)のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つ」という。働くという行為は、報酬を貰うことで自分自身の得になるだけでなく、世の人々の役にも立っているという理屈である。
 
 そこでは、明治の世で職業が専門化したことも俎上に載せられる。その副作用は「自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなる」傾向だ。そんな「個々介立の弊」を避けるべく酒色の宴が用意される世情に触れつつ、著者は「そういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕を挙げて文学書をお読みにならん事を希望する」と言い添える。本人も認めるように我田引水のきらいはあるが、もっともな話ではないか。
 
 この本には、今の世に通じる至言がある。「中身……」講演では「活きた人間、変化のある人間というものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない」として「規則ずくめ」を批判する。マニュアル一辺倒ではダメなのだ。「私の……」講演では、「上流社会の子弟」向けに権力、金力を振り回すことの愚を指摘して「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」と説く。これこそが個人主義だろう。
 
 近代を尊ぶ人も、近代後を見据える人も、漱石が語る近代の目覚めは無視できない。
(執筆撮影・尾関章、通算297回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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