『赫奕(かくやく)たる逆光』(野坂昭如著、文春文庫)
写真》赫奕とはこれか

 暮れは訃報が多かった。喪中通知で目立ったのは、同年輩の知人の親たちの逝去だ。享年90を超える人が大勢いた。長寿の時代ではある。だが、死とはそんなに遠いところにあるものではない。新春であっても、そう感じてしまう。
 
 メディアの死去報道で衝撃を受けたのは、作家野坂昭如(1930〜2015)の死だ。大げさに言うと、青春時代に眺めていた風景の一つがそっくり消え去ったような気分になった。放送作家出身で、CMソングの作詞も請け負った。自らCMにも出た。テレビ主導の商業主義の寵児でありながら、それを支える高度成長の浮かれ気分を素直には受けいれない一面があった。憧れたわけではないが、その感性には惹かれていた。
 
 たとえば、日本時間1969年7月21日、米国アポロ11号の飛行士が月面に降りた日の新聞紙面。彼は「テレビでは『新しい大航海時代の到来』とロマンチックな表現をしていたが」と断ったうえで、こう語っている。「人間が実に無感動に写った」「コンピューターの一部になってしまったようで、イヤな気がした」(朝日新聞1969年7月21日夕刊)。世界のお祭り騒ぎをサングラス越しに、斜めに見つめていた。
 
 1970年前後には、若者たちの反抗に共感を示すということもあった。青年男子向けの週刊誌「平凡パンチ」は69年10月21日、国際反戦デーのデモで騒然とした新宿街頭に彼と三島由紀夫という好対照の人気作家を送り込み、その観察記を掲載した(文理悠々2012年2月17日付「ミシマ、平凡パンチ&1960年代」)。ミシマが時代の位相からずれた右派なのに対して、彼は当時の若者に心を寄せる「心情三派」だった。
 
 そのノサカが死んだ。著名人の死に際して「一つの時代が終わった」という常套句を聞くと、「いったい、世の中にはいくつの時代があるのか」という皮肉な思いが頭をかすめることもある。だが今回ばかりは、僕にとって本当に「一つの時代が終わった」のである。
 
 で、今週の一冊は『赫奕(かくやく)たる逆光』(野坂昭如著、文春文庫)。1987年、「オール讀物」誌に3回に分けて載ったものが、その年に単行本となり、91年に文庫に収められた。70年の三島事件の余熱が冷めたころを見はからったかのような刊行だ。著者と三島由紀夫との接点をたどりながら、ミシマをかたちづくったもの、ノサカを生みだしたものが何かを逆光のなかに浮かびあがらせている。
 
 書きだしは、三島の日記をもっているという謎の男からの電話。「野坂さんなら、きっと興味をお持ちだろうと思いまして」。読者も好奇心を抑えきれないが、日記の売り込み話はいつのまにか脇に置かれ、著者自身の少年期の回想と三島の足どりの叙述へ移っていく。例によって、体言止めを時折交え、読点でつないでいく融通無碍の文体。だが、資料調べを重ねたようでリアル感がある。この作品はノサカ流のミシマ伝であり、自伝でもある。
 
 まずは、著者と三島の出会い。読者と作家の関係で言えば、それは1946(昭和21)年に遡る。雑誌に載った「煙草」という小説を読んで「この飢えと虱(しらみ)と寒さの時代に、よくまあ悠長な小説、浮世離れのしたお話を書けるものだと考えつつ、絢爛(けんらん)たる文字面と、小説家たるその確かな意志に圧倒された」。この作品は「まさに赫奕(かくやく)と輝いて思えた」という。「赫奕」なのだから並の輝きではない。
 
 このとき、著者は16歳。戦災で家を失い、大阪近郊の「元飯場」にいた。学校新聞の主筆役を引き受け、ガリ版刷りの同人誌も出すというように「少しませている方だった」らしいが、実生活は「手足脇腹を膿(う)みくずれた疥癬(かいせん)のかさぶたに飾られ、飢えをみたすための盗みに何のためらいも覚えず」という状態にあった。三島が「ちゃんとやってくれているのなら」、自分は「どうであってもかまわない」。そう感じたという。
 
 そんな二人が、やがて物理的に近づく。著者が三島の姿を初めて現認したのは、早稲田大学文学部に入学した1950(昭和25)年、三越劇場前でのことだ。「ライトブルーの上下に髪はリーゼント風」で、「うらなり瓢箪(ひょうたん)」(原文の「箪」は旧字)という印象だった。新宿界隈で見かける「早稲田派」のもの書きや学生は「いちように長髪、陰気、野暮天」だったので、三島は「在来種の文士とは、まったく別物」と思うに至った。
 
 翌年には最初の接触。著者がバーテンダー見習いをしていた銀座の酒場兼喫茶店での出来事だ。夜には2階で美少年が接客していたが、その日、三島は早く来店して連れと階下のカウンターに陣取った。このとき、三島のライターの火がつかない。「ぼくがマッチの火を近づけると『ありがとう』明瞭な発音でいった」。2階に誘われると「銀座通れば二階から招く、しかも鹿(か)の子の振袖(ふりそで)でか、ガハハハ」と豪傑笑いしたという。
 
 二人は、著者が『エロ事師たち』で文壇入りしてから、雑誌の対談などを通して交流を深めていく。ひまわりと月見草ほどに違う青春を過ごしながらも、そこにはいくつかの類似点があった。三島の父は農林官僚、その父は樺太庁長官。著者の実父もやはり官僚で戦後、新潟県副知事を務めた。ともに終戦の年、妹を失ったという共通項もある。そして驚くべきことに、家族史を遡ってもニアミスしている。
 
 それは、著者が生後まもなく養子に出された家にかかわる。養母は実の叔母、養父は神戸の貿易商だったが、この人も養子で、その父の実家は播州、今の兵庫県加古川市内にあった。そこから「六キロと離れていない」ところに三島父方ルーツの一つがあったという。
 
 このあたりから、話は封建時代を引きずる社会階層の亀裂に分け入っていく。三島の父方で言えば、祖父は播州の農家に生まれ育ち、そこから東京の帝大に進んで官僚となった。立身出世の典型とも言える。一方、もう一つのルーツは華麗だ。祖母は「徳川の枝」や「幕府若年寄」を先祖にもち、有栖川宮家で「行儀見習い」して公家文化にも触れていた。二人は明治の世に、ほんのふた昔前ならば「考えられぬ仕儀」の結婚をしたのである。
 
 夫婦には溝があったようだ。祖母は「生きる支え」を、孫の三島に求めたらしい。生後2カ月足らずで自らの庇護の下に置き、両親や妹弟との合流を許したのは12歳になってからだ。著者は、そこには「武家名門の流れと、公家の二つながら、三島に継がれた」との思い込みがあったとみる。そんななかで三島は、祖母のののしりにも「平然」とした祖父のほうに「無意識ながら、憧れを抱いていた」と推し量る。これが、マッチョ志向の原点か。
 
 著者の養家にも、隠されたなにかがあった。小学校への入学時、養父は「ここの学校にはやれない」と引っ越しを決断する。著者は、その理由をのちに祖母が思わず口にした言葉などから読みとろうとするが、真相はわからない。この作品を書きあげてもなお藪の中にある。ただ、この校区替えは、著者の心に深い傷を残した。終戦2カ月前、転居先が空襲を受けて養父は行方不明となり、養母は大やけどを負ったのである。
 
 自分の通学がきっかけで一家は不幸のどん底に落とされた。「ぼくはこの家を潰(つぶ)しに、もらわれていったようなものだ」。この痛恨事は、直木賞受賞作『火垂るの墓』の創作につながった妹の餓死と同じく、著者の反戦の原点となっているように思える。
 
 この作品には、戦前の闇とともに戦後の現実も赤裸々に描かれている。一例は1948(昭和23)年、著者が新潟の実父のもとで新制高校に通いだしたころの体験。「料飲店禁止令のさなか、土地の名だたる料理屋、待合で遊ぶというより、ひたすら酔払って、このツケはすべて父の公的交際費でおとせた」(「おと」に傍点)。今ならば父子ともにアウトだ。だが日本社会にそんな過去があったことは、僕たちも記憶にとどめておくべきだろう。
 
 ミシマの話と自らの話が境目なしにつながり、両者を行ったり来たりしながら、ついこのあいだまで人々の身近にあった暗がりを露わにしていく。そんな技は、ノサカの文体がなければ無理だっただろう。僕には、その文章の自在なリズムが懐かしかった。
(執筆撮影・尾関章、通算299回)
 
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