『忘れない 伊勢湾台風50年』(中日新聞社出版部編、中日新聞社)

写真》泥水の下に(朝日新聞2018年7月7日夕刊)

 水面にぽつんぽつんと四角形が点在している。幾何学模様の現代アートかと一瞬思ったが、違う。岡山県倉敷市真備一帯を襲った水害の空撮画像を見たとき、僕はボーッとなった。上空から、家々の屋根だけが見える。そんなありえない光景に頭が混乱したのだ。

 

 3・11のデジャビュのようでもあった。あのときは、押し寄せる津波が軟体動物のようだった。不気味な触手がすばしこく延びて、都市郊外の家々を次々にのみ込んでいく。僕たちは、その一部始終をテレビ局が飛ばしたヘリの中継映像でリアルタイムに見せつけられたのである。今回の空撮画像には、あの津波ほどに動的な印象がない。静かな水面が湖のように広がっている。ただそれで恐怖感が薄らいだとすれば、早とちりに過ぎない。

 

 屋根の下には人々の生活があった。平屋でなければ2階に上がって難を逃れられるが、階下で寝たきりの人はどうだっただろうか。あるいは、独り暮らしの高齢者が避難を促す情報を手にしていたかどうかもわからない。泥水の下には、恐ろしい事態がいくつも隠されているに違いない――そう思うと背筋が凍った。あの画像の静止感は、撮影時点で水が止まっていたということでしかない。ここにもやはり、水は押し寄せてきたのである。

 

 振り返れば1980年代、僕が防災担当の記者だったころ、洪水の時代は終わったという慢心が世の中にはあった。台風や豪雨でまず恐れられたのは、土砂災害。高度成長期以降、列島のあちこちで山を崩して宅地を切りひらく自然改変が進んでいたからだ。その一方で、川の上流にはダム、中下流には堤防が整えられ、氾濫を抑え込んでいた。ところが最近再び、町が一面水浸しになる光景をよく目にする。降水が治水をしのぐようになったのか。

 

 ここはもう一度、水害の怖さを心に刻みたい。僕自身も子どものころにまでさかのぼれば、洪水が身近なものとして感じていた。1950年代、台風襲来の夜はトランジスタラジオを抱えて布団に入り、雨がいつまで降るのか耳をそばだてたものだ。自分が住む町は東京郊外の台地にあったが、それでも大雨が降ると農業用水があふれることがあった。友だちの家が浸水したという話を、さほどの驚きもなく聞いたことを覚えている。

 

 そのころ、もっとも衝撃を受けたのは1959年9月の伊勢湾台風だ。東京の子だから、肌身では経験していない。ただちょうどその年は、わが家にとってテレビ元年だった。被災地がすっぽり水に浸かり、住人が屋根に上がって小舟で行き来する様子が新品のブラウン管に映しだされた。もちろん、あのころは白黒のフィルム映像。現場中継もない。それでも、300km遠方の災厄をあたかも見てきたように感じる初めての体験となった。

 

 伊勢湾台風は、昭和の三大台風の一つだ。9月26日に紀伊半島に上陸、東海地方に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明者の総数は約5000人。阪神・淡路大震災が起こるまでは戦後最大規模の自然災害だった。ちなみに、残る二つは1934年の室戸台風と45年の枕崎台風。それぞれ約3000人、約4000人の死者・不明者を出している。台風も大震災並みに人命を脅かすことがあるということが、この3例からもわかる。

 

 で、今週は『忘れない 伊勢湾台風50年』(中日新聞社出版部編、中日新聞社)。伊勢湾台風の襲来からちょうど半世紀後の2009年、被災地の中京地方で愛読されているブロック紙の発行元が満を持して出した記念碑的な刊行物。当時のニュース写真、被災した人々の証言――これらは50年後から振りかえったもので、一部は紙面に掲載された記事の再録――、そして、気象専門家の見解や防災の豆知識、作家のインタビューなどから成る。

 

 まず圧倒されるのは、巻頭に載った1枚の見開き写真。「風速45メートルの名古屋市」と題されている。場所は繁華街の納屋橋。当時は高層ビルもなく、広い夜空に白い靄のようなものが渦巻いている。「長時間露光」とあるから見えたままではないのだろうが、突風が渦巻いていたらしいことはわかる。それよりも怖いのは、道路中央でトラックが市電停留所の標識柱に激突した姿。強烈な風雨で運転不能の状況に陥ったのだろう。

 

 ちなみにこの写真で郷愁を禁じ得ないのは、道路わきの建物に掲げられた看板の数々。たとえば「赤玉ポートワイン」、あるいは「名宝スカラ座」。いずれも縦書き、アルファベットなし。世相をたどると、1959年は双子のデュオ、ザ・ピーナッツがデビューした年だ。彼女たちは名古屋育ちで、郷里の惨状に心を痛めているという報道もあった。僕には、伊勢湾台風のニュースにダブるように、デビュー曲「可愛い花」のメロディーが耳に蘇る。

 

 閑話休題。この本を読んでつらいのは、家族を失った人々の心の痛みが50年の時を経て今もなお伝わってくることだ。なかでも痛切なのは、愛息を亡くした90歳(刊行時)の女性の話。あの夜、名古屋市南部の家が水に浸かり、家族3人で避難所へ向かっていた。ゴー。近くの川の堤防が壊れた音。水が壁となって襲いかかってきた。泳ぎが得意ではない15歳の息子は波にのまれ、夫がその腕をつかんだが「つかみ合った腕がすっと離れた」。

 

 小学4年生で被災した女性は、父母と妹3人を失った。彼女の証言は、濁流が家庭を直撃する瞬間のもの凄さを教えてくれる。「土間に水が流れ込む。畳が浮き上がり、ぐらぐらと波打った」。外へ出ると「家はすでに『巨大な洗濯機』のような激流の中」。その渦が家族をのみ込む。彼女は母の肩に腕を回していたが、それもほどけてしまった。自身も激流に運ばれ、1kmほど先で見つけたトラックの荷台に漂着して助けられたという。

 

 つかんだ腕が離れる。回した腕がほどける。そこには、人間の力などものともしない水流の怖さがある。浸水被害を静止画像だけで語ってはダメだ。洪水も津波同様、有無を言わさぬ勢いで迫ってくる。危うさを察知したら一刻も早く、逃げなくてはならない。

 

 最初の証言者、90歳の女性はこんなことも覚えていた。堤防が切れ、近くの立ち木にしがみついたとき、「水は潮のにおいに変わった」というのだ。決壊箇所から流れ出てきたのが淡水だけではなかったことが推察される。彼女が住んでいたあたりは、川が河口に近い。おそらく、海水が逆流したのだろう。これこそが、伊勢湾台風の被害を大きくした最大の元凶だった。水害は、川の増水に海面の水位上昇が重なることで増幅されたのである。

 

 このことは、後段にある専門家の解説を読むとよくわかる。刊行時点で名古屋地方気象台の予報官だった楯嘉淳さんによると、伊勢湾台風は昭和の三大台風のうちでエネルギー規模がもっとも小さい。最大の室戸台風に比べると、ほぼ半分だ。ところが死者・不明者は、すでに述べたとおり最多だった。これにはもちろん、被災地が大都市圏だったことが影響しているのだろうが、それだけではない。楯さんが詳述するのも当日の海水の動態だ。

 

 「伊勢湾台風は伊勢湾の西側を通過し、南から北へ向かって吹く風が伊勢湾の奥に海水を送り込む形になりました」。これは「吹き寄せ効果」と呼ばれるものだ。それに追い討ちをかけたのが、台風そのものの「吸い上げ効果」。台風は強力な低気圧だから、通過時には気圧が低い分、海面がもちあがる。その上げ幅を陸上で記録された最低気圧の値929.5ヘクトパスカルを用いて推計すると、この効果だけで80cmほどになるという。

 

 「『吹き寄せ』と『吸い上げ』の影響で海水面が上がり、折から満潮が近づいていたこともあり」「湾の奥では四メートル近い高潮となりました」。しかもこれは、東京湾の平均海面を基準にとったときの潮位。名古屋港の基準海面から測れば6m近かったとみる。この結果、貯木場の材木が堤防を壊し、海水がゼロメートル地帯に広がったという。「多くの人は何が起きているのか十分分からないまま、家に入ってきた海水にのまれたのです」

 

 今回の西日本豪雨では、川の上流のダム湖が満水に近づき、緊急放流を迫られる事態が相次いだ。放流情報が川下に的確に伝わらず、大被害に見舞われた地域もある。水は山から海までひとつながりだ。どこの水位に異変が起こっても流域は大水に襲われかねない。

 

 戦争同様、災害史も語り継ぐべし。伊勢湾台風を記憶する世代として、切にそう思う。

(執筆撮影・尾関章、通算431回、2018728日更新)

 

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『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)

写真》

 いまの時代、エリートがいなくなったなあ、とつくづく思う。この兆しは全世界に共通するようにも感じるが、すでに顕著に見えるのが日本社会の中枢部だ。霞が関の高級官僚はまぎれもなくエリートのはずだが、それなのにエリートらしさがなくなってしまった。

 

 なによりも、「総理のご意向」騒動がそうだ。あの文面がどれほど真実を表しているかどうかは問題ではない。たとえ首相がなにも言っておらず、だれかが勝手につけ加えた言葉だったとしても、それが葵の御紋のように使われたことがエリートの実情を物語る。もちろん、官庁は上下関係で成り立つ組織だから「総理」は最強の存在だ。だが、その「意向」さえも冷静に吟味するほど、昔の高級官僚はエリート然としていたように思う。

 

 先日の当欄「役人コトバを嫌って、佐高本に酔う」(2017年4月7日付)では、お役人が「……してございます」という気味の悪い丁寧表現を用いる事情を考察した。この語法は、官僚が自らのエリート度の高さを薄めてみせる小道具だということ、さらに官僚たたきの風潮から身を交わす防具だというのが僕の見方だった。それに加えてもう一つ、首相官邸の官僚支配が強まったことが背景にあるらしい、と今回の騒動からわかった。

 

 この状況をポピュリズムの台頭と重ねてみよう。当欄「仏大統領選挙済んでポピュリズム考」(2017年5月26日付)でとりあげた『ポピュリズムとは何か』(ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳、岩波書店)によれば、エリート批判はポピュリズムの「必要条件」ではあるようだ。だから今、日本でも高級官僚が批判の矢面に立たされているが、ただその標的そのものが弱体化している。本当に闘うべき相手は、たぶん別にあるのだろう。

 

 かつての日本社会は、どうだったか。1960年代を振り返ってみると、日本社会は霞が関の官僚集団によって統治されている、と子ども心にも感じていた。政治家には知的で賢明で公正な人もいたが、いい加減そうな人も多かった。清濁併せ呑むという生き方が指弾されないどころか、かえって大人物の条件のように受けとめられる傾向もあった。そのせいか、政策決定でも国会答弁でも官僚集団がすべてを仕切っていたように思える。

 

 あのころは良かった、というつもりは毛頭ない。ただ、かつて日本社会を支えたエリート体制の本質を見抜いておくべきだ、とは思う。ポピュリズムのように感情を高ぶらせるのではなく、理性によって脱エリート依存の社会を築くためには過去から学ぶ必要がある。

 

 で今週は、昭和日本のエリートについて考えさせてくれる1冊。長編小説『悲の器』(高橋和巳著、河出文庫)である。著者(1931〜1971)は中国文学が専門の人だが、団塊の世代にとってはカリスマ作家だった。自身は戦時に少年期を過ごし、戦後に大学で学んだ。軍国主義から左翼の台頭へ、そして再びの右旋回。そんな世相に揉まれた知識人の嘘や弱さを肌身に感じて、世に問うた。それが、戦後生まれの若者の心をとらえたのである。

 

 この作品は1962年に文藝賞を受け、直後に河出書房新社から単行本が出た。今回の文庫化は去年9月。その直後に僕は拙稿を書いたのだが、きっかけを見いだせずに寝かせていた。それが最近、霞が関エリートたちの情ない姿を見るに至り、書き直して出稿することにしたのだ。もう一つの理由は、俳優野際陽子さんの死去。ネット情報によると、彼女は1963年、本作のドラマ化作品(TBS系)に出演したという。その追悼の思いもある。

 

 作品は「一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である」という一文で始まる。記事によれば、某大学法学部教授正木典膳(55)は妻に先立たれた身なので、名誉教授の令嬢(27)との再婚を決めたが、これに対して同居の家政婦(45)が民事訴訟に打って出た、という話だ。「肉体をふみにじり、女ひとりの運命をもてあそんだ」として「婚約不履行」と「共同生活不当破棄」を理由に損害賠償を求めたのである。

 

 この話題はしばらく新聞を賑わす。「漫談家と婦人評論家の対談」「農家の主婦の投書」「いわゆる進歩的文化人の寸評」……。週刊誌も令嬢のひと言を引きだし、総合雑誌は典膳の弟である神父の「弾劾文」を載せた。ネット社会の先取りのようなメディアの集中砲火だ。

 

 小説の舞台となる某大学は、東大とみてよいだろう。まだ旧憲法下の話だが、「わが国の官僚組織の人材供給源である最高学府」と形容されているからだ。正木はその帝国大学助教授から検事となり、戦後、最高検察庁から古巣に戻った。学究ではあるが、権力の側について官僚社会の空気も吸っている。彼の醜聞を糸口に一つの小説世界を構築することで、著者は日本の政治体制の中心にいたエリートの危うさをえぐり出したと言えよう。

 

 この作品の読みどころは法学をめぐる記述。主人公の学説は「すべての犯罪は」「確信犯とみなす」とする「確信犯理論」だ。「すべての行為の行為責任は、その行為をなした行為者に帰せられねばならない」との立場なので「正木厳法主義」と呼ばれている。

 

 この確信犯論議をめぐっては、旧憲法下の検事局の描写に圧倒される。局内には「確信犯問題研究調査班」があって、検事たちが「禁入室」の一室で大議論を始める。そこで繰り広げられる理詰めのやりとりに、この作品は約10ページも割いている。ルソーやカントなど先哲の思想をもちだしての論理展開。考えてみれば、この青臭さこそがエリートらしさではないか。官庁は象牙の塔の延長だった。それが今、ただの組織に変質したように思う。

 

 この小説では、主人公を1958年に岸信介政権が提出して結局は未成立に終わった警察官職務執行法(警職法)改正案に向きあわせる。正木は国会の公聴会に与党側から呼ばれるが、不賛成を表明する。犯罪の予防力を強める法制に異を唱え、「現に犯された行為に対してのみ厳罰をもってのぞめば充分」と言い切ったのだ。行為によってのみ責任を問う、というのが「確信犯理論」の帰結だった。法学者としての筋を通したのである。

 

 ここで正木は「意識的な犯罪を、その可能性の予測によって検束しうるとすれば、すべての人間を検束しうる」と過剰予防を戒めている。彼の「確信犯理論」は「厳法主義」だが、その一方で「人が自由であることを認める」。昨今の共謀罪拡張論にはない平衡感覚だ。

 

 公聴会に臨む前、正木は学生運動家から法案撤回の立場をとるよう迫られて、こう言っていた。「川に一つの橋をかけるのに、これだけの材料と、こうした構造が必要だと工学者が設計図を示せば、人は信用するだろう」「わたしは法律家だ。君たちが心配してくれなくとも、公聴会では学問的にたしかなことのみを述べるであろう」。専門案件は専門家に任せろ、というわけか。興味深いのは、正木がここで科学技術を引きあいに出していることだ。

 

 理系の物事に素人は口を出せないという思い込みが、統治制度にまで及んでいたのである。日本社会のエリート体制は専門家任せの風土の表出だったのだとも言える。3・11の原発事故で理系専門家の信頼度が低下した今、正木の論理はもはや通用しない。

 

 正木の発想の問題点は、作品に出てくる無名な筆者の雑誌論考も指摘している。「正木法学の、統治機能よりは公共役務、個人権よりは社会的職分を重視し、一切を法的地位に還元しようとする主張は、かつてある進歩性をもっていた」。それは「天皇機関説の崩壊後」に「統帥権の体系に代置」すべく出された機関説の一つとみてよいという。だが「官僚合理主義」にのみ期待して「法の王国から、人間の自然的価値を追放した」と痛烈に批判する。

 

 私生活の話題に戻って苦笑を禁じ得ないのは、家政婦と令嬢二人への愛を断ちきれない正木の自省だ。「私はまったく無関係に二つの像を思い浮べ、しかも、なんの罪の意識もなく、その重複する像を同時に眺めていた」「排中律が、そのとき私の精神のなかで根拠をうしない、倫理的にではなく、論理的に自分が破滅しそうな危険を感じた」。人間の情愛に「排中律」を当てはめようとする愚かさ。それもまたエリートの弱点かもしれない。

 

 エリートは頼れない。だから、僕たちがもう少し論理的にならねばならないのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算374回)

 

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『歌謡曲が聴こえる』(片岡義男著、新潮新書)

写真》蔦の葉

 「つたのからまるちゃぺる」と聞いて、初めはなんのことやらわからなかった。メロディーの心地よさに惹かれて僕も口ずさんでいたが、「蔦」が「絡」みついた「チャペル」とわかり、情景を思い描けるようになったのはしばらくたってからだ。今や和製ポップスのスタンダードナンバーと言える「学生時代」のことである。平岡精二作詞作曲。1964年に世に出た。この歌を歌ったペギー葉山さんが4月に死去した。享年83。

 

 メディアの訃報では、ペギーさんの代表曲として「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」を挙げている例が多かったように思うが、僕は真っ先に「学生時代」を思い浮かべた。その日は一日じゅう、この歌を口のなかで口ずさんでいた。それは、理由があってのことだ。

 

 これは記憶をもとに書くしかないけれど、ペギーさんが出たテレビ番組で忘れられない場面がある。たぶん1970年代、彼女がフジテレビ系の長寿番組「ミュージックフェア」に出ていて曲の合間に将来の夢などを語っていたときのことだ。司会役の南田洋子・長門裕之夫妻が「そうですか、音楽学校をつくりたいのね?」と相槌を打つと、きっぱりと言い返したのだ。「いや、学校じゃないの、音楽学院。学院のほうがいいでしょ」

 

 唐突な逆襲ではあった。なぜそんな細部にこだわるのか、とも思った。だが、後にペギーさんが青山学院女子高等部卒と知って納得する。彼女の脳裏には、青学のイメージが焼きついていたのだ。これはそのまま「学生時代」の蔦の絡まる礼拝堂につながる。そう言えば、詞を書いた平岡精二さんもまた青学出身だった。この歌から匂ってくるミッションスクールの空気は青学のそれであり、彼女のアイデンティティそのものだったのだろう。

 

 平岡さんは、ヴァイブラフォン奏者として知られるジャズミュージシャン。つくった曲には「爪」「あいつ」などもある。これは歌詞を聴けばすぐわかるように、恋人との別れを歌ったものだ。「爪」は、ペギーさんの持ち歌でもある。平岡・ペギーのコンビは「学生…」のような青春歌謡を発信しただけではなかった。大人の恋をしっとりと歌うジャズも残してくれた。これもまた青学のおしゃれな気風がもたらしたものと言えるかもしれない。

 

 気になるのは、ペギーという名の由来だ。進駐軍のクラブで歌っていたこともあるので、ジャズ歌手のペギー・リーから名づけたのだろうと思っていたが、そうではないらしい。彼女はこの疑問に、自身のブログコメント欄で答えている。学生のころ、電話の混線で知りあったアメリカ人と受話器を通じて英会話の練習をするようになり、名前をつけてと頼んだら「あなたの声のサウンドはPEGGYだ」と言われたのだという。

 

 当欄はこれまでも和製ポップスの先人を思い返してきた。NHK「夢であいましょう」の坂本九や日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」のザ・ピーナッツ(2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)、グループサウンズの加瀬邦彦(2015年5月8日付あなたとは世界が違うという話」)やムッシュかまやつ(2017年3月10日付「どうにかなるか、ムッシュに聞こう」)という面々だ。だが、それよりさらに源流がある。

 

 見えてくるのは、電話の「混線」がしばしばあり、そこに聞こえてくる声の主が米国人でも不思議ではなかったという時代だ。戦争が終わって一転、洋風であることが憧憬の的となった。そんな世相を背景に生まれたのが、平岡・ペギーのジャズではなかったか。

 

 で、今週は『歌謡曲が聴こえる』(片岡義男著、新潮新書)。2014年刊。2012〜13年の『新潮45』誌連載をもとにしている。著者は当欄常連の作家。日系二世の父をもち、バタ臭い印象がある。これほどの歌謡曲通であることは、この本で初めて知った。

 

 著者が歌謡曲に目覚めた瞬間は強烈だ。1962年、大学4年の夏に房総からの帰途、フェリーを降りた東京・竹芝桟橋。なんの催しか、仮設舞台に派手な着物姿のこまどり姉妹がいた。「強い風を受けて裾はまくれ上がり、袂は水平になびき、はためいた」「マイクロフォンで拾われスピーカーから放たれる彼女たちの歌声は、風にちぎれていろんな方向へと飛んでいった」。それが、同じ双子デュオでもザ・ピーナッツでなかったことに僕は驚く。

 

 それからの歌謡曲遍歴は半端ではない。それは『全音歌謡曲全集』(全音楽譜出版社)という本を読み、その掲載曲のシングルレコード(「七インチ盤」)を買うことから始まった。はじめは新曲中心だったが、やがて過去の歌謡史もたどるようになる。そのために『全音…』とは別の全集も読み込んだ、という。そのおかげだろう。著者は、終戦直後のヒット曲「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)などについても蘊蓄を披露している。

 

 だがここでは、著者の知識よりも体験に目を向けて話を進めることにしよう。中学生だった1953年のことだ。「ある日の夜、ラジオから聴こえていた若い女性が歌うジャズを耳にした父親は、その人はなんという歌手かと僕に訊ねた」。著者が「ナンシー梅木だそうです」と告げると、父は言う。「ナンシーと言っても僕のような二世ではないね。しかし彼女ならいますぐアメリカへいっても、いろんな客の前で歌って、盛んな拍手が来るよ」

 

 著者は父の感想をこう読み解く。「彼が問題にしていたのは英語だったと思う」「発音とは構文であり、そのことは歌であってもなんら変わりはない」「発音そのものも重要だが、それよりもっと切実なのは、構文の正しい理解だ、ということを父親は言いたかったのだと、いま僕は思う」。戦後ほどない日本にも英語をきちんと話せる人々がいた。こうして英名を名乗るジャズ歌手が現れる。ミッションスクールに通うペギーさんもその一人だった。

 

 このナンシー梅木という歌手を僕はリアルタイムでは知らない。この本によると、北海道や東北の進駐軍施設で歌っていたが、その後、東京の民放ラジオなどで活躍するようになった。1955年に米国へ渡り、歌手だけではなく女優の仕事もこなした。特記すべきは、映画「サヨナラ」(ジョシュア・ローガン監督、1957年)でアカデミー助演女優賞を受けたことだ。米国では、本名に戻してミヨシ・ウメキとして活動していたという。

 

 ナンシーは日本時代、歌謡曲を英語だけで歌うことを試みた。「君待てども」(東辰三作詞作曲)の英語版「アイム・ウェイティング・フォ・ユー」(原文のママ)だ。この言葉が、そのまま冒頭の旋律に載った。「英語の歌詞がつき、その歌詞で歌われることなど、誰も想像すらしなかった歌」が英詞と編曲で大化けしたのだ。そして、日本の歌手が「まるでアメリカの歌手のように英語で」「日本で歌って録音する」。そんな画期的な作品となった。

 

 ところが彼女は米国でミヨシになったとたん、今度は日本語を求められる。英語の歌を日本語や日本語交じりの詞にかえて歌うLPもつくられた。さらに興味深いのは、英語で歌うときには「オリエンタルのアクセント」があるという話だ。著者はそれを聴き逃さず、彼女にとって「容姿と演技のチャーミングな様子にさらに加えるなにものか」は「かすかにではあったが確実に存在した、オリエンタルのアクセントだった」と推察している。

 

 この本にはもう一人、芸名に英名を含む歌手が登場する。「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)のフランク永井だ。著者は、彼が雑誌かどこかで語ったらしい「歌詞の日本語の発音のなかに英語の歌詞の発音のしかたを自分は取り込もうとしている」という趣旨の発言を覚えていて、それは「英語ふうに発音してみる」ことではないと断じる。桑田佳祐流のようには表に出さず、内面に込めた「英語ふう」のニュアンスなのだろう。

 

 おもしろかったのは、田端義夫のギター話。彼は1954年に東京・銀座で買った「アメリカ製の電気ギター」に自分なりの改造を加えて、生涯愛用したという。「オッス」で始まるバタヤンの演歌世界も米国のエレキサウンドと表裏の関係を成していたのである。

 

 敗戦国日本と戦勝国アメリカの違いが際立った時代、その狭間に独自の音楽世界が芽生えた。それを花開かせたのが、ペギーやナンシーやフランクだ。グローバル化の今、その懐かしい旋律群は当時の日本社会が米国に対して抱いていた距離感を伝えてくれる。

(執筆撮影・尾関章、通算367回)

 

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『坊ちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)

写真》明治の名残

 「明治百年」といわれた年が僕の若いころにあった。1968年のことだ。明治元年から数えて100年となるのは67年のはずだが、そうではなく元号が明治となった時点から満100年の節目を祝ったことになる。印象に残るのは、この年にNHKテレビが放映した「明治百年」と題するドキュメンタリーシリーズ。今、NHKアーカイブスのウェブサイトを開くと「西洋文明が日本に移植される過程を海外取材で克明に描いた」とある。

 

 そのころだっただろうか。「明治は遠くなりにけり」という言葉もよく聞いた。もともとは中村草田男が昭和戦前に詠んだ句から上の句「降る雪や」を外したものらしい。逆に言えば、この感慨が通じるくらい昭和戦後も明治に近かったのだ。身近なところでは、僕の祖父母は4人とも明治生まれだった。町のあちこちにも明治を知る人がいた。年数の隔たりで言えば、高度成長期から振り返る明治末期は現在から顧みる高度成長期にほぼ相当する。

 

 その近さを物語るのは戦争の記憶だ。今ただ「戦争」と言うと、ふつうは1945年まで続いた昭和の戦乱期を思い浮かべることが多い。ところが高度成長期には、平和だった大正をはさんで明治に思いを馳せ、日清、日露の戦争を話題にする人も少なくなかった。

 

 年寄りたちは多かれ少なかれ、先の戦争に対して悔いの念を抱いていた。だが、日清、日露はそれと対比されるかたちで、さほど否定的なものとしては語られていなかったように思う。たぶん、これこそが戦勝というものの怖さなのだろう。戦争は罪深いが、勝ってしまえば国を挙げて勝利の美酒に酔う。他人から奪ったものも自らが奪われたものも忘れて、すべてを水に流そうとする。明治は日本人がそんな経験をした時代でもあった。

 

 こう考えてみると、あの45年間は矛盾に満ちている。江戸の世は、それなりに安定していて独自の近代が芽生えていたが、そこに欧米近代の大波が押し寄せた。科学技術はどんどん取り込まれたが、それと表裏一体のものとしてあった思想はなかなか伝わってこない。その位相のズレが表面化したのが明治後半ではなかったか。富国強兵がもたらした戦勝の無邪気さに覆い隠されるかたちで、近代日本の知性はズレの苦しみを味わっていた。

 

 で、今週の一冊は『坊ちゃんのそれから』(芳川泰久著、河出書房新社)。夏目漱石の人気作品「坊ちゃん」に登場する人物のその後の人生に空想を膨らませた長編小説。「その後」ではなく、別の名作の書名を借りて「それから」と続けたところが心憎いではないか。

 

 著者は1951年生まれ、仏文学が専門の大学教授にして文芸評論家。正直に告白すると、僕の高校時代の級友で今もつきあいがある。だからこの本は、今秋刊行後すぐに送られてきた。親しい友の著書を当欄で論評することにはためらいがあってしばし積ん読だったが、それが先日、新聞読書面で紹介されたのである。小説家星野智幸さんの書評には「超大型新人の登場」とある(朝日新聞2016年12月4日朝刊)。これは読まなくてはなるまい。

 

 漱石の「坊ちゃん」では、江戸っ子の主人公が大学を卒業して愛媛県松山の中学校教師となるが、ゴタゴタに巻き込まれ、なにごとにも筋を通す性格から1カ月ほどで辞めてしまう。最後は、同志の山嵐とともに東京まで戻ってくるという筋書きだ。それを受けた今回の作品では本文の冒頭が「新橋駅のホームにゆっくり止った列車から、二人の男が連れ立って降りてきた」。ここから坊ちゃんこと多田と、山嵐こと堀田の荒唐無稽な物語が始まる。

 

 僕の感想を率直に言えば、この小説は小説であって小説でない。文献引用が多い。統計データもある。筋はどこか唐突で、こじつけ感が拭えない。だが、それにつまずかないでほしい。合間に差し挟まれる社会科学書風の世相分析にこそ、汲みとるべきものがある。

 

 では、その世相はいつごろのものか。実はこの設定にも、著者による若干の操作がある。「坊ちゃん」は1906(明治39)年に発表され、そこには日露戦争(1904〜1905)への言及もある。したがって物語の中身はそのころのはずだが、著者は漱石が自分自身の松山生活を踏まえて執筆したらしいことを重くみて、それを1895(明治28)年の話とする。その結果、「…それから」の起点は19世紀末に置かれることになった。

 

 筋の唐突感も読みどころなので、それを追うのは控えよう。当欄は別の角度から、作品を解剖してみる。松山後の多田と堀田が引き込まれていくのは、二つの職域だ。刑事とスリである。この選択に僕は著者の創意を感じる。取り締まる側と取り締まられる側という取り合わせだが、どちらもふつうの人にできないことができる。一方は情報を、もう一方は金品を自在に手に入れられるのだ。この特権が、なんでもありの筋立てを可能にした。

 

 しかも明治中ごろまでのスリ事情は今の常識をはるかに超えていた。個々の稼ぎを親分がピンはねして、そこからタレと称する上納金が刑事に支払われる。「刑事とスリの世界は、半ば公然と癒着していた」。この作品では両者がときに手を結んで市井を歩きまわり、歴史の断面を目撃する。そこに顔を出すのは実在の著名人。とりわけ光をあてられるのが左翼運動の指導者群だ。片山潜、幸徳秋水、大杉栄と、オールスターの感がある。

 

 著者はスリと刑事に狂言回しの役を担わせて、明治後半の日本社会に現れたひずみをえぐり出していく。たとえば堀田が1897(明治30)年ごろ、群馬県の富岡製糸所で工員寮の監督になると、工場は民営化後で就労環境が厳しくなっており、食費も休みも削られていた。「女工たちは『同盟罷工』、つまりストライキを敢行した」。こうして山嵐の「松山で赤シャツらに感じた義憤」が、堀田の社会主義に対する傾倒へ進化していくのである。

 

 当時は、貧困の果てに娘たちが身売りすることもあった。この作品が焦点をあてる第三の職域が「娼妓」だ。多田も、坊ちゃんのイメージを壊すように東京・吉原の遊郭に通う。ここに出てくるのも統計だ。出典が定かでないのが残念だが、全国で1年間に「公娼利用者の延べ人数」が「約二千三百万人」という数字を引いて「成年男子が一年に一回ほど公娼を利用した格好」と書く。漱石が露骨には描かない裏面の世相を白日の下に曝したかたちだ。

 

 こう書いてくると、この作品は高踏派漱石の名作を社会主義リアリズムに接続させたのではないかと誤解されるかもしれない。だが、そうではない。たしかに左翼運動を題材にしてはいるのだが、それを漱石流の批評精神でとらえ、客観的に描いたという感じに近い。

 

 最大のヤマ場は、1905(明治38)年9月にあった日露講和(ポーツマス)条約反対の国民大会だ。東京・日比谷公園界隈では焼き打ちがある。このとき多田は、「坊っちゃん」本編にある通り「街鉄(東京市街鉄道)」に就職して運転士をしているのだが、乗務中の車輌が燃やされる。「おれの運転席が炎に包まれてゆく」「おれが好きになると、みんな消えてゆく」。母のように慕うお手伝いの清を病気で失ったときと同様の衝撃だった。

 

 この日、幸徳秋水は堀田に誘われて都心の群衆を見て歩く。革命につながるか、という堀田の問いにこう答える。「単なる狼藉ですな」。条約が戦勝国に報いていないことに対する「うっぷん晴らし」と断ずるのだ。「でも、いいものを見ました。市民にこういう力があるということは、新発見です」。この秋水の言葉が、どれほど史実に沿ったものかはわからない。ただ、左翼革命をめざす者にとって驚異の出来事だったことは間違いないだろう。

 

 印象深いのは、秋水を囲む新年会で後に大逆事件に名を連ねた取り巻きがブリキ缶を投げあい、「それ爆発だ」とはしゃぐ場面。居合わせた堀田は「とんでもないものを見た」と鼻白む。なんらかの「計画」が進行中なのか。秋水もそれを知っているのか。暴動を「狼藉」と切って捨てた人のはずなのに……「思いは千々に乱れた」。これも、どこまで史実かは不明だ。ただ、革命を叫ぶ人から革命に共感する人の心が離れる一瞬はあったのだろう。

 

 このくだりは1970年前後の風景と重なる。革命志向の若者が暴力の深みにはまっていった。左翼運動は過激化の末に墓穴を掘り、今は社会主義そのものが精彩を欠く。堀田の心理には、著者がかつて学園で経験した戸惑いが映されているように思えてならない。

(執筆撮影・尾関章、通算349回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『長い長い眠り』(結城昌治著、創元推理文庫)

写真》クールミント60年、マーブル61年の新発売

 新任都知事がブラジルのリオで旗を手にしてから、東京五輪・パラリンピック問題がにわかに再燃した。よいことだと思う。いまの時代、巨大な建造物を建てまくるという強迫観念から解放されない限り、人類のおもてなし役など引き受けるべきではない。それが世界を震撼させた原子力発電所事故を引き起こしたばかりの社会ならば、なおさらだ。ホストになるのなら、大都市に富とエネルギーを集中させる愚を繰り返してはならない。

 

 思いだされるのは半世紀前のことだ。1964年のちょうど今ごろ、東京は初の五輪開催で非日常の極みにあった。なかでも開会式、10月10日の秋空は忘れがたい。僕はテレビにかじりついて観ていたくちだが、圧巻だったのは入場行進だ。古関裕而作曲の明快なマーチに胸を高鳴らせた。選手たちが踏みしめる地面のアンツーカーは目にまぶしかった。やがて飛行機の音がして、家からとびだして見あげると都心の方角に五つの輪があった。

 

 あれはあれで、時代の空気にぴったり合っていた。なんと言っても毎年毎年、家庭に家電製品がふえていったころだからだ。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、テレビ……。東京には高速道路が通り、大阪とも新幹線で結ばれた。そこにあったのは、右肩上がりの世相である。だから、1951年生まれの僕やその上下5歳ほどの年齢層にとって、五輪は屈託なく心躍らされる祝祭だった。だが果たしてそれは、どの世代にも言えることだったのか。

 

 気になるのは「屈託なく」の一点だ。戦争終結は、わずか19年前。今に置き換えれば1997年、人々がケータイを使いだし、インターネットも広まりはじめたころに相当する。かなりの近過去と言えよう。しかも、開会式会場は戦時に出陣学徒を送りだしたのと同一地点。アンツーカーを剥がせば暗い歴史がある。成人にはきっと、「屈託あり」の人が多かったことだろう。(当欄2016年4月8日付「建築の『どや顔』、町の困り顔」参照)

 

 この歳になってわかるのは、子には子の視点があり、大人には大人のそれがあるということだ。たとえばITは今、幼い子がタッチパネル製品を手にすれば自然に指を滑らせるほど当たり前の環境となっている。だが、年長者はeメールやインターネットを使うとき、それらがなかった頃の記憶から逃れられない。歴史を引きずるのである。少年少女期に見ていたものが当時の大人の目にどう映っていたのか、それを探るのも意味があるだろう。

 

 で、今週は長編ミステリー『長い長い眠り』(結城昌治著、創元推理文庫)。1960年にカッパ・ノベルスの一冊として世に出た。奇しくも今と同じく、東京が五輪・パラリンピックを催す4年前だ。75年に中公文庫に収められ、2008年に再文庫化された。

 

 冒頭の一節は「明治神宮外苑、絵画館の上に月がのぼった」「月かげは花崗石(みかげいし)に表装された絵画館の円塔を明るく照らし、周囲をかこむ雑木林の葉群れの間からも、白いひかりを地上に降りそそいだ」。まさに、五輪主会場の国立競技場周辺。夜更けに恋人が寄り添って歩くのには格好の場所だった。その月光の明るみに中年男が横たわっている。そう、それは死体。殺人事件の発生だ。だが今回は、ミステリーの筋には立ち入らない。

 

 一つの関心事は、作中に出てくる町の散らばり方だ。新宿区内の地名が頻繁に顔を出すのは、主人公の郷原部長刑事が四谷警察署員だから当然だろう。信濃町の慶応病院に近い左門町、その北方の荒木町、繁華街の歌舞伎町、北新宿の柏木。刑事たちの聞き込み先は中央線や山手線の沿線が中心で、駅名で言えば東中野、大塚……。東京が郊外や湾岸域に広がる前、国電が交通の動脈となっていたコンパクトシティの姿が目に浮かんでくる。

 

 僕が1960年の世相を強く感じたのは、事件の被害者とはかつてつきあいがあった独身中年の犬猫病院長藪下計介の暮らしぶりだ。夜には、間借り人の若い女性、新海静子と並んでテレビのミステリードラマを観る。番組が終わり、スイッチを切ると、会話が始まる。「ちょっと物足らなかったな」「犯人の割れるのが早すぎたわね」「それに、動機に説得力がないし、俳優もミス・キャストだ。共犯が画面の外にいたというのも気に入らん」

 

 この家は焼け跡に建てられたものでバラック同然。敷地の地主が「この秋の台風で必ず倒れます」と見放すほどだ。計介は生活に困って部屋を貸すことにしたのだが、入居希望者が来るたびに断っていた。ところが、静子には敷金なしでOK。理由の一つは同好のよしみだ。「彼女の右手に覗いたビニール・カバーの推理小説の効用らしかった」。手にしていたのは、たぶんハヤカワ・ミステリー。あのころから透明カバー付きだったのか。

 

 テレビが置かれているのは、おそらく畳敷きの茶の間だろう。そこで年齢差の開いた男女が、貸し主借り手の間柄なのに一つのドラマに熱中する。さらに、いっぱしの評論家よろしく作品批評で盛りあがる。危ういように見えるが、住宅事情の貧しさが生みだした微温の友愛とも言える。そう言えばあのころ、僕の家にも下宿の大学生がいた。同じ食卓を囲んで一緒に相撲や野球の中継に見入ったものだが、それも当時としてはふつうのことだった。

 

 もうひとつ、1960年ならではの話。事件現場の近くにいたホームレスの男が「トランジスター・ラジオ」を隠しもっていた。「ター」と伸ばして表記しているところは、いかにもあの時代を感じさせる。男は路上のゴミ集めを生業にしていて、それは屑籠の底から見つかった。郷原が「どこで拾ったの?」と尋ねると「こわれているんです」。ところが電源を入れると、女性歌手の歌うジャズが聞こえてきた。どうやらどこかで盗んだらしい。

 

 ソニーの公式サイトによると、「日本初のトランジスタラジオ」は1955年に商品化されたとある。60年は、ちょうど半導体が真空管に取って代わろうとしていた頃だ。「トランジスター」という単語は電子回路の素子を指す原義から離れ、携帯可能という新しい価値の代名詞となっていた。ここで著者は、家を失った人がゴミを籠に入れて回るという戦後復興期の現実に、エレクトロニクスという高度成長の申し子を織り込んでいる。

 

 この作品には、米国ハードボイルドミステリーの趣がある。著者の作風なのだろう。ひと言で言えば、ある種のダンディズムだ。だが、その表現には1960年日本の空気が満ち満ちている。透明カバーの推理小説本もミステリードラマの辛口談議も、安普請の家屋とともにある。甘いジャズが流れる新商品のラジオは、まさに掃き溜めの鶴のように現れた。バタ臭いモダニズムを、戦争の荒廃と地続きのところに浮かびあがらせているのである。

 

 その地続き感がもっとも強く出た場面がある。郷原が宿直室で、聞き込みの合間に家族への土産のつもりで買ったバナナに触る一節だ。「なめらかである。南の国の、熱い太陽の匂いがする。戦時中に、召集されていった南方の島々の風景が思いだされた。苦しい毎日の中で、海の色だけが美しかった。死を眼前に見つめた者だけが知る、美しさだったかもしれない」。その戦場で「人間を信じてはならぬ」と思い知ったのだという。

 

 このくだりは、中辻理夫の巻末解説「“私性”が流れる初期長編」も引用している。それによれば、著者は戦地には赴いていないものの一時期、海軍の特別幹部練習生だった。戦後も軍法会議記録に触れる職業に就いたことがあるという。「一九六〇年はまだ戦後十五年しか経っていない頃だ。郷原部長は戦場へ行っていて当然の世代である」との記述に出会って、1964年東京五輪当時の大人たちには屈託があったはずだとの思いを再確認した。

 

 最後に思わず苦笑したこぼれ話。この小説で郷原が遠出したのは、埼玉県の野火止にある臨済宗妙心寺派の平林寺だけだ。聞き込みで、事件当日に被害者も出席したらしい句会があった、とわかる。その風景描写を読んで、僕は既視感を覚えた。先日紹介した『コーヒーと恋愛』(獅子文六著、ちくま文庫)の作中で、同時代にコーヒーの野だてが催されたのもここだったのだ(当欄2016年9月9付「『ほんとのコーヒーに憧れていた頃」)。

 

 郊外の禅寺でコーヒーを味わう、俳句をひねる。それが、1960年の東京人が手に入れた息抜きだった。空襲のトラウマは癒えず、まだ豊かでもなかったが、そのくらいの余裕は取り戻していたのだろう。そこにたどり着くまでに15年かかったとも言えようか。

(執筆撮影・尾関章、通算338回)

 

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『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』

(瀬戸川宗太著、平凡社新書)

写真》薄くなった、中身はどうか

 7月は僕にとって回顧の月となった。少年期の記憶を彩る人々の訃報が相次いだからだ。ザ・ピーナッツの伊藤ユミさん、放送作家・作詞家の永六輔さんの死去公表に続いて、テレビの名司会者大橋巨泉さんが世を去った。ザ・ピーナッツの「シャボン玉ホリデー」、永さんの「夢であいましょう」に巨泉さんの「11PM」を並べてみると時代の流れが見えてくる。(当欄2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」参照)

 

 「11PM」はNTV系列が1965年、未開拓の深夜枠に新設したワイドショーだ。巨泉さんは翌66年から主軸の司会者を務めた。「シャボン玉…」(NTV系)と「夢で…」(NHK)はどちらも61年に始まっているから、出発時点の世相が違っている。人々は60年代初め、経済成長の登り坂を見あげて「夢」を「シャボン玉」のように膨らませたが、イレブンオープニングのシャバダバに馴染むころにはもう高台にたどり着いていた。

 

 1965年は巨人V9最初の年である。安定期の始まりだ。イレブンが「野球は巨人、司会は巨泉」と謳って繰りだすゴルフや海釣り、海外旅行などのレジャー一式は、もはや夢見るものではなく、手の届く贅沢になっていた。享楽主義の横溢は、高度成長の負の側面に気づきはじめた僕には抵抗があった。だが時折、沖縄問題のような硬派テーマをとりあげていたのもまた事実だ。遊んでも愚民にはならない。それが巨泉流の反骨精神だった。

 

 巨泉さんは2001〜02年、民主党の参議院議員を務めている。このとき僕が感じたのは、いよいよ巨泉流の時代が到来したということだ。彼は右派ではなかった。その一方で、旧来の左派とも肌が合わなかった。保守に対峙する勢力の看板が社会主義からリベラルに代わったのをみて、世間がようやく自分に追いついたと感じたのではなかったか。だが政界に飛び込んで、そこに買い被りがあったことに気づいたのだろうと思う。

 

 で、今週は『懐かしのテレビ黄金時代――力道山、「月光仮面」から「11PM」まで』(瀬戸川宗太著、平凡社新書)。8・15を前に、戦争のみならず戦後も風化させてはならないと思うからだ。著者は1952年東京生まれの映画評論家。自身の記憶を「週刊お宝TV」(NHK)の情報などで補いながら、55〜70年のテレビ世界を再現する。僕も東京出身で生まれ年が1年早いだけなので、著者とほぼ同じ電波環境下にいたことになる。

 

 今回は副題の「11PM」に目がいって、この本をアマゾンで取り寄せた。ただ残念なことに、それを真正面からとりあげているのは2ページにとどまる。そのせいか、お目当ての話が出てこない。世間からはほとんど忘れられているが、僕の脳にはしっかり刻印されている初期イレブンのことだ。「あれ、こっそり観ていたよね」と体験共有の確認をしたかったのだが……。思春期の中学生男子にとっては忘れがたい、なんともヘンな番組だった。

 

 脳裏に残るイメージをつなぐと、こんなふうになる。広いスタジオの真ん中にぽつんと机と椅子が置かれていて、仏頂面の中年男性が腰かけている。スーツ姿、いやブラックタイのような黒服を着用していたかもしれない。水商売っぽいのか堅気なのか、あいまいな佇まいだ。その人がニュース解説風の話をするのだが、毎回決まって息抜きの時間がある。網タイツのように露出度の高いコスチュームの女性が出てきて、ひとしきりダンスを踊る――。

 

 報道とセクシーショー。シュールな接合だ。もしかして僕の妄想かと思ってウィキペディア「11PM」の項を開くと、謎を氷解させてくれる記述に出会った。当初、この番組は報道局がつくっていたが、その体制は半年ほどしか続かなかったという。硬い頭が軟派を気取ったせいか、ちぐはぐで不評だったのだ。この半年限りの禁断の果実に僕は触れたが、著者はその機会を逸したらしい。ということで、イレブン抜きで話を進めよう。

 

 とっかかりは、NHKドラマ「事件記者」(1958〜)。競争関係にある記者仲間が飲み屋で歓談しながら化かしあう場面が見どころだった。著者は「こんな気楽な仕事ならぜひ新聞記者になりたいと思っていた」と打ち明ける。僕は「なりたい」と思わなかったのになってしまった口だが、大のおとながじゃれ合いながら心理戦を繰り広げる様子は子ども心にも楽しかった。(当欄2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 この番組は、かなりの部分が生放送だった。著者は、そのスタジオ風景を「週刊お宝TV」で紹介された関係者の証言をもとに蘇らせている。記者クラブや飲み屋、犯人の隠れ家などのセットが並び、ドラマの進行とともに演技の場が移っていく。「三台のTVカメラは、お互いのコードが重なり合わないように、正確に移動していかなければならない。一つでも順番を間違えればコードが絡み合い、TVカメラが移動できなくなってしまう」

 

 脚本が「三分ほどオーバー」の状態で本番に入り、臨機応変に台詞を端折りながら時間枠に収めたという。「結局、この追い立てるような演出方法が『事件記者』の軽快なテンポを生み出していたといえよう」と著者は書く。あのキビキビ感の秘密はそこにあったのだ。

 

 著者は1960年代初めの火曜夜に注目する。NHKは「ジェスチャー」(1953〜)や「お笑い三人組」(1956〜)を置いて、そこに「事件記者」を加え、人気番組を集中させた。相乗効果もあって「視聴率を独占する形となった」という。裏番組のファンもいたはずだから「視聴率を独占」は言い過ぎだろうが、そんな勢いはあった。驚くのは僕の記憶のなかで、これらの番組名と火曜日の「火」の字が分かちがたく結びついていることだ。

 

 一つの局が一つの時間帯で人気番組を串刺しにする。この現象に気づいたのは、さすがテレビ通だ。同様の例として挙げられているのは、1962年ごろの日曜夜6〜7時台。当時のTBS系列は、ここに「てなもんや三度笠」と「隠密剣士」という二強を配置した。どちらも、月曜の学校で子どもたちが話題にするような番組だ。この本には出てこないが、「隠密…」に続いて米国アニメ「ポパイ」が流れていたことも僕は覚えている。

 

 ホームドラマをめぐっては、著者と僕の意見が異なる。著者によれば、和製草分けの「ママちょっと来て」(NTV系、1959〜)は米国ドラマを「日本人向けに焼き直したもの」に過ぎず、むしろ「咲子さんちょっと」(TBS系、1961〜)に「地に足が着いた」感があったという。「舅、姑と嫁の日常生活」の淡々とした描写に惹かれたらしい。だが、僕は「ママ…」をとる。その核家族像が自分の境遇の一歩先をゆくようで羨ましかった。

 

 「ママ…」も「咲子さん…」も独りで楽しむ番組ではない。僕は家族とともに観ていた。著者も同様だっただろう。1960年前後、テレビという箱の中には善き人々の家庭があり、それを見つめる実在の家庭の入れ子になっていた。だが、そんな光景は長く続かない。60年代後半になると若者の反抗ムードが高まり、もはや「のんきに娯楽番組ばかりに夢中になっているわけにはいかなかった」。著者も僕も、茶の間離れしつつあったのだ。

 

 そういう時代に心をとらえた例外として著者が筆頭に挙げるのは、「巨泉×前武ゲバゲバ90分」(NTV系、1969〜)。毒気のあるコントが満載で僕も虜になった。さらに「反体制」を感じさせる番組として「お荷物小荷物」(TBS系、1970〜)という連続ドラマのことが書かれている。「テレビカメラがいきなりセットの裏を見せてしまう」ような常識外の演出で「左翼学生や青年層に支持されていた」というが、僕には思いだせない。

 

 最後に、著者のテレビ愛の深さを感じさせる話。「番頭はんと丁稚どん」(NET系、1959〜)では、芦屋雁之助が「いやらしい流し目」で大村崑を「崑松、チョッと来い」と呼ぶシーンが見せ場だったとして、それがない録画ダイジェスト版を観させられたときの落胆を語っている。テレビ好きにとって思い入れがあるのは、たいてい番組の細部だ。だが「当時のVTRがほとんど残っていない現状」では、それらが無情に忘れ去られていく。

 

 本には図書館があるが、台頭期のテレビにはない。開拓者が去りつつある今、著者も文中で訴えているように、僕たちが記憶を寄せあわせて記録にとどめなければなるまい。

(執筆撮影・尾関章、通算329回)

 

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『坂本九ものがたり――六・八・九の九』(永六輔著、中公文庫)

写真》MONUMENT THE PEANUTS LAST LIVE(渡辺音楽出版/キングレコード)

 このめぐり合わせを、どう受けとめたらよいのだろうか。7月10日の参議院議員選挙で、改憲勢力が総議席数のほぼ3分の2を占めた。その大報道が一段落したころ、大きな訃報が立てつづけに飛び込んできた。和製ポップスの先駆者ザ・ピーナッツの妹伊藤ユミさんとテレビ界草創期の放送作家永六輔さんの二人だ。逝去したのは伊藤さんが5月、永さんが7月上旬だったが、公表の日が選挙翌日に重なった。

 

 二人の生涯から思いだされるテレビ番組をそれぞれ挙げるなら、永さんはNHKの「夢であいましょう」、伊藤さんは日本テレビ系の「シャボン玉ホリデー」。どちらも、1961年に放映が始まった週末の音楽バラエティーだ。高度成長期を象徴する人気番組であり、戦後日本に芽吹いた自由な空気に満ちていた。僕たちはその原点が揺らぎだしたちょうどその日に「夢」と「シャボン玉」がしぼんでいく感覚に襲われたのである。

 

 前者については、当欄の前身で触れたことがある。先輩記者と飲んでいたとき、「夢で…」論で盛りあがり、「あれがもっとも良質な戦後文化だった」という感想を聞いて、その通りですね、とうなずいた話だ(文理悠々「『上を向いて』で世界人になった」2013年6月24日付)。そんな会話を交わしたのは、今から10年ほど前。すでに「戦後」が総決算される兆しがあった。その決算日がとうとう目前に迫ったということなのか。

 

 「夢で…」の記憶をあの拙稿から引こう。「黒柳徹子の機知に富んだおしゃべりに引き込まれた」「渥美清や谷幹一の軽妙なコントに笑った」「中村八大のピアノや松本英彦のテナーサックスが奏でるジャズが、僕たちの知らない自由な世界を教えてくれた」。機知と軽妙と自由。そこには、番組構成者の永さんが吹き込む焼け跡派世代の解放感があった。それが経済成長の明るさと結びついて、あんな愉快な番組になったのだ。

 

 その永さんと、僕は幾度かニアミスしている。最初は高校生のとき、TBSラジオの深夜番組「パックインミュージック」のリスナーとしてだ。投書のはがきをとりあげてもらったことが一度だけある。詳しくは思いだせないが、嫌いなもの、怖いものを問う企画ではなかったか。「徴兵制はいやだ」と書いて送ると読んでくれた。そう言えば、再軍備をめざす改憲論は、ベトナム戦争がドロ沼化した1960年代後半にもくすぶっていた。

 

 最後に接近したのは数年前。永さんは、住宅街のホールで開かれたジャズコンサートに家族らしい幾人かと来ていた。僕の斜め後方、ほんの数メートル先だ。彼の来場は奏者も気づいていたようで、演奏の合間の語りで聴衆にそのことを伝えた。僕たちはみな、後ろを振り返って拍手を送ったものだ。永さんとはついに直接言葉を交わすことができなかったが、同じ一つのジャズを分かちあう機会に恵まれたのは幸せだったと思う。

 

 で、今週は急遽、『坂本九ものがたり――六・八・九の九』(永六輔著、中公文庫)。「上を向いて歩こう」(作詞永六輔、作曲中村八大)の歌手坂本九が1985年の日航機事故で不慮の死を遂げた後、著者が綴った伝記。「九」の前半生の軌跡を、「六」輔「八」大の足どりと絡ませながら描いている。86年に『婦人公論』に連載されて単行本となったものが、90年に文庫化された。書名は、このときに主題と副題が入れかわっている。

 

 実を言うと、著者は九ちゃんが好きではなかった。それを公言するのを僕はラジオで聞いている。この本の冒頭でも、「九」は「六」にとって「八」を挟んだ「トモダチのトモダチ」と位置づける。ただ、絶交はしていない。後段には涙ぐましい友情話も出てくる。九ちゃんが公演先の京都で母の病死を知った日のことだ。著者はその舞台監督を引き受けていて、大阪空港発の最終便に間に合うようプログラムの進行を速めるのに七転八倒したという。

 

 では、なぜ嫌ったのか。手紙形式の章にこうある。「僕は君が体制べったりの芸能人になることを嫌いましたし、君は、逢えばその点を批判する僕を煙たがっていました」。僕の印象でも、九ちゃんはとことん国民的なタレントで、テレビ界にも強かった反体制の気風にはなじまなかった。僕が懐かしく思うのは、あのころは芸能界にも体制批判が存在したことだ。盾突く美学があったと言ってもよい。今はそれがなさすぎではないか。

 

 この本の醍醐味は、著者が青臭い理由で遠ざけていた人物の実像に取材を通じて迫るところにある。出身地の神奈川県川崎へ足を運ぶと、兄や姉は寛容にも心を開いてくれる。そこで聞いた話――。九ちゃんは東京へ移っても時折実家に来た。その帰途、自動車電話をオンにして実家の受話器が拾う家族の歓談を聞きつづけていたという。食わず嫌いゆえに知らなかった一面に触れて「いとおしく」思う。死別後に二人の関係が変わる瞬間だ。

 

 それではどうして、著者はわだかまりのある九ちゃんのことを書こうと思い立ったのか。その理由も文中に記されている。「坂本九なら、彼の生きた時代が書けるから」というのだ。この本は、その言葉の通りに1940〜60年代の光景をまざまざと浮かびあがらせてくれる。ただしそれは、「彼の生きた」にとどまらず「六」「八」「九」が通り抜けてきた戦中戦後である。ここではとくに戦後に目を向けたい、と思う。

 

 著者は疎開先の長野県で終戦を迎える。そのまま地元の中学校へ進むと、校内では軍国教育に対する反発が沸きおこっていた。「土下座する先生を胴上げして、そのまま床に落して蹴ったりする上級生。下級生も文句なく煽動されて先生をこづきまわし、遂には校舎の放火にまで発展してしまった」。ここには「学徒出陣で出かけた上級生」との記述もあるが、中学生の出征は考えにくい。卒業生が復員後、怒りの矛先を母校へ向けたのか。

 

 この中学には「信越本線を走る汽車の屋根に乗って」通ったとある。西部劇に出てくる鉄道活劇シーンを連想させる。著者はこのころ、映画の魅力を知る。米国の作品だ。「東京に帰ってアメリカ映画をみたい」という思いを募らせたという。

 

 戦後、若者たちは戦時体制の瓦解で生じた真空のなかで解放感に浸った。それはしばらく続く。坂本九が1950年代後半に送った高校生活にも、同様の雰囲気は感じとれる。九の同級生の一人は当時を振り返って、こう語ったという。「校長が俺の目の前でなら煙草も、酒もやれっていう豪傑でした」。暴言には違いない。だがたぶん、「俺の目の前でなら」とあるのがミソだ。隠しごとは絶対に許さない、という戒めをそこに潜ませたのだろう。

 

 この校長は、九の進路も決定づけた。彼はすでに歌手志望で、通学しながらバンドボーイなどの仕事を始めていたが、母は大学進学を強く促した。このとき、「個人の能力を引っぱりだすのが教師の仕事」という信念から「休学の扱いにするから、やるだけやってみろ。出来なきゃ帰って来い」と送りだしたという。規則がすべての今は、ここまで太っ腹な言葉はなかなか聞けない。融通が利く時代で、世間のあちこちに親分肌の人物がいた。

 

 この本でわかるのは、戦後の学園さながらの解放感が1960年代のテレビにもあったということだ。「テレビの世界には、先輩がいない。師匠もいない」。いわば真空地帯。だから「心細くはあっても、自分達の好きなように仕事が出来た」と著者は回顧する。

 

 これは、「上を向いて…」の「六」「八」「九」についても言える。著者はそれまでの歌謡界に、作曲家が師匠、歌手は弟子という「古風な関係」があったことを指摘してこう言う。「八大に弟子などはいないから、自由に歌手を選んだことが画期的なことだったのである」「八大にとって、音楽の世界は最初から枠が無かった」。作詞家と歌手が体制との向きあい方の違いで距離を置いたというのも、このことと無縁ではあるまい。

 

 翻って2010年代の今を見渡せば、テレビ草創期と同じ状況にあるのがネットメディアだ。ITが日進月歩なので年寄りにはついていけない。「先輩がいない。師匠もいない」のだ。ところが、若者が好き勝手に構想を練って新しいものを生みだせるはずなのに、解放感をネットに見いだすことはそんなにはない。むしろ、仲間うちで燃えあがる言葉の群れに出会って閉塞感に襲われたりもする。夢とシャボン玉をもう一度膨らませられないか。

(執筆撮影・尾関章、通算325回)

 

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『パリ五月革命 私論――転換点としての68年』(西川長夫著、平凡社新書)
写真》バラの季節
 
 1968年は特異年だった。米国ではマーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・ケネディ上院議員の暗殺が続き、その暗雲に抗するようにベトナム反戦運動が高まった。当時のチェコスロバキアでは「プラハの春」があり、ソ連の軍事介入に立ち向かう人たちがいた。日本でも70年安保を前に学生運動が激しさを増し、街頭は騒然となった。そしてフランス・パリの5月――。地球は若者たちの抵抗一色に染まった。
 
 なかでも、パリは異彩を放つ。日本などでは「五月革命」と呼ばれるからだ。ただ、それでドゴール政権は倒れなかった。6月の選挙では対抗勢力を抑えて圧勝している。いったいどこの何が「革命」なのか。
 
 このことでは1990年代、僕がロンドンにいたとき、パリ駐在の先輩記者から聞いた話が印象に残る。生殖医療を規制する法律を批判する女性論客が五月革命を振り返って、こんなことを言ったという。あのときのデモの盛りあがりはフェミニズムとエコロジーに分かれてしまった――。彼女はフェミニストとして女性の選択権を縛る法制定に反対したが、エコロジストは人体の操作を嫌う立場から規制に前向きだという。
 
 女性の権利尊重と自然環境の保護。この二大思潮が、ともに五月革命で強まり、広まったのだとすれば興味深い。そもそも1968年に同期した世界の若者の抵抗は、旧来からある右派左派の座標軸になじまない。そこには、もっと大きななにかがあったと思う。
 
 僕自身の記憶を手繰れば、中学生のころ学校には組合運動に熱心な先生が多くいたが、その同じ人物が軍隊式の体罰を科すことがままあった。戦後大人社会の虚構に対する異議申し立て。それは洋の東西を問わず、僕たちの世代に共通する心情だった。
 
 で、今週はそんな五月革命の実相を知るのに好適な一冊。『パリ五月革命 私論――転換点としての68年』(西川長夫著、平凡社新書)。著者は1934年生まれ、比較文化論が専門で、1967〜69年にフランス政府の給費留学生としてパリ第四大学(ソルボンヌの一つ)や国立高等研究院(オート・ゼチュード)で学んだ。革命の現場に居合わせたということだ。この本は、それから四十余年後の2011年に刊行された。
 
 この本が、遠い過去の回想録であるにもかかわらず迫真性を備えているのは、著者が当時、その渦中にあって見聞きしたことをリアルタイムで書き綴っていたこと、それだけでなくカメラのレンズをあちこちに向けていたことによる。「私は毎日、カメラとトランジスター・ラジオを持って」「可能な限りあらゆる集会や抗議デモに参加し、好奇心の塊となって人々の発言に耳を傾け、写真を撮り、ビラや新聞や壁に書かれた落書きを集めていた」
 
 フィルムの本数にして100本ほど。著者は、一部を個人アルバムに収めただけで「門外不出の大切な宝のように四〇年間私(死)蔵していた」。被写体の人々に迷惑が及ぶのを恐れてのことだったという。2010年に名古屋大学で「反乱する若者たち」と題するシンポジウムが催された際、公開に踏み切る。このとき、パネルとなった画像を見て自身も驚いた。「長年の色褪せた私の記憶に残されたものとは全く異なる輝きを放っていた」からだ。
 
 この本に載った最初の1枚は、五月革命の本質を突いている。それはデモでもバリケードでもなく、小学校の外壁を写したものだった。フランス語で「ここに疎外始まる」と落書きされている。著者の印象では、パリの小学校はたいてい高い壁に囲まれていて、子どもの声が通行人の耳に届かない。「学校、それは正しく疎外の始まる場所だ」「小学校が疎外の始まりであるとすれば、大学は疎外の極まる場所ということになるだろう」
 
 五月革命も、起点は学生が大学のありようを問うところにあった。郊外にあるパリ大学ナンテール分校(現・パリ第十大学)の「三月二二日運動」だ。著者は、この顛末を現認していないので史料によって跡づける。1967年秋から68年にかけて「勉学条件の改善」を求める動きがきっかけで学内が騒然とし、警官隊の導入もあった。学生たちが仲間の逮捕に抗議する集会を開き、事務所棟の占拠を決めたのが3月22日だった。
 
 心理学科や社会学科の学生たちは、社会学の教育方針にかみついて小試験を拒んだ。「現在の資本主義社会において社会学(とりわけアメリカ社会学)が果たしている役割」が批判の的だった。学問は消費経済の道具ではない、ということだろう。著者によれば、その背景には「大学という制度の役割とその抑圧的な権力構造」に起因する「抑圧的で展望のない日常生活と不快感」があったという。
 
 この郊外の反乱がパリ中心部カルチエ・ラタンの学生たちの心に火をつけた。5月には労働運動を巻き込んで連帯ゼネストが広がる。ここでは、著者が革命の主舞台2カ所を自身の目でとらえた文章を引こう。『フランスの解体?』という本に収められたものだ。
 
 まずは、「自主管理大学」として「解放」されたソルボンヌ。「せまい門を通って大学の内庭(クール)に入ると、ここでもまず人間でいっぱいなことにおどろかされる。それに何という多様性だろう。カストロひげ、長髪、ボヘミアンスタイル、中国帽、ボネ・ルージュ、ジーパン、背広、皮ジャンパー、ミニスカート、真っ赤な長ズボン、とっくりのセーター」。ファッションだけをみても、懐かしい60年代文化の百花繚乱だ。
 
 パリの国立劇場オデオン座はどうか。「舞台正面に『「旧」オデオン座は解放された演壇である』と大きく書いた白布がかかげられ討論がはじまっている」「一人の発言者が立つごとに、平土間の真中に立っている金髪の少年が、両手をひろげて静かにという合図をする。これが議長らしい」「『われわれ』という一人称複数形が少なくなり、『わたし』『おれ』という一人称単数を主語にしたしゃべりかたがふえてゆき、告白調が多くなった」
 
 この本から感じとれるのは、五月革命が政権転覆運動ではなかったということだ。一つの主義に立つ政治勢力があったわけではない。「先導的な役割」を担ったのは、官僚主義を嫌い、てんでんばらばらな主張を掲げる「グルピュスキュール」という左翼の小グループ群だった。闘い方も革命と呼ぶには子どもっぽい。街路の敷石(パヴェ)をはいでバリケードを築いた。「パヴェの下/それは砂浜……」という詩的な落書きもあったという。
 
 著者の心に留まったビラの言葉は「禁止することを禁止する」だ。「考えてみればパリ市中がいかに多くの『……を禁止する』という立札や掲示でみたされ、ぼくらの内面がいかに多くのタブーにしばられていることか」。6月に入るとドゴール政権の老獪な舵とりで革命は萎むが、著者は「一度粉砕された権威はふたたび昔の姿でよみがえることはできない」と書いている。(引用部分はともに『フランスの解体?』からの再録)
 
 最終章にある「六八年は西欧的な世界における最初の『自己批判』的革命であった」という総括は、胸にすとんと落ちる。諸文献を引用しながらの考察を要約すれば、それは西側の「消費社会」や東西両陣営の「生産中心主義」、近代文明に内在する「開発や植民地支配への無限の欲望」と対峙するうねりだったということだ。システムに立ち向かう「反システム運動」という表現もある。禁止の禁止は、そこから出た発想だったのだろう。
 
 あとがきには、3・11の原発災害に触れて「世界の諸国は、六八年革命を鎮圧した四三年後に、彼らが発した根本的な問いや批判に改めて直面している」とある。大都市の消費を地方のエネルギー生産が支える構図の是非は「根本的な問い」の一つではなかったか。
 
 著者は、若者たちのその後をこう描いている。「彼ら彼女らは、革命家や活動家にならなくとも、エコロジストとして、あるいはフェミニストとして、あるいは普通のサラリーマンとして、何らかの形で日常生活における反文明的『長征』を続ける意欲を持ち続けており、それが六八年世代のひとつの特徴となっている」。同じような抵抗運動があった日本社会で「意欲」は今も持続しているだろうか。そんな思いが湧きあがってくる。
(執筆撮影・尾関章、通算316回)
 
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『超高層ホテル殺人事件』(森村誠一著、角川文庫)
写真》ホテル気分でランチ
 
 数年前のことだ。僕が育った町からランドマークが消えた。14階建て、高層の駅ビルだった。出現したのは1970年ごろではなかったか。実家は駅からほど近いところにあったので、空が急に狭くなった。ビルは地上と地下の数階にスーパーや専門店街、飲食店街が入っていたが、上層階は賃貸アパート。僕の部屋からは居住階の外廊下が幾層も重なって見え、夜になると蛍光灯が等間隔に並んで白い光を放った。
 
 その建物が取り壊されて、あとがどうなるのか戦々恐々としていたら、こざっぱりした後継ビルができていた。4階建ての平べったい造り。吹き抜けの大階段があり、4階はレストラン街を片側に寄せて屋上庭園風のスペースを広くとっている。電鉄会社のサイトで調べると、オープンは2011年4月。奇しくも3・11の直後である。14階が4階に縮んだことは人々の感性の移ろいを映している、と僕は思った。
 
 ビルは高ければカッコよい。そんな感覚が極まったのが1970年代初めだったのは間違いない。新宿駅西口の周辺に槌音が響き、鉄骨の骨組みが上方へ伸びていった。ふと思いだすのは、子どものころに見ていた東京の地図だ。あの一画には水色の短冊のような長方形がいくつも並んでいた。淀橋浄水場だった。それがいつのまにか消えて、副都心と呼ばれる超高層ビル群に取って代わられたのである。
 
 以来2010年までの40年ほどで、僕たちは14−10=4を学習した。建物は高ければよいわけではない、と悟ったのだ。平たいほうが心地よいこともある。これは原発依存の大都市のありように反省を迫った3・11後の感性にぴったりくるのだが、最近再び「高ければカッコよい」がぶり返しているように見えてならない。成長戦略という言葉がほとんど無批判に受け入れられ、その象徴のように2020年東京五輪がもてはやされている。
 
 ちなみに1971年、新宿副都心に最初に聳え立ったのは京王プラザホテルだ。最上層は47階。ホテルの公式サイトには「地上170m、日本初の超高層ホテルとしてオープン」とある。東京のホテル業界は1960年代から高層化が進んでいたが、それが「超」の域に達したのである。ノッポのホテルは「高ければカッコよい」の具現物となった。それでなくとも華やかな空間が、背丈を付与されて都市のスカイラインに君臨したからだ。
 
 で、今週は『超高層ホテル殺人事件』(森村誠一著、角川文庫)。著者の公式サイトなどによると、この小説は1971年、光文社カッパ・ノベルスの一冊として刊行された。東京に超高層ホテルが現れた年だ。そのあと幾社かで出版が続き、去年、この文庫本が出た。
 
 最初の事件が起こるのは「昭和四十×年十二月二十四日、クリスマス・イブの夜」。舞台は、東京都心のお濠端にできたばかりの「イハラ・ネルソンホテル」だ。62階建て、客室数3000。京王プラザがモデルではないらしい。そのときは翌日の開業を前に、お披露目のパーティーが向かい側のビルにある高級レストランで開かれていた。わざわざ会場を外に選んだのには理由がある。長身の建築を生かしたアトラクションがあったからだ。
 
 まだ泊まり客のいない館内の明かりを巧く操って、「壁面に比類ない規格性をもって配された各客室の窓群(そうぐん)」に十字のかたちを浮かびあがらせたのである。「大都会の夜を彩る花やかなイルミネーションのすべてを圧倒して、光の十字架は夜空に突き刺さるばかりに聳(そび)え立っていた」「さながら巨大な十字の発光体が、地上から直接天に向かって噴き出しているように見える」
 
 そして騒ぎがパーティー会場で起こる。「おい、あれは何だろう?」「人間らしいぞ!」「何をしてるんだ」「窓から身を乗り出してるぞ」「自殺だ!」「いや、だれかに突き落とされようとしているんだ」……。そうこうするうちに「黒点はついに窓の外へ押し出され、墜落する一個の物体となって、光の垂線の下方へ消えた」「光の十字架を背負って、その物体が一同の視野から消える直前に明らかに人間の形をとったのが、まざまざと見てとれた」
 
 この導入から、著者の視線が高度成長後期の都市美に注がれていることがわかる。社会派の先達、松本清張が高度成長前期の埃っぽい地方都市に目を向けていたのと好対照だ。高層階の窓は開閉不可が多いのでは、と思わぬでもないが、その言い訳も添えられている。

 興味深いのは、本文に添えられた「イハラ・ネルソンホテル」の平面図だ。真上から見下ろすとY字形のデザイン。光の十字架を演出した側は、東京湾を望めるので「ベイビュー・フェース」と呼ばれ、皇居側は「パレスビュー」、日比谷公園方向は「パークビュー」の名が冠されている。1970年代初めと言えば、ベイエリアというおしゃれな呼び方が広まる前だったと思うが、著者は東京の一歩先を見ていたのか。
 
 このホテルを創業した「イハラ・グループ」は、「東都高速電鉄」とその系列会社から成る企業集団だ。グループの統帥、猪原留吉は「東北の貧農の末っ子」で、上京後はじめは「一介の丁稚(でっち)小僧」だったが、株相場に手を出して成功し、やがて「経営権奪取を目的にした買占め」をするまでになった。そして「東洋最大規模」のホテルを開く大仕事に乗りだしたものの、竣工の日を待てずに心臓発作で世を去ったのである。
 
 この筋の立て方にも、当時の業界事情が反映されている。1970年に大阪万博があり、72年には札幌で冬季五輪も予定されていて、外国人観光客の宿泊需要が高まっていた。その結果、「東京のホテルは、絶対数が不足となって」「大型ホテルの建設が国家的に奨励された」という。そこで「実業界の野武士的存在で、折あらば自分の存在を周囲に確認させたいとうずうずしている」人物がおだてあげられたというわけだ。
 
 ホテルのような客商売に対する世間の見方も変わりつつあった。「レジャー産業は、かつて“暗黒産業”といわれたほど産業界にとっては未開の分野」で「中小企業が多く、水商売的な色彩が強かった」が、それが「無尽蔵の金鉱」に変わった。「高度成長によって、かねとひまのできた人々」が「レジャー=遊び」に対する罪悪視をやめ、「余暇の中に生きがいを求めるようになった」と、著者は書いている。
 
 ここで気になるのが、ホテル名にある「ネルソン」だ。それは、イハラ側が米国屈指のホテル企業「ネルソン・インターナショナル」(NI社)に「委託経営権」を与えたことに由来する。そのころ、海外のホテル資本は「日本の地価が極端に高い」こともあって「直接進出よりも、業務提携等による間接的な進出の可能性」を探っていたらしい。ちなみに、この小説で最初の犠牲者となるのは、NI社から派遣されていた総支配人である。
 
 この作品は、殺人ミステリーの筋に重ねて経済界の確執も描きだす。一つは、猪原グループに対してライバルの私鉄グループが仕掛ける策謀だが、もう一つはNI社の企業戦略だ。著者が海外資本をかませたのは、グローバル経済の予兆を感じとっていたからだろう。ハードからソフトへ、ドメスティックからグローバルへという潮流は高度成長末期にすでに芽生えていた。それを先取りするうえで超高層ホテルは格好の大道具となった。
 
 ミステリーとしては、東京大阪間を深夜に7時間で往復できるかという話が出てきて、自家用飛行機を使う可能性が論じられる。あのころの未来図には自家用機が飛び交うという夢も組み込まれていたのか。ただこればかりは、その通りにならなかった。
 
 あのころも現実の生活はカッコよくなかった。たとえば、死体発見現場の一つとなった関西の町。「駅前の通りに出るまでのあいだ、小さな溝川(どぶがわ)に沿って歩く。メタンガスと孑孑(ぼうふら)の温床になっている汚ない川だが、細々ながら水の流れがある」
 
 超高層ビルとドブ川が同居する。そんな無粋な不釣り合いは、40年余が過ぎた今もほとんど変わっていない。成長戦略でビルを高くするよりも大事なことが残されているのではないか。1970年の風景を脳裏に呼び起こしながら、そう思う。
(執筆撮影・尾関章、通算308回)
 
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『死へのイデオロギー――日本赤軍派』
(パトリシア・スタインホフ著、木村由美子訳、岩波現代文庫)
写真》
 
 1年でもっともいやなのは何月か。真っ先に2月を挙げる人は少なくないだろう。年中行事を探しても、節分のようなマイナーなものしか思いつかない。バレンタインデーも縁のない人にはどうでもよいことだ。一方で、入学試験のように鬱陶しいものが集中する。
 
 僕たちの世代には、その暗い季節感とぴったり重なる一連の出来事が脳裏に焼きついている。1972年2月、過激派集団の連合赤軍(連赤)が引き起こしたあさま山荘事件と、それに先立つ山岳ベース事件だ。後者は、組織内の「総括」や「処刑」によってメンバーの男女計12人が生命を奪われたという惨事。前年暮れから進行していたが、発覚したのは3月に入ってからだった。
 
 あさま山荘事件では、連赤メンバーが銃をもって長野県軽井沢の楽器会社保養所に10日間立てこもったというものだ。テレビの生中継が延々と続き、リアルな生死のかかった攻防が映しだされた。特別報道番組として空前の高視聴率を獲得したのだが、なぜか僕にはそれほど鮮烈な印象がない。アルバイト先などで画面をちらちらとのぞいていただけだった。どうせ結末は決まっている、という醒めた思いがあったからだろう。
 
 むしろ強烈な衝撃を受けたのは、群馬県の山中で起こった山岳ベース事件のほうだ。なぜか思いだされるのは、宵の口の電車内。小声の会話が聞こえた。なにか、おぞましいニュースがあったらしい。しゃべらずにはいられないが、大声で口にするのは憚られることのようだ。心がざわついた。駅売りの夕刊をのぞき見たのか、帰宅してテレビに飛びついたのか、いずれにしても驚愕の粛清があったことを知って、2月に逆戻りした気分になった。
 
 人間の解放をめざしているはずの集団が、それとは逆の袋小路に迷い込んだ。これは、同世代の若者にとってまったく想定外のことだった。僕自身は「政治で世界は変わらない」という信念から運動にも党派にもかかわらなかったが、それでも彼らが親世代の引きずる戦前戦中の価値観を克服しようとしていることには共感もあった。ところが、報道が伝える遺体発見現場の光景は、そこに戦後思想に反する人間疎外があった事実を物語っていた。
 
 僕ら同世代人には、「総括」の名のもとで為された愚行を真の意味で総括する、という務めがあるのではないか。今の日本社会に右寄り路線に伍する対抗勢力がないことの遠因は、この事件にもあるような気がするからだ。世の中にあった左向きのシンパシーは、あのころから急速に弱まった。で、今週の一冊は『死へのイデオロギー――日本赤軍派』(パトリシア・スタインホフ著、木村由美子訳、岩波現代文庫)。
 
 著者は、1941年生まれの米国の社会学者。この本は、91年に河出書房新社から出た単行本が2003年に文庫化されたものだが、もともとの書名は『日本赤軍派――その社会学的物語』だった。1969年に旗揚げした「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」の系譜を海外の日本赤軍(旧アラブ赤軍)、国内の連合赤軍まで、取材をもとに跡づけている。外国人学究としての視線が、事象の異様さ凄惨さを濾過して今日に通じる教訓を引きだした。
 
 まずは時代背景。1960年代の日本では、大学キャンパスの学内闘争や反安保、ベトナム反戦などの政治闘争が津々浦々に広まっていた。とりわけ69年は「抗議闘争がきわめて戦闘的にエスカレートした年」だ。警察が押収した木材、石材、鉄パイプ、瓶の類は前年に比べて飛躍的に増えたという。ただ、ここから見えてくるのは、ヘルメット姿の一群がゲバ棒を手にして、石や火焔瓶を投げる街頭闘争である。
 
 著者は、ここに一つの矛盾をみる。「戦時中の軍国主義は、戦後生まれの学生たちには完全に否定されていた」のに、学生運動は「非暴力抵抗運動」を超えて「死に至らない程度の武装行動」の水準に高まっていた。そこにとどまらなかったのが赤軍派だ。ブントの「世界同時革命論」を進めて「世界各地で革命の火ぶたは切られている」ととらえ、自らを「各地の革命軍と連帯して闘う前衛部隊」と位置づけた。
 
 この動きには、皮肉な追い風が吹いた。69年は、1月に東大安田講堂攻防戦があったこともあり、多くの学生が逮捕された。数カ月たって身柄拘束を解かれると、闘争を取り巻く状況は一変している。「彼らを迎えたのは、より厳しくなった警察の弾圧と、すっかり縮小してしまった闘争だった」「闘争を継続したいと思うブントの人びとは赤軍派に移る以外に道はなかった」。こうして「軍」として権力と向きあう流れが強まったのである。
 
 そのころ、銃・爆弾レベルの闘争路線をとる集団には「日本共産党革命左派(革左)」もあった。「毛沢東主義」の色合いが濃く、「反米・愛国」を掲げる一派だ。これら二つの「闘争理論も歴史もまったく異なった」集団が接近して一つになる。連合赤軍の誕生である。
 
 思想の違いを措いて、なぜ合併したのか。この本はその事情もあぶりだす。赤軍派は「一連の銀行襲撃でかなりの資金を手に入れていたが、めざすところの革命的行動のための武器には事欠いていた」。一方、革左は「銃砲店襲撃に成功して銃や弾薬の蓄えがあったが、地下メンバーの生活資金は底をついていた」。双方とも、第1世代の指導者が逮捕勾留されるなどして不在だったため、後を引き継いだ第2世代が手を結んだのだった。
 
 この本によれば、連赤を内向きに狂わせたのは「革命戦士の共産主義化」という言葉だ。革命の「内面的な準備」として日常の所作に目を向けた。一人の女性が会議中に髪の手入れをしていたなどと非難されたのがきっかけ。指導者は「全体による相互批判」を通じて「考え方や行動を修正していく」という自己批判法を思いつく。「総括」である。やがて暴力がもち込まれ、仲間たちは「殴ることが自らの向上にもつながる」と制裁を強いられた。
 
 僕がもっとも辛く感じるのは、メンバーの一人が「総括」犠牲者の顔を殴る場面だ。それは「自身の弱さを克服しようとする欲求からでたもの」だったが、指導者は遺体への「冒とく」行為と断じて、こんどは殴った側に「総括」を求めたという。この本の第三部「連合赤軍――粛清をめぐる閉ざされた集団の考察」には「死に至る自己批判」「メビウスの環」といった章題が並ぶ。まさに「出口なし」の状況がつくりだされたのである。
 
 指導者が「予想もつかないような判断」を見せつけるたびにメンバーは「事実を解釈する力に自信を失っていった」と、著者は分析する。それを後押しした要因に、「自分自身の個人的な感じ方」よりも「外部による確認」を重んじる「日本社会の傾向」をみてとる。
 
 著者ならではの発見は、「総括」という行為に「意識高揚法」を見いだしたことだ。これは、米国で広まった心理療法の一つで、「より強い自己の形成」の邪魔となる「むだな防衛心」を除くため、「集団による批判、追及」の場を設ける。米国の実践現場では、指導者のコントロールやメンバーの異議申し立てというブレーキがあるが、連赤は「行きすぎの傾向に歯止めをかける手段を二つとももっていなかった」という。
 
 これに関連して、著者が日米の「合意方式」を比べたくだりにも注目したい。米国ではなにかが多数決で決まったあとも、「反対」や「批判」の意思表明をすることに抵抗がないという。「もし反対なら喜んで従う必要はなく、不承不承参加してもよい」。これに対して日本では、「いったん組織が賛成の方向に向かったことに関して個人的な反対意見は差し控えるのが普通である」。山岳ベースには、そんな日本社会の縮図があったとも言える。
 
 しかも、この傾向は、連赤の時代より今のほうが強まってはいまいか。多数を占めれば、どんな法律でも決められる。法令遵守ばかりが叫ばれ、悪法であれ「悪い」とは言いにくい。自分の信条と集団の方針は違って当たり前ということが忘れられているようだ。
 
 もし今、世間を覆う閉塞感を除こうというなら、あの山岳ベースを支配したのと同じ力学を一掃するところから始めなくてはならない。それが、同世代人の役割のように僕は思う。
(執筆撮影・尾関章、通算303回)
 
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