『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》山形の米

 当欄前回のまくらで書いた福井の思い出を、今週ももう一度。先週は、記者2年生のころを振り返って「朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている」と書いた。だが、あとで気になったことがある。あれは、福井本来の風景だったのか――。

 

 1970年代の後半、僕がいた新聞社の福井支局では、新人が1年目の警察回りを終えると郡部担当になるしきたりだった。県内数カ所にはベテランの駐在記者がいるから、県域すべてを回るわけではない。県都・福井市周辺の町村を受けもたされたのだ。主な取材先は福井市北方の坂井郡。港町の三国、城下町の丸岡、温泉町の芦原など個性豊かな6町が肩を寄せあっていた。今は平成の大合併で、坂井市とあわら市に集約されてしまったが……。

 

 郡の真ん中には坂井平野が広がっている。僕が青々とした水田に心躍らせたのは、そこを走り抜けていたときだ。ジープは風通しが良いので、田んぼの水を撫でた風が運転席にも吹き込んでくる。都会育ちの青年は、これこそが農村なのだと思ってしまった。

 

 だがこれが、北陸農村部の原風景だとは到底言えない。僕がよく通った道は通称「嶺北縦貫道」。文字通り、まっすぐ延びていた。道路計画の詳しいいきさつは知らないが、マイカー時代の到来を受けて整備されたものであることは間違いない。今回、ネット検索で福井県文書館のウェブサイトに入ると、「嶺北縦貫道路(工事)」という写真が館に保存されているようだ。日付は「昭和47..16」。1972年。高度成長が極まったころである。

 

 そうだ。あの道は、もともとはなかったのだ。農村には、在所と呼ばれる集落が散らばっていた。それに寄り添うように鎮守の森もあった。人々は街道を行き交うか、畦道をとぼとぼ歩くだけだった。クルマで通り抜けてゆく闖入者などいなかったのだ。ところが、その原風景を縦貫道が貫いた。周りには福井空港。そして、半導体工場。まるで都会派のユーミン(荒井〈松任谷〉由実)が歌う「中央フリーウェイ」のように……。

 

 農村は変わった。高度成長によって変わったのだ。だから僕は、それ以前の農村を知らない。この一点は、忘れてはいけないと思う。今回、『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)を読んで、そう自戒した。この本に描かれた農村は、高度成長のために出稼ぎの人々を大都会に送りだしているが、村のありようは昔のまま。変容寸前だったのだ。だから、貴重な証言となっている。で、今週も、この同じ本を読む。

 

 1964〜65年に見たものが風前の灯火だったことは、著者も心得ている。たとえば、稲刈り後の田んぼを描いたくだり。「稲におが、人の立姿のように、何十本と田に整然と並んでいるさまは、この世で人の営みが作り上げた最も美しい光景の一つではなかろうか」と讃えて、こう続ける。「黒川のこの浄土のような風景は、十年も経たないうちにまったく消えてしまった」。ここで「稲にお」とは、刈った稲を円錐状に積み重ねたものをいう。

 

 代わって見えてきたのは「農地の基盤整備で一枚一反という田が格子状に広がる風景」だ。「スーパー農道が三本も出来、大型の農業機械が入る。ハーヴェスタが音を立てて唸り声を上げると、黄金の稲はたちまち刈り取られ、同時に稲籾の脱穀もされる」。田んぼが規格化され、収穫作業の一切をやってのける農業機械コンバインド・ハーヴェスタ(コンバイン)が広まったのだ。これを読んで僕は、縦貫道沿いののっぺりとした景色を思いだした。

 

 日本では、あのころから農村に中核農家を育て、一戸当たりの耕地面積をふやして農業の生産効率を高めようという方向性が強まっていた。それは「農地の基盤整備」や「大型の農業機械」に象徴される。その裏返しで昔ながらの農村文化が追い払われようとしていた。

 

 では、前週の予告通り、この本が紡ぎだす黒川村の四季を追いかけていこう。「王祇祭が終わった。さあ、日常の暮らしに戻らねばならない」で始まる一節に出てくるのは、雪の話だ。急を要するのは、家屋の雪下ろし。男たちが屋根の雪を「掘るように」搔きだし、投げ落とす。たちまち、家は雪の山に囲まれるから、それを越えられるように階段を刻む。ときには、高くなった山を切り崩して、その雪を用水路へ流すこともあった。

 

 それが済むと、もう農業の営みが始まる。雪に覆われた田んぼに「いくつもの真っ黒な小山」が出現する。「見ると、男たちが二人掛かりで何かを運んでいる」。橇に積まれているのは、村人たちが丹精込めてつくった堆肥だった。材料は、牛小屋や馬小屋に敷かれた藁。そこには牛馬の糞がしみ込んでいる。さらに落ち葉、生ごみ、米糠、そして下肥。その調合に自然界の循環がしっかり組み込まれている。エコロジーの原型である。

 

 そして三月、雪解けを待っていたかのように、村は婚礼の季節を迎える。背景には「春の農作業が始まる前に、この大事(おおごと)をすませたい」という農村ならではの事情があり、新婦を迎える側の家族には「春先からの農事の働き手が一日でも早く来るのがいい」という思惑もあった。結婚は、農の営みに根ざしていたのである。だが、そこにも時代の波は押し寄せる。「この頃、農村ではヨメ不足が問題になり出していた」と著者は記す。

 

 五月には田植え。「一軒の田植が終わると、明日はつぎの一軒に移る。大勢が集まって楽しいのが田植の結である。昼飯も小昼(コビル)もみんなで畦に坐って食べる」。ここで改めて教えられるのは、農作業には共同体が進める事業という一面があったことだ。ところが数年たつと、この光景は見られなくなる。田植えも草取りも機械を使った一人仕事となり、作業をてきぱき済ませると「また東京へ出稼ぎに戻る」人たちが出てきたという。

 

 夏はお盆。その一節では、意外なことに成人式会場の情景が描かれる。黒川村では、1月、即ち旧暦の年の瀬は王祇祭の支度で忙しい。どこの家族も「男たちの紋付や袴の心配はしても娘の晴れ着など思い浮かびもしない」。そこで、東京の工場などに就職した若者たちが盆休みの里帰りで戻ってくる機会に成人式が開かれるようになったのだ。なにごとも、まず王祇祭ありきで物事が決まっていく。風土に根ざした歳時記が、ここにはある。

 

 そして、いよいよ秋祭り。これは、字(あざ)ごとにそれぞれの氏神を祀る神社で次々開かれてゆくという。ここで著者がもちだすのが、「内場(うちば)」だ。近隣に住む10戸足らずの小さな共同体、血縁ではなく地縁の集団を指す言葉らしい。秋祭りでは、この内場が結束を強める。これこそが、新春の王祇祭を支える土台になる。王祇を迎え入れる家、即ち当屋は、内場の仲間たちの支援があるからこそ大役を果たせるのだ。

 

 黒川村では、季節が王祇祭、即ち黒川能を中心に回っている。同じことは、村人の人生についても言えそうだ。前回の当欄では、この本の記述から、子どもたちが能舞台で元気に足踏みする姿や、年長者が夜通し朗々と謡いあげる様子を切りだした。黒川能に、それぞれの年齢層に割り当てられた役回りがあることを伝えたかったからだ。著者が、この村には「年代ごとにつねに場があり、役割がある」と書くとき、それは能にとどまらない。

 

 黒川村では、家庭を営むこと、生計を立てること、地域に貢献すること――それらのすべてで、若者には若者の、壮年には壮年の、年寄りには年寄りの役目が期待されている。その構図が凝縮されているという一点で、黒川能はただの伝統芸能ではないのである。

 

 最後に、この本はIT(情報技術)世代にこそ読んでほしい、と僕は思う。ネットワーク技術は世の中をひと色に染める力があるので、地域の伝承を一掃しそうな気がする。だが、情報の流れを逆転させたらどうか。まず、伝承を蘇らせる。その一部始終をネットで発信する。さながら、著者船曳由美さんのように……。そこに立ち現れるのは、いくつもの文化が並び立つ世界だ。ITがあるのに、ネットがあるのに、今の僕たちは貧しすぎる。

(執筆撮影・尾関章、通算513回、2020年2月28日公開)

 

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『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)

写真》庄内風? 手前は地元産あさつき

 あの夕暮れは生涯忘れられない。1977年4月、新聞社に入って、初任地福井の土を踏む直前のことだ。特急列車が、福井市内を流れる足羽川を渡るころ、西空の陽光が斜めに車内へ射し込んだ。オレンジ色だが、どこか哀愁を帯びている。僕は心細かった。

 

 25歳。生まれてからずっと東京暮らしだった。入社試験の面接では、そこを突いてくる質問もあった。「入って数年は地方勤務だよ。やっていけるかなあ」。とりあえずは「その覚悟です」と答えたものの、そこで問答が打ち切られたので受かるまいと思った。ところが予想に反して、採用通知が届いたのだ。本当は「やっていけるかなあ」と脅えていたのは、だれよりも自分自身だった……。だから、北陸の薄暮がひときわ寂しく感じられたのだ。

 

 だが、それも一晩で吹っ飛んだ。翌朝からは警察回りの取材が始まって、慌ただしさのなかで心細さは雲散霧消した。それどころか、むしろ「地方」に心が躍るようになる。それを強く自覚したのは、2年目に郡部担当になったころだ。朝、ジープを駆って田園地帯に出る。水田が青々と広がっている。繊維工場からは織機の音が聞こえてくる。港町がある。城下町がある。温泉町も、門前町も。日々、東京にないものの発見つづきだった。

 

 とりわけ心惹かれたのは、九頭竜川河口の三国町(現・坂井市)。江戸時代、北前船の寄港地として栄えた歴史があるが、今はカニ漁や甘エビ漁などの水揚げ基地になっている。砂浜沿いにはラッキョウやスイカを栽培する農家があった。丘陵地では酪農も営まれていた。小さな町なのに多彩な顔がある。僕は20代半ばにして、大都市にはない小都市の魅力を知ったのである。(当欄2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)

 

 で、今週の1冊は『黒川能――1964年、黒川村の記憶』(船曳由美著、集英社)。山形県庄内の黒川村(現・鶴岡市)に伝わる黒川能に光を当て、1964〜65年に現地に赴いて、その一部始終を活写したノンフィクション。著者は集英社の編集者として海外小説の大作を発刊してきたことで知られるが、その前は、平凡社の雑誌『太陽』編集部に在籍していた。この本は当時の取材の記憶を核にして、近年の状況も盛り込んでいる。

 

 最初にことわっておくと、著者は僕にとって近隣の人だ。存じあげる限り、少女時代からこの町におられた。どの町かは個人情報にわたるので書かないが、東京のふつうの住宅街。この本からも、東京っ子が目の当たりにした農村文化の迫力が伝わってくる。

 

 著者の横顔を、もう少し紹介しておこう。本書に綴られた個人史によれば、東京大学3年生のとき、1960年の安保闘争に遭遇する。「あれは西洋史の講義であったか、階段教室に先生が現れると、後からひらり、と小鳥のように一人の女子学生が入ってきた」。その人こそが、まもなく国会周辺の反安保抗議行動で犠牲となる樺美智子さんだった。彼女はデモへの参加を呼びかけ、岸信介内閣の打倒を訴えて教室を後にしたという。

 

 記述からは、著者も当時、反安保を掲げる進歩派に共感を覚えていたことがうかがえるが、興味のありかがちょっと違った。ゼミの指導教授とのやりとりで、今読んでいる本の話になったとき、同級生の多くはマルクスやマックス・ウェーバーらの名を挙げたが、著者は『ものいわぬ農民』(大牟羅良著、岩波新書、1958年刊)を挙げた。大牟羅が行商のかたわら、岩手の山あいで農業に勤しむ人々から囲炉裏端で聞いた話を集めた本である。

 

 東京っ子なのに、なぜ農村なのか。理由の一つに「世田谷の多摩川に近い郊外」で生まれたことが挙げられている。同郷の僕にはピンとくる。そのころ、東京・世田谷は畑が広がっていた。都心部から見れば近郷近在。東京には「まち」と「むら」が共存していたのだ。著者は、その「むら」に愛着があったのだろう。そして、「むら」が東京から消えつつあった時代、その原型を列島の津々浦々に求めたのが雑誌『太陽』だった。

 

 世の中が1964年の東京オリンピックを前に沸いていたころ、『太陽』初代編集長の谷川健一は「日本列島に息づいて暮らしている人間の実像に迫ることが、なによりも大事」を口癖にしていたという。著者は、それに応えるように企画を練る。五輪景気で東京には出稼ぎの男たちがあふれている。東北の村は年寄りと妻子だけが残されているはずだ。だが、ときに男たちも帰郷して「村をあげて」盛りあがる行事があるのではないか――。

 

 著者は、山形の詩人、真壁仁の作品を通じて黒川村の王祇祭、即ち黒川能の魅力を知る。これは2月初め、地元春日神社のご神体として「王祇様」を村内の民家に迎え入れ、旧暦新春の到来を祝う催しだ。1964年晩秋から、なんども現地に赴くことになった。

 

 その夜行列車の情景がいい。二等寝台に乗り合わせた上段の客は大荷物。風呂敷からクマのぬいぐるみや金髪のフランス人形がのぞく。おそらく、東京土産なのだろう。ラクダのシャツ姿になり、「東京では一日中、土の中にもぐっていてよー」。地下鉄の工事現場で働いているらしい。清酒の1合瓶を開けて、ちびりちびりとやりだした。秋田県の象潟に帰省するというが、黒川村にも祭りのころ、同じような男たちが集まって来るのだろう。

 

 ではいよいよ、著者の現地体験。ヤマ場の一つは、1965年2月1日夜から2日未明にかけ、神の宿となった民家2軒――当屋という――で演じられる能と狂言にある。ただ、あいにく僕は能楽の知識が乏しい。細部に踏み込まず、空気感だけをお伝えしよう。

 

 なんと言っても、この祭りは黒川村というトポスと切り離せない。5歳前後の稚児が唱える寿詞(よごと)には「東に月山高くさん」「南にてふてふつらなって」「西に青龍寺ががんとして」「北に鳥海まんまんと」とある。ここで、青龍寺の所在地は金峯山。わが村こそは四方の山に守られた「神の嘉(よみ)する地」という郷土礼讃だ。見渡せば山々に囲まれ、冬になれば雪に閉ざされる村だからこそ、これほど濃密な祭事が育ったのだろう。

 

 稚児たちが舞台上で足拍子を「タンタタタン」と踏んだり、腰に差した太刀を扇で打ち鳴らしながら駆けまわったり、という場面もある。ここで著者は、「二軒の当屋の舞台から稚児の足踏みが波紋のように広がって、黒川の大地にその霊力は届いた」「深い雪に埋もれた大地にいま眠っている種子や草木の芽は、その音で目覚め、春を村にもたらすのだ」と書く。子らの健やかさは、新年を雪深い里で迎える人々の春への期待感を体現している。

 

 ただ、そんな子どもたちも間違いなく、高度成長期の少年少女たちだった。当屋を訪れた小学生の男の子に母親が小言をいう。「ダメだぁ、帽子取らねば」。だが、その子は野球帽を脱がない。「いいでねえか、だだちゃの東京からのみやげかぁ、巨人(ジャイアンツ)だのう」と声がかかる。別の箇所では、赤い手袋をはずさない女の子の姿も。だだちゃ(父親)が上野発の夜行で運んでくる「東京」が、子ども心を魅了していたことがわかる。

 

 年寄りの存在感も大きい。壮年期は舞台で主役(シテ)を務めていた世代が今は長老となって地謡座に並び、「肩衣を着け背筋を張って坐し、声朗々と明け方まで謡いあげていく」。中座あり、交代ありではあるらしいが、8人が「十時間近く全曲を謡い通し」というのだから敬服する。その一方で、謡いのかたわら、ワキ座にいる子らの足のしびれを気づかう様子の描写には思わず微笑んだ。孫世代の世話も決して忘れていないのだ。

 

 老若男女が入り交じって盛りあがるのが、王祇祭に先だって当屋で繰り広げられる豆腐炙り。祭り当日にふるまう豆腐料理の下拵えだ。当屋の火炉を村人20〜30人が囲み、串に刺した豆腐を炉の縁に立てて炙る。これは、男女の出会いの場でもあるらしい。「夕暮れ近く、風の如く一人の女性が入ってきた」。ちょっと目礼して炉端へ。「サッと男が一人追いかけてきて隣りに坐ると、しきりに話しかける」……。美しくも切ない場面である。

 

 東京の喧騒の陰で「地方」にはこんな豊かな世界があった。それは、五輪のように突然、誘致されたものではない。来る年も来る年も繰り返され、受け継がれてゆく暮らしとともにある。著者は後段で、その春夏秋冬も描いている。ということで、次回もまたこの本を。

(執筆撮影・尾関章、通算512回、2020年2月21日公開)

 

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『野村克也、明智光秀を語る』(野村克也著、プレジデント社)

写真》月見草逝く、1面トップでなく……(朝日新聞2月12日付朝刊)

 ノムラ逝く――。プロ野球人野村克也さんの訃報である。享年84。世間的には「ノムラ」ではなく「ノムさん」かもしれない。名伯楽にしてボヤキの名人、知性派にして情にも厚い指導者。そんな監督としての姿を覚えている人が大半だからだ。だが、僕は違う。拙稿表題にあるように1960年代、南海ホークス(現・ソフトバンク・ホークス)の四番打者であり、超一級の捕手だったころのことが忘れられないのだ。(以下、敬称略)

 

 野村克也という選手を知ったころ、僕はまだ小学生だった。東京の子どもたちは、圧倒的多数が巨人ファン。覚えている限りで言えば、僕の学級の半数、即ち30人近い男子児童のうち巨人以外を応援しているのは、たった3人だった。西鉄ライオンズが1人、東映フライヤーズが1人、そして南海が1人。その南海ファンが、ほかならぬ僕だったのだ。ちなみにあのころ、プロ野球好きを表明している女子は一人もいなかった、と思う。

 

 1960年代、テレビ各局はプロ野球中継にしのぎを削っていた。セ・リーグ中心でナイター(ナイトゲーム)が多かったが、ときに薄暮ゲームも生中継された。子ども心がときめいたのは、その美しさだ。真夏、夕暮れ、大阪球場の照明塔に灯がともる。後攻ホークスに好機が訪れ、野村が打席につく。丸顔の頭部を覆うヘルメットに照明の光がはね返り、きらめいている。なにかが起こりそうだ!――あの期待感は、今も僕の胸のうちにある。

 

 野村と言えば「月見草」。1975年、本塁打通算600本を達成したときのことだ。巨人のON砲を「ひまわり」にたとえ、自らを「人目に触れないところで咲く月見草」と形容した。南海ファンが1学級に1人という僕の原体験は、その比喩の的確さを物語る。

 

 そうだ、僕は筋金入りの月見草ファンだったのだ。だから、今回は予定を変更して、速報で野村本をとりあげる。かつて当欄の前身では『あ〜ぁ、楽天イーグルス』(野村克也著、角川oneテーマ21)を読んだことがある(文理悠々2013年9月30日付「マー君の陰にノムさんありという話」)。今度は、野球べったりでない本を選びたい。そう思って書店で見つけたのが、『野村克也、明智光秀を語る』(野村克也著、プレジデント社)である。

 

 刊行は、2019年12月24日。つい、ふた月ほど前のことではないか。世間では年明けから始まるNHK大河ドラマの影響で、明智光秀がブームになろうとしていた。このときを狙って「ノムさん」と光秀を結びつける本を出す。あざといと言えばあざとい。さすが、ビジネスパーソンの心、とりわけおじさんの心をわしづかみにするのに長けた版元だ。著者自身、この出版話をもちかけられたとき、「心底驚き、そして呆れた」と書いている。

 

 著者が「光秀なんて名前しか知らない」と応じると、プレジデント社の書籍編集部長は「知っている人間に明智光秀の話をさせますから、その話を聞きながら、その時々における光秀の心情を野村さんに語ってほしい」とたたみかけてきた、という。粘り腰だ。いや、ファウルで粘って狙い球を逃さないということか。ただ、この一文によって、本づくりの内幕が正直に明かされている。この本は、歴史通が楽屋裏にいて力を貸した一冊と言える。

 

 実際に本文は、光秀と著者それぞれの個人史が並行して進み、互いに絡みあうつくりになっている。ところどころに「俺のボヤキ」というひと言が挟まるのだが、これこそが著者の本音のように思われる。その一つに「光秀の話を聞いて、俺の思いを語っているけれど、かみ合っているかな?」とある。著者にも戸惑いがあったのだろう。実際、野村克也と明智光秀、この二人には似ているところもあるが、違うところがあり過ぎる。

 

 似ているのは、月見草ということか。たしかに、戦国絵巻の主役と言えば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。僕たちは当代著名人のキャラを比べるとき、この3人になぞらえる。だが、光秀の名は出てこない。これはまさに、王貞治、長嶋茂雄に対する野村の立ち位置だ。

 

 少年期、青年期の境遇も重なりあうところがある。光秀は美濃の武将の子として生まれるが、若くして郷里を追われ、越前の朝倉義景らに仕える。信長と出会うのは40歳の大台に乗ってから。苦労人だったことは間違いない。著者は、それと自らの生い立ちを重ねる。

 

 著者は1935(昭和10)年、京都府網野町(現・京丹後市)で生まれた。父は戦死、母や兄とともに暮らした。小学3年生のときから、新聞配達をして家計を助けたという。中学生時代に思いついたのが、歌手になって母の恩に報いること。音域を広げようと、放課後は浜に出た。「海に向かって大声を出し続け、本当に声が出なくなるくらいに叫んだ」。さながら、自主トレのようだ。野球部に入ったのは中3になってからだという。

 

 ここまでは、たしかに相通じる。だが、光秀が信長に登用されたころの心情を、自身がヤクルト・スワローズの監督に就任したころのそれとだぶらせる話には無理がある。光秀は、弱小球団を転々としてようやく人気球団にトレードされた選手という感じ。これに対し、著者は現役時代、すでに強豪チームの主砲であり、尊敬を集めていた。身が引き締まる思いだったことは共通していても、心の余裕は地と天ほどの差があっただろう。

 

 こうみてくると、著者と光秀を強引に対応させるのは賢明ではない。出版社の心理としては、既刊の著書群で披歴された野村イズムを別の角度から切りだそうとして光秀を引っ張ってきたのだろうが、その必要はない。野村イズムは二度三度聞いても鮮度が落ちない。

 

 僕がこの本で、さすが野村、と感銘を受けたのが「想像して、実践して、反省する」という言葉だ。なんの変哲もない人生訓のようにも見える。だが、これが「キャッチャーは一試合で三試合分の試合をしている」という著者の実感と結びつくと、輝きが増してくる。ここで「三試合」とは、プレーボール前の「想像野球」、試合中の「実践野球」、ゲームセット後の「反省野球」。想像と反省という知的作業が、実践の身体作業と不可分なのだ。

 

 捕手の仕事に即して言えば、試合前の「想像野球」で「相手打線の並びや打者のタイプを見極めて、どう攻めるか具体的に考える」。試合が終われば「一球一球の配球と結果を思い出し、反省野球をする」。これが、翌日の糧になるという。このくだりを読んで、ここにあるのは科学者の思考様式そのものではないか、と僕は思った。物事を観察して仮説を立てる、その当否を確かめるために実験する、その結果を分析して仮説を修正する――。

 

 大打者ならではの説得力ある言葉も、この本には出てくる。「野球とは、『間』のスポーツだ」というのである。投手の手を離れた球が捕手に届くまでの時間は1秒足らず。打者は、瞬時に「球を見極めて判断しなくてはならない」。だから、攻撃時のベンチは「休憩する場所」ではない。「準備をする場所」なのだ。打順を待つ間、マウンド上の投手がどんなときにどう投げるかをしっかり「観察」する――その時間を著者は「間」と呼んでいる。

 

 監督時代の話もある。1976年、南海の監督兼選手だったころ、移籍してまもない名投手江夏豊が肩の故障で苦しんでいた。本人も「もう先発完投は無理だ」と打ち明けたという。そこで抑え役となるよう促すのだが、まだ「先発完投するピッチャーだけが評価された時代」だった。監督として言い渡した言葉は「お前、リリーフ分野で革命を起こしてみい」。江夏は承諾した。著者は、投手の分業が当たり前になる流れを見抜いていたのである。

 

 野村克也は、選手としても監督としても「考える人」だった。これは、明智光秀との共通点かもしれない。光秀は花を咲かせずに散ってしまったが、野村は見事に開花させた。月見草の美学を貫いて……。その人のファンでありつづけたことを僕は誇らしく思う。

(執筆撮影・尾関章、通算511回、2020年2月14日公開、同月15日更新)

 

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●英紙ガーディアン社説(デジタル版、2020年1月31日現地時間23時00分)

写真》ついに出口

 2月1日午前8時、目覚めてすぐ、タブレット端末でBBCのウェブサイトを開くと、そこにはユニオンジャックのうねりがあった。ロンドン・ウェストミンスターの国会議事堂前広場。いつのまにか僕は、そのただならぬ熱気を去年11月に皇居前広場であった天皇即位祝賀式典のテレビ中継にダブらせていた。画面には「英国はEUを去った」の大きな字幕。「去った」がhas leftと現在完了となっているところが生々しい。

 

 We are no longer EU citizens.――「私たちはもはや、EU市民ではない」とBBCのキャスターが言う。その言葉には、広場で旗を振る離脱派市民の熱狂とは異なる響きがあった。哀愁か、落胆か、あるいは大変な未来が待っているという覚悟か。

 

 広場の光景を見ていて、気づいたことがある。はためいているのが、一つの旗ではないことだ。英国、即ち連合王国(the United Kingdom)の国旗ユニオンジャックに交ざって、白地に赤の十字のイングランド国旗がある。国のなかに国があるという入れ子のナショナリズム。実際、スコットランドではEU離脱を苦々しく思う人々が多数を占めている。旗の混在は英国の多様性の証しではあるが、不安定な未来の兆しでもあるのだろう。

 

 もう一つ、あっそうか、と思ったことがある。離脱の瞬間が現地時間1月31日午後11時だったことだ。なぜ、2月1日午前零時ではないのか? だが、それは愚問だった。英国のEU離脱は、欧州連合(EU)本部があるベルギー・ブリュッセルの標準時で事が進んだのだ。考えてみれば、英国が1973年に欧州共同体(EC)に加わって以来、英国の人々は大陸の時刻を自国のそれに翻訳することにすっかり慣れてきたのである。

 

 で、今週は、英国がEUを去ったその日、英紙が掲げた社説をとりあげる。選んだのは、左派系の高級紙とされるガーディアン(The Guardian)。EU残留を主張してきた新聞だ。今回はデジタル版で読んだ。発信欄には、離脱その瞬間の時刻が記されている。

 

 その表題は、「英国のEU離脱に対するガーディアンの見解『なおも欧州の一部』」。本文冒頭には「我々は負けた。我々は抜け出た。厳しい言葉と寒々とした現実。英国は今、欧州連合を離れた。我々の旅立ちは、痛ましい国家の過ちであり、この新聞が一貫して反対を唱えてきたものである」。敗北宣言から入るのだから、辛い論説記事と言えよう。だがそれでも、EUからの離脱を「痛ましい国家の過ち」と言い切る姿勢を崩していない。

 

 負け惜しみめいた記述もある。国民のほぼ半数が離脱反対であること、たとえばスコットランド、北アイルランド、首都ロンドンでは反対が過半数であることや、若者の多くが反対していることを強調しているのだ。そして、反対派の人々も賛成派と同様、愛国心に満ちている、と書き添える。だが、国民投票と総選挙の結果がEU離脱を決定づけたことは動かしがたいので、「我々は負けた。我々は抜け出た」と繰り返している。

 

 次いで表明されるのが「英国はなおも欧州の一部」という認識だ。「晴れた日には、南の海辺からフランスが見える」「アイルランド共和国は、北アイルランドのあちこちから短いドライブでたどり着ける」「私たちの頭上には、同じ一つの空が生みだす同じ風が吹いている」。そして、英国にとって大陸欧州は人の往来がもっとも頻繁な地域であり、EUは最大の貿易相手であること。英国の安全保障は大陸欧州のそれに根ざしていること。

 

 こうした結びつきは、英国のEU離脱によって変わるのか。ガーディアン紙は、変わらないとみる。それは地理、歴史、気候、文化、商工業などにとどまらない。「言語の違いや国境を超えた共通の人間感情の膨大な蓄積もまた、そのまま残るに違いない」と断言する。

 

 ここで心動かされるのは、結びつきの一例に歴史認識を挙げていることだ。この1月にポーランドで、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の解放75周年を記念する追悼式典が開かれたことを受けて、「あのストーリーは欧州のストーリーであり、英国のストーリーでもある」と言い切る。戦争犯罪を戦時に敵味方に分かれた双方が語り継ぐ――それが敵対感情ではなく共通感情を生むまでになったということが示唆されている。

 

 ガーディアン紙は、こうした英国とEU、あるいは英国と大陸欧州との関係の深さを踏まえて、感極まったようにこう書く。「私たちは外に抜け出たのかもしれない。だが、どこかへ行こうとしているのではない。私たちは今もここにいる。私たちは欧州人なのだ」

 

 もう一つ印象深いのは、ガーディアン紙が自国の立ち位置を冷静に見抜いていることだ。そのくだりは、こう説きおこされる。「英国は重要な国だ。しかし、地球規模の大国ではない。ドナルド・トランプと習近平の時代に世界を動かす力は、英国にあてがわれていないのだ。それは、協力と連携と強制力のある法に委ねられている」。かつて大英帝国と呼ばれた国に、自国第一主義とは真逆の国際協調主義がしっかり根づいているのである。

 

 この社説は、世界がいま直面している課題を列挙する。気候変動、移民問題、サイバー犯罪、IT大手のデータ収集、テロリズム、民族主義の強まり。どの一つをとっても、一国だけで対処できる問題ではない。ガーディアン紙は、これらの解決策を探るとき、ジョンソン氏(ボリス・ジョンソン首相)は頼りにならないとの見方を示す。英国の現政権には、国際社会の「協力と連携と強制力のある法」に対する熱意が感じられないのだろう。

 

 英国が大陸欧州との間で、あるいは世界全体を相手に、なんの制約もない競争にさらされたら、どうなるのか。一匹狼になるしかない。「そんな英国には物事を混乱させる力はあっても、それを制御して方向づける力はない」。この社説は悲観的な展望を隠さない。

 

 終盤では、EUに対しても注文をつける。「背伸びする」「お節介をやく」「ひと色に染まる」――そういう方向をめざしてはいけない、というのだ。ここで示される「より良きEU」像は、加盟国が実際的な見地に立ち、妥協しあうことで成り立つ連合体である。これに続けて「そんなEUに、英国はたぶんいつの日か再加盟するだろう」と書く。これは、希望的観測ではある。直後に「その日は、すぐには来ないだろう」と認めているのだから……。

 

 そして最後は、ガーディアン紙自身の残留宣言。「私たちは、欧州の報道機関だ。欧州は、私たちの背後に広がっている。それは、私たちの心の内にあり、私たちのDNAの中にある」。結びは、Long live Britain. Long live Europe.「英国万歳、欧州万歳」である。

 

 情緒的な社説だ。文中、国際協調主義のくだりには論理があるが、全編を覆うのは欧州愛だ。1990年代の数年間を英国で暮らした者の実感で言えば、英国人はそんなに大陸欧州が好きだったっけ?――とイヤみの一つも言いたくなる。だが、この10年ほどで英国も欧州も変わったのだろう。欧州の全域で、EU懐疑の気運が自国第一主義とポピュリズムに後押しされて高まれば高まるほど、欧州愛を自覚する人もまたふえてきたのではないか。

 

 そんなことをふと思ったのも、英国離脱を前に欧州議会の議員たちが手をつないでスコットランド民謡「蛍の光」を唄う光景をネットで見たからだ。ここにはビートルズで育ち、対抗文化を共有した世代がいる。エコロジーに目覚め、環境保護運動を引っぱってきた世代もいる。同時代人だからこその「共通の人間感情」が、今は海峡を挟んで島国と大陸に根を張っているのだ。英国がEUから抜けても、英国の人々は欧州から抜けられない。

(執筆撮影・尾関章、通算510回、2020年2月7日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)

写真》シベリア

 お役所仕事のずさんさが次々に露呈しているが、あまりに多岐にわたるので目立たないものもある。第2次大戦後、抑留先のシベリアで亡くなった人の遺骨情報の「放置」が、その一つだ。だがこれは、死者の尊厳にかかわる話なので見過ごせない。

 

 この一件は昨夏、NHKの特報で発覚した。その後の朝日新聞の報道によると、厚生労働省の事業で1999年〜2014年にシベリアから引きとられた遺骨のうち、約600人分が日本人のものでないらしいとわかった。これを厚労省は公表しなかったという。

 

 ここで、遺骨が日本人のものかどうかを見極めたのはDNA型鑑定だ。厚労省の派遣団は、埋葬地の調査で日本人の遺骨とされたものを持ち帰った。昔なら、それでひとまず事業は完了したはずだ。もちろん、判定に対して懐疑的な見方は出たかもしれないが、決め手がないので、うやむやに終わっただろう。ところが今は、物証が手に入る。専門家が人骨に残るDNAを調べて、疑義を唱えたのだ。この結果を無視してよいわけはない。

 

 DNA型鑑定は1980年代に登場した。この技術は、血液型だけでは父親がわからない、犯人を絞れない、という近代小説の決まり事を吹っ飛ばした。それが今回は、埋葬記録のいい加減さをあばいたのだ。だが、そのことでシベリア抑留の霧はますます深まった。

 

 シベリア抑留とは何か。厚労省ウェブサイトにある公式データを見ておこう。シベリア抑留とは、戦争直後、旧満州(中国東北部)や樺太(ロシア・サハリン)、千島地域にいた旧日本軍人など57万5000人を、旧ソ連がシベリア地方やモンゴル国内に「強制抑留」したことを指す。うち約5万5000人が抑留中に亡くなったという。被抑留者の総数は鳥取県1県の人口に匹敵する。しかも、その1割ほどが生命を落としたことになる。

 

 戦後しばらく日本社会では、家族が、親類が、友人が海を隔てた極寒の異郷にいて、その生死すらわからないという状態がふつうにあったのだ。しかも厚労省サイトによれば、70余年後の今も、彼の地で死去したのは誰かという情報が確定されていない。

 

 そうでなくとも、僕たち戦後世代はシベリア抑留についてほとんど知らない。私事を言えば身内にも体験者がいたのだが、抑留期の思い出を聞いた記憶がまったくない。さぞ辛かったのだろう、尊厳を傷つけられることもあったに違いないと推察して、こちらもあえて聞きだそうとはしなかった。おそらく同様の家庭は津々浦々に多いはずで、その分の個人史が封印されている。こうして、民衆の戦後史に大きな穴がぽっかり開いてしまったのだ。

 

 で、今週は推理小説『東京ダモイ』(鏑木蓮著、講談社文庫)。終戦直後のシベリア抑留地と今日の日本社会が、それぞれで起こった殺人事件の謎解きでつながってくる、という筋立てだ。著者は1961年生まれ。塾講師、出版社勤務、コピーライターなどの職歴を経て、2000年代にミステリー作家となる。06年、この作品によって江戸川乱歩賞を受けた。それが同年、講談社から単行本として刊行され、09年に文庫化された。

 

 題名の「ダモイ」は、「帰郷」「帰国」を意味するロシア語。シベリアの被抑留者たちはきっと望郷の念を募らせて、この外国語を真っ先に覚えたのだろう。彼らの帰還後、日本国内でも一時期、流行ったらしいが、1951(昭和26)年生まれの僕には記憶がない。

 

 作品のプロローグは、1947年11月、イルクーツク州タイシェトの第53俘虜収容所の話。ちなみに巻末のことわり書きによれば、この収容所は架空のものだという。本文は、鴻山隼人中尉のつぶやきで始まる。「寒波(マロース)だ、マロースが来る。明日はマイナス四十度を下回るかもしれん」。零下40度より寒ければ、作業は中止との決まりがある。だが、中尉は「帝国軍人の誇りを忘れるな」「ノルマに負けるな」と発破をかける。

 

 ここで浮かびあがってくるのは、被抑留者集団の複雑さだ。指示系統の頂点にソ連当局が君臨していることは間違いない。だが日本軍の階級はそのまま残っていて、それが指示系統の補完装置のように働いている。とはいえ、そこにも牽制が入る。「ソ連側は、抑留者たちに共産主義を植えつけるため、軍国主義をやめさせようと民主化教育を激化させていった」。集団内には、民主運動の活動家となった元日本兵がいて「アクティブ」と呼ばれていた。

 

 こうしたなかで、鴻山中尉の殺害事件が起こる。零下47度の朝、高津耕介二等兵が凍土の氷――融かして水にするのだ――を調達するために外へ出ていたとき、首を切り落とされた死体が見つかったのだ。高津は斧をもっていたので疑われたが、血がついていないので容疑はすぐに晴れた。「鋭利な刃物だ。日本(ヤポン)のカタナのような」と、収容所の医師ニコライが言う。そこには、マリア・アリョーヒナという看護婦の姿もあった。

 

 つづく第一章では、時代が一転、2005年に飛ぶ。ここで登場するのは、東京の出版社員、槙野英治。新幹線経由で山陰本線に乗り、京都府北部の綾部に向かっているところだ。勤め先は、自費出版本の刊行が専門。その依頼人が綾部に住んでいるのだった。氏名年齢は、高津耕介76歳。そう、あの高津二等兵だ。槙野が綾部駅で降り、たどり着いた家は川沿いの雑木林の中。丸太づくりで土間があるだけ、という質素な住まいだった。

 

 出版したいのは、シベリア抑留をテーマとする句集だという。奇妙なのは、高津が本の体裁などにはまったく無関心で、「宣伝に力を注いで欲しい」とだけ条件をつけてきたこと。新聞広告は写真入りの大きな扱いで、と強く求めた。そうしてくれれば出版代金と合わせて500万円支払うが、ダメなら依頼そのものを撤回する、という。「売れなくてもいいんだ」「私が句集を出したことを知らせたい」――そこはかとなく、訳あり感が漂う。

 

 この小説では、同じ京都府北部の舞鶴で事件が起こる。かつて収容所の看護婦だったマリアが扼殺されたのだ。83歳。埠頭で海から引きあげられたのだが、下着のなかに旧日本軍人の軍用時計を隠していた。旅の付き添いをしていたのは、東京の医師鴻山秀樹。鴻山中尉の孫だ。高津も事件が報道された後、舞鶴署を訪れ、遺体を見て慟哭している。そして秀樹も高津も行方不明となった。マリア殺害は58年前の中尉殺害につながっているらしい。

 

 これより先は筋を追わない。作品のところどころに織り込まれた高津原稿から、被抑留者の思いをすくいあげてみよう。そこには、句集と言っても散文がたっぷり綴られている。

 

 まずは、抑留の始まり。「戦地で終戦を迎えた我々は二ヵ月後、何も知らずに満州から貨車に詰め込まれていた」。日本の兵士たちの間には、これはダモイなのか、という期待もあったらしい。一人の兵士が停車中、小用を足しているふりをして夜空を見あげる。星の位置からみて、行く手は北らしいと知り、こう叫ぶ。「ダモイではない、シベリアに向かっている」。このときの一句。「椋鳥やいづこへ帰る夜半の月」(ルビは省く、以下の引用も)

 

 高津にとって、収容所では医務室だけがやすらぎの場だった。看護婦が優しかったのだ。関東軍時代の誤爆事故で体内に陶器片が残っていたので、土木作業で穴を掘っていて、首のあたりに痛みを覚えたことがある。医師の処方は湿布薬くらい。それも不足していて交換できないことがあったが、マリアは「追い返そうともせず」「一撮みの砂糖をくれることさえあった」。その甘さに故郷のつるし柿を思いだす。「手のひらの甘き白砂柿の色」

 

 1947年暮れ、高津たちもついにダモイを果たす。「無事乗船してからも多くの人間が姿を消したり、亡くなったりしていた」。船内には「兵士たちが将校に報復した」とか「アクティブが制裁の機会を狙っている」とか、噂話が飛び交った。一方に、軍国主義の残滓。もう一方に、歪んだ「民主主義」の工作。二つの抑圧を経験した人々の心には、舞鶴港への引き揚げを前にして、疑心暗鬼が渦巻いていた。「甲板で心に秘する舞鶴草」

 

 俳句は、17文字に幾つもの思いを重ねられる。だから、そこに真情を潜ませることもできる。それが抑留の闇を照らす灯となり、ミステリーの謎を解く鍵にもなっている。

(執筆撮影・尾関章、通算509回、2020年1月31日公開)

 

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『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)

写真》新聞――紙とデジタル

 思えば、青臭い日々だった。新聞社在籍時代のことだ。若いころは仲間同士、とんがった議論に明け暮れた。年長になってからは、社内で会議漬けに。日本社会では会議が上意下達の場になっていることが多いが、そこはやせても枯れても言論機関である。ブレインストーミング風に思いつきをぶつけ合い、あたかも学園祭を前にした学生たちのように盛りあがる機会も少なくなかった。紙面企画を練る会議などが、これに当たる。

 

 考えてみれば、新聞づくりという仕事はぜいたくの極みだ。来る日も来る日も、真っ白な紙が幾枚も与えられる。それを好きなように埋めていけ、という。ここでものを言うのは、新聞づくりの動力学。一方には、列島の隅々、世界のあちこちに散って情報を集めてくるボトムアップの流れがある。もう一方には、集まった情報を取捨選択してこれはというものを強調するトップダウンの制御がある。アップとダウンがぶつかり合うのが会議である。

 

 僕の記憶をもとに、新聞社内で日課となっている紙面設計の会議を並べてみよう。朝一番には、夕刊づくりのために各部の出稿責任者(デスク)が集まる。昔は、フロアに立ったまま手短に済ませたので「立ちあい」と呼んだものだ。朝刊に向けては、夕方から夜半にかけて複数回、デスク会を開く。こちらは時間をかけて議論する。デスクは自分の部が出そうとする原稿を、説得力をもって売り込まなくてはならない。口八丁がものを言うのだ。

 

 で今週は、『ヌメロ・ゼロ』(ウンベルト・エーコ著、中山エツコ訳、河出文庫)というイタリア小説。イタリア語の「ヌメロ」は英語の「ナンバー」、したがって書名は「ゼロ号」と訳せる。出版業界では雑誌を創刊するときに見本版の「準備号」を用意することがあり、それを「ゼロ号」と呼ぶ。この小説は、新聞の「ゼロ号」をつくるためにかき集められた記者たちが織りなす物語。とめどなく続く議論が元新聞記者の僕には懐かしい。

 

 著者は、イタリアの小説家。作品群には、『薔薇の名前』『フーコーの振り子』など話題作が多い。哲学、記号論などの学究でもあった。本書カバーの著者略歴欄には、「現代を代表する碩学」とある。1932年生まれ、2016年没。本作『ヌメロ…』は、原著が15年に出た。著者にとっては、80歳を超えて世に問うた最後の長編小説だ。邦訳は16年、単行本として河出書房新社から刊行され、加筆修正されて18年に文庫本となった。

 

 この作品で、記者たちが新聞のゼロ号づくりに奔走するのは1992年4月から6月まで。新聞を新たに創刊しようという話を小説の題材にするには、ギリギリ最後の時代だったように思う。インターネットが広まったのは95年ごろ。その直前だから、紙のメディアは先行き不透明になっていた。当時すでに新聞のデジタル化は予想されていた。だが、その先にソーシャルメディア全盛の世が控えていることを予感していた人はほとんどいない。

 

 1990年前後は、別の面でも新聞が転換点にあった。新聞批判が世論になるという現象は以前からあったが、その議論が成熟してくる。事実の捻じ曲げ、プライバシーの侵害、取材倫理からの逸脱……いくつもの難点が指摘され、批判する側から批判される側に回るという逆転が起こる。記者にとっては厳しい時代の始まりだった。この作品は、新聞づくりの曲がり角に照準を合わせ、その時点に立ち返って想像をめぐらせているのだ。

 

 作品の主人公コロンナは50歳。大学を中退して町から町へ移り住み、「ものを書き散らしてなんとかやってきた」。書いていたのは、地方紙に載る劇評など。出版社の仕事で百科事典の校正や持ち込み原稿の下読みをしていたこともある。結婚経験はあるが、妻から「二年ほどで愛想をつかされた」。要するに、ぱっとしないジャーナリスト。そして「いつの日か本を書いて、富と栄光を手に入れること」を夢に思い描くようになっていた。

 

 冒頭の章の日付は6月6日。「今朝は蛇口から水が出なかった」と書きだされる。断水ではない。アパートの自室で、流し台の下の止水栓が閉まっていたのだ。コロンナは、夜中に不審な出入りがあったと疑う。この猜疑こそが、全編の伏線となっている。

 

 そして、第2章は2カ月前にさかのぼって、以後、最終第18章まで時系列に物語が展開される。それは、コロンナがミラノで、シメイという人物――雑誌編集長の経験があるらしい――から仕事の打診を受けるところから始まる。シメイは「出ることのない日刊紙の準備にかけた一年間を語る本」を執筆してほしい、と頼んでくる。よく聞くと、あくまでもゴーストライターとして、という条件付きだ。表向きの著者はシメイ自身だという。

 

 おもしろいのは、その日刊紙『ドマーニ(明日)』には出資元があり、創刊話がまったくの絵空事ではないことだ。ただシメイは、結局は発刊できまい、と踏んでいる。「新聞が頓挫(とんざ)したら、本を出版する」。そのためにも、ゼロ号をつくろうというわけだ。

 

 翌日、記者6人が集められる。芸能界の「熱々の仲」を記事にしてきたマイア・フレジア、「スキャンダル暴露」専門のロマーノ・ブラッガドーチョ。ほかに、事件事故の取材に駆けまわってきた記者、クイズ・パズル誌の経験者、新聞社の元組版主任、そして出版関係の仕事をしていたというが、どことなく胡散臭い人物。多彩と言えば多彩、ただ、チームプレーは難しそうな陣容だ。コロンナには、出稿管理をする「デスク」の役割があてがわれた。

 

 この筋立てが絶妙だ。コロンナたちは紙面をどうするかで議論を重ねるのだが、それは現実の報道ではない。出るか出ないかもわからない新聞のゼロ号。試作だから、実際の記者活動に比べて制約が少ない。「いつの日付にしてもいい」ので、日々の事件に追い立てられることもない。過去の大事件を振り返って、あのとき自分ならこんなふうに報じただろうと大見えを切ることもできる。こうして編集部は、言いたい放題の活況を呈する。

 

 実際、部内の議論には新聞を出す側の思惑が表出している。シメイは「ニュースが新聞をつくるのではなく、新聞がニュースをつくる」と言って、持論を展開する。いくつかの記事に共通点を見いだして、それらを1カ所に集め、大見出しを打ったとしよう。読者は、個々の出来事に関心が薄くても「ひとつにまとめると、どうしても目を止めてしまう」。これこそが編集の妙味というわけか。それは同時に、危うさでもあるのだが……。

 

 用語をめぐる議論もある。ブラッガドーチョが、ある記事の「モスクワの怒り」という表現にかみついて「陳腐に響かないか?」と切りだした。これに対して、コロンナは「読者はまさにそういう表現を待ち望んでいるんだよ」と反論する。例示される常套句は「真っ向から対立」「冬の時代」「これからが正念場」「もはや待ったなし」「土俵際に立たされる」……イタリア語でどう言うのだろう? いずこの新聞も同じだと、僕は苦笑する。

 

 自由な立場にいることを満喫しているように見えるのは、ブラッガドーチョだ。コロンナを酒場に連れだし、「新聞は嘘(うそ)をつく。歴史家も嘘をつく。そして今、テレビも嘘をつく」とまくし立てる。「アメリカ人はほんとうに月に行ったのか」「湾岸戦争はほんとうに起こったのか」。真実は「疑うこと」で得られると説いて、科学を例に挙げる。それにコロンナが同意すると、今度は「科学だって嘘をつく」と卓袱台をひっくり返す。

 

 物語はしだいに、ブラッガドーチョの取材報告に焦点が当てられていく。彼が記事にしようとしているのは、イタリア戦後史の裏読みと言ってよい。ファシスト残党、カトリック教会、極左勢力の動向に冷戦期の東西対立が絡まって、さまざまな出来事が陰謀論に結びつけられていく。読んでいると、もっともらしく聞こえてくるから不思議だ。これは真実なのか、それとも懐疑を旨とするジャーナリストが懐疑の末に行き着いた妄想なのか。

 

 どんな結末が待ち受けているかについては触れない。ただ、そこにフレジアが見てとるジャーナリズムの落とし穴のことは言っておこう。謀を暴露しようとすると、その暴露そのものが謀と疑われてしまう、という皮肉な現実だ。ネット時代なら、なおさらだろう。

 

 碩学エーコは、新聞「冬の時代」の「土俵際」を見事に予言して逝ったのだった。

(執筆撮影・尾関章、通算508回、2020年1月24日公開、同月29日更新)

 

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『マッちゃん84歳 人生店じまいはムズカシイ』(沼野正子著、岩波ブックレット)

写真》アラ8を準備する

 僕にも介護に縛られる日々があった。おととし、母が老いて在宅で寝たきり生活の末、逝ったのである。家族や知人と交代で、病床を見守りつづけた。ヘルパーさんや訪問看護師さんが代わる代わるやって来る。訪問診療のお医者さんも、週1回の往診のみならず、容体の変化に応じて夜中でもかけつけてくれた。僕や家族はそうした支援ネットワークの中心にいて、問題が起こるたびに医療や介護の方針選択を迫られたのである。

 

 あの1年間は、それまでとはまったく異なるものだった。まずは、電車に乗って出かけることが激減した。キホンは地元町内にいて、ヘルパーさんや看護師さん、お医者さんをひたすら待っている。そこにあるのは、地域の医療看護介護圏という小宇宙だった。

 

 その渦中にあって、忘れていたことが一つある。それは、自分自身も遠からず看取られる側になるという世の定めだ。介護していると、自分は若いという錯覚にとらわれる。ヘルパーさんや看護師さんを手伝って、ベッドに横たわる母の体を動かしていると、自分は力仕事ができるのだから年寄りじゃない、と勘違いする。母に対して「今度は、息子さんのほうを向きましょうね」という声がかかるのを耳にすると、少年に戻ったような気にもなる。

 

 だが、これはとんでもない誤りだ。母の享年は89。その時点の僕の年齢は67。ザクッと言えば、20年たてば自分も同じ立場になる。ここで問題は、20年をどうみるかだ。誕生の瞬間からはたちになるまでととらえれば、長かったようにも思える。だが、2000年から今年まで、というなら短い。アル・ゴア対ジョージ・W・ブッシュの米国大統領選を顧みるように今年の大統領選を振り返るころ、自分は介護される側になっている。

 

 これにはもちろん、大きな前提がある。病気や事故なしに天寿を全うする、ということだ。そう考えると、僕たちの前途には二つの未来のいずれかがある。介護されるよりも前に世を去るか、あるいは、生き延びて介護されることになるか。どちらに転ぶかは自分で決められないので、後者になったときのことは今から考えておいたほうがよい。他人にかける迷惑を最小化して、それなりに心地よい生を送りつづける道を探らなければなるまい。

 

 で今週は、そんな未来を真正面から受けとめる本。『マッちゃん84歳 人生店じまいはムズカシイ』(沼野正子著、岩波ブックレット)。著者は1935年生まれ。東京芸術大学卒の絵本作家で、イラストレーターでもある。この本も漫画仕立て。実体験を綴ったエッセイのようにも読めるが、主人公の名は「マツノマツコ」となっている。話を普遍化するために虚構も交え、苦笑微笑を誘うスパイスも利かせたのだろう。2019年12月刊。

 

 最初の章は、主人公の自己紹介。「わたし、絵描(イラスト)屋マッちゃんことマツノマツコ、ただいま『アラ8』。絵本作家デビューは35歳」(改行なしに引用、以下も)。もともと夫婦と子ども二人の核家族。在宅で家事をしながら仕事をこなしていたが、実母が80歳になるころ、彼女を自宅に引きとった。そして今、「みんな、それぞれのところへ行ってしまい、気がつけば、我が身も『アラ8』!」。立場が逆転したわけだ。

 

 第2章は「この歳にならなきゃワカラナイヨ!」。書きだしで「この先の老化について考えはじめると、97歳まで長らえた、母親キイちゃんの晩年の人生は、あれでよかったのだろうか?」と自問する。「母親と娘だからといって、30年ぶりにともに暮らすのがどういうことか、まったく考えのなかったわたし」。親が老いれば、そばに寄り添うのが親孝行だとふつうは思う。だがそれが、ありがた迷惑に感じられることもあるらしい。

 

 キイちゃんは、それまで一人で家事を切りまわしていたが、ある夜、電話で「アタシこの頃なんだかヘンなのヨ〜」と言う。どうヘンなのかは、家を訪ねるとすぐわかった。食料品は1日1回、近所のスーパーに通って調達しているのだが、「気がついたら、冷蔵庫の中は、食べもしない同じ食べ物でいっぱい!」。認知能力に問題あり、の黄信号か。マッちゃんは「このままでは、まずい」「実行あるのみ」と母を連れ帰る決断をしたのだった。

 

 このあと、マッちゃんが頭を抱えている場面がある。「あの頃ワタシはキイちゃんを孤独地獄からつれ出したと思っていたけれど――」。ここで、キイちゃんの生前の姿が想起される。仏壇に向かって、「アタシはマツコにだまされてこちらにお邪魔しております」と話しかけていたというのだ。キイちゃんは結局、食事も家族と別にとるようになる。部屋で一人、テレビを観ながらだ。家庭内独居と呼ぶべきか。ここにも別種の「孤独地獄」がある。

 

 もちろん、マッちゃんの母思いが功を奏したこともある。近くの特養ホームのデイケアに週に2度、通うようになったときのことだ。当初はいやがっていたが、しばらくすると「なにを着て行こうかしら……」と、お出かけ気分で服を選ぶようになった。それを家族の前で着て見せて「派手かしら?」と聞くこともあったという。このとき、マッちゃんの夫ノブさんが「いやいやなかなかステキだよ」と答える場面には、ほっとさせられる。

 

 それもつかの間、ノブさんが急病で亡くなる。そして息子たちが結婚や転勤で独立すると、母娘の二人暮らしが始まった。切ないのは、娘がいないときの母の様子。玄関先の椅子で「ずーっと、マッちゃんの帰りを待っているのでした」。娘は、母の猜疑心の強まりにも手を焼き、困り果てる。そこで、ケアマネさん推奨の「お泊りステイ」を試みたのだが、母が数日後に帰宅したとき、「マッちゃんとの暮しを、まったく覚えていませんでした」という。

 

 キイちゃんは結局、病院の認知症専門病棟に入院した。きれいで広めの4人部屋だったが、入院している人は「それぞれの世界に生きているよう」だった。だが、なぜか歌を唄うときは、一斉に声を出した。たとえば、唱歌「ふるさと」のような歌を。

 

 と、ここまで書いてくると、身につまされることが多い。僕の母も一時期、デイケアに通っていた。そこでの最大の楽しみは、歌を唄う時間だったらしい。夕方、家に戻ってからも口ずさむことがあった。たとえば、「上を向いて歩こう」のような歌を。

 

 キイちゃんの話はさらに続く。マッちゃんが病院を訪れると、「ウメコちゃん」と声を掛けてきた。自分の妹の名だ。「あんたイイひとができたかエー」と切りだし、マッちゃんが適当な受け答えをしていると、今度は「わたしお嫁にイクのよォー」と衝撃の告白をする。そうかと思うと、「オカカなんしておるかのォー」と言いだすことも。オカカは、お国言葉で「おかあさん」のこと。「何やら時空を超えた会話」が飛び交ったのだ。

 

 僕自身の母も、最末期には息子を息子ととらえる認識がおぼろになった。「この人好き」「この人はいい人」と語りかけ、他人と区別することで自分の子との関係性を保ったのだ。あるいは、生まれ故郷の地名を口走ってみたり、子どものころの家族が今も近くにいるかのような言葉を発したりすることもあった。認知能力が下がるということは、なにものかを失うばかりではない。そこに僕たちの想像を超えた新しい世界が立ち現れるのだろう。

 

 この本の後段は、ほとんどが健康話だ。吐露されるのは、ある種の達観。医学がすべての病気の原因を突きとめ、治療法を見いだすことは困難、とマッちゃんはみる。「はるか昔の祖先から、つなぎにつないできた遺伝子とやらが、今の我が身にどんな仕業をしているのか、わかる縁(よすが)はありません」。わからないなら、わからないままでよい――老境の知は、なにごともわかろうとするばかりの現代科学が見落としている急所を衝いてくる。

 

 それにしてもマッちゃんがうらやましいのは、近所に行きつけの「カフェ・ハギノ」があることだ。顔見知りの店主やスタッフがいて常連客もいる。その店で病や死について語りあうことが、彼女の不安を和らげているように見える。ここで僕が思いついたのは、今の時代に社会が具えるべき3条件だ。町に喫茶店が存在すること、高齢者が1日1杯のコーヒー代を支払えること、そして、そこにしがらみのない緩い人間関係が生まれていること――。

 

 マッちゃんを見習って、僕もそろそろ、わからない未来の受け入れ態勢に入ろう。

(執筆撮影・尾関章、通算507回、2020年1月17日公開、同月18日更新)

 

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朝日、毎日、読売各紙(2020年1月1日付紙面、いずれも東京本社発行最終版)

写真》元日付1面(上から、読売、毎日、朝日の各紙)

 ガーンでなく、ゴーンである。もう10日もたつが、去年大みそか早朝のことだ。布団のなかでスマートフォンをタップしていたら、一瞬、目を疑うニュースが飛び込んできた。日本にいるはずのカルロス・ゴーン氏がレバノン入りしたらしい、という。

 

 記憶をたぐれば、最初に目にしたのは日本の通信社電だったと思う。新聞の業界用語で言えば、転電。海外メディアの報道内容を伝えるものだった。ゴーン氏は保釈中の身で、出国が禁じられているのに外国にいる。なんらかの策を弄したのだろう。

 

 日本は今、監視社会だ。しかも、ゴーン氏は拘束から解放されていたとはいうものの、決められた住まいに暮らすよう強いられていた。今どきのことなので、周辺には監視カメラがあっただろう。当局の目はいつも届いていたように思う。仮に住まいを出て、行方をくらましたとしても、最後の関門である空港の出入国管理が待ち受けている。本人名のパスポートを係官に見せて、すんなり通過できるとは考えにくい。それなのになぜ?

 

 この一件は、日本社会に対する痛烈な皮肉のように思われる。今、われわれの街のいたるところに防カメ、すなわち防犯カメラがある。今、われわれの街を通り抜ける相当数の車がドラレコ、すなわちドライブレコーダーを備えつけている。列島の隅々にまで逃げ場のほとんどない監視網が張りめぐらされているのに、抜け穴はやっぱりあった。しかもそれは、司直とメディアの中枢が集まる首都のど真ん中にぽっかり開いていたのだ。

 

 ゴーン氏のレバノン入りは、年末の休暇気分を吹っ飛ばす衝撃のニュースだった。驚くと同時に、バカにされたような気持ちにもなった。さらに元新聞記者の視点で言うと、それを海外メディアの転電で知ったという経緯によって、この思いは倍加されたのである。

 

 ということで今週は、このニュースを大きく伝えた2020年1月1日付の新聞紙面を読み返してみよう。元日の第1面は、新聞記者には特別な意味がある。社内では、この日の掲載をめざして特ダネ探しの号令がかかる。最近は特ダネ路線から企画路線に切り換え、大型連載の初回を据える例もふえてきたように思うが、リキを入れた記事の舞台であることには変わりがない。そこに、海外メディアを追いかける記事が載るとは……。

 

 最初にひと言ことわっておくと、本稿は、本来なら先週1月3日付でアップすべきだった。ただ正月に暮れの「逃亡」譚を扱うのは、ちょっと気がひけた。そこで前回は、年初恒例の漱石本をとりあげ、周回遅れで元日紙面を再読することになった。悪しからず。

 

 まず、朝日、毎日、読売各紙を見比べよう。この順に並べたのは、本稿が筆者にとって古巣の朝日を中心にとりあげるつもりだからだ。そこで部数順にかかわりなく、日本の新聞業界で長く言われ続けた「ちょう・まい・よみ」という呼び方にならった。他意はない。

 

 さて、元日付紙面でゴーン氏のニュースをもっとも大きく扱ったのは、読売。1面トップに横見出しで「ゴーン被告無断出国」とうたった。次いで毎日。同様に1面トップだが、縦見出し。「ゴーン被告レバノン逃亡」とある。この3紙では朝日だけが1面でもトップに置かず、左側に寄せて「ゴーン被告、レバノンに逃亡」の見出しを立てた。ちなみに朝日のトップは「IR汚職」の続報。記事の書きぶりからみて特ダネらしい。

 

 さて、この3紙1面比較で僕が注目したのは、読売だけが主見出しに「逃亡」という言葉を用いなかったことだ。3番目の見出しに「保釈中『逃亡』」とあるが、カギ括弧付き。その下に「現地当局『合法的』」と書き添えて、レバノン当局の言い分も伝えている。

 

 今回の一件は、ふつうにみれば「逃亡」だ。海外渡航禁止の制限下にある刑事被告人が突然、約9000kmも離れた中東レバノンに現れた。これが、逃げたのでなくてなんなのか――。だがこの時点で、本人の意に反した拉致でないとは言い切れない。万々一の話だが、背景に本人があずかり知らない工作があったのかもしれない……。まだ、あらゆる可能性を視野に入れなくてはならなかった。読売の慎重さは見あげたものだと思う。

 

 僕が元新聞記者としてもっとも興味を惹かれたのは、この「逃亡」ないしは「無断出国」がどこで察知され、ニュースになったのか、ということだ。朝日新聞元日付第3面の記事には、そのいきさつがこう書かれている。「30日午後7時(日本時間31日午前2時)前、ゴーン前会長のレバノン到着をいち早く報じたのはレバノンの大手紙アル・ジョムリアだった」。このあと、「欧米主要メディア」が続々と速報を流したという。

 

 なるほど、そうか。31日朝にスマホ画面で接したニュースの出どころは、ここらあたりにあったのだ。上記の朝日記事は、現地紙や欧米メディアの報道の中身にも言及している。アル・ジョムリアは、ゴーン氏が乗った飛行機は「トルコからベイルートの空港に到着した」と報じ、米紙ウォールストリート・ジャーナルは、事情通が「(前会長は)日本では公平な裁判を受けられないと考えて逃亡した」と説明していることを伝えたという。

 

 ここから見えてくることがある。ゴーン氏はだれにも知られることなく、ある日突然、ベイルートの地に姿を現したのではないらしいということだ。第1報の段階から、経由国名が明らかにされている。メディアに対して、当事者の意図を代弁するようなことを言う人物もいる。これは、逃亡計画の情報を分かちあう人々が一定の範囲にいたことをうかがわせる。でなければ、こんなにすぐ、疑問符なしの速報が広まることはなかっただろう。

 

 もちろん、当初の報道には大きなブレもあった。朝日新聞元日付の第2面は、自宅からの脱出劇に触れている。レバノンメディアMTVが、「音楽バンドに扮したグループが東京のゴーン前会長の自宅を訪ね、演奏を終えて引きあげるふりをして楽器を入れるための木箱に隠して連れ出した」と伝えたという。これが本当なら、スパイ映画さながらだ。だがその後、楽器箱は自宅ではなく、空港で使われたらしいことがわかってくる。

 

 それにしても、である。報道の初期に、日本メディアの影が薄すぎたのではないか。

 

 この事件は、映画の筋書きにたとえれば、その8割方が日本国内を舞台にしている。読み手は、トルコやレバノンで何があったかについても無関心ではないが、もっとも知りたいのは、ゴーン氏がどのようにして「法治国家」を自負する国が課した制約をかわし、出入国管理の関門をすり抜けたのか、ということだ。ところが、その細部を推察するにも、レバノンメディアが見てきたように伝えた不確かな報道に頼ったのである。

 

 誤解のないように言っておけば、僕は、今の日本メディアがだらしないと嘆いているのではない。転電は国際報道に欠かせない。海外メディアでも、在外の駐在記者は人数が限られるので、なにごとかが起こったとき、その第一報を現地メディアから得て「……によると」形式で伝えることがふつうにある。そして今回、日本メディアの海外取材網は、その役割を果たしただけではない。転電内容の真偽を確かめるために現地でも駆けまわっている。

 

 国内の取材陣も頑張った。第一報が届いた大みそか朝、おそらくはメディアの多くの記者がたたき起こされて、ゴーン邸に走り、弁護士を追いかけ、当局にあたってウラをとったことだろう。だからこそ、元日付1面に「?」なしの主見出しを打てたのだ。

 

 ただ昔なら、ゴーン氏のように横紙破りをする記者が報道機関の側にも一人や二人いて、側近を嗅ぎまわって不審な動きを察知できたのではないか、とも思う。その情報は事前にすっぱ抜くほど確度が高くなくても、事後の報道に厚みを加えられたのではないか……。

 

 今回思い知らされたのは、日本の管理社会の歪みだ。僕たちはスマホのGPS情報や街の防犯カメラに見張られて息苦しいほどだが、大富豪は国家権力による監視ですら突破できる。ここにも、格差があったのだ。メディアも、そのことは心得ておくべきだった。

(執筆撮影・尾関章、通算506回、2020年1月10日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『虞美人草』(夏目漱石著、岩波文庫)

写真》かがり火を受けて初詣

 今年の賀状で僕は、日系英国人作家カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)の一節を引いた。主人公スティーブンスは、名門貴族に仕えていた老執事。ドライブ旅行に出て、イングランドの「うねりながらどこまでもつづく」風景に意味を見いだす(日の名残り映画もいいが本もいい2019年11月29日付)。だから、この1年もなだらかであってほしいと書いたのだが、そうなるかどうか。

 

 むしろ、その逆かもしれない。当欄が『日の名残り』の翌週にとりあげた『晩年の思想』(アンリ・ポアンカレ著、河野伊三郎訳、岩波文庫)には、そんな世界像が提起されていた。物事は「連続的に移って行くのではない」「状態の一つから別の一状態に飛躍する」という見方である(ポアンカレ本で量子論の産声を聴く2019年12月6日付)。もしそうならば今年の僕は、公私にわたって不連続を経験しても不思議ではない。

 

 まず、世の中の先行きについて考えてみよう。年内に予定されている政治日程で全世界が影響を受けそうなのは、米国の大統領選挙だ。現大統領が勝てば、駆け引きにあたふたさせられる不安定な国際情勢がさらに4年間も続くことになろう。もし負ければ、米国の外交政策に良かれ悪しかれ「理念」が復活するだろうが、そこに政権交代がもたらす不連続の断層が生じることは避けられない。そう思うと、なだらかとは言い難い近未来がある。

 

 国内はどうか。なんと言っても気がかりなのは、東京オリンピック・パラリンピックのお祭り騒ぎだ。僕も、選手たちの奮闘には心を動かされる。手に汗を握って応援もする。勝者のみならず、敗者の振る舞いに敬意を感じることもあろう。心配されるのは、それが過剰に報道されることだ。「感動をありがとう」「勇気をもらいました」という当世風常套句の陰で、日本の戦後史を分かつ不連続が覆い隠されることはないだろうか。

 

 そして最後に、私的な1年予測。新年早々、話題にすべきことではないかもしれないが、旧年は実に多くの人々を失った。今思い返しても、現役時代にお世話になった恩人がいる。地元の町でつきあいのあった友人がいる。メディアを通じてしか知らないが、尊敬や親愛の情を抱いていた著名人もいる。同世代が、そういう年頃になったということだ。ということはつまり、自分だって……。そこに不連続の穴がぽっかり開いているようにも思える。

 

 こうみてくると、2020年も不連続のリスクに満ち満ちている。だが、不連続ななにものかを感じとるのは、連続する主体にほかならない。自我がひとつづきの自我として存在する限り、それは途切れない。だから去年同様、今年も本を読むのだ――。

 

 で、年の初めは恒例の漱石。今年は『虞美人草』(夏目漱石著、岩波文庫)を選んだ。著者(1867〜1916)は1907(明治40)年、東京帝国大学などの教職を辞して朝日新聞社に入った。すでに兼業ながら小説家の地位を得ていたが「心は、学校よりは文章を書くことに奪われていった」(桶谷秀昭執筆の巻末解説)。そこで「文芸欄に主として小説を書く義務を負う職業作家の道」(同)を選択したのだ。その第一弾が、この作品である。

 

 恥ずかしながら、僕はこの小説を今回初めて読んだ。中学生時代、『吾輩は猫である』でにわか漱石ファンになったとき、友人の一人から、『虞美人草』だけはやめたほうがよい、と忠告された。子どもには不適、という響きがあった。虞美人は楚王項羽の寵愛を受けた女性の名で、虞美人草はひなげしのことだ。ところが僕は、それを「愚美人」と早合点したこともあって恐れをなしたのである。こっそり、ページを開けばよかったものを……。

 

 作品の書きだしは、麓から山を見あげてこれから登ろうとしている若者二人の会話。親しい間柄らしい。朝方に宿を出て、京都市街の北東に聳える比叡山をめざしているのだ。「君はあの山を頑固だといったね」「うむ、動かばこそといったような按排じゃないか」「動かばこそというのは、動けるのに動かない時の事をいうのだろう」。なんとも理屈っぽいやりとり。いかにも明治のインテリ青年という感じがする(引用部のルビは省く、以下も)。

 

 ところが、会話の合間に次のような文章が挟まる。「春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫ぬいて、烟る柳の間から、温き水打つ白き布を、高野川の磧に数え尽くして、長々と北にうねる路を……」。あまりに長いので、途中で端折ることにする。美文調とは、こういう文体を言うのだろう。桶谷解説によれば、このときの漱石は、美文を「文章における造型意志」ととらえる「旧派の文章意識」を踏襲したという。

 

 正直に打ち明ければ、この箇所は読んでも頭に入ってこない。「ケブルヤナギノアイダカラ、ヌクキミズウツシロキヌノヲ」といっても、現実の光景とはとらえ難い。字面は追えても意味を汲みとる気になれないのだ。この小説に出てくる美文は、映像作品の背後に流れる音楽に等しい。漱石は職業作家第一作に、そういう文体も織り交ぜた。巻末解説が指摘するように、新聞小説の書き手として幅広い読者層を取り込もうとしたのだろう。

 

 裏を返せば、小説の核心は美文を省いた箇所に集約される。なかでも、口語体の極みともいえる会話部分だ。冒頭では男同士が山裾の道で息を弾ませながら軽妙に言葉を交わすだけだが、別の趣を漂わせる場面もある。とくに男女のやりとりには含蓄がある。

 

 たとえば、クレオパトラ談議。男が、シェイクスピア作品のクレオパトラに対して「一種妙な心持ち」を抱く、と打ち明ける。「剥げかかった錦絵のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」――そんな印象だという。なぜ紫か、と女は問う。「何故って、そういう感じがするのです」「じゃ、こんな色ですか」。女は、そう言うなり紫の着物の袖をひらめかせ、男の顔先へ突きだす。この瞬間、男の嗅覚がクレオパトラをかぎとる。

 

 クレオパトラやシェイクスピアという欧州。錦絵や着物という日本。二つの文化が交差する一点で、近代の自我意識に目覚めた男女が知的な題材を糸口に思わせぶりな会話に興じる。ここに、漱石文学の漱石らしさがあると言っても言い過ぎではあるまい。

 

 この小説の中心には未婚の男女6人がいる。哲学を学んだ高等遊民の甲野欽吾、その腹違いの妹藤尾、甲野家と縁戚関係にある外交官志望の宗近一、その妹糸子、欽吾らの知人で博士目前の学究小野清三、その恩人井上孤堂の娘小夜子。清三は小夜子との間に縁談があるのに、藤尾と惹かれあう。一も藤尾に心を寄せる。欽吾と糸子の間にも一定の引力が働いているらしい。比叡談議は欽吾と一、クレオパトラ談議は清三と藤尾のやりとりである。

 

 著者は、近代文明を筋立てに巧妙に取り込む。欽吾と一は京都で、洛中に住む孤堂親子を見かけ、小夜子に興味を抱く。この時点で、彼女と清三の関係を知らない。孤堂は小夜子を小野に嫁がせるべく、東京へ向かう。その親子と欽吾らが同じ夜行列車に乗り合わせるのだ。「四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半を背中合せの知らぬ顔に並べられた」。欽吾は食堂車で、朝のコーヒーを手につぶやく。「あの女は嫁にでも行くんだろうか」

 

 この年、東京・上野で東京勧業博覧会があった。「文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる」。電光が建物を飾り、それが池の面に映る。帰京後の欽吾と一は、藤尾や糸子と連れだって見物に来た。「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾。「空より水の方が奇麗よ」と糸子。茶屋に入ると、孤堂親子に付き添う清三の姿が。藤尾の首は固まって振り返ろうともしない――。

 

 旅の途中にすれ違った女性が、実は身辺を騒がせる存在だった。妹にとって、あるいは意中の女性にとって、恋敵だったのだ。しかも、そのことが発覚する瞬間が、博覧会の夜の雑踏に用意されていたとは。この展開の妙は、いかにも新聞小説らしい。

 

 新聞小説は「うねりながらどこまでもつづく」のでは読まれない。不連続な劇的瞬間が仕掛けられていなければならないのだ。このとき、夜行列車や博覧会という都市文明は人と人とを遭遇させ、化学反応を呼び起こす導火線となる。漱石は、それを見逃さなかった。

(執筆撮影・尾関章、通算505回、2020年1月3日公開)

 

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『龍雄先生の冒険――回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者』(内山会編、窮理舎)

写真》暮れは柚子湯で

 かつての職業柄、この時季には過ぎ去りつつある1年のニュースを振り返る。それでつくづく思うのは、よくぞあれほど多くの人々が頭を下げたなあ、ということだ。世に「不祥事」のタネは尽きず、その結末に定番の謝罪会見がある。これが、今の日本社会の現実だ。

 

 「不祥事」の一つは、ハラスメント。訳せば「嫌がらせ」だが、最近は人の尊厳を貶める行為一般を言う。日本では、セクシュアル・ハラスメント即ちセクハラという言葉から広まったように思うが、今では性的要素を伴わないものも多い。パワハラ、アカハラ、マタハラ……世の中のさまざまな局面で人間の尊厳は傷つけられてきたのだ。僕たちはそれに気づいて、ものを言うときも物事を判断するときも、めっきり慎重になった。

 

 ところが、そんな変化に対して感度の鈍い人がいる。強い立場をいいことに平気で暴言を吐いたり、弱い者いじめをしたり、というハラスメントをしでかすのだ。謝罪会見は、こういう行為が跡を絶たないから開かれる。それを見て、僕たちはますます慎重になる。

 

 もう一つ、「不祥事」で多いのはルール違反だ。ルールは法令に限らない。世の中に張りめぐらされた決まりごとの一切を含む。報道によれば、それらにはたいてい動かしがたい証拠がある。コンピューターや記憶媒体の電子記録、街の防犯カメラや車のドライブレコーダーの映像……IT(情報技術)社会にあっては、人はいつも監視されている。それでも決まりを破る人がいて頭を下げるから、僕たちはいっそう慎重になるのだ。

 

 ここで見逃せないのは、僕たちが身につけた破格の慎重さだ。一言一句、一挙手一投足に気をつかうのは悪いことではない。それによって、傷つく人は減るし、社会の安定も保たれる。だが、慎重が過ぎると失うものがある。たとえば、率直さ。相手の気持ちを害すまいとして、言うべきことをのみ込んでしまいかねない。あるいは、思慮深さ。ルール遵守ばかりに気をとられ、自らの良心で事の是非を見極めることを忘れてしまう。

 

 僕たちが若かったころは世間全般が大らかだった。証拠がほしければ、1960年代のサラリーマン映画を観ればよい。森繁久彌や植木等が登場する企業社会には、なんでもありの緩さがあった。そんなコメディーを受け入れるくらいに世の中も緩かったのだ。さて、今週は2019年の最終週。「年忘れ」の大義のもと、日本社会に大らかさが満ちあふれていた時分のことを思い返してみたい。そこには間違いなく、今とは違う人々がいた。

 

 『龍雄先生の冒険――回想の内山龍雄:一般ゲージ場理論の創始者』(内山会編、窮理舎)。「龍雄先生」とあるのは、大阪大学教授、帝塚山大学学長などを務めた理論物理学者内山龍雄(うちやま・りょうゆう、1916〜1990)。その薫陶を受けた物理学者を中心に、ゆかりのある人々が集うのが「内山会」だ。この本は内山の永眠から4年後、同門の人々による私家版の文集として編まれたが、それが今年、加筆改版されて一般書籍になった。

 

 内山は1978年に岩波新書で『相対性理論入門』を出しており、一般相対論の専門家として知られていた。僕が83年、新聞社の大阪本社で科学記者の道に入ったとき、彼は会っておきたい科学者の一人だったが、先輩記者に相談すると忠告を受けた。「怖い人だぞ」。やめたほうがよい、という含意があった。先輩は取材時に不用意な質問をしたかなにかで叱られたのだろう。それでビビッて、話を聴きにいかなかった自分が今思えば恨めしい。

 

 怖い人だったことは、この本の随所からもうかがえる。どうやら、「無礼者」のひと言をしばしば発していたらしいのだ。一つめは戦時の話。電車で英文の論文誌『フィジカル・レヴュー』を読んでいると、それを見た乗客の一人が「非国民め」と声をあげた。「先生は、『無礼者!』とどなりつけざまに、手にしていたフィジカル・レヴューの背でその男の頭を叩きました」(筆者・細谷暁夫)。雑誌の綴じ目がほどけるほどの勢いだったという。

 

 「無礼者」には、戦後の逸話もある。非常勤の教員だった女子大で理事長と面談していたとき、なにかのきっかけで「いつものように『無礼者』とおっしゃって」「チョークを理事長に投げ付けました」(筆者・同上)。それは後方のガラス窓を突き破ったという。

 

 このときなぜ、内山の怒りが爆発したのか。それにはわけがある。当時は大学の設置基準が設けられたころで、図書施設も文部省の調査対象になった。女子大の理事長は学内の書物が十分にそろっているように見せるため、内山の蔵書を一時借りたのだ。貸す側にしてみれば、被雇用者ゆえの「不承不承」の協力だった。理事長は大喜びだったが、内山のほうはごまかし行為の一端にかかわってしまったことで「むしゃくしゃ」していたのだ。

 

 これらの話は、今ならば武勇伝とは言えない。「非国民」という中傷に対して「無礼者!」と言い放ったまでは小気味よいが、雑誌を振りまわしたのはまずい。学校図書の見せかけ増量に腹を立てたのはもっともだが、チョークを飛ばしてガラスを割ってはいけない。ただ断っておくべきは、いずれも筆者の目撃談ではないことだ。おそらくは内山自身が語ったのだろう。語った時点の物差しが許す範囲で尾ひれがついていてもおかしくはない。

 

 実際、内山には人に一杯食わせるところがあったようだ。宇宙論学者の僚友と北回りの空路で欧州へ向かっていたときの話。友人は高所が苦手で、内側の席でおとなしくしている。飛行機が北極圏に接近すると「窓側に座っていた先生が突然『N極が見えるぞ! 下を見てみろ』と叫びました」。と、友人は思わず窓のほうへ乗りだしてきたという(筆者・同上)。一瞬のことではあれ、科学者が地球の磁極に印が付いていると思ってしまうとは。

 

 世間が一杯食わされていたかもしれない話もある。「龍雄」を音読みすることだ。自分では「禅坊主の息子だったので」と言っていた。だが、それと矛盾する伝聞も紹介されている。ある人が自宅に赴くと「奥様が玄関に出ていらっしゃって、奥に向かって、『タッチャン!』と呼ばれた」というのだ(筆者・同上)。筆者は「りょうゆう」を「単にペンネームということのよう」と結論づけているが、「タッチャン!」話にも食わせものの感はある。

 

 懐の深さを感じさせるのは、「超能力者ユリ・ゲラー」ブームのころの逸話。そのスプーン曲げを研究室の大勢は「いかがわしい」と感じていたが、内山は違った。「スプーンを片手にもち、その首根っこを親指と人差し指で挟んで猛烈な勢いで擦り始めました」。やがてスプーンは切れて、一同あっけにとられる。とりあえず「先生の指の力が人一倍強い」説に落ちついたという(筆者・同上)。あやしげなものでも最初から切り捨てない人だった。

 

 ここまでの内山像からは、ほんとかなと思わせるような豪放さしか見えてこない。だが実際には、繊細な感性を秘めた人だったらしい。1950年代、大学の研究室が「遠足」を計画したときのことだ。あいにく、当日は大雨になった。事前に雨天中止を決めていたから、ふつうならだれも行かない。ところが「先生」だけは目的地に足を運んだ。「もし間違って誰か来て電車に跳ねられでもしたら」。翌日、そう漏らしたという(筆者・山本邦夫)。

 

 この本には、内山本人のエッセイ、論考も載っている。心打たれるのは「痛恨の記」(『帝塚山論集』第37号〈1983年〉から抜粋)。素粒子物理の力を説明する「ゲージ場」の研究をめぐる話だ。彼は1954年、その理論をまとめていたが、論文発表は在米のC・N・ヤン(楊振寧)、ロバート・ミルズに先を越されてしまう。内山理論は、重力をも含む「一般ゲージ場」を扱っているという強みがあるから、負けたとばかりは言えないのだが。

 

 このいきさつを内山自身は「残念千万」としつつ、「すべては私の大きな過ちにもとづく」と認めている。論文原稿をすぐ英文誌に投稿すべきだったのに「ふところの中に温めていた」。そこに「慢心」があったというのだ。「龍雄先生」は率直な人でもあった。

 

 研究仲間の議論で「先生」を怒らせないためには、「論文の動機付け」から説き起こして「これからやろうとしている事の本質だけ」を切りだす必要があったという(筆者・重本和泰)。世間が緩かった分、論理だけは揺るがせにしない人々が大学にはいたのである。

(執筆撮影・尾関章、通算504回、2019年12月27日公開、2020年1月31日更新)

 

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