『ドイツ現代戯曲選30 第十三巻/私たちがたがいをなにも知らなかった時』

(ペーター・ハントケ著、鈴木仁子訳、論創社)

写真》広場

 若いころは、筋を追えるような物語を嫌ったものだ。いや、小ばかにしていたと言ったほうが当たっている。なぜだろうかと自問して気づくのは、わかりやすさに値打ちがないと思い込んでいたことだ。若気の至りとは、こういうことを言うのだろう。

 

 筋を追えない文学作品とはどんなものか。すぐ思いだせないのは、きっと筋が乏しくて印象に残らなかったからだ。ただ、そこにはコトよりもモノにこだわる傾向があった。たとえば、ドアの把手をただひたすら描く、という小説があった気がする。そこでは把手を、ドアの開け閉めに使うという用途から切り離している。モノをモノとしてとらえる、という志向がどこか実存的に思えたのだ。そこに立ち現れる世界は、どこまでも無機質に見えた。

 

 今では、そんな性向がすっかり消え失せた。物語の筋を軽蔑しなくなったのだ。たぶん、人と人の影響の及ぼしあいが人生の醍醐味であると悟ったからだ。青少年期は、人と人の関係を図式化してとらえていた。登場人物に男と女がいれば、そこに恋やセックスの力学しか想定しなかった。そんな決めつけが世界を見る目を貧しくしていたのだ。年をとるごとに、人間にはさまざまな関係性がありうることを実感してくる。これこそは年の功だ。

 

 ここで、ふと思う。筋がないと思われる文学作品にも、実は人と人のかかわりが隠れているのかもしれないと。だから当欄は今回、一つ実験を試みる。筋を追えない作品を年寄りの目で読んでみようと思うのだ。きっと、若者には見えないものが見えてくるだろう――。

 

 で、手にとったのは『ドイツ現代戯曲選30 第十三巻/私たちがたがいをなにも知らなかった時』(ペーター・ハントケ著、鈴木仁子訳、論創社)。著者は今年、ノーベル文学賞を贈られた。今回、文学賞は2018年と19年の2年分が同時に選考されたが、彼は19年の受賞者だ。巻末の著者紹介によると、1942年、オーストリアに生まれ、大学在学時代から創作活動に携わった。幅広く、小説や戯曲、映画脚本などを手掛けているという。

 

 この戯曲は1992年の作品。その邦訳を収めた上記戯曲選第十三巻は2006年に出た。今回のノーベル賞報道では、著者の戯曲家としての側面に触れて「66年初演の『観客罵倒』や『カスパー』(68年)など、従来の演劇形式を大胆に解体する前衛的な戯曲を発表」(朝日新聞2019年10月11日朝刊)という記述もあった。『私たちがたがいを…』も、きっと「前衛的」に違いあるまい。そう確信して、さっそく本を開いてみた。

 

 冒頭のページには「S.に」と書かれた献辞があり、「そしてたとえばヴェリジー台地のマユ・ショッピングセンターまえの広場に」と続いている。謎めいているが、この2行から引きだせることはいくつかある。「ショッピングセンター」とあるのだから、時代設定は現代なのだろう。「台地」の一語からはニュータウンのような印象も受けるが、これは日本の感覚を引きずった解釈かもしれない。いずれにせよ、日常性が感じとれる切りだし方だ。

 

 本編に入ると、書きだしはこうだ。「舞台はまばゆい光のさすひろびろした野外の広場。/はじまりにまずひとり、すばやく舞台を走り抜ける。/次に反対方向からまたひとり、おなじく足早に駆け抜ける。/」(/は改行)。これでは終わらない。二人が「両方向」から出てきて「すれ違う」こともある。要は、人は広場をただ走り過ぎるだけということだ。なるほど、「私たちがたがいをなにも知らなかった」状況がここにはある。

 

 このあと、「間」があって次の場面に移る。この第二場面でもやはり、人が次々に出てくる。ただ、今度はさまざまなしぐさを伴う。たとえば「しきりと掌を開いては五本の指をひろげ、同時に伸ばした両腕をゆっくりと持ち上げて、頭上で弧を描くように回してからふたたび下ろす」というように。やがて、広場には人が左右上下いろんな方向から出てきて「めいめいがてんでばらばらに〈ウォーミングアップ〉にいそしんでいる」。

 

 この人々は、ただなにかの準備運動をしているのではない。「たえずだしぬけに」「とっかえひっかえさまざまな姿態をとる」からだ。「いきなり跳躍して、ジグザグに走る」「眼のうえに小手をかざす」「櫛で髪をとく」「シャドウボクシングをする」「唾を吐く」「ハミングする」……。著者はここで、思いつく限りの行為を書き連ねる。しかも、これらは「すべてが入り乱れた様相で、どれもやりとおされることはなく、出だし部分だけ」なのだ。

 

 ここまできて予感するのは、この芝居は先へ進んでも台詞が出てこないのではないか、ということだった。実際にページをパラパラとめくってみると、登場人物名が太字で冠せられた発話部分がまったく見当たらない。これは、ト書きだらけの無言劇なのである。

 

 だが、登場人物の間には、それでもいかばかりかの関係性がある。ここが、おもしろいところだ。第一場面では、舞台を横切る人同士が無関係の関係にあるだけだろう。逆向きの人が「すれ違う」光景は、それを表現したものにほかならない。ところが第二場面では、そこに同調が生まれる。「ウォーミングアップ」だ。ただし、それは「てんでばらばら」のものであり、しかも任意の振る舞いを伴う。弱い関係が芽生えたということか。

 

 巻末には、ドイツ文学者池田信雄執筆の解題が載っている。題して「広場の叙事詩―そしてハントケの軌跡」。そこには「主人公は誰かと問われれば、広場だと答えるしかない」という記述がある。欧州で「広場(アゴラ)は劇場の原型」であったことを踏まえ、この作品を「劇場の起源についての劇」ととらえてもいる。これを僕なりに咀嚼すれば、広場とは人間の関係性が表出する場なので、関係性を可視化した戯曲とも言えよう。

 

 そこに立ち現れるのは、愛憎や怨嗟、嫉妬などが渦巻くドロドロとした人間関係ではない。あるかないかもはっきりしない関係。あえて言えば、他人をそれとなく見たり、他人から見られているように感じたりするときの、あの心理ではないだろうか。

 

 そのことをうかがわせる場面を切り出そう。「かけだしの現代的なビジネスウーマン、中が透けて見え、入っている品物のシルエットがわかる鞄を手に登場」の一文で始まる段落だ。ここで、鞄が透明もしくは半透明であるという点が暗示的だ。広場を歩くとき、人はプライバシーの衣をまとっているが、それはどこかで透けている。足の運び一つで心の内が爽快かそうでないか、すれ違う人にもわかってしまうということはよくある。

 

 この女性は携帯電話をかけようとして、端末を地面に落とす。かがんで取ろうとすると鞄の口が開いて、中に入れた品物が散らばる。それらを拾って歩きだすと、今度はつまずいて転びそうになる。「女はそこで突拍子もなく、なんとも説明のつかない笑みをにやりと浮かべる」。バツが悪いと感じたのか、真意はわからない。ただ、「にやり」は表情だ。だれかに向けたものなのだろう。このとき、広場には彼女一人。それでも他者は存在している。

 

 後段には「広場の人々はしだいにたがいを見つめあうようになる、いや、そうではなく、見守るようになる」というくだりがある。広場では、人々が「半狂乱」で駆けまわったり、「しゃくりあげて」泣きだしたり、「悲しげに」口笛を吹き奏でたりしている。その一人ひとりが「ただ見守られることによって、なだめられていく」。ここに至って、見るという行為は視線を投げるという所作を超える。対象を「守る」という意味を帯びるのだ。

 

 この戯曲を今日のメディア風に読み解くと、広場にはもともと無関係の関係しかなかったが、やがてその関係が実を結び、絆とか連帯とかが生まれてくる、という話になるのかもしれない。だがそれでは、この無言劇の核心を言いあてたことにはならないだろう。

 

 人はみな、他人を意識した存在だ。人生とは、そんな意識の集積にほかならない。著者は言葉という意思疎通の道具を消去することで、その現実を浮かびあがらせている。

 

 この戯曲には筋がない。だが、カフェから広場を眺めているようなおもしろさがある。

(執筆撮影・尾関章、通算503回、2019年12月20日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

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「或る『小倉日記』伝」

『宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短編コレクション()(松本清張著、文春文庫)所収

写真》記憶の媒体

 今年の紅白歌合戦には、美空ひばりが出演するそうだ。そう、NHKが今秋、AI(人工知能)の技を駆使してテレビ画面によみがえらせた歌謡界の女王に再び、ご登場いただこうという趣向らしい。あのとき、彼女はたしかに新曲を歌った。だから、それは過去の映像ではない。歌手美空ひばりが現在に立ち現れたと言ってもよい瞬間だった(NHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」2019年9月29日放映)。

 

 NHK公式ウェブサイトのNHKスペシャルのページを開いて、あの番組でどんなことが試みられたのかを押さえておこう。資料として集められたのは「NHKやレコード会社に残る、膨大な音源、映像」。これらをもとにAIが「超人的な歌唱力や表現力」を「数値化」して「再現」しようとした。その結果、3次元ホログラムの立体感ある姿が現れ、秋元康さん作詞の歌を歌いあげたのである。その迫真力に僕も圧倒された。

 

 ここで言えるのは、AIはすごいね、ということだ。そのAI時代は目前にある。だからNHKは、ああいう番組を今年企画して大みそかの紅白につなげたのだろう。だが、すごいのはそれだけではない。こんなことができるのは「膨大」な記録資料があるからだ。

 

 現代の記録資料の威力に僕が気づいたのは約10年前、『クォンタム・ファミリーズ』(東浩紀著、新潮社)を書評したときだ(朝日新聞2010年2月21日朝刊読書面)。この小説では、主人公が量子力学的な並行世界に迷い込む。その世界で別の自分になりきるには、そこに残る個人情報がほしい。幸いIT(情報技術)社会には、写真や動画、そして「メーラやスケジューラのログ」や「ネットにばら撒かれた無数の噂話」もあるというのだ。

 

 で今週は、人間の生の再現について。それも、ITというものが存在しなかったころの話だ。そんな時代でも、人は世を去った他者の生前に思いを馳せ、その姿を脳裏に生き生きとよみがえらせたいと思ったらしい。まして、他者が尊敬を集める人物であれば……。

 

 とりあげるのは、松本清張(1909〜1992)の短編「或る『小倉日記』伝」(『宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短編コレクション(上)』〈松本清張著、文春文庫〉所収)。1952年に『三田文学』誌に発表され、著者はこの年下半期の芥川賞を受けた。ミステリーの巨匠の出世作は、純文学に位置づけられていたことになる。この作品で主人公の心をとらえるのは、文豪森鷗外の福岡県・小倉在住期(1899〜1902)の足跡だ。

 

 作品は1940(昭和15)年、鷗外の小倉在住期の日記が不在だった時点から書き起こされる。「世の鷗外研究家は重要な資料の欠如として残念がっていた」。ただ、日記は最初から書かれなかったのではなく、破棄されたのでもなかったことは冒頭のエピグラフからもわかる。そこに「小倉日記」の一節が引用されているからだ。一時行方不明だったのだろう。史実とはいえ、後年の推理小説作家が冒頭にネタばらししているのはおもしろい。

 

 筋書きとしてはまず、在京の医師兼詩人であるK・Mに小倉在住の田上耕作という人物から手紙が届く。自分は「小倉時代の森鷗外の事蹟」を調査中で、その結果の一部を草稿にまとめたので一読してほしい旨、書かれていた。鷗外が小倉で暮らした「痕跡」は約40年が過ぎてほとんど残っていないが、その様子を間接的にでも知る人を見つけて話を聞きだそうというのだ。日記の不在ゆえの過去の空白を、現在の証言で再建する作業だった。

 

 冒頭でK・Mの田上に対する関心を綴った後、次の節からは田上自身の個人史が始まる。子どものころから舌と片足が不自由だったこと、学校では「ズバ抜けた成績」をあげていたこと、父を早くに失って母親と二人、貸家の家賃収入で暮らしていたこと。そして、文学好きの友人とつきあい、地元の文化人の手伝いをするうちに鷗外の「小倉日記」に関心をもつようになったという。宮部みゆきの「前口上」には、田上は「実在の人物」とある。

 

 田上は「『小倉日記』の空白を埋める仕事を思い立った」。関係者に当たり、「片言隻句でも『採集』しよう」というのだ。当時、地方の若者たちには柳田国男流の民俗資料収集熱が高まっていたから、その方法論を応用した面もあると著者はみる。その姿は「鉱脈をさぐり当てた山師」に似ており、そこには「一生これと取りくむ」という決意があった。ここで彼を駆りたてたのは、日記の不在によって「かくれている部分」の大きさだけではない。

 

 田上には、陰の動機もあった。それは幼年期の思い出だ。借家人のなかに「でんびんや」と呼ばれる年寄りがいた。早朝に鈴を鳴らして家を出ていく。「ちりんちりんという手の鈴の音は次第次第に町を遠ざかり、いつまでも幽かな余韻を耳に残して消えた」

 

 「でんびん」とは何か? ずっと謎だったが、その答えは鴎外の小説「独身」にあった。それは「会社の徽章の附いた帽を被って、辻辻に立っていて、手紙を市内へ届ける」仕事だった。邪魔な手荷物を自宅へ届けてもくれる。でんびんは伝便。鷗外は「小倉の雪の夜に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞える」と書いている。田上は、まだ見ぬ日記に「自分と同じ血が通う」ような感覚を覚えた。

 

 田上の聞きとり調査を追いかけてみよう。鷗外と直接の交遊があった人はほとんど亡くなっていたが、存命者もいる。その一人は、カトリック教会のフランス人宣教師。「森さんはフランス語に熱心」「時間は正確で、長い間遅刻はなかった」。当時、鷗外は陸軍第十二師団軍医部長。日月水木金とほぼ連日、勤めのある日は役所からの帰宅後に訪ねてきたという。「キモノに着更えて葉巻をくわえ、途中の道を散歩しながら来るのだといっていました」

 

 禅寺の老僧も鷗外を知っていた。「森さんは、寺の古い書きものや、小笠原家の記録など出して上げると、半日でも丹念にみて居られた」。小笠原家は旧小倉藩主だ。「そうじゃ、森さんは禅にも熱心でな」。別の寺で開かれる禅の会に出ていたことも教えてくれた。

 

 その寺に赴くと、住職らしい僧が「わしの祖父さんの代だし、何も分りません」とすげない。がっかりして帰途につくと、後方で「今、思い出した」と声がする。寺に当時のものとみられる魚板があり、寄進者の名が刻まれているという。「魚板は古くて黒くなっていた」。だが「その名前を見て耕作は息を詰めた」。7人のなかに鷗外の本名「森林太郎」があったのだ。寄進仲間の「身許」を調べれば、鷗外の交遊歴が見えてくるかもしれない――。

 

 田上の調査行では、母ふじの応援が大きかった。ある日、田上は鷗外の亡き友の妻を山あいの集落に訪ねたが、会えずに帰ってくる。ふじは息子の消耗落胆ぶりをみて、先方からどうあしらわれたかを悟る。「明日、もう一度行ってみよう、お母さんも一緒にね」。ふじは翌朝、人力車2台を呼ぶ。往復で8里(約31km)の道のりなので、生活費の半月分はかかる。「田舎道を人力車が二台連なって走るのは婚礼以外に滅多に見られぬ景色であった」

 

 言葉の聞きとりにくさや足の運びのぎこちなさは、疎外感を呼び起こした。そのことを察知したからこそ、母は力を貸したのだ。宮部「前口上」は、田上の営みを「身の置き所のなさ」が生みだしたものと受けとめる。田上には「自分自身の拠(よ)り所」が必要であり、それが鷗外の事蹟調査だった。「どうやったって生き難い世の中を生きてゆく」――そういう人間を描いたという一点で、この作品はまぎれもなく「純文学」なのだと強調する。

 

 田上の調査は、やがて急進展する。鷗外と親交が深かった新聞社の元小倉支局長に会えたことが大きい。それに魚板情報が重なって、鷗外の小倉人脈が浮かびあがったのだ。ではいったい、この作品はどういう結末を迎えるのか。それは、ここでは書かない。ただ、エピグラフのネタ晴らしにあるように小倉日記は見つかったのだ。本人の行動記録が明らかになった今、他者が周辺を調べまわって再構築した「事蹟」はどんな意味をもつのか?

 

 田上作成の「事蹟」にも、鷗外は確かに存在するように僕は思う。人間とは、他者との関係そのものだからだ。そこにいるのはきっと、伝便の鈴の音に聞き入る鷗外だろう。

(執筆撮影・尾関章、通算502回、2019年12月13日公開) 

 

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『晩年の思想』(アンリ・ポアンカレ著、河野伊三郎訳、岩波文庫)

写真》一つ、二つ、三つ

 学校には、人生を決める科目がある。小学生のころ、図工が得意だったから画家になったという人がいるだろう。中学校に入って数学は苦手とわかったから作家になったという人も。その伝で言えば、僕は理系学生として量子力学につまずいて、将来、科学者にはなれないと思い知った。科学者になっても、その核心部を理解できないのではないか。だとしたら、それは針のむしろに座らされるようなものだ。そんなことに耐えられるわけがない!

 

 同様の学友は多かったように思う。ただ大半は、科学者にならずとも理系分野に踏みとどまった。就職しても量子力学と縁を切れなかった人がいるわけだ。意地悪く言えば、この人たちは、量子力学の数式が教えてくれる答えだけを実用技術に生かしてきたと言えるだろう。わけのわからなさを棚に上げたのだ。ネット社会を支えるIT(情報技術)は半導体物理を礎としているが、そこにはこうした棚上げ方式の技術開発があった。

 

 量子力学とは何か? それは、20世紀に台頭した新しい物理学の流れだ。1900年、ドイツのマックス・プランクが物理量を一つ、二つと数える量子仮説を提起して前期量子論が興る。これは、原子の構造などをうまく説明できた。20年代半ばにはドイツのウェルナー・ハイゼンベルク、オーストリアのエルウィン・シュレーディンガーがそれぞれの方法で量子論を定式化する。両者は同じことの別表現だった。この理論体系を量子力学という。

 

 では、量子力学のわけのわからなさとは何か。一つは、まさに量子だ。「とびとび」と言い換えてもよい。僕たちは子どものころから、アイザック・ニュートン流の古典物理学になじんできた。そこでは量が連続して変化する。小中学校でも、まっすぐな線に目盛りをつける数直線を書かされたものだ。線上に小数の値を書き込むときは、科学的ってこういうことかと悦に入ったものだ。ところが、自然界にはそうでないこともあるという。

 

 もう一つは、状態の「重ね合わせ」だ。物事が状態Aにあるというのはわかる。状態Bにあるというのもいい。ところが量子力学は、AかBかが定まらず、AとBが重ね合わさった状態にあってもよいという。こんなことが許されるのか。僕たちはミステリーで、地点aで犯罪があったときに地点bにいた人物は犯人ではない、と断定する。アリバイだ。この前提の論理が根底から崩れるようなことを、量子力学は平然と言ってのける。

 

 学生時代、こうしたわけのわからなさを見せつけられて僕は茫然としたものだ。「量子のつまずき」である。これは同世代のみならず、年長世代や後続世代を含む理系学生に共通の体験だった。量子力学の誕生から半世紀余、僕たちはそのつまずきを甘受したのだ。

 

 変化の兆しは1980年前後から見えてきた。レーザーや極微極低温の技術が進んで、量子力学の言うことが本当かどうか、実験室で確かめられるようになったのだ。さあ、大変だ。「とびとび」って何だろう。「重ねあわせ」はどうか?……もう棚上げは許されない。

 

 で、今回は、二つのわからなさのうち「とびとび」が科学界にどんな衝撃を与えたかがわかる本。『晩年の思想』(アンリ・ポアンカレ著、河野伊三郎訳、岩波文庫)だ。著者(1854〜1912)は、フランス近代を代表する科学者の一人。数学、物理の分野で業績を残し、科学そのものを論じた著作も多い。本書は「ポアンカレ思想集」に収められ、「科学と仮説」「科学の価値」「科学と方法」に続く第四巻。この邦訳文庫版は1939年に出た。

 

 この本を僕が買ったのは、町の古書店。それは「第4刷」で、1985年に出たものだったが、改版されていないので漢字や仮名遣いは昔のままだ。ここでは、その記述を引用する際、現代表記に改めることを許していただこう。まず目次を眺めると、「法則の進化」「空間と時間」「何故空間は三次元を有するか」など魅力的な章題が並んでいる。今回は、その第六章「量子の仮説」に的を絞る。文字通り、プランクの量子仮説を話題にしている。

 

 この章がいつ書かれたのか、執筆年はわからない。ただ、1900年に量子仮説が出されたときよりも後であり、12年に著者が亡くなるよりも前であることは確実だ。ザクッと言えば、20世紀初頭の科学界の空気を伝えているとみてよいだろう。

 

 章の冒頭で示されるのは「『力学』が新たな混乱に際している」という状況認識だ。著者は、ブリュッセルで開かれた物理学者20人ほどの会議の模様を報告する。そこでは参加者が「『旧力学』に対する『新力学』について」語りあっていたという。では、「旧力学」とは何か? ニュートン力学ではないという。それは、「相対性の原理の力学、五年も経つか経たない前にはこの上なく思い切ったものと見えたその力学」だった。

 

 ここで「相対性の原理の力学」とされるのは「ローレンツの力学」だ。アルバート・アインシュタインの特殊相対論(1905年)に先だって、それに採り入れられた座標変換法を考案したオランダのヘンドリック・ローレンツの名を挙げているのである。

 

 ともあれ、このエピソードからわかるのは、19世紀から20世紀へ移るころに物理学者が大波をかぶっていたということだ。一つは相対論だったわけだが、それすらも「旧力学」に分類されてしまうようなもう一つの大波があった。それは何か。著者が「もっとずっと度胆を抜く事柄」として提起するのは「運動の法則がやはりなお微分方程式で表わすことが出来るかどうか」(「なお」は原文では「尚ほ」と表記されている)という問題だった。

 

 これがどれほどの大事件かを著者は歴史から説き起こす。「古代人及び中世スコラ派の学者」は「自然は飛躍をなさず」(傍点付き)と考えた。ニュートン以来の科学は、それを踏襲して「宇宙の状態は、そのすぐ前の状態にしか依存し得ない」「自然に於けるあらゆる変動は連続的に行われる筈だ」とみてきた。ここで微分方程式が活躍する。ところが今、自然法則に「本質的に不連続なもの」を取り込めるかどうかが問われている、という。

 

 その問いを投げかけたのが、プランクの量子仮説だ。これは、黒体輻射(放射)という電磁波の振動数ごとの強度分布(スペクトル)を説明するために考え出された。黒体輻射とは、どんな色の光でも、どんな波長の電磁波でも、分け隔てなくすべて吸い込む真っ黒な物体の熱放射のこと。それは、温度によって決まったスペクトルになる。プランクは、その様子を数式でうまく表そうとして「本質的に不連続なもの」を導入した。

 

 特記すべきは、そのころは原子の実在すら確認されていなかったことだ。物体が何からできているのかもはっきりしなかった。では、いったい何が、電磁波を放射するのか。ここでプランクは一つの見立てをする。物体は「甚だ多数の小さい共鳴器を含んでいる」と。

 

 すると、「物体が熱せられるとき、これらの共鳴器はエネルギーを獲得して振動を、従って輻射を始める」(「獲得して」は原文では「獲て」)。ここで、プランクは「これらの共鳴器の一つ一つがエネルギーを得たり又は失ったりするのは急激な飛躍によるより他には出来ないと仮定した」(「急激な飛躍」には傍点)。この仮説に立てば、共鳴器に貯まるエネルギーは「量子と呼ばれる恒常的な同一の量」の整数倍でしかありえなくなる。

 

 共鳴器には、それぞれ固有の振動数がある。量子は、その振動数に比例する。高振動数の共鳴器は大きなエネルギーが注入されないと量子一つに足らず、振動しないのだ。「だからこれらの共鳴器が静止している確率は大きい」――。この理屈は、黒体輻射につきまとう問題を解決した。黒体輻射の実験結果をみると、振動数の高い電磁波の強度が古典物理学の理論値に比べて少なかった。それは、その共鳴器がなかなか動かないことで説明がつく。

 

 著者は後段で、プランクの思想を深めていく。物理システムは「状態の一つから別の一状態に飛躍する」「連続的に移って行くのではない」(いずれも傍点付き)という一般論を提示して、その可能性を探る。明快な答えがあるわけではない。量子論のその後も、量子力学の波動方程式は微分方程式なので「連続」と無縁ではない。だがデジタル時代の今、「とびとび」の世界像はさまざまな現象を読み解くヒントにはなるだろう。量子、恐るべし!

(執筆撮影・尾関章、通算501回、2019年12月6日公開)

 

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『日の名残り』(カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)

写真》夕空

 当欄は、その前身のコラムと合わせていよいよ通算500回を迎えた。1回や2回の数え間違いはあるかもしれないが、おおむねその里程標にたどり着いたことになる。それを記念して、今回は、好きな作家の好きな小説をとりあげることにしよう。

 

 『日の名残り』(カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)。「好きな小説」と言ったが、これまでは映画を観ただけで、原作は読んでいなかった。映画そのものが出色の出来栄えだったので、それで満足してしまったのだ。1993年制作。監督はジェームズ・アイヴォリー。主役をアンソニー・ホプキンスが演じ、その相手役はエマ・トンプソン。この顔ぶれからもわかる通り、渋みがあってしっとりとした作品だった。

 

 もっとも印象深かったのは、結末に近い場面だ。英国イングランド南部と思われる海沿いの町。貴族社会をしのばせる由緒ある邸に仕えてきた老執事が休暇の自動車旅行で、この町を訪れる。映画を観たのはだいぶ昔なので細部は忘れてしまったが、脳裏に蘇るのは夕暮れどきの風景だ。浜辺から海へ突きだした桟橋は遊歩道になっていて、日が落ちると明かりがともり、人々が行き交う。夕闇の静まりと街路の賑わいが溶けあう様子が忘れられない。

 

 その桟橋の映像を見たとき、これはイースト・サセックス州のブライトンに違いないと僕は思った。ロンドン駐在時代、出張や家族旅行で一度ならず足を運んだことのある町だ。ブライトンの第一印象は「江の島」。東京っ子が手近な海水浴場として「江の島」を思い浮かべるようにロンドンっ子はこの海浜避暑地になじんでいるように思えたからだ。そこには、片瀬海岸と江の島を結ぶ弁天橋の代わりに桟橋が海に向かって延びていた――。

 

 今回、原作を読み通してはっきりしたのは、作品のどこにもブライトンが登場しないことだ。映画同様、終盤になって海辺の遊歩桟橋が出てくるのだが、それはウェイマスというドーセット州の町にある。同じイングランド南部にあるが、こちらのほうがロンドンからは遠い。映画制作者がウェイマスをブライトンに移しかえたのか、映画を観た僕がロンドン時代の思い出に引きずられてウェイマスをブライトンと取り違えたのか、それとも……。

 

 映画をもう一度、観返せば答えは出るかもしれない。だが、それはよそう。小説の夕暮れは映画の夕暮れとぴったり重なるものだった。大事なのは、英国南部の空気を漂わせていることだ。どの町でなければならないということはない。ならば匿名のままにしておこう。

 

 小説の話を始める。まずは著者の経歴から。1954年に長崎で生まれ、5歳で英国に渡った日系英国人作家。1982年、『遠い山なみの光』でデビュー、2017年にノーベル文学賞を受けた。当欄は受賞決定直後、その『遠い…』をとりあげている(2017年10月6日付「カズオ・イシグロ、余韻の作家」)。『日の…』は1989年刊。この邦訳は94年に中公文庫から出て、2001年にハヤカワepi文庫に収められた。

 

 本を開くと、プロローグの冒頭に「一九五六年七月/ダーリントン・ホールにて」(/は改行)という記載がある。時間軸で言えば、この小説の現在は第2次世界大戦が終わって10年ほどが過ぎ、世間が戦後の落ち着きを取り戻しはじめたころ、ということだ。ただ、主人公の老執事スティーブンスは折にふれては来し方に思いを馳せる。だから、作中では戦前、1920〜30年代の話が次々に活写される。その重層性が作品の魅力の一つだ。

 

 一方、空間軸の中心にあるのはダーリントン・ホール。ダーリントン卿の邸宅だったが、今は米国人ファラディの手に渡った。ただ、新しい当主の希望で雇人は居残ることになった――。この舞台設定が、前述の重層性を際立たせる。スティーブンスが、ダーリントン時代の邸内に充満していた英国貴族社会の空気を米国風の価値観が入り込んだ戦後の視点から眺め返すことで、旧体制の残像が陰翳を伴って浮かびあがるのだ。

 

 1956年夏、スティーブンスに息抜きの機会が巡って来る。ファラディが、自分が米国に里帰りしているあいだ愛車のフォードを貸すから「どこかへドライブでもしてきたら?」と言いだしたのだ。この気遣いも、合理的思考の産物とみれば米国流ではある。

 

 米国流は良いことばかりではない。邸の雇人は過去に28人もいたことがあるが、卿の親族が邸を売り払うときに大幅に減り、今は補充の新入りを加えても4人。だがファラディは、人をあまりふやさずにやりくりできないかと言う。この難題にスティーブンスは妙案を思いつく。かつて有能な「女中頭」だったミス・ケントンを呼び戻せないか。最近届いた手紙には「ダーリントン・ホールへの郷愁がにじみ」、脈がありそうだった。

 

 ミス・ケントンは、イングランド南西部のコーンウォール州にいる。スティーブンスが、ドライブついでにミス・ケントンに面談するつもりであることを仄めかすと、ファラディは「ガールフレンドに会いにいきたい?」と冷やかす。「決まり悪いことこの上ない瞬間でした。ダーリントン卿でしたら、絶対に雇人をこのような目にはお遭わせにならなかったでしょう」。この独白からも英国人が米国との対比で自国の流儀をどう見ていたかがわかる。

 

 実際、この小説には英国らしさが満載だ。フォードで通り抜ける沿道の様子はどうか。スティーブンスが1日目の旅程を終えて宿で思い返すのは、「丘の上で見たあのすばらしい光景、うねりながらどこまでもつづくイギリスの田園風景」だ。そこには「壮大な渓谷」「大瀑布」「峨々たる山脈」はない。だが、それらに望めない「品格がある」。そして彼は「偉大なるブリテン」の偉大さは「表面的なドラマやアクションのなさ」に宿ると断ずる。

 

 フォードがガス欠を起こして、スティーブンスが車の外へ出たときの描写にも英国らしさがある。夕暮れのなか、「私が立っておりましたのは、立ち木や生け垣で囲まれた急な上り坂の途中でした」。ここで懐かしいのは「生け垣」だ。英国では僕も幾度かドライブ旅行をしたが、走っていていつのまにか田舎道に迷い込むと、両側には生け垣が続いていることがあった。人の気配を感じさせる自然。これこそが英国の田園風景だ。

 

 このガス欠で、スティーブンスは一夜、農村の民家で部屋を借りることになる。そこに物見高い村人たちが集まってくる。なかには「政治談義」が好きな男もいるが、彼はどこか浮いている。翌朝、地元の医師がスティーブンスに解説してくれる。「あれも変えるべきだし、これも変えるべきだ」と議論を吹きかけられても、人々は「自分たちの静かな生活を乱さないでもらいたい」と思うばかりだ、と。ここにも米国流と異なる英国社会の風景がある。

 

 スティーブンスは、こうした戦後英国の描写に重ねるかたちで、戦前英国を執事として生き抜いた自身や彼の父――父も同業だった――の姿に思いをめぐらせていく。一貫しているのは、執事としての矜持。執事のあるべき姿に対する深い思い入れだ。

 

 たとえば、晩餐に用いる銀器を入念に磨くこと。邸に大物の政府要人が訪れ、駐英ドイツ大使と密談した夜のことだ。要人は当初、会談に気が進まない様子だったが、銀器を見て「すごいよ」「じつに見事だ」と声をあげる。ダーリントン卿によれば、それで「気分がすっかり変わった」らしい。話しあいは順調に進んだ。スティーブンスは「銀器の磨きぐあい」が会談に影響して、外交に「小さいながら無視できない貢献をした」と自負する。

 

 ダーリントン卿はナチスに宥和的だが、スティーブンスは諫めない。「執事の任務は、ご主人様によいサービスを提供すること」「自分の領分に属する事柄に全力を集中すること」という信念があるからだ。「卿の一生とそのお仕事が、今日、壮大な愚行としかみなされなくなったとしても、それを私の落ち度と呼ぶことは誰にもできますまい」。主人にとことん尽すが突き放してもいる。階級社会ならではの割り切りか。ここに強烈な自我がある。

 

 映画「日の名残り」では、名優二人の演技が織りなす心模様ばかりに目を奪われた。だが小説『日の名残り』では、英国の風土とそこに住む人々の気風が時代模様を背景に浮かびあがってくる。通算500回通過の節目に、これからも本を読み続けていこうと思う。

(執筆撮影・尾関章、通算500回、2019年11月29日公開、同日更新)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『考証要集――秘伝! NHK時代考証資料』(大森洋平著、文春文庫)

写真》電柱という時代のしるし

 今週は、デンチュウでござる。殿中はよいが電柱はダメ――時代考証の話である。

 

 時代考証とは、ある時代の物語をテレビドラマや映画、芝居にするとき、その時代にあってはならないモノやコトを排して適切な事物に置き換える作業を指す。たとえば、江戸時代には電力網がなかったのだから、電柱などあるはずもない。僕は子どものころからへそ曲がりで、時代劇の侍たちが田舎道でチャンバラを繰り広げていても視線の向く先は殺陣ではなく、背後の風景だった。電柱があったら見逃すまいと目を凝らしていたのだ。

 

 もう一つ気になったのは、メガネだ。小学生時代、大村崑の「とんま天狗」(日本テレビ系列)が鼻メガネをかけて画面に現れると違和感を覚えたものだ。子ども心に、メガネなどのガラス製品は江戸時代まで欧州伝来の秘蔵品でしかありえない、と思い込んでいた。

 

 ところが今回、「東京メガネ」という眼鏡店のウェブサイトで意外な史実を知った。江戸時代でも17世紀末になると京、大坂や江戸にメガネを売る店があったという。とんま天狗のメガネも理屈のうえでは「あってはならないモノ」ではないらしい。

 

 これらはみな、江戸が東京になる前の話だ。明治の近代化は、理系風に言えば「相転移」とも呼べる不連続変化を日本社会にもたらした。だから、明治よりも前の時代考証はさぞかし難しいことだろう。そこには海外事情から切り離され、科学技術がほとんどない世界がある。にもかかわらず、人々はそれなりに洗練されていたから、生活の細部には文化が宿っている。そのありようを再構築するには、残存資料を調べ尽くさなくてはならない。

 

 と、ここまで書いてきてふと思うのは、20世紀半ばに生まれた僕たちの世代も江戸期の人々と同様、後世になって考証に手を焼く時代を生きてきたのではないか、ということだ。幼いころにテレビはなかった。電話も一家に1台あるかないかで、市外通話は大贅沢だった。それが今は、スマートフォン一つでエンタメ映像も見られるし、海外の相手とも顔を見ながら談笑できる。この激変は、江戸末期と明治初期を分かつ不連続に似ている。

 

 きっと僕たちにも、22世紀を生きる人々のために現代の資料をしっかり残しておくことが求められているのだろう。幸い、今は多くの記録がある。新聞、雑誌、写真、映画……そして最近はデジタルデータも保存されるようになった。たぶん2119年の時代考証は今よりもずっと楽だろう。逆に言えば、現代の考証家はマスメディア、映像技術、IT(情報技術)の助けを借りずに過去を再構築していることになる。

 

 で、今週の1冊は『考証要集――秘伝! NHK時代考証資料』(大森洋平著、文春文庫)。著者は1959年生まれ、大学で西洋史を学んだ後、NHKに入った。局内では長く、時代考証を担当。大河ドラマなどをつぶさにチェックしてきた。この本の巻末には「NHK職員向け資料を底本とした、オリジナル文庫」とある。2013年刊。同じ文春文庫から続編ともいえる『考証要集2――蔵出し NHK時代考証資料』も出ている。

 

 著者は序文で、19世紀フランスの作家アレクサンドル・デュマの言葉を引く。歴史を「一本の釘」にたとえ、「私はそこに、私の小説を引っ掛けるのだ」と言ったという。著者によれば、時代考証とは「その釘をしっかり打ち込む作業」だ。なるほど、と思う。

 

 派手な仕事ではない。映画の宣伝などでは「○○の完全な再現に成功しました!」という惹句が躍りがちだが、「時代考証においてはるかに大事なのは『××を出さずに済みました……』という消極的成功」と、著者は言う。まさに、あってはならない事物の排除だ。

 

 では、さっそく本文に入ろう……と思ったら、本文らしい文章はない。この本では、考証すべきことがらが辞書形式で五十音順に並んでいる。したがって、ページを順にめくるという禁欲的な読書がなかなか難しい。本を手にとって、たまたま開けたページの記述に目をとめ、コレがそういうことならアレはどうなのかと興味を広げて別のページへすっ飛ぶ、というような拾い読みをついしてしまう。今回は、それを許してもらおう。

 

 こうやって、あちこちのページを漁っていてすぐに気づくのは、時代考証の対象はモノばかりではなく、結構、コトが多いということだ。なかでも、言葉の使い方がらみの話がたくさん出てくる。当欄は、そこに焦点を絞ろう。たとえば、「空気」は「幕末明治以降の科学用語」なので、時代劇では使えない。戦国時代ものの大河ドラマの台詞に「部屋の空気を入れ替えなさい」とあったときは「お部屋に風を入れなさい」に正したという。

 

 「青年」も、「明治時代の造語」「和製漢語」とされる。この説明では、著者の蘊蓄がフルに発揮される。この言葉は、東京YMCA初代会長の小崎弘道が1880(明治13)年に「ヤング・メン」の訳語として考案したという。著者は『日本YMCA史』(奈良常五郎著、日本YMCA同盟出版部)を参照して、「青年」は後に中国へ伝わり、中国語にとり込まれたことも書き添えている。ともあれ、「青年藩士」はNGなわけだ。

 

 「問題」も問題。この単語は17世紀初めの『日葡辞書』(日本語のポルトガル語訳を収録)に出てこないから、時代劇に使うのは黄信号だ。著者は、現代調を避けるための言い換えを例示する。「それが問題だ」なら「そこが難題じゃ」とするのも一案。「難題」は『日葡辞書』に載っているというからおもしろい。ちなみに「解決する」にも、時代劇用に「埒(らち)を明ける」などの代案が示されている。「問題解決」は一筋縄ではいかない。

 

 「〜です という語尾」という項目もある。参照文献として『話し言葉の日本史』(野村剛史著、吉川弘文館)を挙げ、「口語としての頻用は明治になってから。時代劇台詞ではあまり用いない方がよい」と助言する。ただ、「です」は近代の産物ではないらしい。狂言に「閻魔大王でっす!」という台詞が出てくるからだ。「ですます」の「です」は今では空気のような日常表現だが、明治期にどんな経緯でそうなったのだろうか。

 

 固有名詞の考証もある。一例は「細川ガラシャ」。著者は戦国ドラマに「私は細川ガラシャでございます」という台詞があるのを直させたという。「ガラシャ」は洗礼名なので、ふつうの自己紹介では本名「たま」のほうがよさそう、とは僕も思う。だが、それだけではない。「細川」もダメなのだ。「当時は女性が嫁ぎ先の姓を名乗ることはまずない」とある。時代考証を究めるには、現代の習わしをいったん忘れることが肝要らしい。

 

 その意味で、現代の価値観が詰め込まれた言葉は要注意だ。たとえば「自由」。この熟語は昔から存在したらしいが、「『フリーダム』の訳として口語で使われるようになるのは明治以降」のこと。時代劇では「勝手」「随意」「自在」などに置き換えたほうが「自然に聞こえる」と、著者は言う。ただ、これらの代替案では、気ままに、支障なく、といった意味合いは出せても、束縛に対置される「自由」の語感をもたせられないように僕は思う。

 

 苦笑したのは「不条理」。著者は「カミュじゃないから、時代劇では『非道』『理不尽』『没義道(もぎどう)』等とする」と指南するが、これだと『異邦人』(アルベール・カミュ著)の主人公ムルソーが、陽光のまぶしさや砂浜の焦熱のなかで囚われた感覚は表現しきれないだろう(当欄2018年8月10日付「異邦人ムルソーのママンとは何か」)。そもそも、近現代人の概念を中近世の人々の口から語らせることに無理があるのだ。

 

 「感動をありがとう・感動をもらった」と「勇気をもらった」も批判の的になる。著者によれば、それぞれ「九〇年代以降に出てきた言い方」「最近はやりだした表現」。無闇に使ってはならない。「感動」や「勇気」は「他人とやり取りするものではない」とも断ずる。

 

 痛快な小言幸兵衛ぶりだ。そんな著者に尋ねたいことがある。テレビドラマで気になるのは、昔の人に今の倫理を押しつけているように感じられることだ。野蛮な時代もあった。緩い時代もあった。その空気感をありのまま伝えることは放送倫理に反するのだろうか。

(執筆撮影・尾関章、通算499回、2019年11月22日公開)

 

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『ベルリン 分断された都市』

(ズザンネ・ブッデンベルク著、トーマス・ヘンゼラー著・画、エドガー・フランツ、深見麻奈訳、彩流社)

写真》

 うっかりしていた、というべきか。ドイツ・ベルリンの壁が崩壊して11月9日でちょうど30年となるのに先だって、当欄でもなにか書こうと考えていたのだが、いつのまにか忘れていた。それだけ遠い歴史的事象になってしまったということだろうか。

 

 だが、1週遅れでもこのテーマをとりあげよう。あの出来事は僕にとっても、物心ついてからこれまでで超断トツの大事件だった。人々が解放されるとはこういうことかと実感したのだ。僕たちの世代は1960年代末から70年代初めにかけて、解放は間近いかもしれないと思った。日本だけではない、欧米にも同様の空気があった。それは若気の至りの早とちりに過ぎなかったのだが、20年ほどして本当に解放の瞬間を目にしたのである。

 

 皮肉なのは、その出来事が社会主義体制からの解放だったことだ。1960年代末に巻き起こった若者たちの反抗は、日本の学生運動であれ、フランスのパリ五月革命であれ、社会主義を標榜する党派がかかわっていた。チェコスロバキア(当時)の「プラハの春」のように社会主義体制に対する異議申し立てもあるにはあったが、まだ世界の潮流ではなかった。ところが89年、東ドイツや東欧諸国で高まったのは、そのプラハ型のうねりだった。

 

 この構図から見てとれるのは、人々を旧体制から解放するはずの社会主義が、いつのまにか旧体制と見紛うほどの圧政を生みだしていた、という逆説だ。ただ、一つ言えるのは、僕たちは――少なくとも僕は――その捻じれに対してなんの違和感も覚えなかったことだ。それはそうだろう。1970年前後に世界の若者の多くが求めていたのは、社会主義体制ではなかった。むしろ、いかなる体制からも解放されることを渇望していたのだ。

 

 その意味では、1970年前後に解放を望んだ世代はベルリンの壁崩壊で半分しか目的を達成していない。あの出来事は、冷戦で二分された世界の東側体制の瓦解を象徴している。僕たちから見ると、壁の向こう側の解放である。では壁のこちら、西側はどうか。市場万能論で自由を謳歌しているかのように思えるが、それは経済活動の解放に過ぎない。人々はIT(情報技術)によって強化された管理社会体制にがんじがらめになっている。

 

 そう思うと、僕たちはベルリンの壁崩壊を他人事と受けとめてはならない。その壁が立ちはだかっていたころ、東ベルリンの市民はどんな暮らしをしていたのか、どのように自由を求め、そして解放されたのか。そこからは学ぶべきことが多いはずだ。

 

 ということで、今週は『ベルリン 分断された都市』(ズザンネ・ブッデンベルク著、トーマス・ヘンゼラー著・画、エドガー・フランツ、深見麻奈訳、彩流社)。著者二人は、映像  作品やイラスト、漫画の制作者。訳者の一人、フランツ執筆のあとがきによると、この本は、二人が「東ドイツ時代の出来事を当事者に取材し、5人の実話を時代を追って描いたもの」という。原著は2012年にベルリンで出版された。邦訳は翌13年刊。

 

 ベルリンの壁は1961年8月、東ドイツが「ベルリンの東西境界を閉鎖する」と決定したことで築かれた。ドイツは第2次大戦後、戦勝国の米英仏とソ連(当時)が分割して占領したが、49年、米英仏の占領域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、ソ連の占領域はドイツ民主共和国(東ドイツ)になった。ベルリンはそれ自体が分割占領されていたので、二つの国に分断されることになる。その都市内国境を顕在化させたのが壁だった。

 

 この本の第1話は、その1961年の出来事。高校の最終学年だったレギーナ・ツィーヴィツの体験談だ。彼女は東ベルリンに住んでいたが、国境を越えて西ベルリンに通学していた。父は教会牧師。「労働者と農民の国」では「階級敵対者」とされたので、娘も東側の高校に進学できなかったのだ。西の授業は東とは違った。東では生徒に「体制側の意見の復唱」を求めたが、西では「個人としての意見」を言うように促されたという。

 

 レギーナは、西ベルリンにある大学への入学も決まり、あとは卒業試験の口頭試問を待つばかり。その夏に東西境界閉鎖の知らせが届く。前途真っ暗とは、こういうことを言うのだろう。このままでは学校にも行けない、大学にも進めない。そこで、高校の教師や友だちが助け舟を出す。彼女と同じように髪が短い級友の身分証明書が自宅に届けられたのだ。級友は西ベルリン在住。その友人になりすませば検問を通過できる――。

 

 スリリングな作戦の詳細はここに書かない。ただ、この話で何が印象深いかは記しておこう。それは、自由を手にしている人々が自由を奪われそうな隣人に対して救いの手を差し延べるときの手法だ。そこには、柔軟な思考がある。こういうときならば他人の身分証明書を用いるという違法行為もいとわない。法よりも良心を優先させた、ということだろう。この行動様式は、僕自身の取材経験でも欧米の国際NGO(非政府組織)に特徴的なものだ。

 

 第2話は、西ベルリン側にあって壁に面する病院で働いていたウルズラ・マルヒョーの見聞記。自身は食事の配膳係、夫は看護師、住まいも病院のすぐそばにある。「通りの向こう側には東ベルリンとの境界線があります。その先は別の国、つまりドイツ民主共和国(東ドイツ)です」。そこでウルズラが目撃した光景が文章と漫画で再現されているが、ここでは漫画の視覚効果が圧倒的な威力を発揮する。この本は、漫画形式で正解だったのだ。

 

 たとえば、境界となった東側の建物で「西側へと通じるすべての出口は段階的に封鎖されていきます」とあるくだり。「封鎖」とはどんなことかと思って漫画に目を凝らすと、二階の窓を煉瓦で封じる作業が進行中だ。別の絵では、未封鎖の窓から荷物が投げ落とされている。この場に居合わせたウルズラは「脱出しようとする人に気づいても、国境守備兵に気づかれないように、なるべく平静を装うようにしています」と独白する。

 

 この一節では、このほかにもいくつかの場面が描かれている。逃げようとして屋根にへばりついている人、窓からシーツを結びあわせたものを垂らして降りようとする人……。驚かされるのは、階上の窓からぶら下がった人の腕を東側の国境守備兵がつかまえて引きあげ、その足を西側の市民がつかんで引きおろそう、としている絵だ。冷戦時代、東側と西側が接する最前線では、人間が綱引きの綱のようになる状況が見られたのである。

 

 この本には、各話の末尾に記事欄があって、ベルリンの壁にかかわるデータが盛り込まれている。それによると、壁の分断があった28年間に「少なくとも136人が国境で命を落とした」。射殺による死ばかりではない。事故死もあった。自殺に追い込まれた人もいる。忘れてならないのは、30人は脱出を企てた人ではないことだ。巻き添えになり、誤射など不測の事態で落命したという。まさに、大都市のど真ん中に戦場があったのだ。

 

 この本でもっとも劇的なのは第3話だ。東ドイツの学者兼官僚だったハインツ・ホルツアプフェルは1965年、妻と息子の3人で東ベルリンから脱け出ようとする。その起点は、なんと「合同本庁舎」。東ドイツの建国宣言がなされた場所だ。彼は夕刻、この建物のトイレに「使用中止」の貼り紙をして中に家族とともに籠り、決行のときをうかがう。そしてサーカスのように自由の地に降り立つのだが、その詳述も控えておこう。

 

 第4話では1980年代、東ドイツの青年が西側のテレビ放送を見たり、東側の高層ビルから西側の写真を撮ったり、西側の広場で開かれたロックコンサートを壁の東側で聴いたりする。そして第5話では、壁の崩壊が18歳の若者の目を通して活写される。その夜、国境の通過地点には東側市民が押しかけていたが、遮断機は下りたまま。だが、守備兵に上層部から届く命令は混乱している。そして現場判断で、ついに門が開かれたのだ。

 

 ベルリンでは、西側地域こそが本国から切り離されて陸の孤島だった。ところが、東側地域のほうが孤立していたように見える。これは、ベルリンの壁が教えるもう一つの逆説だ。体制に縛りつけられ、ひと色に染まる社会が、どれほど罪深いものかがよくわかる。

(執筆撮影・尾関章、通算498回、2019年11月15日公開、同月20日更新) 

 

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『国境の女』(夏樹静子著、徳間文庫)

写真》現場は月見橋

 いい湯だな、というのは歌の題名だ。永六輔作詞、いずみたく作曲。デューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズの一つとして1966年に発表された。群馬県、すなわち上州の温泉を愛でた歌。四番まであって草津、伊香保、万座、水上の地名が出てくる。だが、彼の地の温泉郷はそれだけではない。関東平野が尽きて、上越の山々が屏風のように聳えるあたりには、山あいにまだまだ湯煙の里がある。四万温泉も、その一つだ。

 

 四万と書いて「しま」と読む。どことなく謎めいているではないか。たしか、2時間ミステリー(2H)の舞台になったこともあったはずだ。秘湯の趣があって、旅情をそそられた記憶がある。ということで今週は、その四万温泉へ1泊2日の旅に出た。

 

 四万温泉は、妙義山や榛名山などよりもずっと奥、三国山脈の水を集めた四万川沿いにある。今回、僕は東京から新幹線で高崎まで行き、そこで上越線経由吾妻線の在来線列車に乗り換えて中之条で降りた。宿のある谷あいまでは駅前からバスで約40分の道のりだが、途中下車して渓谷沿いを歩いた。沿道に温泉宿が一つ、二つと現れるあたりから、川沿いの山腹は紅葉の度合いを強め、月見橋という朱塗りの橋を渡って温泉中心街に着いた。

 

 四万の名は、いったいどこから来たのか。ネットで四万温泉協会の公式ウェブサイトに入ってみると、「四万の湯が『四万(よんまん)』の病を癒す霊泉』であるとする伝説に由来」とある。なぜ、一万でもなく五万でもなく四万なのか、と突っ込みたくもなるが、それは無粋だ。患者のDNAまで調べあげて、その人に適した治療をしようという分析の医学とは真逆のよろずや流の癒し。ここでは、その大らかさをうらやましく思おうではないか。

 

 とにもかくにも、四万温泉は湯治場だったのだ。一帯には、その湯治を求めて逗留する人々のために湯宿が開かれた。上記サイトによれば、江戸期半ばの宝暦年間には2地区に計17軒あったとする文献がある。今回は、その伝統を受け継ぐ老舗の一つに泊まった。

 

 その宿の当主は、泊り客を集めて四万温泉史を語ってくれた。そこで強調されたのは、病を患う人々向けの療養の場が近代になって観光地に様変わりした湯の町事情だ。団体客がどっと来て湯量が不足する。話を聞いて、源泉の湯を守ることの大変さを知った。

 

 で今週は、四万にも観光の波が押し寄せたころの様子をうかがわせるミステリー長編小説。『国境の女』(夏樹静子著、徳間文庫)だ。著者は1938年生まれの本格推理作家。2016年に死去した。この作品は1982年、『夏樹静子作品集』(講談社)の月報に連載されたものだ。翌年、講談社は作品集の予約購読者に対する贈呈品として単行本化。その後、講談社ノベルス、講談社文庫に収められたが、2001年、徳間文庫の1冊になった。

 

 さて、僕はこの作品を「四万温泉」×「夏樹静子」のネット検索で見つけだした。作品紹介の記述からすると、「国境」とは米国・メキシコの境界線を指しているらしい。いったい、それが上州とどうつながるのか。たぶん、『国境の女』という小説に四万温泉が出てくるとなれば、上州越後の国境(くにざかい)や、それを貫くトンネルのことを思い浮かべる人が多いだろう。だが、この作品世界は川端康成『雪国』のそれとは大きく異なる。

 

 ひとことで言えば、この作品は1980年代前後の世相をくっきりと描きあげている。あのころ、日本社会は妙に明るかった。高度成長で蓄えた力は、石油ショックくらいではへたらなかった。ちょうどバブル経済に入ろうかというころだ。国際化が進み、ニューファミリーの生活様式が広まっていたが、一方で終身雇用も年功序列も盤石だった。若い世代――それは現60超の世代ということになるのだが――は、前途に安定があると信じていた。

 

 冒頭、東京の風景描写にも、それが映しだされている。場所は麹町。「テレビ局の角を廻っていくと」とあるから、日本テレビの本社が移転するよりも前だろう。「昔ながらの酒屋やテーラー、アンティークの店など並び、それなりにまた東京らしい、しっとりとした風情のある通りだった」。ここには、旧世代になじみの商店と新世代が好む専門店が混在している。ただ、コンビニなどフランチャイズ形式の商いはまだ広まっていない。

 

 主人公、明月(あきづき)奈緒子の生活にも当時の世相は表れている。現在、27歳前後。女子大を出て家事手伝いをしていたが、見合いで商社員と結ばれた。すでに二人の子がいる。夫の達夫は米国西海岸のサンディエゴ在勤。達夫の父母を世話するため、自分は日本に残った――。女性が就職せずに家にいて、見合い結婚して舅姑と同居するというのは昔風だが、夫が海外に単身赴任というのは今日的。ここにも新旧の混在がある。

 

 ちなみに麹町には、奈緒子の女子大時代以来の親友、総子が女将をしている小料理屋がある。奈緒子は「外で酒を飲む機会などめったにない主婦なのだが、ふた月か三月に一度くらいここへ寄って、季節の料理とお喋りを楽しむことが、何よりの息抜きだった」。これは、1980年代前後の日本社会に典型的な女性像だ。旧来の道徳観に縛られているが、その枠に収まりきらない。すでに自由の心地よさを知っている世代だからだろう。

 

 そんな生活がある日、暗転する。米国からの電話で達夫の死を知らされたのだ。奈緒子がサンディエゴに着くと、達夫は動物園内で刺殺されたことを告げられる。こうしてミステリーの幕が切って落とされたのだが、例によって筋書きには立ち入らない。

 

 一つだけ明かしておかなければならないのは、奈緒子には結婚前に心を寄せる人がいたことだ。総子の兄、小磯良司。バツイチの商社員で、偶然にも達夫の先輩だった。達夫は見合いの後、結婚を迫っていたが、奈緒子は逆に良司への思いを募らせる。心の内を伝えようと決意したが、不運が重なって機会を逸する。その直後、良司は旅先で不審死を遂げた。川に落ちて心臓麻痺を起こしたのだという――その場所が四万温泉だった。

 

 その旅というのは、社内旅行だった。師走の土曜日、営業部の約30人が1泊2日で同じ宿をとり、忘年会を開いたのだ。宴会場の広間には「酔って芸者とふざけたり」する者がいた。「十時頃にはあちこちで麻雀も始まった」。職場の仲間が大挙して泊りがけで温泉地へ繰りだし、「芸者」をあげる、「麻雀」に興じる。これは、高度成長期のサラリーマン社会ならでは気晴らしだった。その行動様式が1980年前後にもまだ残っていたのである。

 

 今は、こんな慣習もほとんど消えうせた。まず、宴会に「芸者」は考えにくい。男女混合の会席で、接待役の性別が非対称というのが当世風ではない。麻雀も、もし賭けを伴うものならコンプライアンスに反する。そしてなによりも、集団行動に難色を示す若者が多い。

 

 奈緒子はそんな旧世代の行動様式の残滓を知らぬげに、良司の死を聞いて総子とともに四万温泉にかけつける。川沿いはすでに冬景色。「水の流れのほかは、すべてが雪に被われ、ところどころで湯煙がほのかに漂っている」。高台の宿に入って、二階から窓外を眺めると「道路の両側には、旅館が建ち並び」「暗い緑の樹層に被われた山腹に、無数の雪片がしんしんと降りしきる風景は、心の芯までしみわたるように寂しさをたたえていた」。

 

 奈緒子が現地で達夫から聞かされた説明は次の通りだ。良司は月見橋直下の河原で見つかった。「みんなに尋ねたところ、昨夜十時半頃まで、小磯課長は確かに広間におられた。ところが、その後は誰も彼を見てないというわけです」。その夜は雪が降っていた。四万温泉は国民保養温泉地の指定を受けていて、歓楽街もない。それなのになぜ、良司は山あいの暗がりを歩いていたのか。その謎は、5年後の達夫自身の死にもつながっていく……。

 

 この小説を読んでいて、いやでも目につくのは、1980年前後の日本の企業社会では当然視されていた男の身勝手さだ。夏樹静子は、それが海外の進出先にも及んでいることをさらりと描いた。上州温泉郷と米国西海岸の取り合わせが、そこでは絶妙の仕掛けになっている。一つ言い添えたいのは、奈緒子が男社会に振り回されながらも被害者意識に囚われず、冷静であることだろう。あの時代、男女のありようは確かに変わったのだ。

(執筆撮影・尾関章、通算497回、2019年11月8日公開)

 

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『原子核の世界(第二版)』(菊池正士著、岩波新書)

写真》土台(本の背表紙は薄紙越し)

 「核」という言葉は、いつから嫌われ者になったのだろうか。

 

 「核廃絶」「核なき世界」は世の大勢が望んでいると言ってよい。「反核」を掲げる運動に共感する人も多い。このときの「核」とは何か。狭義には「核兵器」の省略形だが、広義では原子力利用全般を指す。最近では後者が強まっているように思う。

 

 僕たちは子どものころ、「放射能の雨」にさらされた。1954年、米国の水爆実験がまき散らした核分裂生成物を日本の漁船乗組員が浴びて、一人が亡くなる。第五福竜丸事件である。日本人は広島、長崎の被「爆」で原子爆弾の凶悪さをまざまざと見せつけられていたが、今度は核分裂生成物が放つ放射線に被「曝」して核の怖さを実感したのだ。小学校では、雨の日には必ず傘をさし、濡れたときは髪をよく洗うように先生から言われた。

 

 たぶん、こうして「核」が核兵器を意味するようになったのだろう。では、「核」=原子力平和利用の使われ方はどうか。これは、決して反原発運動に特有の用法ではない。推進側も「核燃料サイクル」などと言ってきたからだ。ところが1979年に米国スリーマイル島原発事故、86年に旧ソ連チェルノブイリ原発事故が起こる。そのころから、環境保護派のNo Nukes(「核は要らない」)というスローガンが目立ってきたように思う。

 

 「核」にはもともと、ものごとの中心や軸といった語義がある。だから、「事件の核心」「核家族」のように幅広く使われる。その一つとして、原子の真ん中にある塊を「原子核」と呼ぶようになった。だから、物理学者が「核」と言うとき、それが原子核を指すのはよくわかる。ところが今では、遍く世間の人々が「核」と耳にしただけで人類が原子核からとり出す莫大なエネルギー現象を思い浮かべるようになってしまった。

 

 どちらにしても今、「核」のイメージには怖さがつきまとう。ただ強調しておきたいのは、原爆投下も原発災害もすべて人間の営為の結果としてあった、ということだ。人間が手を出さなくとも原子核はそこにある。このことは心にとめておいたほうがよい。

 

 ここからは理科の話になる。20世紀に入って、物質が原子から成り立っていることが確実視されるようになっても、それがどんなつくりになっているかははっきりしなかった。1911年、原子が実は原子核とその周りにある電子からできていることがわかる。当初、原子核の主成分は陽子と呼ばれる電荷プラスの粒子と思われたが、32年、電荷ゼロの中性子も混ざっていることが突きとめられる。原子核は、陽子と中性子の塊だった。

 

 ここで押さえておくべきは、僕たちの物質世界が、その原子核を土台としていることだ。自然界には原子核の崩壊という現象があるが、それを起こす放射性物質は僕たちの身の回りにそんなに多くはない。この本も、テーブルも、パソコンも、コーヒーマグも、小分けにしていけばすべて原子核に行き着く。しかし、それらはほとんど崩壊しない。ここに安定があるのだ。僕たちの世界の安定は、土台をなす原子核の安定に拠っている。

 

 だとしたら、その核の安定について僕たちはもっとよく知っておく必要がある。で、今週は『原子核の世界(第二版)』(菊池正士著、岩波新書)。著者(1902〜1974)は、日本を代表する実験物理学者。電子線回折という結晶解析法の研究で知られるが、原子核物理の実験にも打ち込んだ。大阪帝国大学教授時代の1934年、講師だった理論物理学者湯川秀樹がノーベル賞に結実する中間子論の着想を得たとき、それを見守った指導者だ。

 

 この本は、1973年刊。初版は57年に出たが、原子核研究をめぐる状況の変化――素粒子物理学の進展、他分野への影響――を反映させるべく改版された。著者が亡くなる前年のことである。僕には若いころに読んだ記憶があるのだが、それが57年版だったか73年版だったか思いだせない。今回は古書店の書棚で見つけて思わず引っぱりだした。当時の岩波新書を覆っていた薄紙までそのままだ。懐かしさが込みあげてきた。

 

 この本では、物質の最小単位探しが陽子や中性子、電子などを扱う素粒子物理学の領域に及んでいることを概説した後、本題である原子核の話に入る。そこでとりあげられるのが、原子核をかたちづくる陽子や中性子がどんなしくみで結びついているかという難題だ。

 

 「真空中に離れて浮んでいる二物体間にはたらく力で、われわれが今まで知っているのは重力による力か、電気あるいは磁気的な力である」。厳密に言えば、「今まで」は「1930年ごろまで」だろう。当時、物理の力はどれも重力か電磁力に帰せられると考えられていた。ところが、重力は陽子や中性子の間では「非常に小さく、原子核の結合力にはなりえない」。電磁力は「中性子のような電気をもたぬ粒子に作用することはできない」。

 

 そこで著者は、原子核内の陽子や中性子――これを核子という――の間に働いて、それらを束ねる力が「従来知られていたものとは全く別種のものであることは疑う余地がない」と結論づける。これが核力だ。「核力は核子と核子の距離が非常に接近したときだけ作用する」。その近さは10兆分の1センチほどだという。既知の重力や電磁力も距離の逆二乗で弱まるが、遠方への作用を無視はできない。ここが大きく違うところだ。

 

 この人類未知の力を提案したのが、湯川中間子論だ。著者も序章で、湯川が「陽子や中性子の間の力の作用の問題を研究するのには、それだけを考えていては不十分で、まだまだよく知られていない他の粒子があるはず」とみて「今日中間子と呼ばれているもの」の存在を予言したことに触れている。原子核という物質世界の土台は、重力や電磁力ではなく、未知の粒子を媒介とする未知の力によって固められていることに気づいたのである。

 

 この本を読んでいくと、僕たち人類が生きる環境で、その物質の土台がとてつもなく安定している理由がわかってくる。読みどころは、第江蓮峺胸匈砲髪宙」だ。この地球で見つかる天然の放射性物質は、幾種類かの放射性核種が核崩壊を繰り返す過程で生まれている。大もとの核種は、たとえばウラン238、ウラン235、トリウム232。寿命の目安となる半減期は、それぞれ45億年、7.1億年、140億年だ(本書第25図から)。

 

 このことから著者は、さまざまなことを読みとる。まず、地球の年齢は「大ざっぱにいって数十億年を越えない」と推理する。もし数十億歳よりも年寄りならば、半減期7億年余のウラン235など消えてしまっているだろう。ここには、地球の「地殻」は「新しく元素の転換などは起りえないような状態」にあるとの前提がある。地球上の「核崩壊」は、大昔に撒かれたタネを起点として今も細々と続いているということだ。

 

 次に続く文章が見落とせない。「数十億年まえには、どういう状態であったかはわからないが、いま地球を形づくっている物質も原子核反応が盛んに起って、新しく放射性原子がどんどんつくり出されるような場所におかれていたことも明らかである」。そのころは、やがて地球という塊になる物質がまだ「太陽系全体」か「宇宙全体」のどこかにあり、原子核反応を頻発させていたということらしい。そこにあるのは不安定な宇宙像である。

 

 裏を返せば、地球は例外ということだろう。天然の核反応は、太陽を例に挙げるまでもなく宇宙の星々でふつうに起こっているが、地球では大昔の名残があるだけだ。ただ、このことでは今年のノーベル物理学賞で注目を浴びている太陽系外惑星のことが気になる。地球のように生命が持続可能な天体があるとしたら、そこにもまた地球と同様の安定があるのではないか。(当欄2019年10月11日付「ノーベル賞がETを視野に入れた日」)

 

 この本では、原子力の「平和利用」も語られる。著者は放射能について「人体に及ぼす影響は遺伝的影響を含めてその限度が十分にわかっているから、管理が正しく行なわれれば少しも問題はない」と書く。そこにあるのは、戦後しばらく科学界で優勢だった推進論だ。だが著者の没後、人類は米国、旧ソ連、日本で原発の大事故を体験して「核」の技術が地球の安定に背くものであることを痛感した。たとえ、それが「平和利用」であったとしても。

(執筆撮影・尾関章、通算496回、2019年11月1日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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『64(ロクヨン)』(横山秀夫著、文春文庫、上下巻)

写真》記者の筆記用具

 最近は、毎夜のごとく2時間ミステリー(2H)を観る。今や民放キー局は新作2Hのレギュラー枠を店じまいしたから、BS、CS局が再放映する年代ものを録画保存しておいて再生するのだ。騒々しいバラエティー番組よりは、よっぽどおもしろい。

 

 事件の110番通報があり、刑事たちが食べかけのラーメンをほったらかして外へ飛びだす。パトカーが赤灯を回して走り、規制線の張られた現場に駆けつける。そんな場面を見せつけられると、血が騒ぐ。たぶん、新聞記者として警察署に出入りしていた経験が僕自身にあるからだ。それは記者生活36年のうち、最初の数年に限られる。なのに今、その警察回りの日々ばかりがしきりに思いだされる。どうしてだろうか。

 

 ふと気づくのは、僕が記者としての行動様式を警察回りの取材で刷り込まれたということだ。その最たるものは、「抜いた」「抜かれた」の感覚。「抜く」とは他社に先んじて報じること、「抜かれる」とは他社に先を越されること。新聞やテレビの記者は「抜かれる」ことの恐怖に脅え、「抜く」ことのために寝食を忘れて働く。これは、メーカーの社員が新製品の発売や特許の取得を競いあうのと似ているようで非なるものだ。

 

 どこが違うかと言えば、「抜いた」「抜かれた」にはカネが絡まないことだろう。記者が特ダネを書いても、新聞社はもうからない。大特ダネが載った日に駅売りの新聞がよく売れる、というくらいのことはあるだろう。ただ、それは宅配の部数増に直結しない。特ダネに対する昇給は査定次第だが、あったとしても微々たるものだ。新聞報道が暴走したとき、その無定見を「売らんかな」の精神に帰する批判も耳にするが、これは見当外れのように思う。

 

 ではなぜ、記者は「抜かれる」ことを恐れ、「抜く」ことに血まなこになるのか。正直言って、僕にも理由はわからない。ただ、「抜いた」ときは競争相手があわてふためくさまを見て胸がすく。「抜かれた」ときには、その逆の立場に追い込まれる。この世にはカネに絡まない競争に熱中する人々もいる、僕たちはそういう職業集団の一員になったのだ――そんな意識を徹底的にたたき込まれたのが、かけだしの警察回り時代ではなかったか。

 

 僕たち新聞記者は20代半ば、同級生たちが企業社会に入って市場原理で叱咤されるのを横目で見ながら、それとはまったく別の行動原理で動く世界のど真ん中にほうり込まれたことになる。2Hに惹かれる理由の一つは、それに対する懐旧だろう。

 

 で、今週は『64(ロクヨン)』(横山秀夫著、文春文庫、上下巻)。文藝春秋社が2012年に単行本を刊行、15年に文庫化した。著者は、新聞記者出身の推理作家。『陰の季節』や『クライマーズ・ハイ』などで、警察や新聞社という組織内部の人間群像を活写した。小説家としての姿勢は、朝日新聞群馬県版のインタビュー記事(朝日新聞デジタルにも掲載)に詳しい(当欄2019年1月18日付「横山秀夫が小説の岸辺に立った理由」)。

 

 本題に入る前に、思わせぶりな題名に触れておこう。上巻カバーの作品紹介にも種明かしがあるから、ネタばらしにはなるまい。そこには「〈昭和64年〉に起きたD県警史上最悪の翔子ちゃん誘拐殺人事件」という記述がある。誘拐当日は、西暦1989年が改元によって平成元年となる直前の昭和64年初め。それで、この事件を県警内では「ロクヨン」の符丁で呼ぶようになった。この小説の主舞台は、それから14年が過ぎたD県警だ。

 

 主人公は県警本部広報官の三上義信。捜査一課、二課での刑事生活が長かったが、今の役職は警務部秘書課に属する。日々、記者クラブとの軋轢、警察部局間の反目などに直面して悪戦苦闘している。しかも、家庭でも娘の失踪という心配事を抱えていて、心痛に押しつぶされそうな妻をいたわりながら職務をこなしている。この作品の筋書きは、三上の職業人としての思惑が家庭人としての心情と絡みあって、思わぬ展開を見せていく。

 

 小説の読みどころは、県警内で角突き合わす刑事部、警務部の心理戦にある。そこに、警察庁が中央官庁として地方の警察行政支配を強めようとする動きと、それに対する県警側の反発という組織戦が重なる。さらに厄介なのは、県警には伏せておきたい過去の不祥事という重荷があることだ。三上は刑事魂をもちつづけながらも警務部の一員として振る舞い、やがては「広報」の職責にも惹かれていく――だが、この顛末を当欄は追いかけない。

 

 ここでは話を記者の生態に絞ろう。冒頭からまもなく、記者クラブ員の一群が広報室に押しかけてくる。幹事社東洋新聞記者の手には、交通人身事故の発表文がある。県警は加害者の実名を明かさず、匿名表記になっていた。妊娠中だから、というのが理由だ。記者たちは「三十二歳の主婦A子さん。これじゃあ実在する人物かどうかもわからない」と突きあげるが、三上も「実在する生身の人間だから母胎への影響を考慮したんだ」と譲らない。

 

 実名匿名問題は、昔から警察と記者の間の火種だった。この小説の作品世界は個人情報保護法が成立した2003年ごろなので警察発表にも匿名化の機運があったように思うが、それでも記者は実名公表を求める。報道で名を伏せるかどうかは、メディアが当事者の人権や事件の公共性を勘案して自主判断する。発表内容が事実であることの保証はメディアが検証可能な状態に置かれることにあるので、そのためには実名が必要――という論理だ。

 

 もっともな理屈だ。これなら、記者クラブは一枚岩で固まりそうな気がする。だがそれは、所詮「抜いた」「抜かれた」でうごめく集団なのだ。三上は、この弱点を見逃さない。クラブが本部長に抗議文を突きつけようとすると、その動きを封じる工作に乗りだす。

 

 東洋新聞の支局デスク(次長)を昼食に誘いだして、それとなく談合事件の内密情報を明かしたのだ。これを聞いたときのデスクの表情はこうだった。「顔の幾つかの筋肉が張り、幾つかのそれが緩んだ。新人もベテランもない。特ダネを手にした瞬間の記者の顔は皆同じだ」。この細密描写は、同様のシメシメ感を体験したことがある新聞記者出身の作家ならではのものだろう。だが工作は、与えるだけで得るものがないまま終わった。

 

 別の箇所では、特ダネをものにした記者が三上の目にどう映るかも描いている。「抜いた翌朝は誰もが『事後の顔』だ。気怠(けだる)さと満足感の入り交じったその表情を見るにつけ、記者にとっての特ダネは、他のどの欲よりも性欲に近いのではないかと思ったりもする」。記者経験者として、あまり受け入れたくない記述だ。だが、君たちは本能で競いあっていたではないかと聞かれたら、うなずかざるを得ない一面もある。

 

 ただ、記者の生態も変化しているらしい。それは、三上の部下で広報業務に専心する中堅室員の仕事ぶりからもうかがえる。彼は「将棋、囲碁、麻雀、遊びは何でもとことん付き合って」「頻繁に記者と飲み歩き」……という昔ながらの記者懐柔法をとりながら、「都内の大学を出ているから東京の話もゼミの話もできる」「年齢的にも若い記者たちの兄貴分として振る舞える」という強みを生かそうとしている。戦略を「更新」しているのだ。

 

 それでも追いつくのは難しい。最近の若手記者は「奇妙なぐらい生真面目で潔癖」「酒の付き合いを好まず、飲んでも乱れない」「現に自分が在籍し、様々な恩恵を享受していながら、記者クラブ制度が警察と記者の癒着の温床なのだと真顔で論じる者もいる」……。

 

 そもそも理詰めで考えれば、同業者集団として排他的にまとまりながら、閉鎖的に競いあう記者クラブの正当性は破綻しているのだ。今は新聞記者のありようを問い直す好機なのかもしれない。(当欄2014年5月2日「ジャジャジャジャーンの事件記者」参照)

 

 さらに言えば、記者は「抜いた」「抜かれた」の呪縛から脱すればよいと僕は思う。速報ではソーシャルメディアに負けたりもするのだ。それよりは、強者に対峙して連帯することのほうが大切だ。『ペンタゴン・ペーパーズ』(キャサリン・グラハム著、小野善邦訳、CCCメディアハウス、副題は省く)で、ホワイトハウスに取材拒否された記者を他社の仲間たちが助けたように(当欄2018年5月11日「ケイとベンに教わるメディアの連帯」)。

(執筆撮影・尾関章、通算495回、2019年10月25日公開)

 

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ノーベル平和賞発表資料(ノルウェー・ノーベル委員会)

写真》北東アフリカ(紙面は朝日新聞2019年10月12日朝刊)

 先週に続いて、今回もノーベル賞の発表資料をとりあげる。エチオピア首相のアビー・アハメド・アリ氏に贈られることになった平和賞だ。賞の公式ウェブサイトに載った文書は理系3賞とは違って、短い発表文が1本だけ。だが、行間から読みとれることはある。

 

 発表文の中身に入るまえに、ノーベル平和賞について、ちょっと補足説明をしておこう。理系3賞や文学賞、経済学賞はどれもスウェーデンの学術機関が授与するが、平和賞だけはノルウェーのノーベル委員会から授けられる。だから、発表場所もオスロ、授賞式があるのもオスロだ。委員会は、ノルウェー議会が指名する5人の委員から成る。だから、そこには有権者の思いがいかばかりか反映されているとみてよいだろう。

 

 ここで少しだけ、僕の平和賞取材体験に触れよう。ロンドンに駐在していた1994年のことだ。大江健三郎氏が文学賞を受けた年である。僕はストックホルムでまず理系3賞の発表を見届け、文学賞の日も現地に居残り、最後はオスロへ足を延ばしたのだ。

 

 この年の平和賞は、イスラエルのイツハク・ラビン首相、シモン・ペレス外相とパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長の共同受賞に決まった(肩書はいずれも当時)。パレスチナの暫定自治に道筋をつけたというのが理由だ。だがここで、ひと悶着があった。ノーベル委員会委員の一人が親イスラエル派の元国会議員で、アラファト議長は「テロリストだった」として選考結果に不満を露わにし、委員辞任を申し出たのである。

 

 僕はこのとき、オスロで平和賞の第1報を送った後、この元議員の記者会見に駆けつけた。彼が自らの政治信条を主張して一歩も譲らない姿を見ながら、ノーベル平和賞は政治だな、と思ったものだ。賞の裏側に権力闘争があるとか、利権がドロドロと渦巻いているとか、そういうことではない。そうではなくて、平和賞にはノルウェーの政治家たちが世界に向けて訴えたいと考えるメッセージが込められている、と思ったのだ。

 

 ではまず、今年の受賞者アビー氏の横顔から。発表文には略歴がないので、英国BBCのウェブサイトの記事(2019年10月11日付)を参考にする。1976年、イスラム教徒の父とキリスト教徒の母の間に生まれ、90年代、当時の社会主義政権に対する武装闘争に参加、ルワンダで国連の平和維持活動にも加わった。平和・安全保障の研究で博士号を取得、英国への留学経験もある。2010年に政界入り、18年4月に首相となった。

 

 発表文によると、今回の授賞は「平和と国際協力の実現に向けた努力、とりわけ隣国エリトリアとの国境紛争の解決に決断力をもって乗りだしたこと」に対してだ。アビー氏はエリトリアのイサイアス・アフェウェルキ大統領と力を合わせ、両国間の「戦争でも平和でもない」膠着状態に終止符を打つ和平合意の原則を取り決めて、両首脳が調印する宣言に盛り込んだ。これに先立って、仲裁役の国際委員会が提示した国境線を受け入れていた。

 

 これらは、首相就任後わずか数カ月間の出来事だ。冷戦後、局地紛争が後を絶たない世界情勢を思うと、隣国との対立関係解消にこれだけ機敏に動いた立役者は平和賞にぴったりということだろう。だが今回の授賞には、もう一つ、意味があるように思えてならない。

 

 それは、あえて現役の政治家を選んだということだ。ノーベル平和賞の受賞者は、ひと通りではない。すぐに思いあたるのは反戦や人権擁護の活動家だが、ときに現職バリバリの政治家も受賞する。ただこの場合、後に落胆が控えていることがある。記憶に新しいのは2009年のバラク・オバマ氏だ。受賞決定に先立ってこの年初めに米国大統領となり、「核なき世界」の追求を訴えていたが、今、国際社会がその目標に近づいているとは言い難い。

 

 前述のラビン、ペレス、アラファト3氏の受賞もそうだ。25年後の今、パレスチナ情勢が安定しているとは言えないだろう。政治家はいつも、現実の壁に直面している。アビー政権にも、同様のリスクがある。発表文は、それを見越してこう言う。「きっと、今年の授賞は早すぎると考える人々もいることだろう」。そのうえで、アビー氏の努力は「今」この時点で「顕彰に値するし、激励を必要としていると信じる」と強調するのだ。

 

 ここには、ノーベル委員会の強いメッセージがある。ひとことで言えば、アビー的なるものを待望しているということだろう。アビー的なるものとは何か。発表文のたたみかけるような記述からうかがえるのは、理想を追い求めながら寛容でもあるという政治家像だ。

 

 「彼は就任100日のうちに非常事態令を解除し、幾千人もの政治犯に恩赦を与え、メディアに対する検閲を廃止し、非合法の野党勢力を合法化して、腐敗が疑われる軍民の指導者たちを追放した。そして、エチオピアの政治や地域社会に対する女性たちの影響力を著しく高めた」。さらに続けて、「自由で公正な選挙によって民主主義を強めることも約束した」とある。リベラルな社会をめざす政治判断の連打と言ってよいだろう。

 

 これは、ノーベル委員会の買いかぶりとは言えないようだ。前述BBCの記事も、アビー氏が矢継ぎ早に手を打つ様子を時系列で記している。政治犯の釈放は去年5月、非常事態令の解除は翌6月、秋になって10月には閣僚ポストの半分に女性を指名したという。

 

 発表文は、アビー氏が東アフリカや北東アフリカ域内の緊張緩和にも力を貸していること、エチオピア国内の民族間対立に和解と連帯と社会正義をもたらそうとしていることも書き添える。後者は必ずしも成功していないが、だからこそ「激励」が必要なのだろう。

 

 僕が思うに、今回の平和賞は一人の政治家が一つの地域の安定に力を尽したことへの称賛とだけとらえてはいけないのではないか。選考には、今や絶滅危惧種になりかけたタイプの政治家のイメージを広めたいという委員たちの心理が働いたように思えてならない。

 

 今、内外の政治家を見てみよう。自国第一主義に突き動かされて国際社会のつきあいを軽んじる人がいる。統治能力ばかりを磨いて、寛容の精神に欠ける人もいる。ネットメディアに溢れる感情論に気をとられて、理想を追うことを忘れてしまった人もいる。だが、そうではない政治家もいるはずだ。いや、いてほしい。そう願っていたら、期待に応えてくれそうな人がそこにいた。そんな現実が、今年の平和賞からは見えてくるのである。

(執筆撮影・尾関章、通算494回、2019年10月18日公開)

 

■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。

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■公開後の更新は最小限にとどめ、時制や人物の年齢、肩書などは公開時のものとします。

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