『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書)

写真》ベルリンはプロイセン、ヴァイスビアはバイエルン

 そう言えば……と思うのは、僕が初めて訪れた外国がドイツ(当時は西ドイツ)だったことだ。1984年、科学記者として初めての海外出張だった。まだ東西冷戦のさなかだったので、アンカレジ経由北極回りの空路でフランクフルトに降り、そこから列車に乗って最初の宿泊地ケルンに着いた。ホテルは質素で、小ぎれい。エレベーターは機械仕掛けを露わにしたようなつくりだった。清潔と武骨――それが、あの国の第一印象だった。

 

 もっとも心に残る町は、南部の大学町テュービンゲン。ホテルはさらに質素。カーテンも寝具も趣味の良い柄ものの布地で、家庭的な雰囲気だった。部屋係の可憐な面立ちに、ドイツ語の授業で習った「メートヒェン(少女)」という単語を思いだしたりもした。大学では老教授が、取材の合間でも定時のティータイムを欠かさなかった。町に漂うおとぎ話の気配。人々が繰り返す静かな日常。これらも、僕が感じたドイツらしさだ。

 

 総じて言えば、ドイツという国に僕は悪い印象をもっていない。東西統一後の足どりを追ってみても、そのバランス感覚は見事だ。右から左へ、左から右へと振り子を振るような政権交代。緑の政治勢力も強く、いったんは原発廃止を決め、そのあと揺り戻しがあったものの、3・11の東京電力福島第一原発事故を受けて再び脱原発路線に転換した。国際政治での立ち位置をみても、自国第一主義に走らずに協調路線を守りつづけている。

 

 だから不思議でならないのは、近現代史で最悪の政治体制を産み落としたのがそのドイツだったことだ。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は自民族の優越を主張してユダヤ民族などを目の敵にした。弱者を切り捨て、政敵には弾圧の限りを尽くした。標的とされた人々は人間性を否定され、その多くが心身の死に追い込まれたのである。あの落ち着いた社会風土から、どうしてそんな暴虐が生まれたのか。

 

 善き人々がいて善き文化があっても、邪悪は顔を出す。そんな悪しき変異を、20世紀のドイツ社会は体験した。いま再び、邪悪なるものが世界を揺るがしかねないように思われるとき、その悪例の主舞台となった大都市に目を向けることは意義があるに違いない。

 

 で、今週は『ベルリン物語――都市の記憶をたどる』(川口マーン恵美著、平凡社新書)。著者は日本の大学を出て、シュトゥットガルトにある音楽大学大学院のピアノ科で学んだ後、現地に住みついてドイツを日本に紹介する本を書いてきた。とりあげた題材は音楽から料理まで幅広い。ベルリンを本にしようと思い立ったのは、別の仕事でしばしば足を運ぶうち「この町に次第に夢中になっていった」からだという。刊行は2010年。

 

 プロローグでは、この本で焦点をあてるのが1871年と1990年の間であることが宣言される。前者はプロイセン、バイエルン、ザクセンなどの王国や領邦、自由都市が合流して一つの帝国を打ちたてたドイツ統一の年、後者は僕たちの記憶にも新しい東西統一の年だ。著者は、この間に「ベルリンは、その姿を極端から極端へと何度も変えている」と書くが、それと同期してドイツそのものも両端の間で揺れ動いたと言ってよいだろう。

 

 いきなり中盤の第5章に入って恐縮だが、ヒトラーが政権に就いていた1930〜40年代を描いたくだりをみてみよう。そこに、こんな一文がある。「この時代のことを調べていると、どうしてもわからなくなることが一つある」「なぜ、これほど短期間に、ドイツ人は変わってしまったのだろう」。ドイツそのものが宿す善と、ナチスドイツとなって体現した悪。その落差を前にしての戸惑いは、僕だけのものではなかった。

 

 著者は、ナチス時代の「ただ見て見ぬふりをしていただけではなさそう」な世相に着目する。世の中に、ユダヤ人差別を「笑いの種」にする傾向があったこと、医療従事者が精神病患者の命を絶っても、それを「彼らの仕事」とだけとらえる思考停止があったらしいこと。そのどれも「私の中にあるドイツ人のイメージとつながらない」。しかもこれは、古代や中世の話ではない。「何がこれらを可能にしたのだろう」と問いかける。

 

 この謎を解くには、近現代のドイツに働いた力学を知る必要がある。第1章の記述によれば、1871年の統一以前、一帯には35領邦、4自由都市が並び立っていた。19世紀初めまで遡れば、領邦数は300ほど。それらを合体させたのがプロイセン王国であり、その鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクだった。「パッチワークのような場所」に「突然、若く大きな、しかも、軍事力の突出したドイツ帝国という国が出現した」ことになる。

 

 中世以来の分権を強引に一つにまとめようとする無理が、最後はナチスに行き着いた。これは、幕藩体制を近代国家にあわててつくりかえた日本に軍国主義が芽生えた流れに似ている。もとからあった分権は封建制の名残にほかならないが、それはビール醸造元の数ほどある地域の生活文化を宿していた。僕がドイツで体感した人々の美徳は、こうした固有の文化の表れだったような気がする。帝国志向の過熱が、それらを麻痺させたのである。

 

 興味深いのは、ベルリンが帝国志向に素直に靡かなかったことだ。権力者から疎ましがられたこともある。ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世が宮殿を構えたのはポツダム。首都ベルリンを「社会主義者という、王族の権利を否定しようとする不逞な輩(やから)の跋扈(ばっこ)する、不穏で恥知らずの町」と嫌ったからだ。帝国崩壊後の1919年に共和国が生まれたときも、制憲議会の開催地は「不穏なベルリン」でなく古都ワイマールだった。

 

 この二つの記述からわかるのは、ベルリンには権力が顔をしかめる喧騒があったことだ。19世紀には市民革命の先達フランスの影響を受けて、「民衆蜂起の中心地」になっていた。ワイマール体制に移ると、それが一気に花開く。この本にある1920年代後半の統計では、市内の映画館数が363に達し、映画会社37社が年に約250本の長編作品を制作している。朝刊紙45、昼刊紙3、夕刊紙14、出版社も約200を数えたという。

 

 この都市では旧来の倫理が揺らぎ、売春の蔓延や小児性愛の横行など由々しき事態も起こっていた。だが半面、「芸術家や科学者の精神を解き放ち、様々な芸術表現や技術の発展を可能にした」。町には新建築運動バウハウスの建物が現れ、物理学者アルバート・アインシュタイン、作家フランツ・カフカ、映画監督アルフレッド・ヒッチコックらもその空気を吸った。「ベルリンは、『現代文化(モダニズム)の実験場』になった」のである。

 

 ここで思いだしたのは、オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンだ。『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)によれば、そこも帝都ではあったが、建築家たちが皇帝主導の街づくりに反発して「分離派」の芸術運動を起こした(当欄2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考」)。帝都は都市文化が成熟するからこそ皇帝にとって獅子身中の虫となる、ということだろう。

 

 記憶にとどめておきたいのは、ドイツには帝国志向と逆向きのベクトルもあったことだ。それは、自由な表現を追い求める方向性と言ってよい。後者は皮肉にも前者の都で芽吹き、前者の強まりとともに発信力を高めたが、最後は結局、前者の暴走に押し潰された。

 

 ベルリンでは、二つのベクトルのせめぎ合いが第2次大戦後も続く。ナチスが消えた後、帝国志向にとって代わったのは東西冷戦の斥力だ。町は二つに分断された。とりわけ西ベルリンは、文字通りに陸の孤島となったのである。この本によれば、発電所の資材一式が航空機で運ばれたこともある。1960年代に壁ができると、「西―東―西と突っ切る経路」を走る電車は東では検問所のある1駅を除いて「通過するだけ」になったという。

 

 斥力と逆向きのベクトルが爆発したのが、1989年11月9日の壁崩壊だ。この本では、著者の知人たちが経験したそのときが、アンゲラ・メルケル(現首相)の自伝にあるそのときと織り交ぜて綴られる。そこでの主役は国ではなく町、町というよりも人だった。

 

 一つのベクトルには必ず逆向きのそれがある。僕たちはそのことを忘れてはなるまい。

*著者名にある「恵」は正しくは旧字体です。

(執筆撮影・尾関章、通算385回)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)

写真》オーストリアワイン Heurigerは新酒の意

 世界情勢が騒がしい。そんななかで、もっと知りたいのにあまり深掘りされなかったニュースもある。去年12月のオーストリア大統領選もその一つだ。やり直しの決選投票でリベラル系の候補が右派ポピュリストといわれる候補を抑え、勝利したのである。

 

 この結果を受けて、英紙ガーディアンは「安堵のため息が欧州全域で聞かれるだろう」と書いた(デジタル版、2016年12月5日付)。英国の国民投票がEU(欧州連合)離脱を決めた。米国の大統領選でドナルド・トランプ氏が選ばれた。自国第一のポピュリズムが席巻するなかで、よその国との協調をうたう政治家が辛勝したことをこう表現したのである。この新聞が左派寄りであることを差し引いても、なるほどとうなずける。

 

 ただ僕が「もっと知りたい」と思うのは、それとは違う角度からだ。新大統領となったアレクサンダー・ファンダーベレンという人が気になる。苗字はvan der Bellen。分けて読めばファン・デア・ベレンだ。興味深いのは、緑の党の元党首ということである。

 

 そこに注目すると、この大統領選の格別の意義が見えてくる。それは、欧州政治の対立構図が保守主義対社会民主主義だけでないことを示した。今回で言えば、右派ポピュリズム対環境保護主義だ。しかもその選挙戦で、環境派が今をときめくポピュリストを制したのである。言い換えれば、彼の地には右派の暴走を止める安全弁が複数用意されているということだ。翻って此の地はどうか。社民勢力は力を失い、有力な環境派勢力も見あたらない。

 

 英紙デイリー・テレグラフのデジタル版にあるAFP電(2016年5月23日付)によると、新大統領はもともと社会民主党員だったが、1990年代初めに緑の党に加わり、その後、党首となった。社民から緑へ。それがどんな理由による転身かはぜひ知りたい。

 

 気になることはもう一つある。これも同じAFP電の受け売りだが、彼は1944年にウィーンで、ソ連のスターリン体制から逃れた「難民の子」として生まれたという。そのころのウィーンはナチスの支配下にあった。父はロシア貴族出身で、母はエストニア人。ユダヤ人排斥の嵐が吹き荒れるさなか、別の方向からやって来た異民族だったわけだ。複雑な思いがあっただろう。彼らがどんな境遇だったのか。それも、知りたいと思うことである。

 

 オーストリアという国は、今では中欧の小国として扱われがちだ。だが、歴史をさかのぼれば、一大帝国を築いた時代が長かった。文化の発信も、だれもが思いつくクラシック音楽など芸術領域ばかりではない。物理学でも哲学と重なる発展があり、実証主義のエルンスト・マッハや、その論敵ルートヴィヒ・ボルツマン、そして量子力学の建設者エルヴィン・シュレーディンガーらを輩出している。ひと言で言えば、奥が深いのである。

 

 で、今週は『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)。名門ハプスブルク家とともにあった中欧の3都市に焦点をあて、それが生みだしたものを紡いでいる。2009年刊。著者は1947年生まれ。略歴欄によればドイツ語、ドイツ文学の専門家だが、とりあげる話題は建築あり音楽ありワインありで、文化全般に対する造詣の深さがうかがわれる。欧州史を、西欧とは別の角度から照らしだした1冊だ。

 

 まずハプスブルク家の源流をさかのぼると、スイスの一領主だった「ライン川の支流アーレ川沿いに住む伯爵家」に行き着く。この本によれば、家名は鷹“Habichit”の城“Burg”に由来するので「鷹城家」か。ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれてまもなく、ウィーンへ移った。皇帝は、ふつうの王よりも一格上だから今でいえば2階級特進の感じか。以来、ウィーンは1918年まで「ハプスブルクの都」だった。

 

 この名家は、神聖ローマ帝国に皇帝を多く送り込んだ。その帝国が消滅しても、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国を治めた。一族がこれほどの力をもった背景には「結婚政策」がある。15〜16世紀に皇帝だったマクシミリアン1世は、妻がブルゴーニュ公の娘だっただけでなく、子や孫の結婚相手もスペインやハンガリーの王家から選ばせた。その結果、「ヨーロッパの約半分」を「支配下」に置いたのである。

 

 町の話に入ろう。三都は意外と近距離にある。著者も「ウィーンの町を歩いているとき、ふと見かけた道路の行き先表示板に、片方はプラハ、もう一方はブダペストと書かれたものを見かけ、はっとした」と打ち明ける。オーストリアの首都ウィーンからみると、チェコの首都プラハは300km、ハンガリーの首都ブダペストは250kmほど。東京から名古屋へ行くのと大差がない。そして、いずれの町も川が流れる内陸都市という共通点がある。

 

 だから、橋をめぐる話題が多い。たとえば、ウィーンのドナウ川に1876年に架けられた橋は、ルドルフ皇太子橋→帝国橋→赤軍橋→帝国橋と名前を変えていった。皇太子の心中事件があった。第2次大戦後のソ連軍占領もあった。相次ぐ改名に歴史が刻まれている。1970年代には橋が崩れ落ちる事故があり、80年に再建される。その完成式典の話が印象的だ。そこにオーストリアの人々の「帝国」に対する相反感情がみてとれる。

 

 著者によれば、キルヒシュレーガー大統領はこう述べたという。「ウィーンは帝国の時代には、諸国民の間の『帝国の橋』であった。今日では、中立国オーストリアの首都として、ウィーンは再び諸民族間の橋を形成している」。かつて帝都は民族をつないだが、そこには支配被支配の関係があった。これからは平和共存の橋渡しをしよう――帝国主義への反省はにじむが、「帝国」への郷愁を中立国の理念に投影しようとしているようでもある。

 

 支配された側のブダペストはどうか。ドナウ川を挟むブダとペスト両地区の間に幾本かの橋がある。二重帝国時代の1896年に架けられ、皇帝のフランツ・ヨーゼフを地元読みしてフェレンツ・ヨージェフ橋と命名されたものは、代替わりして「自由橋」と呼ばれている。一方、妻エリーザベト妃に因むエルジェーベト橋の名は今も残る。彼女がハンガリーを愛したことで好感をもたれていたからだという。これも一つの相反感情だろうか。

 

 そもそも三都には異民族の混在があった。この本によれば、ウィーンはもともとローマ人が北方の脅威に対抗して築いた防御拠点だった。プラハはモルダウ川の浅瀬が隊商を呼び寄せ、11世紀にはドイツ人やユダヤ人が商いを営んでいた。ブダペストにはケルト人が先住していたが、一時ローマ軍の駐屯地となり、10世紀ごろにウラルからマジャール人が移って来た。この多様性の素地が、それぞれの町に彫りの深い文化を生んだのだろう。

 

 多様性は相対的な視点を生み、批評精神を高める。一例は、ウィーンで19世紀末に興った「分離派(セツェシオーン)」の芸術運動。当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという。

 

 著者の解説によれば、ウィーン分離派の作品は、同時期のアール・ヌーヴォーなどと比べると「幾何学性、直線性」が強調され、「実用的な機能性」も具えているという。欧州でもっとも鋭敏に近代を感じとり、それを文化に取り込んだのがこの都市ではなかったか。そう言えば、と思い浮かぶのはウィーン学団だ。そのメンバーが哲学と科学の垣根を超えて思想を深め、旧来の形而上学と対峙したのも、分離派の潮流と共振している。

 

 印象に残るのは、画家志望のアドルフ・ヒトラーが1907年にオーストリアの地方都市からウィーンに出てきたときの話だ。この本には「都市改造の終わっていたウィーンのリング通りの風景に非常に感激したといわれている」とある。将来の総統は、分離派の人々とは逆に重厚な装いの建築に魅せられたということか。この都には、多様な文化が交じりあって新しいものを生みだす力学と、大国の夢を追う力学が交錯しているように思える。

 

 では、僕たちの社会はどうか。後者のほうが勢いを強めているように見えるのが心配だ。

(執筆撮影・尾関章、通算360回)

 

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『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)

写真》梅の空気

 2月末に熱海へ出かけた。丘陵部の梅園に足を運ぶと、盛りはとうに過ぎていたが、それでも小ぶりの白や赤やピンクの花があちこちの枝に点在していた。空気はまだ冷たいのに、日差しはもう暖かい。早春の移ろいを巧く演出してくれる湯の町だとつくづく思う。

 

 箱根と熱海。これは、東京育ちの人間にとって定番温泉郷の双璧である。足を延ばせば、北関東にも甲信越にも名湯、秘湯の地は多い。だが、この2カ所には、それよりもずっと近いという地の利がある。新幹線に乗らなくても2時間ほどでたどり着ける。これは、週休二日になる前の勤め人には大いに意味があった。半ドンの土曜日、仕事を済ませてから列車にとび乗れば、宿に着いて夕食前にひと風呂浴びることもできたのである。

 

 もちろん最近は、都内にも深掘り井戸で汲みあげたスパ施設がある。町の銭湯で全身を伸ばしても、家風呂に入浴剤を入れることでも、「いい湯だな」の気分は味わえる。だが、これらは箱根や熱海の代役を果たせない。なぜなら、温泉の楽しみは湯に浸かることだけで完結しないからだ。海の幸山の幸の食もある。町のぶらぶら歩きもある。そしてなにより行き帰りの行程が重要な要素だ。あの2カ所は、それが片道で「2時間ほど」の適量だった。

 

 今回の熱海行きは新幹線を使わなかったので、昔と同じ2時間コースだ。東海道在来線は今、昔と違って通勤電車風の長椅子シートがふえている。往路、そこに座った時点では日常を脱していない。だが、車窓に海が広がりだすと旅情モードのスイッチが入った。

 

 箱根と熱海。ここまでは並べて書いてきたが、両者は実は好対照だ。まず、箱根は山に囲まれているが、熱海は海に面しているという自然の違いがある。そして、箱根は軽井沢に似て洋風の趣があるが、熱海は梅園にしても貫一お宮にしてもどこまでも和風の佇まいだ。箱根は子どもが林間学校で訪れたりして教育の場ともなっているが、熱海は大人の遊興地という印象が強い。ニュアンスを比べれば聖対俗、理対情という感じだろうか。

 

 いま熱海市観光協会の公式サイトを開くと、その魅力として「温泉」「グルメ」「お土産・特産品」「花と自然」「イベント」「歴史」の六つが挙げられている。これらは、いかにも今風の観光資源だ。ただ、モデルコースの一つには「熱海の美めぐり 芸妓さんに会おう!」もある。「全国2800人の芸者のうち1割を占める」「全国でも屈指の芸者街」なのだという。この統計の精度は吟味できないが、熱海は間違いなく大人の町と言えよう。

 

 で、今週の1冊は『小説熱海殺人事件』(つかこうへい著、角川文庫)。著者(1948〜2010)は1970年代前半に劇作家として本格デビュー、初期の代表作が「熱海殺人事件」だった。それを小説化したのが、この本だ。76年に文庫書き下ろしで世に出た。

 

 この作品は、熱海の海岸で若い女性が殺されたという事件の取り調べを戯画化している。被害者も容疑者も工場労働者。作中では「女工」「工員」「職工」などの言葉が用いられる。二人は地方出身、隣の村で育ったらしい。2次産業が農村から若者を吸い寄せていたころである。コンビニや外食チェーン、宅配といった3次産業はまだ市場を席巻していない。著者が意図したことではないだろうが、今になってみれば高度成長の総括としても読める。

 

 熱海はあの時代、人々の目にどう映っていたのか。それは、刑事たちの言葉の端々から察することができる。「落ちぶれ果ててゆく温泉場」「もはや海としてのサムシングエルスがありません」。たしかに当時は、そんな印象があったように思う。「中小企業の社長がバーのホステスを連れて一泊旅行に行くところ」「農協が団体旅行に来るとこだぞ」といった決めつけも出てくる。ひとことで言えば、オジサン臭さが充満した印象があったのだろう。

 

 そのオジサン臭さは捜査側の中心人物、木村伝兵衛部長刑事も発散する。そばをすする場面はこうだ。「割りバシをパチンと割り、おもむろに薬味とワサビをつゆに入れ」「ズルズルいわせては口いっぱいにほおばり、クックッといってはつゆをガブリと飲み」「空になった椀(わん)にお茶をついで、ガラガラとうがいをしたり、クチュクチュと口の中を洗ったり」と騒がしい。そして職場で「スイングのまね」もする。今風に言えばエアゴルフだ。

 

 人物も舞台も、1970年代前半の日本社会をあぶり出すのにもってこいのスウィートスポットに設定されている。では、そこにどんな作品世界をつくりあげたのか。ここで、著者の劇作家としての本領が発揮される。奇想天外な筋立てとドタバタの味付けだ。

 

 ハチャメチャという形容動詞がある。あまり好きな言葉ではないが、メチャメチャより激しい語感がある。この作品はハチャメチャのオンパレードだ。たとえば、伝兵衛が警視庁の刑事であること。そもそも、殺人は熱海で起こったのだから静岡県警が扱う事案のはずだが、警視庁捜査一課が容疑者を調べる。他府県警のヤマを奪わないという鉄則はテレビの2時間ドラマ(2H)ですら意識しているのに、著者はそれをいともあっさり破ってしまう。

 

 若手刑事が富山県警から警視庁に転任してきたというのも、あまりあることではない。警察官は、ふつうは警視庁や道府県警本部ごとの人事で異動する。もちろん、いわゆるエリート警察官は若くして全国を渡り歩いて出世していくのだが、この若手はそのようには見えない――。だが、著者にとって官僚の常識はどうでもよいのだろう。これは、日本の世相を某国に載せた話。そこに警視庁や静岡県警や富山県警という名の組織があるだけだ。

 

 ハチャメチャぶりは、取調室がミュージカルの舞台に一変する演出にも見てとれる。若手刑事の熊田留吉が先述のように「サムシングエルスが……」と言うと、伝兵衛は靴で床を叩いて「サムシン、サムシン、ボンボンボン」と歌いだす。女性警官の安田ハナ子も「サムシン、サムシン、シャバダバダバ」とスキャットとタップに乗ってくる。「そのときハナ子の帽子が落ち、豊かな黒髪が肩にかかり、かぐわしい匂(にお)いをまき散らした」

 

 照明効果もある。伝兵衛が「スポット!」と言えば「電球が消え、捜査室は一瞬にして闇(やみ)になった。そしてスポットライトが容疑者の胸から上を照らしだした」。音響効果もある。「留吉の耳に『カシャッ』というカセットレコーダーのスイッチの音が聞こえ、と同時に波の音と海水浴に戯れる人々の声が聞こえた」。本来なら小説になじまないはずのつくりものを敢えてはめ込むことで、強烈な映像を読み手の脳裏に構築するのだ。

 

 この作品は、市井の人々が夢想する世界を笑いのめしていると言ってもよい。夢想を代弁するのが伝兵衛だ。万一、警察が容疑者の自供を歪めることがあるとしても被疑事実が本当らしく見えるようにするだろうと思われるが、ここでは違う。伝兵衛には自らの審美眼に適う出来事のイメージがあって、熱海の事件をそれに合わせようとする。その情熱に留吉もハナ子も引き込まれ、容疑者本人までほだされてしまう。そこに、おもしろさがある。

 

 その美学を象徴するキーワードが「海が見たい」だ。伝兵衛は海辺に行くのに水着を持参しなかった理由を容疑者に問うて、「海が……」のひと言を被害者が口にしたという供述を得る。このときの伝兵衛の喜びようは半端ではない。「ハナちゃん、お車呼んでさしあげて。あとは言わなくてもいい」「そう、『海が見たい』と言ったの? いやあ、まいったまいった」。こうして、容疑者の芝居がかった独白を挟みながら歌謡曲風の妄想が膨らんでいく。

 

 だが、妄想はうわ滑りすることもある。男が「お酒飲もうか」と言うと、女は「肩をすぼめる」。そこで男は「原宿の小ぎれいなスナックに彼女を誘う」――そんな筋でまとめようとすると、容疑者は新宿の喫茶店で紅茶を飲んだだけだと言い張る。留吉は「おまえ『海が見たいな』、そんな言葉を喫茶店で吐けるわけねえだろうが」とブチ切れる。スナックがおしゃれに見えた時代の痕跡がそこにはある。それにしてもチープな美学ではないか。

 

 いま熱海の町を歩くと、文豪たちが愛した宿が観光名所となって開放され、香り高い文化を発信している。一方で路地裏をのぞくと、スナックの古びた看板がそこここにあった。時代と半周ずれた位相。それを残していることが、この町の魅力なのかもしれない。

(執筆撮影・尾関章、通算358回)

 

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『新潟湊の繁栄――湊とともに生きた町・人』(新潟市編、朱鷺新書、新潟日報事業社)

写真》新潟のコメ

 米国でトランプ旋風が吹き、ハリケーンにまでなって世界を愕然とさせた年、日本には角栄ブームがあった。伝記風の本が売れている。今夏にはテレビでロッキード事件の回顧ものも放映された(当欄2016年8月26日付「ジャーナリスト失速を思い知った夏」)。

 

 田中角栄と言えば、著書『日本列島改造論』だ。1972年、政権に就く直前に日刊工業新聞社から刊行された。僕はまだ学生だったが、ぱらぱらとめくった記憶がある。山をトンネルでぶち抜けば幸福が見えてくる、と夢膨らませるような素朴な開発至上論にあふれていた。危うさを感じたが、それでもビジョンの力強さには引き込まれた。本当に危ういと思うようになったのは数年後、新聞記者となって地方の現実を見てからだ。

 

 で、今週は列島改造論を念頭に置きながら、田中角栄の郷里である新潟県を話題にしてみたい。というのも最近、所用があって新潟市へ赴く機会があったからだ。東京から新幹線でわずか2時間余。僕もトンネル貫通の恩恵を受けたことは認めなければならない。

 

 新潟での仕事は、とある会議に張りつくというものだったので、町歩きの余裕はほとんどなかった。ただ昼休み、信濃川の川べりにある新潟市歴史博物館を見学できたので、そう言えば、と気づかされる再発見もあった。一帯がいつも水とともにあったということだ。信濃、阿賀野両大河の河口部にあり、後背地から生産物が集まり、海には船が群れて、湊町は交易で栄えていた。それは、田中角栄から連想される雪深い農村のイメージとは異なる。

 

 当欄は、これまでに山形県の酒田(2015年10月30日付「藤沢周平の庄内ホワイトカラー世界」)と福井県の三国(2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)をとりあげた。ともに日本海側の湊町で、いち早く近代を芽生えさせていた。

 

 酒田、三国で見いだしたものは、たぶん新潟にもあるのではないか。そんな思いから今週の一冊は、歴史博物館の売店で手に入れた『新潟湊の繁栄――湊とともに生きた町・人』(新潟市編、朱鷺新書、新潟日報事業社)。「はじめに」に「新潟市総務局国際文化部市史編さん課の課員が共同で執筆」とあるからお役所臭さを予感したが、それは見事に裏切られる。生真面目なつくりではあるが、細やかな叙述によって湊の往時が目に浮かぶようだ。

 

 新潟の湊町としての歴史は古い。第1章は、平安時代から書き起こされる。そのころ、信濃川河口にあった湊は「蒲原津」と呼ばれていた。それは「貢納物の積み出し港」であり、「越後平野の各地で消費される物資の受け入れ港」でもあった。税の庸調として都向けに積み出されるものを並べると、白絹、布、木工品、鮭など。船荷は湊を出ると能登沖を回って敦賀で降ろされ、陸路と琵琶湖を通って京都まで運ばれたという。

 

 蒲原津は信濃川右岸と阿賀野川左岸の河口部にあり、両河川に挟まれている。その地勢から、14世紀の南北朝時代には両勢力が角突き合わせる舞台となった。「信濃川の西には南朝方」「阿賀野川以北には北朝方」という構図だ。越後平野は水系が豊かで、川や潟が密にある。このため蒲原津は軍事拠点ともなり、そこに集まる舟が軍用に充てられた。「南朝方は城を築いて蒲原津を守ろうとし、北朝方はそこを奪い取ろうとしたのである」

 

 戦国時代の16世紀には蒲原津の地位が相対的に下がり、信濃川左岸の新潟津、阿賀野川右岸の沼垂湊と合わせて「三か津」と呼ばれるようになった。三つの湊が並立したのである。このときにも一帯では、越後の内戦とも言える上杉景勝対新発田重家の争いがあった。興味深いのは、新潟や沼垂には武装商人がいたという話だ。いくさは、有力な町人を味方につけた景勝が勝った。湊の商いが強力な経済都市を生みだしていたことのあかしと言えよう。

 

 もう一つ、頭に入れておくべきは、川が生きものだということだ。江戸時代初め、信濃川、阿賀野川両河口の間にある蒲原には、加茂屋堀という水路があって両河川をつなげていたが、寛永年間の1631年にとんでもないことが起こる。「阿賀野川の洪水によって加茂屋堀が決壊して川幅が広がり、諏訪ノ尾川と呼ばれる川になった」。それだけではない。諏訪ノ川はどんどん成長して、こちらのほうが阿賀野川本流とされるようになる。

 

 沼垂湊は、こうした川のダイナミズムに直撃された。町域は阿賀野川の洪水後、浸食作用や堆積作用に苛まれて一度ならず移転を強いられる。対岸の蒲原側へ移ると今度は諏訪ノ尾川の浸食に遭って、河口から奥まったところへ追いやられる。17世紀から18世紀にかけて沼垂と新潟の間では争いごとが相次ぎ、双方が幕府に訴える事態となるが、判決は総じて新潟側を支持した。河口部の海運経済は、新潟湊一つが牛耳ることになったのである。

 

 この本の読みどころは、その新潟湊の繁栄だ。まず、「享保10(1725)年ごろの新潟町」という図を見ると、町割りの美しさに驚かされる。街路は直交。そこに堀が縦横7本通っている。商いの物品は「その堀を使って店先に荷揚げしたり、店から運び出したりした」。そんな光景は大正時代まで見られたという。そう言えば僕も今回、タクシーの運転手から「ここは、もともと堀だったんですよ。あの柳がその名残」という話を聞いた。

 

 この本には、元禄年間1697年の統計が載っている。それによると、新潟湊へ立ち寄った回船は約3500隻、船籍は40カ国余だったという。ここで「国」は、もちろん日本国内の「諸国」である。取り扱った商品の年間総額は46万両余。今の通貨でいくらかはひと口に言えない。ただ日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトを頼りに米価を目安とする換算を試みると、ざっと数百億円になる。当時としては、列島有数の商港だったのだろう。

 

 湊に集まる品々は多彩だ。全国各地の産品がある。入荷品のうち米穀類以外のものを金額順に並べると、トップ5は木綿・古着類、塩、鮮魚や塩漬け海産物類、縄・むしろ・竹細工・荒物、煎茶。リストには、未精製の綿や小間物、材木、酒、薪や炭、織物、紙、塗物、タバコ、畳表、魚油、紅花、瀬戸物、蕎麦なども載っている。近現代の生活から石油石炭電気の文化を取り除いて残るもののほぼすべてが流通していた、と言ってよい。

 

 驚かされるのは、港湾ビジネスの制度化だ。町には回船問屋(回船宿)がいくつもあって顧客船の世話をした。船頭を泊めるだけでなく、商品売買の仲立ちもする。業界は沖を見渡せる山のふもとに共同で小屋を建て、そこに手代を常駐させた。同業者の呉越同舟は、さながら記者クラブか。船が湊付近に現れると「手代を乗せた通辞船(つうじせん)が回船へ向かい、船頭に船主とその国名や積み荷、宿を務める回船問屋の名などを確認した」。

 

 ここの手代はただの奉公人ではない。沖にいる船のなかには商品相場次第で入港を決めるものもあるので「新潟の相場などを船頭に教え、新潟湊へ入るよう勧めることも手代の大切な仕事であった」。情報の担い手であり、営業の腕も試されていたことになる。

 

 業界のルールもあった。文字通りの掟(おきて)をはじめ保管料、手数料の規定など七つの決まり。1722年に「町奉行の承認を受けて成文化」とあるから、自治の色彩があったのだろう。掟によって「回船宿に落ち度がないのに、回船の船頭が勝手に宿を替えるのを認めない」「回船が通辞船に宿の名を告げる前に、その船へ手代をやってはならない」といったしきたりを整えた。市場経済よりも護送船団方式。これが日本式資本主義なのか。

 

 湊町新潟には、大型船を客とする大問屋、小型船相手の小問屋、幕府や藩の年貢米を預かる蔵宿が並んでいた。港湾には、水先案内の水戸教(みときょう、みとおしえ)とか、水深の制約で岸につけない船を助ける天渡船(てんとせん)持ちや艀下船道(はしけふなとう)という業種があった。船着き場では、荷物を運ぶ小揚(こあげ)という屈強の人々も働いている。大企業の周りに中小企業があり、それらが雇用を生みだしていたのである。

 

 明治になると日本海海運は廃れ、湊の賑わいをそのまま保ちつづけることが難しくなった。だが、市民経済の底力を別分野の産業振興につなげるという選択肢もありえたのではないか。それができれば東京一極集中はなく、列島改造論も不要だったはずなのだが……。

(執筆撮影・尾関章、通算342回)

 

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『京都ぎらい』(井上章一著、朝日新書)

写真》コンチキチンの夏

 恋というものの半分強は片思いだろう。自らの過去60年を振り返っても、たいていはそうだった。今もくすぶっているのが、京都への恋である。京都という町が好きで、なんどとなく言い寄ったが、先方はいたってすげない態度をとりつづけている。そんな感じだ。

 

 東京育ちなので、最初の出会いは少年期の家族旅行だった。詩仙堂、龍安寺、西芳寺……ワビサビの精神世界を背伸びしてのぞき見た。中学校の修学旅行では定番の名刹を巡り、新京極を歩いている。学生時代、そこには全国銘柄のジャズ喫茶が何軒かあった。忘れがたいのは、河原町荒神口の「しあんくれーる」。市電が通っていたころだ。旅行者の僕も電停前の店に入り、〈思案に暮れる〉風情で4ビートのリズムに体を揺らしたのだった。

 

 新聞記者になって、つきあいはいっそう深まった。二つめの任地が京都だったからだ。事件事故を取材しながら町の話題を拾うのが役目だったので、市街も郊外も回った。出会った人々の顔や街角の光景が、スナップショットのように今も脳裏に残る。記者生活最後の関西勤務では、単身の寓居を京都に選んだ。科学記者なので有力大学に自転車でも駆けつけられる場所に住みたいと考えたからだが、積年の片思いが背中を押したのも確かだ。

 

 これほどまでに僕の半生と濃密にかかわってきたのに、京都はどこかよそよそしい。どこがどう、というわけではない。だれかに言われたひと言で、それを感じとったわけでもない。あえて言えば、あの町に立ったときの空気感だ。その例を一つ挙げよう。

 

 駅のエスカレーターは、乗ったら止まっているのが原則だ。当局も鉄道会社も、その徹底を呼びかけている。だが現実には、歩いてのぼったり駆けておりたりする人が後を絶たない。そこで、止まったままの人は左右どちらかに体を寄せることになる。首都圏では左、関西では右がふつうだ。だが、京都はちょっと違う。大阪と結ばれた私鉄各線では右が多いようだが、京都圏で閉じた系をなす京都市営地下鉄では左が主流、というのが僕の印象だ。

 

 表向きは、どっちに寄れと指示できる話ではないので、左右は自然発生的に選ばれているのだろう。その偏りは、人々の潜在意識を素直に反映しているとみてよい。ただ京都人の左立ちを見て、東京人にすり寄っていると早合点してはダメだ。推察するに、そこには別のメッセージがある。自分たちはふつうの関西人じゃない、と宣言しているように僕には思える。敵の敵は味方という構図になってはいても、そこに東京志向があるわけではない。

 

 意地悪な解釈が過ぎたかもしれない。だが、この見方と響きあう本が京都人の手で書かれた。否、本人が自分は京都人ではないと言い張っているので、京都郊外の人の手で、とすべきだろう。『京都ぎらい』(井上章一著、朝日新書)。著者は1955年、京都市右京区生まれ。京大出身の建築史、意匠論の専門家で、広く文化を論じてきた。まえがきで「人とちがうことを書きたがりすぎる」と自認するように、その言説はひねりが効いている。

 

 京都人じゃない、の意味は洛中の人ではないということだ。洛中の厳密な定義は措くが、それは京都中心部の碁盤目状の市街地とみて大きな誤りはないだろう。著者は、京都西郊の右京区嵯峨で育ち、長じてからは南郊の宇治市に住む。洛外の人というわけだ。

 

 まず披歴されるのは、建築の学生だったころに実地調査で洛中の旧家を訪ねたときの体験。当主は著者の京風の話し言葉に気づいたらしく、「君、どこの子や」と聞いてきた。嵯峨の実家の在り処を言うと「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや」。この回想は、「きてくれた」とあるように感謝の表現を装ってはいる。だが、「揶揄(やゆ)的なふくみのあることは、いやおうなく聞きとれた」という。

 

 実はこのくだりで、僕はちょっと退いた。当主にしてみれば、水洗トイレ以前の長閑な時代を懐かしむひと言だったのかもしれない。そこに「揶揄」を感じとるのは、婉曲話法に慣れた京都人の過敏反応ではないか、と思ったのだ。「ぶぶ漬けでもどうどす?」で退けどきを察するという類の話だ。洛中の感性は洛外にも染みだしているのだろう。著者自身、文中で「洛中の京都人とはりあったために、彼らと似てきたところもある」と認めている。

 

 ここで言い添えておくべきは、著者が洛中人の洛外人に対する揶揄を人権問題としての「差別」と比べて、その違いに論及していることだ。「差別」は絶対に許されない、という認識は広まった。だがそれでも、人間には「自分が優位にたち、劣位の誰かを見下そうとする情熱」があるので、「比較的さしさわりがなさそうだと目された項目に関しては、歯止めがかけられない」。洛中洛外の関係が、そこにすぽっと嵌ったというのである。

 

 僕が京都地下鉄のエスカレーターで目撃した「自分たちはふつうの関西人じゃない」というたたずまいも、そんなさしさわりのない優越感の表れか。京都人は微小な差異を嗅ぎ分け、そこに意味を見いだすことに長けているのだ。科学用語で言えば、社会のエントロピーが小さい。東京では、ありとあらゆる内外の文化がごちゃごちゃにかき混ぜられ、そのごちゃ混ぜが受け入れられているが、ここにはわずかな違いも見落とさない人たちがいる。

 

 では、どうしてこんな小エントロピー社会が実現したのだろう。その答えを導くヒントが、この本にはちりばめられている。ひとつ気づくのは、思考の時間軸が途方もなく長いことだ。なにごとであれ歴史がかかわってくる。洛中洛外ばなしも、その文脈で考察される。

 

 著者は若かったころ、洛外が田舎扱いされることに反発してこう思ったという。「歴史を盾にとるんやったら、嵯峨かて負けてへん。京都人ばっかりに、いばらせたりはせえへんぞ……」。自宅から10分ほどのところに大覚寺があった。その寺は、鎌倉時代に天皇家が二派に分かれたときの片方の拠点だった。この大覚寺統は、もう一方の持明院統と溝を深め、南北朝の南朝を生みだす。著者は、その史実に触れるうちに「南朝びいき」となった。

 

 ここで著者は、洛中を南北に貫く室町通に目を転じる。この通り沿いに、室町幕府3代将軍足利義満が邸を構えた。近くには持明院もある。まさに「足利=北朝体制の中心軸」。そこはやがて商いで栄え、呉服問屋が並ぶようになる。最近はビジネス街の主役を目抜きの烏丸通に譲ったが、それまでは「京都経済をひきいる牽引車」だった。「洛中人士の京都自慢も、この通りあたりを中心とした界隈が、その磁場になっている」というのだ。

 

 この季節、京都を訪れて宵々山、宵山、山鉾巡行とつづく祇園祭の賑わいを体感してみれば、室町の「磁場」がどれほど強かったかを思い知らされるだろう。

 

 南北朝の対立をめぐっては、嵯峨の天龍寺も話題にのぼる。足利尊氏が南朝の後醍醐天皇を弔うために建立したとされる臨済宗の寺だ。著者は、開山の背景に尊氏や禅僧の思惑があった可能性にも触れつつ、政敵鎮魂のためという通説を切り捨てず、それを前向きに受けとめる。視野を身近なところに引き寄せて「自分のしあわせは、不幸な人々を踏み台にしてなりたつと考え、自らをさいなむ」という現代人の心情に通じる、というのである。

 

 興味深いのは、著者が自身の「南朝びいき」を明治政府の南朝正統論と峻別していることだ。招魂社や靖国神社で慰霊しようとしたのはあくまで「味方」であり、そこでは「敵の霊こそが、手あつくまつられるべきだ」という思想が消えている、という。靖国神社に「新しい近代の影」をみて、「靖国に気持ちがよせられない自分こそ、真の保守派だと言いたい気分もないではない」と吐露する。「人とちがうこと」の書き手らしい皮肉である。

 

 あとがきの表題は「七は『ひち』である」。東京の出版人が「七」で始まる用語を索引のサ行欄に入れたことが俎上に載せられる。そう言えば京都の記者時代、年かさの警察官は七条署を「ひっちょうしょ」と呼んでいた。それは、江戸っ子だった僕の祖父が日比谷を「しびや」と言って憚らなかったことの裏返しだ。差異の文化を大事にする。そんな京都人の美点は京都ぎらいの著者にも見てとれる。この本では、花街「上七軒」のルビが必見。

(執筆撮影・尾関章、通算326回)

 

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『街道をゆく18 越前の諸道』(司馬遼太郎著、朝日文庫)
写真》三国の町の数ショット
 
 東京にふるさとはない、という常套句にいつも反発してきた。僕は生まれも育ちも東京のトーキョー先住人だが、電車の窓を飛んでいく景色にも、夕暮れどきの商店街のざわめきにも郷愁を覚える。とはいえ、「ふるさと」という言葉が大都会になじまないのも事実だ。それは景色やざわめきのどれをとっても、僕たちだけのもの、私たちだけのもの、と言い切れないからだ。東京はあまりにも多くの人々の共有物となっている。
 
 では、ふるさとと思える場所が僕にはないのか。これには「それは福井」と小声で答えよう。そのことを地元の人は認めてくれまい。1977年から4年間、新人記者として走り回っただけ――だが、東京育ちの青年の心には生涯忘れ得ぬ記憶が焼きついた。
 
 なかでも愛おしいのは、九頭竜川河口にある三国という港町だ。平成の大合併で坂井市となったが、当時は坂井郡内の一つの町だった。その思い出は、60歳定年を迎えるにあたって当欄の前身で触れたことがある(文理悠々「定年記者が記者ものを読む」2011年7月7日付)。記者半生への愛惜を、港湾担当の新聞記者を描いた『シッピング・ニュース』(E・アニー・プルー著、上岡伸雄訳、集英社文庫)という小説に重ねたのである。
 
 町最大の行事は5月の三国祭。初夏の日差しを浴びて、巨大な武者人形を載せた山車が狭い街路を練る。記事にするときは「北陸三大祭りの一つ」という形容句を書き添えたものだ。では、ほかの二つは何か。この問いにきちんと答えられる人はあまりいなかった。
 
 もしかしたら、これこそがふるさとの真髄かもしれない。全国ネットのクイズ番組で「北陸三大祭りは何?」という出題があっても、正しい答えはおそらく一通りに絞れまい。だが越前福井の感覚では、三つのうちの一つに三国祭を含めてさえいれば正解になる。これぞ、ふるさとと言えないか。それに触れたのが、僕の駆けだし記者時代だった。日本社会がコンビニやファミレスで均一化されている今、あの感覚は守っていきたいものだと思う。
 
 僕は先週、その町を久しぶりに訪ねた。北陸新幹線の誘惑に負けて、金沢、加賀温泉郷経由で三国へ足を延ばしたのである。で、今回は『街道をゆく18 越前の諸道』(司馬遼太郎著、朝日文庫)をとっかかりに僕自身の郷愁紀行を書く。「週刊朝日」人気連載のうち、1980年12月〜81年6月に載ったものだ。文庫版は87年に出て2008年に新装版となった。そのなかに「三国の千石船」と題した一編がある。
 
 1980年から81年初めは僕の福井支局在任期だ。そういえば、人気作家が自社企画の仕込みで来県するというので、支局長は気をもんでいた。ただ、「越前」シリーズの途上で五六豪雪と呼ばれる大雪が始まり、その取材に忙殺されて僕はこれを熟読していない。
 
 三国編は「三国港(みくにみなと)に近づくにつれて、野は、いよいよ低くなってゆく」という一文で始まる。九頭竜川流域の広大な沖積平野について、古代、畿内の人々からも「豊饒で、しかも海にむかって、遠く韓国(からくに)や韃靼(だったん)の地とも往来できるひらかれた独立圏」のイメージで見られていたに違いない、と断ずる。この「海にむかって」「ひらかれた」開放感は、僕が記者として受けた第一印象でもあった。
 
 江戸時代、この海が町に活気をもたらす。「日本海航路によって全国が精密な広域経済圏になった」ため、北前船の寄港地として栄えたのである。ここで著者は「港は水の部分」「湊は陸(おか)の部分」という解釈に立って「湊」という表記に切り換える。後背地に越前加賀の米どころがある。福井藩や丸岡藩には絹織物や漆器、紙、鎌など多種の商品もあった。「三国湊は、港市として日本有数の繁華を誇った」と言う。
 
 著者の探訪の主題は、北前船に用いられた「千石船」の5分の1模型を見にいくという一点にあったようだ。その話を関西の学者から聞きつけて以来の「念願」だった。「三国町の教育委員会へゆき文化遺産施設準備室の室長である林三郎先生をたずね、千石船の模型をみせてもらった」。林三郎という名を目にして、懐かしさが胸に込みあげてきた。「先生」は僕にとっても恩人だったのだ。三国について実に多くのことを教えてもらった。
 
 この本でも言及されているのだが、当時の状況を素描しておくと、三国町では町立の郷土資料館づくりが進行しており、その目玉が千石船の模型だった。館はまだできておらず、模型づくりのほうが先行した。著者は、その完成品をいち早く見ることができたのである。能登で発見された板図(設計図)をもとに再現したという話を林先生から聴いて「三国町の快挙というべきものにちがいない」と、この一編を結んでいる。
 
 僕自身が三国町に足繁く通ったのは、郡部担当の記者だった78年ごろで、船の模型はまだできあがっていなかった。そのころ林先生が没頭していたのは、展示収蔵史料の収集だ。三国は河口部から海に沿って細長く延びた町で、丘が迫っていて坂道が多い。そんな坂の一つを重い荷物を背負って登っていく初老の人を見かけたことがあった。それが林先生だった。荷物には資料がいっぱい詰め込まれていた。
 
 当時、僕が興味をそそられていたのは、船の模型よりも館の建物だった。構想では、明治初めに町内にできた小学校の洋風建築を丘の上に復元するという。龍翔小学校。設計者のオランダ人G.A.エッセルはお雇い外国人技師だったが、だまし絵の画家M.C.エッシャーの父親でもあった。ちょうどエッシャー世界の醍醐味が、僕のいた新聞社の大先輩坂根厳夫さんの連載で伝えられていたころだ。そのゆかりに惹かれて僕は飛びついた。
 
 この建物は、八角形の木造5階建て。それを模した鉄筋コンクリート造りが三国の町と日本海、そして九頭竜川流域を一望する場所に聳え立ち、1981年秋に開館した。僕が転勤で福井を去って半年後だ。「みくに龍翔館」の名で、いまやランドマークとなっている。
 
 『街道を…』三国編には、エッセルの名は出てこない。ただ、港湾が水深不足で蒸気船に向かないことから「オランダ人技師によって築港工事をほどこした」とはある。もちろん「明治三十(一八九七)年前後」には鉄道が次々と敷かれ、「江戸期的な湊(みなと)々の廻船問屋が総だおれ」となるのだが、三国湊はその開かれた精神を忘れることなく、明治のひとときに近代の未来図を夢見たのである。
 
 今回の旅で驚かされたのは、この町に湊町の息吹が蘇っているということだ。それは、僕が取材で通っていたころよりも強い。たとえば、旧森田銀行本店という大正時代から残る建築。廻船業を営む豪商森田家が海運の衰退を見越して1894(明治27)年に業種転換で興した銀行だ。地銀支店などのかたちで生き延びてきたが、細部の復元を経て1999年に一般公開された。これも間違いなく、北前船がもたらした繁栄の遺産である。
 
 ちなみに森田家は著名な俳人を生みだした。高浜虚子、伊藤柏翠につながる森田愛子だ。作家高見順が非嫡出子として生を受け、詩人三好達治が慕いつづけた女性を娶って短い結婚生活を送ったのも、この町だ。湊の潮風に文学と恋の匂いが混ざり合う。
 
 三国の町並みを特徴づけるのは、かぐら建ての商家だ。妻入りの造りだが、通りに向かって平入りの屋根が突きだしている。いま歯抜け状態の町家群を活かして往時の面影を浮かびあがらせる試みが盛んになった。今年3月には材木商の倉庫だったところにミニ資料館マチノクラが生まれた。草の根のグループ「三國會所」(大和久米登理事長)が中心となった三國湊町家PROJECTの一環だ。開館直後に訪れることができた偶然に僕は驚く。
 
 大和さんは老舗和菓子店の店主。龍翔館と同じ丘にある三国高校の野球部OBで、在校時の教頭が林先生だったという。僕も支局で高校野球を担当していたころ、グラウンドで林先生と一緒に野球部の練習を見たことがあった。三国では、湊町の空気を蘇らせる試みが先生から教え子に受け継がれている。町はこうして生きつづけるのだ。龍翔館までの坂道を、あの日の林先生と同じように汗を流しながら登る僕には、そんな実感があった。
(執筆撮影・尾関章、通算314回)
 
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『非常識な建築業界――「どや建築」という病』
(森山高至著、光文社新書)
写真》町並み――米国チャールストンの思い出
 
 ザハ・ハディドさんが3月末に亡くなった。イラク出身、英国に拠点を置く建築家。日本では新国立競技場騒動で一躍時の人になった。彼女の大胆で奇抜なデザインは2012年の設計競技で「最優秀」に選ばれたものの、去年になって白紙に戻された。本人には、腹の虫がおさまらないということもあっただろう。建築界のスターを失うという訃報が、日本社会にとっては悲しいだけでなく苦いものともなった。
 
 僕が思うに、今回の騒動では世間の目が工費の膨張ばかりに向かい過ぎた。ハディド案は造形としてみたときに斬新で興味をそそられるが、それがあの場所に座を占めるのが適当かどうか、ということがもっと語られてよかったのではないか。
 
 明治神宮外苑の当該地は1943(昭和18)年、出陣学徒を戦場へ送りだした壮行会場だ。同じ地点が64(昭和39)年、人類の祭典、東京オリンピックの舞台となる。わずか21年の間に日本社会が経験した激動を象徴するのが、あの場所だった。そこに立つ人は、軍国主義と平和希求、高度成長と環境破壊というように戦中戦後の暗と明、明と暗に意識が及ぶだろう。そんな心理に共振する建物であってほしいという思いが僕にはある。
 
 この問題では去年、言論サイトWEBRONZAに論考2本を出した(2015年7月15日付「建築は建築家だけのものではない」、同9月10日付「新競技場をカネのことだけで語るな」=いずれも後段は有料)。前者では、当初の設計競技に競技場をランドマークとして仰ぐ町の人々の声が反映されていないことを批判した。後者では、設計のやり直しにあたって工費のことばかりが関心事となり、歴史観が置き忘れられていることを嘆いた。

 当初案の不幸な顛末を踏まえて考えるべきは、アートとしての建築を社会という場にどう接合させていくかということだろう。そんな問いを、前衛的な作風で果敢に投げかけたのがハディドさんだったとも言える。その答えさがしは建築家まかせにはできない。

 ということで、今週は『非常識な建築業界――「どや建築」という病』(森山高至著、光文社新書)。著者は1965年生まれ。大学で建築を学び、大学院で政治経済を修めた建築エコノミストで、実務も経験している。この本は今年2月に出た。新国立競技場問題で建築のアートとしての側面に切り込み、マンション杭打ち問題で業界の現況を憂うるジャーナリスティックな内容だが、今回は前者のみに焦点を当てることにする。
 
 なによりも目を引くのは、副題にある「どや建築」という耳慣れない言葉だ。由来は、近年巷に広まった新語「どや顔」にある。関西弁で「どや」と言い放っているような得意満面の建築が町のそこここに出てきているというのである。著者によれば、それは「周囲の環境とまったく調和しない、それ単体での成立を目指す彫刻のような建物」だ。それらを設計する人々のことを「表現建築家」と名づけている。
 
 そこにあるのは「オリジナル幻想」だという。原点は、大学の建築教育にもあるらしい。著者は学生時代の設計演習を振り返りながら、こう言う。「先生はどこにでもありそうな戸建住宅を思わせる図面が提出されると、『こんなのは建売住宅のプラン(間取り)だよ』と吐き捨てるように一蹴します」。そんな酷評を受けた学生は「ありきたりな住宅とは何かも知らないうちに、オリジナルに向かって駆け出していく」。
 
 1990年代から「どや建築」の精神的支柱となったのが脱構築主義だ。当欄でもとりあげたフランスの哲学者ジャック・デリダの思想である(2015年6月12日付「デリダ、脱構築の『嘘』論と『赦し』論」)。「哲学的な一つの強い言説は、そのなかにすでに対抗する概念をあらかじめ含んでいる」という見解が、「建築におけるさまざまな決まり事に異議申し立てをして、批評したらどうだろうか」という発想につながったという。
 
 そもそも建築に脱構築というのは異な取り合わせではある。だからだろう、著者によれば「建物としてはしっかり構築されていて、『脱構築している』のは外側のハリボテ部分だけ」というものが次々に現れた。外見だけ「ねじれている」のである。
 
 それでは満足しなかったのが、ザハ・ハディドさんだ。筋金入り、本気度の高い脱構築派。「建築構造自体を物理的に脱構築できないか大真面目に考えていた」。大都市の交通網、情報網にみられるような「アンバランス」「速度」「ネットワーク」といった動的な概念を静的な構造で表現しようとした。彼女が「アンビルトの女王」(建たない建築の女王)と呼ばれてきたのも、もっともと肯ける。
 
 著者は、自身もかつては彼女に共鳴していたことを率直に吐露している。「20代の頃はそんなアバンギャルドな建築にすっかり魅了されていました。『ザハ、がんばれ』と応援すらしていたものです」。今回の新国立競技場当初案に対しては「狭小な敷地における巨大構造の実現性を除けば、これまでのザハ建築の提案のなかではかなりバランスのとれた部類」と弁護の言葉を忘れていない。
 
 だが、この本の主題はあくまでも「どや建築」批判にある。そこでまず問題視されるのは、建築界に根強い「最新の意匠(デザイン)」志向だ。「建築家たちは、『世界をつくり直す』のが自分たちの責務と信じ、『何でもない景観』を流行のデザインや『巨大でグロテスクな建築物』で制圧することをやめません」。服飾や髪形のように流行を追い、どや顔で自己主張する。そんな風潮を嘆くのである。
 
 これは、僕が街歩きの好きな一人の町びととして思ってきたことと、ぴったり重なる。建築系雑誌のグラビアでは建物単体が作品としてとりあげられるが、僕たちがそれを見るときは町並みの一部としてとらえる。この矛盾が気になってしようがないのだ。だから科学記者になってからは、町並みの輪郭――スカイライン――をフラクタル次元と呼ばれる複雑さの指標などで数値化する試みを記事にしたりしてきた。
 
 この本も、名建築について「建物単体での美学的評価だけでは、ましてや建築デザインのコンセプトや解釈の仕方といった批評性だけでは、決して成立し得ない」と断じる。建築家が「自分一人の才」の果実と言い張るような「作品」が建つと「周辺環境に激しいノイズが発生します」「そこが汚染源となり、その地域の資産すべてを蚕食(さんしょく)してしまうおそれすらあります」と述べ、先人が積み重ねたものへの敬意も促す。
 
 この本には、どや顔のノイズを免れた例も挙がっている。その一つが、東京・代官山のヒルサイドテラス。1969年以来、旧山手通り沿いに延びていった建築群だ。設計者は槇文彦さん。今回の新国立競技場問題でハディド案を見直すよう提言した人である。
 
 白っぽい外壁とガラスを基調とした丈の低い建物の並びが、背後の傾斜地の樹林とともに心地よい空間を生みだし、憩いの場、文化の発信地であり続けている。著者はそこに、地主の「炯眼」と槇さんの「謙虚」をみてとる。前者は高層ビルを嫌ったこと。後者は「目の前の流行や短期的利益に対して慎重」であったこと。これこそは「刻々と変化していく人々の生活」という社会の新陳代謝を受け入れた「真のメタボリズム建築」だという。
 
 著者は、建築の値打ちがアートの視点でばかり定まる傾向に「『大衆から評価される仕組み』が存在しない」という現実をみる。「大衆」に求められるものとして、『韓非子』の故事を引きあいに出しながら「名馬の鑑定法」ではなく「駄馬の鑑定法」を薦める。「一般の人でも建築における『駄馬の鑑定法』を知っていれば、どや顔で地域を破壊しかねない『箱モノ公共建築』を自分たちの力で駆逐することもできるはずです」
 
 町の人々よ。建築ではなく町並みをどや顔に変えようではないか。
(執筆撮影・尾関章、通算311回)
 
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『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(植草甚一著、晶文社)
写真》J・Jはコラージュの素材も集めていた
手前は『世田谷文学館収蔵資料目録3 植草甚一関連資料』の一部

 小田急は東京西郊に伸びる私鉄の一つだ。新宿から各駅停車に乗ると、10番目で経堂という駅に停まる。世田谷のほぼ真ん中だが、下北沢の賑わいはない。成城のようなセレブ感もない。かつて首相私邸の所在地として全国銘柄になりかけたが、その政治家もきわめて地味だった。昔の農道がそのまま路地になったのだろう。入り組んだ道に、さほど大きくもなく小さくもない家々が並ぶ。ハレではなくケ、祝祭より日常の町である。
 
 なぜ、こんな話をグダグダと書いたのか。一つには経堂が、僕にとってかけがえのない故郷だからだ。と同時に、今週焦点をあてる本の著者が晩年に暮らし、こよなく愛した町だからでもある。その人は植草甚一、愛称J・J。1908年に生まれ、79年に没した。映画が好き、ミステリーが好き、ジャズに惚れ込み、散歩に耽った文筆家である。僕は大のJ・Jファンで、当欄の前身でも彼の伝記彼自身のエッセイ集を話題にしてきた。
 
 J・Jは1960〜70年代、当時の僕の家からほんの数百メートルのところに住んでいた。だから、見かけたのも一度や二度ではない。裏通りの古本屋で、あるいは駅の構内で。長髪、あごひげ、粋な上着に派手なシャツ、肩からバッグを垂らしている。忘れられないのは電車のなか、座席のわずかなすき間にお尻をねじ込む姿だ。そうやって陣地を確保してから、ゆっくりと本を開く。愛嬌のある爺さんという感じだった。
 
 そのJ・Jの足跡をたどる「植草甚一スクラップ・ブック」という回顧展が今、世田谷文学館で催されている(7月5日まで、月曜休館、最寄り駅は京王線芦花公園)。さっそく、のぞいてみた。展示でおもしろかったのは、「ぼく自身の過去と現在」という書きかけの原稿。僕の古巣、朝日新聞でコラムを執筆していた1960年代前半の話が出てくる。後段を読んで、思わず苦笑いした。朝日の人はモダンジャズに冷淡だというのだ。
 
 僕が記者になった1970年代は社内にジャズファンが大勢いて、石を投げれば当たるほどだった。だが、60年安保が過ぎたころは様子が違ったようだ。一つの文化ジャンルがサブカルチャーにとどまっているうちはあまり食指を動かさず、知識人公認になると急に興味を示す。そんな傾向が朝日新聞にはあるのだろう。それと真反対なのが、J・Jだったとも言える。で、今回は『ぼくの東京案内』(植草甚一著、晶文社)。
 
 この本は、「植草甚一スクラップ・ブック」というシリーズのNo.19。1950年代後半から70年代半ばまでに新聞、雑誌に載ったエッセイや本の解説文などを収めている。新聞は一般紙からスポーツ紙まで、雑誌も総合誌から週刊誌まで、と多彩だ。『高二コース』という懐かしい誌名もある。並べ方が時系列ではないので、読者は唐突なタイムスリップに戸惑うが、そんな行ったり来たりもJ・J流の気ままな散歩を彷彿させてくれる。
 
 冒頭2編目「経堂から新宿への繁華街を歩くとき」(初出『造』1969年10月号)は、地元話が満載だ。「経堂は、昭和四年だったかに小田急が開通し、その前後に住宅や商店が、いいかげんな場所に建てられたとみえて、まっすぐな通りがない」。ひとこと添えると、小田急電鉄のウェブサイトには、この区間の運行開始が1927(昭和2)年とある。インターネットのない時代、著者は記憶のままに筆を進めていたのか。その誤差もJ・Jらしい。
 
 「なんの気なしに歩いていると、まっすぐになっているような気がするが、どの通りも斜めになっているので、うっかり路地を曲ると、もとの場所に戻ってしまうし、ひとつ先の路地を曲ると袋小路になっているので引き返さなければならない」「その斜めの道が、経堂一丁目から五丁目にかけての丸っぽい小地域のなかで、どんなふうに接続しているのか、頭のなかで考えても、途中で厭になってしまうくらいゴチャついているのだった」
 
 この町の魅力も欠点も迷路性にあることを見抜いた描写だ。それは、僕の原風景とも重なる。著者は、町内地図を開いて色鉛筆をとる。「東西南北へと、いつもブラつく商店街を塗り分けてみると、八種類の色になった」。それらの通りが「三年たっても倦きないでブラつけるのは、かならず何か買うものが目につく」からだ。地元の店をのぞいて回る散歩は「一時間半はたっぷりかかる」ほどで、彼の日課の中心にあったらしい。
 
 「幻想の新宿散歩」(初出『新宿プレイマップ』1970年1月号)という一編にも、「何か売ってない通りを歩いているときは、ただ空気をすっているだけで、すこしも面白くないが、繁華街を歩きながら、なにかしら買って帰ってくると、気持がリラックスしていることを発見した」とある。裏を返せば、道ゆく人の足をとめて「飾った商品を買わせてしまう」吸引力こそが「都会の第一条件」ということになる。

 こうして著者は、経堂を起点に新宿や渋谷、青山、六本木界隈などへ出る。新宿への足は小田急電車だ。その途上の話。「新宿ゆきの小田急に乗ると、かならず途中駅で急行を通過させるために三分以上待たされる。すると待たされついでに、あともゆっくり行こうということになり、そうなると終点の改札口を出てから小田急デパートのエスカレーターに乗って上っていくまで、気持はリラックスしてくる」(前出「経堂から……」)
 
 小田急線は今、代々木上原から登戸まで複々線となったが、それまでは各駅停車に乗ると急行や特急の通過待ちを強いられることが多かった。ふつうならイライラが募るはずだが、「待たされついでに、あともゆっくり」となるところにJ・J精神のゆとりが見える。
 
 当時、経堂から渋谷へは三軒茶屋経由のバスもあった。著者は、これで気まぐれな途中下車を楽しんでいたらしい。たとえば、池尻という目立たない町。「だだっ広い灰色の舗装道路が、殺風景にひろがり、その両側を見ると、安っぽい感じの新築ビルが、あたりの低い建物のせいか、いくつも浮かびあがって見えたりし、そういったパースペクティヴが、なんの装飾もないことから、無生物的な風景となって目に入ってくるのだ」(「経堂から……」)
 
 「殺風景」「安っぽい」「無生物的」、そして、このすぐあとに「間が抜けた」という形容もある。決して、おしゃれな散歩道ではない。かと言って、廃墟のような荒涼感もない。そんなふつうの町の気だるい素顔に惹かれ、足を向けてしまうのがJ・J流散歩だ。
 
 好奇心はあちこちに向かう。「バスと陸橋」(初出不明)は、「歩道橋」が目新しかったころの話。バスでくぐり抜けながら「歩橋」という言葉を思いつくが、車掌に呼び名を聞くと「陸橋です」。あとで正解を知って自分の命名のほうが「いくらか正しかった」と悦に入る。
 
 ありふれたものになにかを見いだす観察眼は、「新宿・ジャズ・若者」で新宿西口を描いたくだりにも見てとれる。宵の口のビル街は、著者の目にこう映る(初出『朝日新聞』1970年11〜12月の連載寄稿)。
 
 「むこうのほう、銀行が並んでいるビル上層の事務所では、まだ仕事中だとみえ、たいていの窓が白く光っていて、こっちがわの強い光とのあいだに、暗くて広い空間がひろがっているのだ。それは東口のほうの夜のイメージと比較させるぐあいのもので、ちがった二つの新宿があることを、あらためて認識させる」――その筆致から、無機質な都市空間の光と闇を鋭敏に感じとっていることがわかる。
 
 1970年と言えば、新宿は芝居であれ、映画であれ、音楽であれ、対抗文化(カウンター・カルチャー)の発信拠点となっていた。著者も、その空気を吸いにやってきたのだろう。ただひとつ言えるのは、対抗文化志向の人々には、東口の喧騒にどっぷり浸かっても西口のオフィス街には無関心な人が多かったが、彼は両にらみだったということだ。ここにも、時代を超越したJ・J精神が顔をのぞかせる。
 
 ケの町を愛したJ・Jは、ハレの町にもケを見ることを忘れなかった。高度成長やバブル経済が遠い昔となった今、それはとても賢明な散歩術に思える。
(執筆撮影・尾関章、通算265回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『墓苑とノーベル賞 岩中女史の生活記録』佐野洋著、光文社文庫)

 この欄を含めて、僕は「町に暮らす」的なことをよく書くようになった。2年前に会社を辞めて、日常が自宅を拠点とするモードに入ったからだ。ひと言でいえば、歩きと自転車で動ける範囲で生活が完結するという日々である。
 
 「いま自分の楽しみと言えば、平日の夕暮れどきに住み慣れたまちを自転車で気ままに走り回ることだ。本屋にふらりと入る。行きつけのレストランをのぞいてみる。顔見知りとすれ違えば会釈する」。これは僕が退職後、拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代選書)の冒頭部分に書いたことだ。科学記者として歩んだ会社員半生を「平日」の「まち」から振り返りたいと思ったからだ。
 
 考えてみれば、勤め人の暮らしは不自然の極みだ。平均のサラリーマン像を描けば、平日の活動時間は大きく三つに分断される。その1は朝のあわただしい時間、その2は昼間にあくせくする時間、その3が夜にくつろぐ時間。これを空間に投影すれば、わが町にいるのは1と3で、2は職場や職場を拠点とした外回りだ。いやそれどころか、3の一部も職場周辺の繁華街で過ごすことが少なくない。
 
 2は、身の回りの空気が繊細に移り変わる時間帯だ。午前中の日差しは透明感にあふれているが、太陽の南中とともに潤みを帯びはじめ、昼下がりには気だるさを醸しだす。さらに夕暮れどきになれば、セピア色に染まって人々の心に切ない思いを呼び起こす。勤め人は、そんな移ろいを自らが住まう町で体験できない。土日があることにはあるが、休みの日の昂揚感がこうした微妙な変化を掻き消してしまう。
 
 職域から地域へ――が、一線を退いたシルバー世代に対する標語のように言われる。だがそれを、地元のナントカクラブに入るとか、カントカ教室に通うとかいうことに限定してとらえるのは惜しい。町にはもっと豊かな鉱脈がある。
 
 平日の町の醍醐味は、ひと言でいえば他人の暮らしぶりを眺めることだ。見つめるのではない。浅からず、深からずつきあうことである。それは、農村の生産共同体や江戸下町の長屋ではありえないことだった。近現代に大勢の人々が空間を共有するだけという町が生まれたからこそ、適度の距離感が可能になった。そんなコミュニティーならではの人と人とのつながりを楽しむことだ。
 
 で、今週は、その醍醐味を体感させてくれる小説。『墓苑とノーベル賞 岩中女史の生活記録』(佐野洋著、光文社文庫)。同じ人物を主人公とする八つの短編からなる連作推理小説だ。2008〜11年に「小説宝石」誌に載ったものが文庫本にまとめられた。
 
 著者は、読売新聞記者を経験した推理作家。1928年の生まれで、2013年に他界した。この連作の執筆は、80歳くらいのとき。アラウンドエイティーだ。すでに新聞記者っぽさからは完全に抜けきっている。アガサ・クリスティーのミス・マープルを連想させる探偵役がいても、殺人事件は1編の例外を除いて起こらない。コージー(心地よい)ミステリーと呼ばれるもののなかでも、もっともコージーな部類に入るだろう。
 
 主人公である探偵役の寸描を巻頭の表題作から引用してみよう。「岩中妙子(たえこ)女史は、現在五十六歳。夫の亮一氏(五九)と共に、私鉄沿線の新興住宅地に住んでいる」。亮一は勤め先の県警を2年前に希望退職して、いま警備会社の総務課長。歩いて20分くらいのマンションに娘家族もいる。徒歩自転車距離圏にすっぽり浸かった人である。その彼女が自治会の「防犯部長」になることで探偵もどきの活動が始まる。
 
 表題作は、岩中女史が公園に「何となく変な男の人」がいるという相談を受ける話。その人は公園にいた。女史自身は「変」とは感じなかったが、声をかけると自宅に招かれる。近藤という60歳くらいの男性。名刺には有名商社の顧問とあった。女史の訪問中、電話が鳴って近藤が出る。相手はセールスか勧誘の手合いらしい。「いまあんたは『近藤さまで宜(よろ)しいですか?』と聞いたね。わたしには、その言葉の意味が理解できないんだな」
 
 わかるなあ、その対応。僕らの年齢層は、自分が若かったころのことを棚にあげて後続世代の言葉づかいにひっかかりを感じてしまう。僕自身が気になるのは「宜しいですか」よりも「宜しかったでしょうか」。仮定法過去ふうの婉曲表現のつもりなのだろうが、やっぱり「意味が理解できないんだな」。この小説では、同席の妻が近藤の応対ぶりを聞いて弁解する。「電話に文句をつけるのは、この人の趣味なんですから」
 
 ここで近藤が漏らす「一時間に一度の割合で、何かの勧誘の電話がかかって来ましてね」というひと言は、家庭の固有電話、すなわちイエデンがいま置かれた状況を的確に切りだしている。実際、女史がいる間にもう1本かかってくる。「それは結構な話ですな。しかし、わたしには必要ありません。何しろ死なないんですから……」。墓苑のセールスだった。それを機転のひと言で撃退して、近藤はご機嫌だ。
 
 この話には続きがある。彼の家に翌日再び墓苑の電話セールスがあり、今度も「わたしは死なない」と応じると、「それはノーベル賞もの」「知り合いの新聞記者にも知らせなければ……」「記者がインタビューに行ったときは宜しく……」と切り返されたというのだ。著者はその展開に、巧妙なトリックをもぐり込ませている――。この表題作『……とノーベル賞』にならって、所収作品の題名には「努力賞」「文学賞」「残念賞」などの言葉が並ぶ。
 
 連作のなかで僕がもっとも惹かれるのは、『秘匿と笑顔賞』だ。「ばあば」でもある女史が孫に会うために娘の家へ向かって歩いていると、乳母車を杖代わりにした老人がやってくる。面識はないが挨拶を交わすと名前を問われ、とっさに「石坂」と答えてしまう。早く孫の顔が見たいという気持ちに急かされて、ウソが口をついて出たという話だ。この作品の底流には、個人情報とセキュリティーといういまどきの難題が潜んでいる。
 
 この遭遇談に敏感に反応したのは、娘の夫である弁護士の蓑田だ。老人を怪しみ、「そうやって、情報を集めていた」と疑う。女史のいでたちは「夫婦二人暮らし」をする近隣住人に見えるので、名前一つで家を割りだし、外出時を狙って空き巣にも入れるという理屈だ。
 
 そんなことがあった後、女史は自治会の役員会で発言する。地元の小学校が児童たちに「元気に挨拶しよう」と呼びかけていることに対する懐疑論だ。それは、彼女の「実験」にもとづいていた。下校中の子らに声をかけて家の場所を尋ねると、「四丁目」「鉄塔の下」といった答えが返ってきたのである。そこで、挨拶を奨励するにしても「泥棒はどこにいるかわからない、ということを、児童にも認識してもらった方が……」と訴えた。
 
 この提案は今日的な感覚にぴったりくる。いまや住宅街では、本名で生きるコミュニティーが失われつつあるのだろう。ファミレスの順番待ちリストにハンドルネームを書き込むことがふつうになり、家々の玄関から表札が消えていくのかもしれない。そう言えば、かつて英国で暮らしたとき、彼の地の家に表札はなかった――そんな思いにかられたのだが、小説の結末には微笑ましくも心温まる逆転がある。それが、とてもコージーだ。
 
 この本のゆったり感は話の中身だけではない。小説の手法にもある。たとえば、著者が別の作家の作品を積極的に取り込んでいることだ。『警告と署長感謝状』には、女史が「ああ、勝目梓(かつめ・あずさ)さんの小説と似た状況なんだ」と語る場面があり、『夜のアラベスク』(勝目梓著、光文社、1981年)が推理談議に一役買っている。言ってみれば、ミステリーのネットワーク化。さすが、日本推理作家協会の理事長だった人だ。
 
 本の副題にもゆったり感が表われている。岩中女史が古書店の「一冊百円」のコーナーで石坂洋二郎の『石中先生行状記』(新潮文庫)を見つけ、それにならって身辺の出来事を素材に小説ふうの「生活記録」を綴るという設定だ。おもしろいもので、徒歩自転車距離圏にいると視野はかえって広くなっていく。「一冊百円」をきっかけにしてでも、古今東西をネットワークでつなげたくなるからだ。当ブログもそんな試みの一つと言えなくはない。
 
写真》徒歩自転車圏を開けてくれる鍵。
(文と写真・尾関章/通算256回)
 
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『夜鳴きめし屋』(宇江佐真理著、光文社文庫)

 時代劇が苦手だ。テレビの大河ドラマは何十年も観ていない。たとえば、戦国武将もの。少年時代は緒形拳の「太閤記」の大ファンだったのに、大人になるにつれて興味を失ってしまった。
 
 どうしてか。一つは、そこにウソっぽさを見てしまうからだ。道徳観の二重基準と言ってもよい。戦国武将の世界では、斬った、斬られた、は当たり前。それなりのルールや美学はあったにしても、残虐非道のふるまいは枚挙にいとまがなかった。そんな武闘集団を率いて権力奪取の階段を駆けあがったのが、信長や秀吉や家康だ。ところが、ドラマでは彼らの人間性が今日の道徳観に沿うように描かれる。
 
 もちろん、いくさの場面はある。殺陣の見せ場もある。だが、主人公は本心ではそれを願っていない、という話のつくりになっていることが多い。本当にそうなのか。そうならば、日本列島のそこここが戦場になることはなかっただろう。このウソっぽさが怖いのは、それが今に通じるからだ。流血の紛争が起こるたびに当事者の多くが口にするのも、自分たちは平和解決を求めているということだ。そのことを戦国ドラマから連想してしまう。
 
 戦国武将が弱肉強食を是と考えているのなら、それをきちんと台詞で語らせてほしい。彼らが「天下を取っていくさのない世にしたい」と言うのなら、平和のために戦争をするという矛盾をさらけ出してほしい。ところが戦国ドラマの多くは、それらを避けて通っている。
 
 同じ時代劇でも、ちょっと違うのが江戸ものだ。武士が支配する世でありながら、いくさはほとんどなかった。武士の腰にはいつも刀があったが、町に「切り捨て御免」がはびこることもなかったらしい。幕府や藩を官庁や大手企業になぞらえ、武士をエリート官僚やエリート社員に見立てれば、平穏な時代にありがちな真綿でくるまれたような閉塞感まで含めて今日的ではある。
 
 江戸時代については、先々週の当欄「スイーツ男子が和菓子本をひもとく」(2014年11月21日付)でも話題にした。そこでは和菓子商に焦点をあてたが、なべて町人が「市民社会萌芽期の文化と経済を担ってきた」という面がある。そんな様相を切りだした作品はウソっぽい帳尻合わせなどほとんどなしに、僕たちの心にビンビンと響いてくるのではないか。そう考えて、今週は江戸もののドラマならぬ小説を選んだ。
 
 『夜鳴きめし屋』(宇江佐真理著、光文社文庫)。単行本が2012年に出て、今年9月に文庫本となった。著者は、人情ものの時代小説を得意とする作家。この作品は、江戸本所の五間堀を舞台にした『ひょうたん』という連作集(2005年刊)の筋を引き継ぎながら、主人公の世代を一つ下に代替わりさせて新しく組み立てたものだ。六つの話から成るが、それらがひとつながりになって長編小説をかたちづくっている。
 
 主人公は、「鳳来堂」という居酒見世(いざかみせ)のあるじ、長五郎。店名が硬いのは、亡き父が営んでいた古道具屋を受け継いで母とともに開いた店だからだ。やがて母も世を去り、「しばらく腑抜(ふぬ)けのようになった」。そのせいで始業はしだいに遅くなり、日暮れどきになってもなかなか店を開けない。「今では、客が鳳来堂で安心して飲める時刻は五つ(午後八時頃)過ぎにもなろうか。その代わり、見世は朝までやっている」
 
 要するに終夜営業だ。このビジネスモデルが結構受ける。夜遅くまで飲んでも飲み足りない酒好きが「鳳来堂に行けば飲ませて貰えると思っている」。芸者、酌婦、夜鷹といった女性たちも「商売を終えた後に空腹を覚えると鳳来堂の暖簾(のれん)を掻(か)き分ける」。本所には「やっちゃ場」と呼ばれる青物市場もあって「仕入れをして戻った振り売りの男達が朝めしを摂(と)りに訪れる」。江戸の世の深夜未明もそれなりに忙しかった。
 
 「四つ過ぎての客は、さほど酒は飲まない。茶漬けを食べたり、干物と漬物、味噌汁をお菜に、めしを食べる者が多い」。ここで「四つ」とあるのは午後10時ごろのこと。「いつしか鳳来堂は夜鳴き蕎麦屋ならぬ夜鳴きめし屋と呼ばれるようにもなっていた」
 
 長五郎も調理の手は抜かない。干物は自家製。「時々立ち寄る棒手振(ぼてふ)りの魚屋から求めた鰯や鯵(あじ)、かますなどを捌(さば)いて塩水に浸(つ)け、ほどよく塩が回った頃に長い串に刺し、見世の軒下にぶら下げて干す。夕方から干して、翌日の夕方まで置けば、脂(あぶら)焼けしないきれいな干物ができ上がる」。糠みそは「毎日掻き回して」「時々、糠を足したり、昆布の切れ端を入れて味を調(ととの)えたりする」。
 
 作者の描写も食欲をそそる。常連客の芸者から「茶漬けでも拵えて貰おうか」と言われ、それを長五郎が手際よくつくるくだり。「丼にめしをよそい、塩鮭のほぐし身と細かくちぎった海苔を載せた。濃い目の煎茶をその上から掛け、おろしたわさびをちょいと添える」。当たり前の素材、当たり前の手順で、どこにでもある海苔鮭茶漬けができただけだが、リズム感があって思わず唾をのみ込んでしまう。
 
 この作品の妙は、深夜の小腹対応という営業形態の店を江戸の世に嵌め込んだことにある。電気もクルマもない時代の夜に、なにか食べたくなった人がふらりと入る店があったと想定することで、大江戸コミュニティーに行き交う人々の情を浮かびあがらせることができた。左官がいる。鳶がいる。芸者がいる。武士もいる。そんな客や長五郎が軽口をたたきあい、ときに真顔で言葉を交わして温もりのある時間を共有する。
 
 一つの読みどころは、町人と武士の接触。鳳来堂のそばには堀の対岸に対馬府中藩の中屋敷があった。相川という藩士が、3年で3両余に嵩んだ代金を払う様子もなく国許へ帰任することになったときのことだ。来店時に長五郎はそれを請求する。相川が刀を抜く気配を見せると、長五郎は言う。「めし屋の親仁(おやじ)にツケを催促されて、それでお腹立ちのあまり斬りなさるおつもりですかい。相川様の末代までの恥となりましょう」
 
 相川は一銭も払わないまま店を出る。そのあと、店に残った客と長五郎の会話。「侍(さむれ)ェに盾突いても仕方がねェだろうに」と酒屋の信吉。「わかっていますよ。でも、おいらが何も言わないのをいいことに最後の最後まで舐(な)めた真似をするのが許せなかったんです」と長五郎。「へへえ、存外に骨があるじゃねェか。見直したぜ」と左官の梅次。あの時代、身分違いの距離感はこのくらいまで縮まっていたということか。
 
 このとき、相川の連れの浦田という若手藩士が店に戻って謝り、ツケの総額には遠く及ばないが「拙者の気持ちだ」と自らの持ち金を差し出す。それがきっかけで店の常連となり、長五郎と心を通わすようになった。新婚の妻を国許に残す単身赴任族。長五郎が「奥方様」は寂しかろうと水を向けると、「度々手紙が届く。やれ、庭の梅が咲いただの、縁の下で野良猫が仔を産んだだの、親戚の誰それが滑(すべ)ったの、転(ころ)んだのと……」。
 
 その愛妻家、浦田が吉原の遊女に入れあげたときの長五郎。「心配しているのは、浦田様が小見世の妓に惚れたことじゃねェんですよ」「金の工面ができりゃ、敵方を身請けしたところで、手前は四の五の言うつもりもありやせん」「不躾(ぶしつけ)を承知で申し上げますが、浦田様にそのような金の持ち合わせはないご様子」。そう言って、納品目あての紙問屋が金を便宜しようとしているのではないかと懸念を伝える。対等感のある説教だ。
 
 町人同士の連帯もいい。鰯大漁の初秋、棒手振りの魚屋に懇願され、長五郎は売れ残りを樽ごと安値で買い取った。そこに現れたのが、料理茶屋店主の友吉。裾分けの茄子を届けに来たのだ。鰯は友吉が一部を貰い、残りは長五郎が友吉の指南で蒲鉾にすることになった。「鰯は頭を取って、身は三枚に下ろすんだが、こいつはちいせェから包丁よりも指で中骨を外してから細かく刻み、すり鉢で擂(す)るのよ」と友吉。物品と知財の互酬である。
 
 この長編を貫く主題は、実は長五郎と幼なじみの芸者みさ吉のラブストーリーにある。二人のじれったいほどの恋の行方を、封建の世の居酒屋に芽生えた「江戸市民」が見守っていた。2014年師走の東京に、そんな心温まる場所はないものか。
 
写真》長五郎の茶漬けはこんなふう?=尾関章撮影
(通算241回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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