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『蹴りたい背中』(綿矢りさ著、河出文庫)
写真》背中に背表紙
 
 この夏の参院選は、18歳でも19歳でも投票できるようになった。去年、公職選挙法が改められたからだ。10代最後の2年間は、アルバイトも含め労働にかかわっている人が多い。格差社会のひずみをもろに受けている人もいる。性的な活動期に入る年齢も昔と比べれば格段に下がった。だったら参政権も大人扱いすべきではないか。そんな考え方が背景にあるようだ。これには僕も反対しない。
 
 ただ気になるのは、飲酒解禁年齢が20歳のまま据え置かれる方向にあることだ。喫煙は害があることがはっきりしているので、その機会を減らす政策がとられるべきで、解禁を早める必要はない。だが酒は、適量なら悪いことばかりではないだろう。硬い話では大人扱いしながら、軟い話になると子ども扱いというのはちぐはぐではないか。飲酒を許すくらいの大らかさはあってよいと僕は思う。
 
 ともあれ10代後半から20代前半にかけては、大人なのか子どもなのか不分明な時期にあると言えよう。僕自身の過去からそんな位相を切りだせば、しばしば、ひとりで散歩に出た記憶が思い浮かぶ。近所をぶらつくだけではない。用がないのに電車にも乗った。夜、川にほど近い駅で降り、堤防に登って暗い水面を見つめていたこともある。こんな大人はいない。こんな子どももいない。どちらでもないから、そんなことをしたのだ。
 
 最近、そのデジャビュに襲われた。日が暮れてから家を出て、夜風の匂いを嗅いだ一瞬のことだ。ひとり川へ出かけた夜もこんなだったなあ、という思いが頭をかすめた。違うのは、あのころは「用がないのに」だったのに今は用事がある、ということだ。
 
 あのころと今とでは、僕自身の立ち位置が大きく異なっている。今は、後ろを振り向くと数十年のカイシャ生活がどんと居座っているが、前方の未来は量感に乏しく、ただただ現在を愛おしむ気持ちが募るばかりだ。ところがあのころは、自分がこれから何者になるかが皆目わからず、行く手には大きな雲が立ちはだかっていた。不確定な未来という重圧の前で、ひとりさまようよりほかなかったのである。
 
 で、今週は『蹴りたい背中』(綿矢りさ著、河出文庫)。2003年、雑誌に発表され、単行本も出た。著者は当時19歳、この作品で芥川賞の最年少受賞者となった。自分を「余り者」と感じている高1女子の日常を描いた小説。明示的な筋書きとしては、恋もセックスもいじめもない。あえて言えば、自覚的、自律的な孤立の物語。だからこそ、かえって鋭くとがった感触がある。
 
 書きだしの一文は「さびしさは鳴る」。生物の授業で級友は顕微鏡を覗いているのに、主人公のハツ、長谷川初実は白けた気分で教材プリントを千切っている。このあとに「紙を裂(さ)く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる」とあるのをとらえて、斎藤美奈子の巻末解説は「彼女の五感、とりわけ聴覚と視覚が異様に研ぎ澄まされている」と言う。その五感が身の回りの細部を一つひとつ紡ぎだしていく。
 
 文体も新鮮だ。「葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス」「ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス」。日本語っていうのはこんな表現も生みだせるんだ、と思わせてくれる。
 
 著者は、大人でもなく子どもでもない世代の特徴を的確に切りとっている。「夏休みが近づくにつれ、暑い教室で、男子は半袖(はんそで)をまくり上げ靴に靴下まで脱いで裸足(はだし)で、女子は下敷きでスカートの中をあおぎながら、億劫(おっくう)そうに授業を受けるようになった」。夏場の校内風景をさりげなく描いているのだが、そこから性の自覚がまだ中途半端な男女の姿が見てとれる。
 
 5時間目に同学年の生徒が体育館に集められて、遠足写真のスライド上映を観る場面。「もう大人の身体つきをした男子高校生たちも、あの見慣れた小さい形になって縦に並んでいる。陰惨(いんさん)な、高校生になっても三角座りをさせられるなんて。三角座りの形、大小はさまざまで、でもどれも使いさしの消しゴムみたいに不格好」。あの座らされ方は、大人になりかけの世代が子ども扱いされていることを正直に物語っている。
 
 早めにことわっておくと、ハツの「余り者」としての自意識は、引きこもり型の性格からくるものではない。中学校では友だちの輪に入っていたが、高校生になってそれが「不毛」に思えてきたのだ。中学生の自分を振り返ったこんな述懐がある。「話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた」
 
 ここで思いあたるのは、いまどきの居酒屋でよく見かける光景だ。若い世代の飲み会を見ていると静寂の隙間がない。一つの笑いが収まりそうになると、次の笑いを生みだすためにだれかがツッコミを入れてブーストする。昔のコンパでは場を白けさせるヤツが一人や二人いて、不穏な空気が歓談を中断させることがしばしばあったが、今の若者にはそれを先回りして抑え込もうという強迫観念があるように見える。よく疲れないものだと思う。
 
 この小説でも、ハツは中学校時代の仲間づきあいを「話のネタのために毎日を生きているみたいだった。とにかく“しーん”が怖くて、ボートに浸水してくる冷たい沈黙の水を、つまらない日常の報告で埋めるのに死に物狂いだった」と思い返している。
 
 この小説の筋は、ハツが自分のほかにも「余り者」を見いだすことから始まる。「にな川」という男子生徒。「『にな』の漢字は、私の知らない、虫偏の難しい漢字で、なんとなくかたつむりを連想させる字だ」という主人公目線に従って、この表記が全編で使われる。
 
 顕微鏡観察の授業で、にな川が何をしていたかといえば「先生に見つからないように膝(ひざ)の上で雑誌を読んで時間を潰(つぶ)していた」。正確には「暗い表情で、どこも見ていない虚(うつ)ろな目で、ひたすら同じページに目を落としている」という感じ。しかも、それはファッション系女性誌だ。表紙を飾るのは「片眉(かたまゆ)を上げてこちらを見据(みす)えている女モデル」の決めポーズだった。
 
 ハツは、開かれたページの写真をのぞき見て驚く。「駅前の無印良品で、この人に会ったことがある」。そう口走ると、すぐさま反応があった。佐々木オリビアという売れっ子モデル。にな川が「オリチャン」と呼んであがめる女性だったのだ。ハツは放課後、彼の家に連れていかれ、「あの店のどこで、つまり何階の何売り場のどこらへんで彼女に会ったのかを、地図に描いて教えてほしいんだ」とせがまれる。こうして二人の交流は始まった。
 
 にな川のオリチャンへの入れ込みぶりは不気味だ。勉強机の下にプラスチックケースを押し込んでいて、そこに彼女の載った雑誌や彼女関連のグッズを蓄えている。別の日に再訪したときは、「あ、オリチャンのラジオが始まる時間だ」と言って、ひとりイヤホンで番組にのめり込む。ハツはふいに「この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴(け)りたい」と思った。それは行動に移され、足裏に背骨の「感触」が残る。
 
 どうして蹴ったのか。巻末解説で斎藤は「一種の性的な衝動」との解釈を示している。そうとも読めるが、そればかりではないと僕は思う。人が人と関係を結ぶときは、それが性的なものであろうとなかろうと、なんらかの「感触」を伴うはずだ。ところが学校の仲間づきあいは「“しーん”が怖くて」の静寂恐怖だけで成り立っている。ハツは、その虚構を見抜いたからこそ自らが「余り者」となり、同じ「余り者」に触れたのではないか。
 
 居酒屋に集う若者たちよ、笑いを波状につなぐのはもうやめよう。ときには“しーん”の気まずさもあっていい。それもまた、人と人が接しあう「感触」にほかならないからだ。
(執筆撮影・尾関章、通算309回)
 
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『超高層ホテル殺人事件』(森村誠一著、角川文庫)
写真》ホテル気分でランチ
 
 数年前のことだ。僕が育った町からランドマークが消えた。14階建て、高層の駅ビルだった。出現したのは1970年ごろではなかったか。実家は駅からほど近いところにあったので、空が急に狭くなった。ビルは地上と地下の数階にスーパーや専門店街、飲食店街が入っていたが、上層階は賃貸アパート。僕の部屋からは居住階の外廊下が幾層も重なって見え、夜になると蛍光灯が等間隔に並んで白い光を放った。
 
 その建物が取り壊されて、あとがどうなるのか戦々恐々としていたら、こざっぱりした後継ビルができていた。4階建ての平べったい造り。吹き抜けの大階段があり、4階はレストラン街を片側に寄せて屋上庭園風のスペースを広くとっている。電鉄会社のサイトで調べると、オープンは2011年4月。奇しくも3・11の直後である。14階が4階に縮んだことは人々の感性の移ろいを映している、と僕は思った。
 
 ビルは高ければカッコよい。そんな感覚が極まったのが1970年代初めだったのは間違いない。新宿駅西口の周辺に槌音が響き、鉄骨の骨組みが上方へ伸びていった。ふと思いだすのは、子どものころに見ていた東京の地図だ。あの一画には水色の短冊のような長方形がいくつも並んでいた。淀橋浄水場だった。それがいつのまにか消えて、副都心と呼ばれる超高層ビル群に取って代わられたのである。
 
 以来2010年までの40年ほどで、僕たちは14−10=4を学習した。建物は高ければよいわけではない、と悟ったのだ。平たいほうが心地よいこともある。これは原発依存の大都市のありように反省を迫った3・11後の感性にぴったりくるのだが、最近再び「高ければカッコよい」がぶり返しているように見えてならない。成長戦略という言葉がほとんど無批判に受け入れられ、その象徴のように2020年東京五輪がもてはやされている。
 
 ちなみに1971年、新宿副都心に最初に聳え立ったのは京王プラザホテルだ。最上層は47階。ホテルの公式サイトには「地上170m、日本初の超高層ホテルとしてオープン」とある。東京のホテル業界は1960年代から高層化が進んでいたが、それが「超」の域に達したのである。ノッポのホテルは「高ければカッコよい」の具現物となった。それでなくとも華やかな空間が、背丈を付与されて都市のスカイラインに君臨したからだ。
 
 で、今週は『超高層ホテル殺人事件』(森村誠一著、角川文庫)。著者の公式サイトなどによると、この小説は1971年、光文社カッパ・ノベルスの一冊として刊行された。東京に超高層ホテルが現れた年だ。そのあと幾社かで出版が続き、去年、この文庫本が出た。
 
 最初の事件が起こるのは「昭和四十×年十二月二十四日、クリスマス・イブの夜」。舞台は、東京都心のお濠端にできたばかりの「イハラ・ネルソンホテル」だ。62階建て、客室数3000。京王プラザがモデルではないらしい。そのときは翌日の開業を前に、お披露目のパーティーが向かい側のビルにある高級レストランで開かれていた。わざわざ会場を外に選んだのには理由がある。長身の建築を生かしたアトラクションがあったからだ。
 
 まだ泊まり客のいない館内の明かりを巧く操って、「壁面に比類ない規格性をもって配された各客室の窓群(そうぐん)」に十字のかたちを浮かびあがらせたのである。「大都会の夜を彩る花やかなイルミネーションのすべてを圧倒して、光の十字架は夜空に突き刺さるばかりに聳(そび)え立っていた」「さながら巨大な十字の発光体が、地上から直接天に向かって噴き出しているように見える」
 
 そして騒ぎがパーティー会場で起こる。「おい、あれは何だろう?」「人間らしいぞ!」「何をしてるんだ」「窓から身を乗り出してるぞ」「自殺だ!」「いや、だれかに突き落とされようとしているんだ」……。そうこうするうちに「黒点はついに窓の外へ押し出され、墜落する一個の物体となって、光の垂線の下方へ消えた」「光の十字架を背負って、その物体が一同の視野から消える直前に明らかに人間の形をとったのが、まざまざと見てとれた」
 
 この導入から、著者の視線が高度成長後期の都市美に注がれていることがわかる。社会派の先達、松本清張が高度成長前期の埃っぽい地方都市に目を向けていたのと好対照だ。高層階の窓は開閉不可が多いのでは、と思わぬでもないが、その言い訳も添えられている。

 興味深いのは、本文に添えられた「イハラ・ネルソンホテル」の平面図だ。真上から見下ろすとY字形のデザイン。光の十字架を演出した側は、東京湾を望めるので「ベイビュー・フェース」と呼ばれ、皇居側は「パレスビュー」、日比谷公園方向は「パークビュー」の名が冠されている。1970年代初めと言えば、ベイエリアというおしゃれな呼び方が広まる前だったと思うが、著者は東京の一歩先を見ていたのか。
 
 このホテルを創業した「イハラ・グループ」は、「東都高速電鉄」とその系列会社から成る企業集団だ。グループの統帥、猪原留吉は「東北の貧農の末っ子」で、上京後はじめは「一介の丁稚(でっち)小僧」だったが、株相場に手を出して成功し、やがて「経営権奪取を目的にした買占め」をするまでになった。そして「東洋最大規模」のホテルを開く大仕事に乗りだしたものの、竣工の日を待てずに心臓発作で世を去ったのである。
 
 この筋の立て方にも、当時の業界事情が反映されている。1970年に大阪万博があり、72年には札幌で冬季五輪も予定されていて、外国人観光客の宿泊需要が高まっていた。その結果、「東京のホテルは、絶対数が不足となって」「大型ホテルの建設が国家的に奨励された」という。そこで「実業界の野武士的存在で、折あらば自分の存在を周囲に確認させたいとうずうずしている」人物がおだてあげられたというわけだ。
 
 ホテルのような客商売に対する世間の見方も変わりつつあった。「レジャー産業は、かつて“暗黒産業”といわれたほど産業界にとっては未開の分野」で「中小企業が多く、水商売的な色彩が強かった」が、それが「無尽蔵の金鉱」に変わった。「高度成長によって、かねとひまのできた人々」が「レジャー=遊び」に対する罪悪視をやめ、「余暇の中に生きがいを求めるようになった」と、著者は書いている。
 
 ここで気になるのが、ホテル名にある「ネルソン」だ。それは、イハラ側が米国屈指のホテル企業「ネルソン・インターナショナル」(NI社)に「委託経営権」を与えたことに由来する。そのころ、海外のホテル資本は「日本の地価が極端に高い」こともあって「直接進出よりも、業務提携等による間接的な進出の可能性」を探っていたらしい。ちなみに、この小説で最初の犠牲者となるのは、NI社から派遣されていた総支配人である。
 
 この作品は、殺人ミステリーの筋に重ねて経済界の確執も描きだす。一つは、猪原グループに対してライバルの私鉄グループが仕掛ける策謀だが、もう一つはNI社の企業戦略だ。著者が海外資本をかませたのは、グローバル経済の予兆を感じとっていたからだろう。ハードからソフトへ、ドメスティックからグローバルへという潮流は高度成長末期にすでに芽生えていた。それを先取りするうえで超高層ホテルは格好の大道具となった。
 
 ミステリーとしては、東京大阪間を深夜に7時間で往復できるかという話が出てきて、自家用飛行機を使う可能性が論じられる。あのころの未来図には自家用機が飛び交うという夢も組み込まれていたのか。ただこればかりは、その通りにならなかった。
 
 あのころも現実の生活はカッコよくなかった。たとえば、死体発見現場の一つとなった関西の町。「駅前の通りに出るまでのあいだ、小さな溝川(どぶがわ)に沿って歩く。メタンガスと孑孑(ぼうふら)の温床になっている汚ない川だが、細々ながら水の流れがある」
 
 超高層ビルとドブ川が同居する。そんな無粋な不釣り合いは、40年余が過ぎた今もほとんど変わっていない。成長戦略でビルを高くするよりも大事なことが残されているのではないか。1970年の風景を脳裏に呼び起こしながら、そう思う。
(執筆撮影・尾関章、通算308回)
 
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『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(大島堅一著、岩波新書)
写真》あの日から5年(朝日新聞2016年3月11日朝刊)
 
 5年が過ぎた。60年余を振り返って、あの日は生涯でもっとも重い日となった。子どものころ、毎夏8・15が巡りくるたびに大人たちが特別な感傷にとらわれていたように、僕たちは3・11を素通りすることはできない。
 
 昼下がり、社内で会議をしていたときだった。座ってはいられないほど机と椅子が揺れ、自分の席に戻ると書棚の本が飛び散っていた。しばらくしてテレビは、仙台周辺の空撮映像をリアルタイムで流す。大地に化け物の指先が伸びていく。指先に見える黒ずんだものが津波の先端であり、そこが家々の散在する農業地帯だと知った瞬間、背筋が凍った。それだけでも決して忘れられない日となっただろう。
 
 たたみかけるように襲ってきたのは、「福島第一原発で全電源喪失」の一報だ。すでに日が暮れかかっていたと思う。僕は科学記者だが原子力取材の経験があまりなかったので、すぐにはその深刻さに気づかなかった。予備電源があり、いざとなれば緊急炉心冷却装置が働くだろうくらいに思ったのだ。だが、原発に詳しい同僚は「大変だ、チェルノブイリ級のことが起こる」とつぶやいた。事故はその後、本当にそういう流れになった。
 
 冒頭で「もっとも重い日」と書いたことに、被災者でもないのにわかったようなことを言うなという指弾があるかもしれない。その通りだ。重さの度合いは大きく違う。ただ、受難を免れたからこそ感じる心の痛みはある。原発事故について言えば、自らは都会にいて電力を浪費するばかりで放射能の危険を原発立地県に押しつけてきたという負い目がある。そして科学記者として、そのリスクを強く警告できなかったことへの悔いが僕にはある。
 
 以来5年、科学記者としてどんな反省をしてきたのか。折に触れて述べてきたことが一つある。僕がおもに取材してきた知的探究としての科学、たとえば素粒子論や宇宙論などの報道も、原子力の暴走と無関係ではなかったということだ。物質世界の安定、すなわち原子核を束ねるしくみに対する関心が世の中にもうちょっと根づいていれば、原子力が怖いという認識が強まっていただろうと思うのだ。
 
 老記者が過去の全活動を総括せざるを得ないような内省を迫られる。3・11は、そういう大事件だった。だから、かつて原子力推進の国策を掲げていた首相経験者が今、反原発を訴えていることもそれなりに納得できる。ところが5年後の今、日本政府はエネルギーミックスの名のもとに「原発国」への道へ舞い戻ろうとしている。これはまるで、8・15後に芽生えた戦後民主主義が冷戦下で逆コースをたどったのと同じではないか。
 
 で、今週は『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(大島堅一著、岩波新書)。著者は1967年、原発立地先進地の福井県に生まれた経済学者。環境経済学や環境・エネルギー政策論が専門という。この本が出たのは2011年暮れ。福島第一原発事故を受けての素早い出版だが、なかに盛り込まれたデータは充実している。それまで積み重ねた研究の蓄積を一気に吐きだしたという感じの力作。2012年度に大佛次郎論壇賞を贈られた。
 
 第1章「恐るべき原子力災害」は、原子力事故の特質を描きだす。核燃料が核分裂でできた放射性物質を大量に含むことに触れて「放射性物質は、放射線を出しながら別の元素に変わっていく。これを崩壊といい、その過程で熱を発する」「崩壊熱をなくすことは人為的にはできない。原子炉が止まっても核燃料に含まれている放射性物質から崩壊熱が生じるので、核燃料を冷やし続けなければならない」。今に続く汚染水問題の根もここにある。
 
 ただ、著者は経済学者なので、最大の読みどころは第2章「被害補償をどのようにすすめるべきか」、第3章「原発は安くない」だろう。ここでは、この二つの章に焦点を絞って5年後のいま心にとめるべきことがらを紡ぎだしてみよう。
 
 第2章には見落とせない指摘がある。俎上にあがるのは、1961年制定の「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)だ。第1条に「被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資することを目的とする」とある。賠償は損害をあがなう行為なので、そのこと自体は事業に負の効果をもたらすはずだ。それをもって「発達に資する」とはどういうことか。感じとれるのは、原子力開発を国策として進める側の強引さである。
 
 実際に原賠法は事業者に無過失責任を課しながら、「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」(第3条)と言い添えるのを忘れない。今回も「異常に巨大な天災地変」にあたるとの主張があったようだが、それは認められなかった。著者の解説で「東京電力の免責が認められてしまうと」「被害者に対して賠償責任を負う主体がいなくなってしまう」という事情があったことうかがわれる。
 
 とはいえ、この法のもとで原子力事業者には幾重もの安全網が張られている。まず「責任保険」だ。それが適用されなくとも、政府と結ぶ「補償契約」がある。さらにその限度額を超えたときに備えて「国の援助」の道も開かれている。今回の事故では、「援助」の規模が膨大になるので新しい法律がつくられ、「原子力損害賠償支援機構」が設けられた。機構が政府から国債を受け取り、それを換金して支援するしくみである。
 
 著者が警戒するのは、損害賠償の求めが今後ますますふえて、業界側に賠償額の上限を求める動きが強まることだ。それは国民にしわ寄せがくるので「原子力発電は市場経済のもとでは事業として成立しないことを電力会社自らが認めていることと同じ」と著者は言う。そのうえで、賠償費用を支払う企業の範囲を事業者にとどめず、プラントメーカーやゼネコン、融資元の金融機関などにも広げて負担を分かちあってはどうか、と提言している。
 
 第3章「原発は安くない」で、批判の的となるのは経済産業省が事故前のエネルギー白書で掲げていた発電コストのグラフだ。1kw時の電気をつくるのに原子力は「5〜6円」。太陽光よりも1桁安いだけでなく、火力の「7〜8円」をも下回る。著者は、この数字がモデルプラントを想定した机上計算であることに注意を喚起する。運転年数や設備利用率が実態を反映していないというのだ。そして、それよりももっと大きな難点がある。
 
 「発電という行為を社会的にみると、全体としてかかっているコストは電力会社にとってのコストだけではない」のに、ここで示されているのは「発電事業に直接要するコスト」であり、電力会社の「私的コスト」に過ぎないというのである。
 
 追加すべきものを著者はいくつか挙げる。一つは「技術開発コスト」。政府は既存原発のみならず、高速増殖炉や原発使用済み燃料再処理施設の開発などに巨費を投じてきた。二つめは「立地対策コスト」。中心にあるのは、電源三法によって原発立地自治体に出される交付金だ。「立地が進まない時期には予算が余り」「二〇〇三年度からは地場産業振興、コミュニティバス事業、外国人講師の採用による外国語授業まで支援の対象となった」
 
 そこで著者は、「直接」を有価証券報告書から読みとり、それに「技術開発」と「立地対策」を加えたものを独自にはじき出した。それによると、1970〜2010年度の平均で1kw時の原価は原子力が10.25円。さきのエネルギー白書の数字のほぼ倍にはねあがっている。ちなみに同様の見積もりで火力は9.91円。それだけでも原発は安いという売り文句に疑問符がつく。
 
 まだまだ、付け足すべきものはある。一つのくくりは「環境コスト」。事故に伴うもろもろ、現場の収束処理や廃炉、住人への賠償、周辺の除染などの費用が含まれるが、「金銭にあらわせない被害も多い」という。さらに10ページ余を費やして論じられているのが「バックエンドコスト」。原発使用済み燃料の処理や処分に必要な出費だ。それは、再処理による核燃料サイクル政策が続けば「莫大」になると著者は強調する。
 
 原発も自動車と同様、社会的費用を考えるべし。あの事故から5年の日にそう思う。
(執筆撮影・尾関章、通算307回)
 
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『フランクフルト学派――ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』
(細見和之著、中公新書)
写真》フランクフルトの味わい
 
 哲学と言えばコップが思い浮かぶ、という話は当欄やその前身で繰り返し書いてきた。コップをじっと見つめて、実在とは何か、それと向きあう自分とは何か、を考え抜く。哲学とはそういうものだと信じていた頃が僕の青春期にはある。世界は自我一人で完結しているものという思い込みに囚われていたのかもしれない。唯我論とまでは言えないにしても、どこか唯我志向があった。
 
 その裏返しが、社会から一歩退くという態度だった。数週間前の拙稿「2月の青春、日本社会の縮図」で1970年前後の学生運動について書いたとき、「僕自身は『政治で世界は変わらない』という信念から運動にも党派にもかかわらなかった」と打ち明けた通りだ。月並みな言い方をすれば、幸福は社会改革ではなく、自分自身のものの見方を変えることによって得られると考えていたのである。
 
 だから、サルトルも『嘔吐』まではぴったりくる。実存主義の核心を見せつけたマロニエの根っこは、テーブルのコップが代役となってもよかったからだ。だが、彼が1960年代に見せた左翼知識人としての姿、飢えた子の前に文学は無力だとする発言などに触れると、実存思想が安値で売られているような感じがしたものだ。そこでも、唯我志向が作用していたのだろう。
 
 ところが、この志向はいま、僕のなかで急速に弱まっている。人は老いれば知人が一人ふたりと世を去り、自らも死に近づく。物理的には、唯我世界に向かって押し流されていると言えなくはない。だが不思議なことに、そんな位相に身を置くと、かえって違う現実が見えてくる。人は死んでも生きている人との関係を存続させる。もしかして人は、他者との関係性そのものとして存在しているのではないか。そんな思いが強まってくる。
 
 ということで遅ればせながら、社会派とも言える人文系知識人のことを学びたくなった。今週は、そのとっかかりに『フランクフルト学派――ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』(細見和之著、中公新書)。1923年、ドイツのフランクフルトに生まれた「社会研究所」に光をあて、そこに集った思想家群の系譜を今日に至るまで追っている。この人々が後に「フランクフルト学派」と呼ばれるようになった。
 
 著者は1962年生まれ。ドイツ思想の学究であり、詩人でもある。「はじめに」の章で、フランクフルト学派の思想が「左翼革命を煽(あお)り立てるたぐいのものとして捉えられた」のを「致命的な誤解」と断じているように、幅広い視点で学派に迫っている。
 
 ここではマックス・ホルクハイマー(1895〜1973)、テオドーア・W・アドルノ(1903〜1969)に絞って、その思想の核心を切りだしてみよう。
 
 ホルクハイマーは社会研究所ができてまもない1930年、所長となった。その就任講演から「フランクフルト学派のひとびとが向かう方向」が予感される。彼は「社会の経済的生活」「諸個人の心理的な発達」「狭義の文化の領域における変化」に目をとめ、その「三つの領域の結びつき」を探ろうと呼びかけたという。「経済」でマルクスに、「心理」でフロイトに、というように思想界の前線に網をかぶせていたと言えよう。
 
 これからほどなく、社会研究所はナチスの迫害を受ける。「裕福なユダヤ系の家庭出身」の知識人が多くいて、しかもマルクス主義者の集まりとみられたためらしい。1933年に閉鎖を余儀なくされ、ホルクハイマーもスイスを経て米国へと移住を強いられる。それを追うように研究の本拠も「フランクフルトからジュネーブへ、さらにはニューヨークへ」と避難するのである。発祥地に戻って活動を正式に再開したのは、51年のことだった。
 
 ホルクハイマーは、デカルト哲学に象徴される「伝統的」な理論に対置して、自らの思想を「批判理論」と名づける。「伝統的」な視点では「命題を矛盾なく整合的に提示すること」が「真理の証(あかし)」となるが、彼は命題に無矛盾を求めたりはしない。「むしろ、自らが矛盾に貫かれた社会のなかに置かれていること、さらには自らの理論自体がそういう矛盾に満ちた社会の産物であること」を「徹底的に意識化」しようとする。
 
 だから、それは「現状を観察したり記述したり」では終わらない。「社会が総体として抱えている矛盾の廃棄という実践的関心」をもって「変革の梃子(てこ)としての役割」を担うことになる。社会派の社会派たる所以はここにある。
 
 当然、ナチス体制も俎上にあがる。それを生みだした流れをはじめは「マルクス主義的な進歩史観」に立って批判していたが、やがてそこから離脱する。1940年代には、ファシズムとスターリニズムをひとくくりにして「権威主義的国家」という概念でとらえた。「マルクス主義的な革命も、それが世界史の進展を促進させるものであるかぎり、このような権威主義的国家に行き着くことはまぬがれない」。そんな結論を導きだしたという。
 
 著者は、彼の論文「権威主義的国家」に「搾取の終焉(しゅうえん)とは、進歩を加速させることではもはやなく、進歩から飛躍すること」とあるのをみて、「進歩という立場への批判」を感じとる。進歩が絶対善とされる今、心に刻みたい言葉だと僕は思う。
 
 ホルクハイマーが、当時やはり米国にいたアドルノと共同討議の末、1944年にまとめたのが『啓蒙の弁証法』だ。そこには「なぜ人類は真に人間的な状態に歩みゆく代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでゆくのか」という問いがある、と著者は指摘する。「野蛮」とされたのは、欧州の「ファシズム」、ソ連の「独裁と体制順応主義」、そして米国で顕著な「『文化産業』の肥大ぶり」である。
 
 最後の一つは「どのような芸術作品であってもいっさいがその商品価値(売れるか、売れないか)を基準にして計られる社会」だ。文化の商業主義を「権威主義的国家」と同列に並べたのである。著者によれば、ホルクハイマーとアドルノは、三つの「野蛮」には「啓蒙あるいは文明化という『概念』そのもののうちに当初から胚胎(はいたい)していた事態」という共通点があるのではないか、とにらんだ。文明が野蛮を生むという逆説だ。

 『啓蒙の…』では、ホメロス『オデュッセイア』の主人公の自然支配志向に啓蒙や文明化の兆しをみる。「自己保存のために行なわれた自然支配は、保存するはずの当の自己(内的自然)を失う」。その結果、「保存すべきはずの自己そのものを喪失した、いわば空虚な自己」が現れる。著者は、この考察を読み解いたうえで、自らが「外的な自然と内的な自然の狭間(はざま)」にいるとの認識が「あるべき社会を私たちが構想する手始め」と言い切る。

 「アドルノとホルクハイマーは、外的・内的な自然支配の根底には、同一化の暴力が働いていると考えます」「自然の支配は、つねに支配しきれないもの、同一化しきれないものを生み出します」「同一化をはみ出す者を確認することによって、それ以外の者たちは同一であることを保証されるのだ、と言ったほうが正確でしょう」……こうした著者の叙述は、ナチスが学派の思想の反面教師となった現実を思い起こさせる。

 ほかの二つの「野蛮」も含めて考えれば、共通するのは人間疎外だ。人類の「自己喪失」と言うこともできる。さらに大きな枠組みでとらえれば、この洞察は科学技術と自然環境の緊張関係を考えるときのヒントももたらす。アドルノやホルクハイマーの没後、生命科学系の先端技術が急激に広まったことで、内なる自然の危機はフロイトにつながる心的なものだけでなく、身体的なものにも及んでいるとは言えないか。
 
 アドルノが残した至言は「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉だ。含蓄があり、字義通りにはとれないが、僕たちの周りに「新しい野蛮」と呼びたくなる現象が広まっているのは事実だ。それと対抗する内なる自然を守りたいと思う。
(執筆撮影・尾関章、通算306回)
 
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