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『ハロウィーン・パーティ』

(アガサ・クリスティー著、中村能三訳、ハヤカワ文庫〈クリスティー文庫31〉)

写真》カボチャ

 なぜか知らないが、街がうきうきしている。八百屋にあるはずのカボチャが花屋にもあって、どうしてなのかと思ったらハロウィーンが近づいてきたのだ。今の子どもたちは、心の歳時記に10月末の仮装遊びをしっかりと刷り込んでいる。

 

 僕たちの暮らしにとけ込んだ片仮名表記の行事と言えば、昔は12月25日のクリスマスくらいしかなかった。ところがいつのまにか、2月14日のバレンタインデーが広まった。いつからかについては諸説あるようだが、僕の記憶では1960年代後半からではなかったか。背景には、チョコレートをつくって売る食品流通業界が格好の商機ととらえたということがある。似たような流れで、10月31日のハロウィーンが近年急速に広まった。

 

 ハロウィーンは、ケルトの民俗文化に由来するらしい。クリスマスやバレンタインデーと比べると、キリスト教との縁は薄い。英国にはケルト系の血を引く人が大勢いるのでさぞ盛んだろうと思えるが、僕のロンドン在住経験ではそれほどではなかった。11月5日にガイ・フォークス・デイがあり、むしろそちらの花火が町に響いていた。これは、17世紀初めにプロテスタント系王権の転覆計画が発覚、事前に封じ込まれたという故事に因む。

 

 では、現代版ハロウィーン再興の地はどこか。1年前の朝日新聞「天声人語」には、アイルランドなどに伝わる「死者が帰って来ると言われる収穫期、幽霊に変装して仲間のふりをし、食べ物を供えた」という風習が「19世紀に移民を通じて米国に伝わり、盛んになった」とある(朝日新聞2015年11月1日付朝刊)。英国のケルト文化はアングロ・サクソンやノルマンの文化に追われるようにして米国へ渡った、と言えないことはない。

 

 それにしても今の世の中、どうしてこうもたやすく異文化の催しを受け入れてしまうのか。日本社会だけではない。米国でも、ケルトという一民族の年中行事が多民族コミュニティーに浸透したのである。ひとつ言えるのは、現代人がハレの日中毒になっているのではないか、ということだ。夏休み気分が薄れてクリスマスまで間がある時季に、もう一つヤマ場を設けよう。そんな思惑が商戦を仕掛ける側にも、それに乗っかる側にも見てとれる。

 

 で、今週の一冊は長編ミステリー『ハロウィーン・パーティ』(アガサ・クリスティー著、中村能三訳、ハヤカワ文庫〈クリスティー文庫31〉)。地域の少年少女を集めてひらくパーティーの最中に起こった殺人事件の謎を、会に居合わせた探偵作家アリアドニ・オリヴァや、彼女の依頼を受けた私立探偵エルキュール・ポアロが解いていくという物語だ。発表は1969年。著者(1890〜1976)にとっては晩年の作品ということになる。

 

 事件が起こった「ウドリー・コモン」という町は架空の地名らしいが、ロンドンから30〜40マイルの距離にあるとされている。イングランドの大都市郊外なので、ケルト文化の痕跡はあまり残っていないと思われる。それなのに、やはりハロウィーンなのか。

 

 そう思っていたら、本文の2ページ目にヒントがあった。ミセス・オリヴァが、こんな言葉を口にする。「わたし、昔からカボチャとハロウィーンを結びつけて考えるんだけど、あれは十月の晦日(みそか)だったわね」。ハロウィーンのことはよく知っているが、それが何日かはすぐには確信がもてない。距離感のある口ぶりだ。米国に滞在していたとき、感謝祭のパーティーで「家じゅうカボチャだらけ」の光景を見た、という思い出話もする。

 

 1969年と言えば、第2次大戦後の国際社会で米英の力関係の逆転がほぼ確定した頃とみてよいだろう。そのころまでに米国から英国へ、ハロウィーンが逆輸入され、カボチャを飾りものにする習慣ももち込まれていた。そう考えると妙に納得がいく。

 

 さて、そのパーティーは、地元有力者ミセス・ドレイクの邸「リンゴの木荘」で開かれる。「箒の柄競争」「小麦粉切り」「リンゴ食い競争」といった余興が続く。おひらきが近づいて13歳の少女が姿を消し、閉会後、リンゴを浮かべたバケツの水で溺死しているのが見つかる。その子は「あたし、前に人殺しを見たことがあるのよ」と語っていた――そんな話なのだが、当欄は例によって筋には立ち入らない。別の視点で読みどころを探そう。

 

 なんと言ってもおもしろいのは、著者が「おばあさん」の目でとらえた1960年代末の世相だ。皮肉あり風刺ありで、機知にも富んでいる。老境定番の「いまどきの……」が飛びだすのは、ポアロの旧友である元警視の言葉。「いまどきの娘さんは、わたしの若いころよりも、ろくでなしの亭主と結婚してるような気がしますがね」。母親は娘のデート相手がどんな男なのか「知らないし」、父親もそれを「知らされていない」と嘆くのである。

 

 少年少女の早熟ぶりも、ちょっと意地悪く描かれている。ミセス・オリヴァがリンゴの木荘でトイレを探しあてたときのことだ。「彼女は階段をあがり、踊り場の角をまがると、男の子と女の子のカップルにあやうく突きあたりそうになった」。男子15歳前後、女子は12歳よりやや上か。濃密なキスの真最中だ。「ちょっとごめんなさい」を繰り返し、「すみませんけど、通してくださらない? このドアからはいりたいんですから」と畳みかける。

 

 ファッションにもうるさい。パーティーで魔女役を務めたミセス・グドボディはポアロを相手に、ハイティーン男子の服装を腐してこう言う。「着ているものなんか、とても旦那(だんな)はほんとと思やなさりませんよ。バラ色の上衣に、黄色のズボンですよ」。メンズウェアのカラフル化がピーコック革命と言われたりもした頃だ。返す刀で「女の子が考えつくのは、スカートを上へ上へあげることだけ」と、ミニスカートブームにもあきれている。

 

 女性を惹きつける男性の魅力が変わったことも、ポアロの心理描写を通して書き綴られている。彼は、若い男に対する褒め言葉が「美しい」から「セクシー」に代わりつつあることに思いをめぐらす。「セクシーな女はリュートを手にしたオルフェウスを求めはしない。彼女らが求めるのは、しゃがれ声の、色目使いの、ぼさぼさのむさくるしい髪をした流行歌手なのである」。もしかして、著者の頭にあったのはボブ・ディランの顔だろうか。

 

 ここで注目すべきは、著者の批評精神が風俗、流行の表層にとどまっていないことだ。それは、ミセス・オリヴァがポアロに投げかける言葉に託されている。「あなたのお話がなにに似ているか、わかってらっしゃる? コンピューターですわ」。情報を自らの頭脳に「供給(フィード)しておいて」「なにがでてくるか、見ようとしてらっしゃる」というのだ。ポアロがそれを認めて、コンピューターの無謬性を盾に開き直ると猛然と反論する。

 

 間違えないことにはなっている、だが現実はそうじゃない、それは自分に届いた前月分の電気代の請求書をみればわかる、という話をしてからこう言う。「人間の過ちなんて、コンピューターがその気になって犯す過ちにくらべれば、ものの数じゃありませんよ」

 

 当時、コンピューターが颯爽と現れ、なにごともインプット→アウトプットの図式でとらえられるようになった。今日では、社会の大部分がその管理下にあると言っても過言ではない。ただときに、脆さを見せつけられることもある。交通機関のシステム障害が一つ起これば影響が全国のダイヤに及ぶ、というようなことだ。人間の機転で問題を1カ所に抑え込めない。さらに人工知能(AI)が発達して「その気になって」の心配も出てきた。

 

 ミセス・オリヴァは著者の分身とも言える。そう考えると著者は、自らが生みだしたポアロという人物に違和感を抱きはじめていたのかもしれない。別のところでは彼女の言葉を借りて、彼が田舎でもエナメル革の靴を脱がないことを諫め、「あなたの困るところは、なにがなんでもスマートでいようとなさること」とたしなめる。あるいはポアロの部屋を「超モダンで、非常なアブストラクトで、なにもかもが四角と立体ばかり」と皮肉っている。

 

 アガサはモダニズムの翳りをみて、ポアロを置き去りにポストモダンへ乗り換えようとしていたのだろうか。だとしたら、その鋭敏で柔軟な時代感覚には驚くばかりだ。

(執筆撮影・尾関章、通算340回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『ボブ・ディラン――ロックの精霊』(湯浅学著、岩波新書)

写真》The Freewheelin’のようにジーンズ

 英国ウェールズにディラン・トマスという詩人がいる。1953年に死去しているから、「いた」というべきか。今から20年余り前、ロンドンに住んでいたとき、この人が英国人からどれほど敬愛されているかを知ったのだが、僕にはピンとこなかった。詩の真髄を感じとるのは外国人には難しい。やけっぱち気味に、僕のディランはアメリカにいる、と思ったものだ。そのボブ・ディランが今年のノーベル文学賞受賞者に決まった。

 

 「僕のディラン」とボブのことを言っても、その歌詞はやっぱり難しい。原語で読むと、わからないところだらけだ。訳があれば助けとなるが、それでも原意は完全には伝わってこない。なのにどうして、「僕の」なのか。たぶん言葉の連なりが、あのしゃがれ声で絞りだされてギターやハーモニカの調べに乗ると、意味は切れ切れでも胸に迫ってくるからだろう。この一点で、歌とは詩集の詩と似て非なる表現方式と言えるのかもしれない。

 

 報道をみていると、これが文学賞にふさわしいのか、という声は根強くあるようだ。今年の発表が理系3賞や平和賞よりも1週後ろにずれ込んだのも、この選考がもめていたからだろう。それでも、強行突破したのはなぜか。そこには、超大国米国へのメッセージという一面もあると僕は思う。大統領選を意識したとまでは言わないが、内に人種差別が残り、外へは排他主義が強まる現状に欧州の知識人はひとこと言いたかったことだろう。

 

 ただ、今回の決定を政治的な文脈だけでとらえるのは、おそらく正しくない。ノーベル賞は、これが文学かと言われるものをあえて文学の範疇に引っぱり込んだ、と僕は推察する。そこには、ポップカルチャーに対する謙虚な姿勢がみてとれる。20世紀以降、レコード、ラジオ、テレビ、CD、ネット配信と続くメディアの進化が、民族や文化の違いを超えて親しめる言語芸術を生みだしたことを、文学の側から認知したのだとも言える。

 

 ここで思考実験を一つ。ポップカルチャーにノーベル賞を出すとなれば、真っ先に思い浮かぶのはビートルズだ。音楽賞があれば、それは間違いない。ただ、文学賞を贈るとなれば、話は簡単ではない。歌づくりの中心にいたのはポール・マッカートニーとジョン・レノンだから、二人の作詩活動が吟味されることになるが、ジョンはすでに故人なので選考の圏外にある。さらに詞の詩らしさという文学性を問えば、ディランには及ばないだろう。

 

 こう見ると、文学賞の選考にあたる委員会はいいところを突いたように思えてくる。ディランがいたからこそ、音楽と不可分の言語芸術というジャンルを文学の一つのありようとして再確認することができた。それによって文学の定義を拡張したのである。

 

 で、今週は『ボブ・ディラン――ロックの精霊』(湯浅学著、岩波新書)。著者は1957年生まれの音楽評論家。ディランの自伝(邦訳は『ボブ・ディラン自伝』菅野ヘッケル訳、ソフトバンクパブリッシング)や元恋人の著作(邦訳は『グリニッチヴィレッジの青春』スージー・ロトロ著、菅野ヘッケル訳、河出書房新社)など多くの文献を参照しながら、その半生を跡づけた。この一冊で思い知るのは、彼が決して過去だけの人ではないことだ。

 

 刊行は2013年。ディランはここ数年、文学賞の有力候補に名が挙がることが多かったから、僕はいざというときのために買い込み、大部分を読み終えていた。今回、読み残しの章を開いて近年の様子を知るに至り、人間としての奥深さにさらに感じ入ったのである。

 

 まずは、ディランの生い立ちをこの本に沿って素描してみよう。本名は、ロバート・アレン・ジママン。1941年、ミネソタ州で生まれた。父母ともユダヤ人。父は石油会社に勤めていたが、病気で退職して、田舎町の電気店で働いていた。子どもたちにピアノを習わせようとしたというから暮らし向きは悪くなかったようだ。ところが、ロバートはレッスンを拒み、「弾きたいように弾かせろ」と自己流で学んだという。さすが、ではないか。

 

 「ボブ・ディラン」の誕生は1959年、ミネソタ大学に進んでから。ここで、もう一人のディランが出てくる。「自伝」によれば、歌手活動を始めようとした頃、たまたまディラン・トマスの詩に触れた。芸名の第一候補は「ロバート・アレン(Robert Allyn=本名はAllen)」だったが、ディラン(Dylan)はアレンに似ていて、しかもD音に強さがある。これにロバートの愛称ボブをくっつけたら字面の見栄えも音の響きもよくなった、という。

 

 このいきさつから僕が感じとったのは、ボブ・ディランが早くから詩に馴染んでいたこと、のみならず語尾の韻や子音の効果にも敏感な感性を備えていたことである。当時、ライブの場としては「コーヒー・ハウス」と呼ばれる店々があった。それらは「アーテイスト志向のボヘミアンたちの溜まり場」で、「詩の朗読やライヴなどが夜ごとおこなわれていた」。彼の出発点は、歌の詞が詩集の詩と交ざりあう文化土壌だったと言っても過言ではない。

 

 ディランの代表曲「風に吹かれて」では、“How many”の繰り返しが僕には印象的だ。それが英語圏外の人々の耳にも訴えかけてくる。これも、言語を音としてとらえる感覚があるからこそ埋め込まれた仕掛けと言えよう。著者はディランの曲の構造を「歌が詞と緊密に結束している」「ビートは歌唱の中から練り上げられる」と表現している。まさに詩集の詩ではない詞の開拓者だ。シンガーソングライターの面目躍如である。

 

 ディランのもう一つの側面は社会派ということだ。若いころに傾倒したのはフォーク界の先達ウディ・ガスリー。「世俗的犯罪、梅毒、砂嵐、ダム建設、労働組合運動、悲恋」と、世事をなにからなにまで歌の題材にした人だ。その影響は自作の詩に反映された。

 

 ここで感銘を受けるエピソードが一つ。ディランは、作詞のために「図書館に通い一九世紀中頃の新聞記事を読み込んでいく」という作業までしていたという。この本によれば、当時は世の中の出来事をストーリー仕立てにして、詞を「伝わっているフォーク・ソングの節にあてはめて歌う」という歌のつくり方があった。河内音頭新聞詠み方式だ。彼もそれを試みたが、ネタ探しを同時代にとどめず、過去の世相も掘り起こそうとしたのである。

 

 私事の懐旧談になって恐縮だが、僕自身も社会人になる前、歌詞づくりに没頭していた頃がある。そのときに一人で勝手に掲げた看板はルポルタージュソング。内心には、私小説風のフォークへの反発だけでなく、歌で伝えられるものは恋のあれこれに限らないという確信があった。記者生活を経た今でも、100の名文より1曲の歌詞のほうが人の心に素直に届くと思っている。これこそが、音楽と不可分の言語芸術の強みではないか。

 

 ディランのそんな歌づくりは、反戦反体制と表裏一体だった。1960年代初めには公民権運動が高まる。62年はキューバ危機の年だ(当欄2015年11月13日付「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」参照)。翌年に出たアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』には、風刺性の強い曲も収められようとしていた。その一曲にテレビの人気番組「エド・サリヴァン・ショー」が難色を示したとき、ディランは憤然と出演を拒否した。

 

 結局、その曲は『フリーホイーリン……』に収められず、別のものに差し替えられる。ともあれ、このアルバムはジャケットの写真が出色だ。ニューヨークの街で撮られたのだろう。ディランがジャンパーにジーンズ姿で、ポケットに手を突っ込み、女性と腕を組んで歩いている。この相方こそが『グリニッチヴィレッジの青春』の著者スージー・ロトロ、愛称スーズだった。ジーンズによって象徴される解放の時代の匂いが全面から漂ってくる。

 

 最後の2章でわかるのは、ディランの歌に対する誠実な態度が歳を重ねてますます磨かれていることだ。2006年から09年まではラジオ番組のパーソナリティを務め、一つひとつの曲について、その歴史的、地理的、文化的な背景を解説したり、演奏家論を披歴したりしたという。分野もブルース、カントリー、ジャズからヒップポップまでと多彩で、「音楽的度量の広さ」は歴然。まっとうであり、柔軟でもある。頑固おやじではない。

 

 さて授賞式にはどう臨むのか。出席辞退か、歌をうたうのか。彼の選択が楽しみだ。

(執筆撮影・尾関章、通算339回)

 

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『長い長い眠り』(結城昌治著、創元推理文庫)

写真》クールミント60年、マーブル61年の新発売

 新任都知事がブラジルのリオで旗を手にしてから、東京五輪・パラリンピック問題がにわかに再燃した。よいことだと思う。いまの時代、巨大な建造物を建てまくるという強迫観念から解放されない限り、人類のおもてなし役など引き受けるべきではない。それが世界を震撼させた原子力発電所事故を引き起こしたばかりの社会ならば、なおさらだ。ホストになるのなら、大都市に富とエネルギーを集中させる愚を繰り返してはならない。

 

 思いだされるのは半世紀前のことだ。1964年のちょうど今ごろ、東京は初の五輪開催で非日常の極みにあった。なかでも開会式、10月10日の秋空は忘れがたい。僕はテレビにかじりついて観ていたくちだが、圧巻だったのは入場行進だ。古関裕而作曲の明快なマーチに胸を高鳴らせた。選手たちが踏みしめる地面のアンツーカーは目にまぶしかった。やがて飛行機の音がして、家からとびだして見あげると都心の方角に五つの輪があった。

 

 あれはあれで、時代の空気にぴったり合っていた。なんと言っても毎年毎年、家庭に家電製品がふえていったころだからだ。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、テレビ……。東京には高速道路が通り、大阪とも新幹線で結ばれた。そこにあったのは、右肩上がりの世相である。だから、1951年生まれの僕やその上下5歳ほどの年齢層にとって、五輪は屈託なく心躍らされる祝祭だった。だが果たしてそれは、どの世代にも言えることだったのか。

 

 気になるのは「屈託なく」の一点だ。戦争終結は、わずか19年前。今に置き換えれば1997年、人々がケータイを使いだし、インターネットも広まりはじめたころに相当する。かなりの近過去と言えよう。しかも、開会式会場は戦時に出陣学徒を送りだしたのと同一地点。アンツーカーを剥がせば暗い歴史がある。成人にはきっと、「屈託あり」の人が多かったことだろう。(当欄2016年4月8日付「建築の『どや顔』、町の困り顔」参照)

 

 この歳になってわかるのは、子には子の視点があり、大人には大人のそれがあるということだ。たとえばITは今、幼い子がタッチパネル製品を手にすれば自然に指を滑らせるほど当たり前の環境となっている。だが、年長者はeメールやインターネットを使うとき、それらがなかった頃の記憶から逃れられない。歴史を引きずるのである。少年少女期に見ていたものが当時の大人の目にどう映っていたのか、それを探るのも意味があるだろう。

 

 で、今週は長編ミステリー『長い長い眠り』(結城昌治著、創元推理文庫)。1960年にカッパ・ノベルスの一冊として世に出た。奇しくも今と同じく、東京が五輪・パラリンピックを催す4年前だ。75年に中公文庫に収められ、2008年に再文庫化された。

 

 冒頭の一節は「明治神宮外苑、絵画館の上に月がのぼった」「月かげは花崗石(みかげいし)に表装された絵画館の円塔を明るく照らし、周囲をかこむ雑木林の葉群れの間からも、白いひかりを地上に降りそそいだ」。まさに、五輪主会場の国立競技場周辺。夜更けに恋人が寄り添って歩くのには格好の場所だった。その月光の明るみに中年男が横たわっている。そう、それは死体。殺人事件の発生だ。だが今回は、ミステリーの筋には立ち入らない。

 

 一つの関心事は、作中に出てくる町の散らばり方だ。新宿区内の地名が頻繁に顔を出すのは、主人公の郷原部長刑事が四谷警察署員だから当然だろう。信濃町の慶応病院に近い左門町、その北方の荒木町、繁華街の歌舞伎町、北新宿の柏木。刑事たちの聞き込み先は中央線や山手線の沿線が中心で、駅名で言えば東中野、大塚……。東京が郊外や湾岸域に広がる前、国電が交通の動脈となっていたコンパクトシティの姿が目に浮かんでくる。

 

 僕が1960年の世相を強く感じたのは、事件の被害者とはかつてつきあいがあった独身中年の犬猫病院長藪下計介の暮らしぶりだ。夜には、間借り人の若い女性、新海静子と並んでテレビのミステリードラマを観る。番組が終わり、スイッチを切ると、会話が始まる。「ちょっと物足らなかったな」「犯人の割れるのが早すぎたわね」「それに、動機に説得力がないし、俳優もミス・キャストだ。共犯が画面の外にいたというのも気に入らん」

 

 この家は焼け跡に建てられたものでバラック同然。敷地の地主が「この秋の台風で必ず倒れます」と見放すほどだ。計介は生活に困って部屋を貸すことにしたのだが、入居希望者が来るたびに断っていた。ところが、静子には敷金なしでOK。理由の一つは同好のよしみだ。「彼女の右手に覗いたビニール・カバーの推理小説の効用らしかった」。手にしていたのは、たぶんハヤカワ・ミステリー。あのころから透明カバー付きだったのか。

 

 テレビが置かれているのは、おそらく畳敷きの茶の間だろう。そこで年齢差の開いた男女が、貸し主借り手の間柄なのに一つのドラマに熱中する。さらに、いっぱしの評論家よろしく作品批評で盛りあがる。危ういように見えるが、住宅事情の貧しさが生みだした微温の友愛とも言える。そう言えばあのころ、僕の家にも下宿の大学生がいた。同じ食卓を囲んで一緒に相撲や野球の中継に見入ったものだが、それも当時としてはふつうのことだった。

 

 もうひとつ、1960年ならではの話。事件現場の近くにいたホームレスの男が「トランジスター・ラジオ」を隠しもっていた。「ター」と伸ばして表記しているところは、いかにもあの時代を感じさせる。男は路上のゴミ集めを生業にしていて、それは屑籠の底から見つかった。郷原が「どこで拾ったの?」と尋ねると「こわれているんです」。ところが電源を入れると、女性歌手の歌うジャズが聞こえてきた。どうやらどこかで盗んだらしい。

 

 ソニーの公式サイトによると、「日本初のトランジスタラジオ」は1955年に商品化されたとある。60年は、ちょうど半導体が真空管に取って代わろうとしていた頃だ。「トランジスター」という単語は電子回路の素子を指す原義から離れ、携帯可能という新しい価値の代名詞となっていた。ここで著者は、家を失った人がゴミを籠に入れて回るという戦後復興期の現実に、エレクトロニクスという高度成長の申し子を織り込んでいる。

 

 この作品には、米国ハードボイルドミステリーの趣がある。著者の作風なのだろう。ひと言で言えば、ある種のダンディズムだ。だが、その表現には1960年日本の空気が満ち満ちている。透明カバーの推理小説本もミステリードラマの辛口談議も、安普請の家屋とともにある。甘いジャズが流れる新商品のラジオは、まさに掃き溜めの鶴のように現れた。バタ臭いモダニズムを、戦争の荒廃と地続きのところに浮かびあがらせているのである。

 

 その地続き感がもっとも強く出た場面がある。郷原が宿直室で、聞き込みの合間に家族への土産のつもりで買ったバナナに触る一節だ。「なめらかである。南の国の、熱い太陽の匂いがする。戦時中に、召集されていった南方の島々の風景が思いだされた。苦しい毎日の中で、海の色だけが美しかった。死を眼前に見つめた者だけが知る、美しさだったかもしれない」。その戦場で「人間を信じてはならぬ」と思い知ったのだという。

 

 このくだりは、中辻理夫の巻末解説「“私性”が流れる初期長編」も引用している。それによれば、著者は戦地には赴いていないものの一時期、海軍の特別幹部練習生だった。戦後も軍法会議記録に触れる職業に就いたことがあるという。「一九六〇年はまだ戦後十五年しか経っていない頃だ。郷原部長は戦場へ行っていて当然の世代である」との記述に出会って、1964年東京五輪当時の大人たちには屈託があったはずだとの思いを再確認した。

 

 最後に思わず苦笑したこぼれ話。この小説で郷原が遠出したのは、埼玉県の野火止にある臨済宗妙心寺派の平林寺だけだ。聞き込みで、事件当日に被害者も出席したらしい句会があった、とわかる。その風景描写を読んで、僕は既視感を覚えた。先日紹介した『コーヒーと恋愛』(獅子文六著、ちくま文庫)の作中で、同時代にコーヒーの野だてが催されたのもここだったのだ(当欄2016年9月9付「『ほんとのコーヒーに憧れていた頃」)。

 

 郊外の禅寺でコーヒーを味わう、俳句をひねる。それが、1960年の東京人が手に入れた息抜きだった。空襲のトラウマは癒えず、まだ豊かでもなかったが、そのくらいの余裕は取り戻していたのだろう。そこにたどり着くまでに15年かかったとも言えようか。

(執筆撮影・尾関章、通算338回)

 

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『重力波は歌う——アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち』

(ジャンナ・レヴィン著、田沢恭子、松井信彦訳、早川書房)

写真》Lの快挙

 今年のノーベル賞予想は、物理学賞について言えば易しいようで難しかった。科学ファンならだれもが思い浮かべたのが、米国の重力波アンテナLIGOが成し遂げた重力波の初観測だ。ちょうど100年前、アルバート・アインシュタインの一般相対論が完成して、その帰結の一つとして予想されたのが重力場の波だった。ごくごく微小の時空の伸び縮み、という人類未体感の現象。それを突きとめたのだから無論、最大級の称賛に値する。

 

 だが、今年の授賞があるかどうかは微妙だった。物理学賞の推薦状受理は1月末で締め切られるが、LIGOの重力波報告は2月に入ってから。締め切り後、選考にあたる委員会が独自に候補を加える可能性はあるようだが、その手続きをとったのかどうか。

 

 もう一つ、LIGOグループのだれを選ぶべきかという問題もあった。初観測第1報の論文を見れば、著者数はザクッと1000人。物理の巨大実験では、それをアルファベット順で並べるのが常で、今回もB・P・Abbottさんに始まり、J・Zweizigさんで終わっている。物理学賞に団体受賞はなく、しかも授与される人は3人に限られる。だれにも文句を言われないように3人以下に絞り込むのは、それほどたやすいことではない。

 

 こんなとき、常識では組織論で考える。ただ、統括責任者は実験の元締めではあるが、それは学術とは別次元とも言える。装置の提案、準備、稼働のどの段階を重くみるかも考えどころだ。重力波初観測が大偉業でも、だからハイ、賞をどうぞとはいかないのだ。

 

 発表された結果は、別分野への授賞だった。賞を受けるのは、いずれも英国生まれで米国に渡ったデイビッド・サウレス、ダンカン・ホールデン、マイケル・コステリッツの3人。物質中の量子現象をトポロジー(位相幾何学)で理論づけた。一例は、測定値に整数性が現れる量子ホール効果だ。今日のエレクトロニクスの壁を破るには数学知が役立つことを示唆する仕事だった。重力波は先送りなのか、それともノーベル賞には馴染まないのか。

 

 来年の発表を占うために、重力波で受賞が有望な人々の足跡をたどってみよう。一冊のノンフィクションがある。『重力波は歌う——アインシュタイン最後の宿題に挑んだ科学者たち』(ジャンナ・レヴィン著、田沢恭子、松井信彦訳、早川書房)。著作権の表示によれば原著は2016年刊で、邦訳も6月に出ている。重力波初観測に合わせたタイムリーな刊行だ。だがもちろん、取材はそれに先立っている。執筆も大方は初観測前だったのだろう。

 

 本の後半では、LIGO構想創始者の一人であるライナー(レイ)・ワイスの決意が繰り返し出てくる。「二〇一六年までに検出を達成するには働き続けなければなりません」。重力波をめぐるアインシュタインの初論文から100年の節目に間に合わせようと考えていたのだ。それがダメなら1918年の論文の100年後でも「まあいいでしょう」。そして最後の最後に初観測の事実が書き込まれる。急いで加筆したのだろうが、かえって劇的だ。

 

 著者は、物理天文が専門の米コロンビア大学教授。4次元を超える宇宙の理論研究などに携わっているようだが、一般向けの著作活動でも才能を発揮している。この本でも取材相手から聞きにくいことを聞きだし、科学者間の確執を大胆な筆致で綴っている。書き手が女性ということに意味を見いだして視点の性差を論ずるつもりは毛頭ないが、登場人物の多くが男性なので「嫉妬」の2文字が女偏であることの不当さにも気づかされる。

 

 描きだされた人間ドラマにはヤマ場が二つある。一つは1983年、重力波観測をめざしてマサチューセッツ工科大学(MIT)とカリフォルニア工科大学(カルテク)が協力体制をとりはじめたころだ。主要人物はMIT側がワイス、カルテク側がキップ・ソーン、ロナルド(ロン)・ドレーヴァー。国立科学財団(NSF)に予算を出させ、1辺がキロメートル単位のL字形アンテナを2カ所に造るという構想は、このトロイカ体制で動きだした。

 

 ソーンは理論家だが、ワイスとドレーヴァーはともに実験家だ。この本は、著者自身の取材録やカルテク当局の口述歴史資料にある二人の肉声を拾って、両者の摩擦を浮かびあがらせる。たとえば、ワイスは「ロン・ドレーヴァーがキップによって無理やり引き込まれていました」と同情気味。一方のドレーヴァーは、当時のワイスの印象を「この話に無理やり割り込んできて別なやり方を試して実行したがっているような感じ」と振り返っている。

 

 ワイスは、この推移の背後にノーベル賞の影を見る。「関係者の大勢がノーベル賞のことを考えていました」「あれはこの分野の罪悪です」。それが、ドレーヴァーの「扱いづらいふるまい」の一因になった、との見方だ。さらに、その賞狙いの思惑こそがNSFを動かしたとも指摘する。「検出がうまくいけば新しい分野ができ、ひいては彼らがノーベル物理学賞に一役買うことになる」「これは一政府機関にとってとても大事なことです」

 

 ノーベル賞の力学で予算面の恩恵を受ける科学者が、そこに「罪」を見ていることは記憶にとどめたい。賞への野心が研究費を生む一方で、仲間の和も乱す。その現実を率直に打ち明けているのは潔い。この賞は善いことばかりではないのである。ただ、どんなに不快な軋轢があっても、ワイスは協力体制の維持にこだわった。この事業が「一機関だけでは無理」と悟っていたからだという。ここに、巨費を投じて進める巨大研究の宿命がある。

 

 もう一つのヤマ場は、ロフス(ロビー)・E・ヴォートの登場だ。1987年にトロイカ体制を継ぐかたちで統括責任者になった。科学者であり、カルテク学務部長も務めた人物。したたかな政治力で議会対策などに腕をふるった。ただ対人関係には難ありで、ロン・ドレーヴァーとそりが合わなかった。真偽不明の話が多いので、ここでは紹介しない。このくだりの章題は黒澤明映画の“Rashomon”、邦訳は「藪の中」となっている。

 

 興味深いのは、そこにもノーベル賞が作用したという見方があることだ。この本は、学者仲間の推察をカルテクの口述歴史資料から引いている。「ロビーが何よりも許しがたかったのは、自分が前進の大きな原動力としてプロジェクトを仕切っていたのに…(中略)…ロンの手柄になりそうで、ひょっとしたらノーベル賞ももらってしまうかもしれないということだったのでしょう」。人の内心はわからないが、そんな嫉妬があっても不思議はない。

 

 この本は科学者の人間模様を赤裸々に曝す一方で、その一人ひとりの科学者精神、とりわけ実験家魂も見事に描きだしている。ワイスはもともとラジオ少年で、実験志向が強かったのに、MITの新米教授として一般相対論の講義を受けもたされる。「ダメ教師だとわかっていました」。それで「実験に重点を置く」という方針を思いつく。学生に思考実験の課題として示したのが「物体間で光線を往復させて、重力波を測定する」という着想だった。

 

 一つの光を二つに分け、直交する方向に行き来させてその位相のずれで時空の伸び縮みを見分ける。ワイスは、そんな実験を大学構内の木造棟に置いた1辺1.5mのL字形装置で始める。その経験から、雑音をしのぐ重力波信号を得るには「長さ数キロ規模の装置だけが現実的な選択肢」とわかる。こうして誕生したのが、LIGOが2カ所に置く1辺4kmのアンテナだ。「ビッグサイエンスは嫌いでした」「科学があれを要請したのです」

 

 ドレーヴァーの実験家魂もすごい。英スコットランド出身で、やはりラジオの修理に興じ、テレビさえも自作する少年だった。地元にいたころ、原子核の慣性質量が宇宙の物質分布に影響されるかどうかの検証を自宅の菜園で試みたという。「自動車のバッテリーをいくつかとワイヤーをいくらか使っただけ」の装置で溶液中のリチウムの核磁気共鳴を調べるという仕掛けだった。結果は、影響を検出できず。今でも精度の高い実験と評価されている。

 

 痛感するのは、今の科学者は昔ながらの科学者と同じ境遇にないという事実だ。創意や探究心にあふれていても合従連衡や政治工作と無縁ではいられない。僕たち部外者はただノーベル賞受賞者を礼讃するのではなく、そんな現実も認識しておくべきだろう。

(執筆撮影・尾関章、通算337回)

 

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