『赫奕(かくやく)たる逆光』(野坂昭如著、文春文庫)
写真》赫奕とはこれか

 暮れは訃報が多かった。喪中通知で目立ったのは、同年輩の知人の親たちの逝去だ。享年90を超える人が大勢いた。長寿の時代ではある。だが、死とはそんなに遠いところにあるものではない。新春であっても、そう感じてしまう。
 
 メディアの死去報道で衝撃を受けたのは、作家野坂昭如(1930〜2015)の死だ。大げさに言うと、青春時代に眺めていた風景の一つがそっくり消え去ったような気分になった。放送作家出身で、CMソングの作詞も請け負った。自らCMにも出た。テレビ主導の商業主義の寵児でありながら、それを支える高度成長の浮かれ気分を素直には受けいれない一面があった。憧れたわけではないが、その感性には惹かれていた。
 
 たとえば、日本時間1969年7月21日、米国アポロ11号の飛行士が月面に降りた日の新聞紙面。彼は「テレビでは『新しい大航海時代の到来』とロマンチックな表現をしていたが」と断ったうえで、こう語っている。「人間が実に無感動に写った」「コンピューターの一部になってしまったようで、イヤな気がした」(朝日新聞1969年7月21日夕刊)。世界のお祭り騒ぎをサングラス越しに、斜めに見つめていた。
 
 1970年前後には、若者たちの反抗に共感を示すということもあった。青年男子向けの週刊誌「平凡パンチ」は69年10月21日、国際反戦デーのデモで騒然とした新宿街頭に彼と三島由紀夫という好対照の人気作家を送り込み、その観察記を掲載した(文理悠々2012年2月17日付「ミシマ、平凡パンチ&1960年代」)。ミシマが時代の位相からずれた右派なのに対して、彼は当時の若者に心を寄せる「心情三派」だった。
 
 そのノサカが死んだ。著名人の死に際して「一つの時代が終わった」という常套句を聞くと、「いったい、世の中にはいくつの時代があるのか」という皮肉な思いが頭をかすめることもある。だが今回ばかりは、僕にとって本当に「一つの時代が終わった」のである。
 
 で、今週の一冊は『赫奕(かくやく)たる逆光』(野坂昭如著、文春文庫)。1987年、「オール讀物」誌に3回に分けて載ったものが、その年に単行本となり、91年に文庫に収められた。70年の三島事件の余熱が冷めたころを見はからったかのような刊行だ。著者と三島由紀夫との接点をたどりながら、ミシマをかたちづくったもの、ノサカを生みだしたものが何かを逆光のなかに浮かびあがらせている。
 
 書きだしは、三島の日記をもっているという謎の男からの電話。「野坂さんなら、きっと興味をお持ちだろうと思いまして」。読者も好奇心を抑えきれないが、日記の売り込み話はいつのまにか脇に置かれ、著者自身の少年期の回想と三島の足どりの叙述へ移っていく。例によって、体言止めを時折交え、読点でつないでいく融通無碍の文体。だが、資料調べを重ねたようでリアル感がある。この作品はノサカ流のミシマ伝であり、自伝でもある。
 
 まずは、著者と三島の出会い。読者と作家の関係で言えば、それは1946(昭和21)年に遡る。雑誌に載った「煙草」という小説を読んで「この飢えと虱(しらみ)と寒さの時代に、よくまあ悠長な小説、浮世離れのしたお話を書けるものだと考えつつ、絢爛(けんらん)たる文字面と、小説家たるその確かな意志に圧倒された」。この作品は「まさに赫奕(かくやく)と輝いて思えた」という。「赫奕」なのだから並の輝きではない。
 
 このとき、著者は16歳。戦災で家を失い、大阪近郊の「元飯場」にいた。学校新聞の主筆役を引き受け、ガリ版刷りの同人誌も出すというように「少しませている方だった」らしいが、実生活は「手足脇腹を膿(う)みくずれた疥癬(かいせん)のかさぶたに飾られ、飢えをみたすための盗みに何のためらいも覚えず」という状態にあった。三島が「ちゃんとやってくれているのなら」、自分は「どうであってもかまわない」。そう感じたという。
 
 そんな二人が、やがて物理的に近づく。著者が三島の姿を初めて現認したのは、早稲田大学文学部に入学した1950(昭和25)年、三越劇場前でのことだ。「ライトブルーの上下に髪はリーゼント風」で、「うらなり瓢箪(ひょうたん)」(原文の「箪」は旧字)という印象だった。新宿界隈で見かける「早稲田派」のもの書きや学生は「いちように長髪、陰気、野暮天」だったので、三島は「在来種の文士とは、まったく別物」と思うに至った。
 
 翌年には最初の接触。著者がバーテンダー見習いをしていた銀座の酒場兼喫茶店での出来事だ。夜には2階で美少年が接客していたが、その日、三島は早く来店して連れと階下のカウンターに陣取った。このとき、三島のライターの火がつかない。「ぼくがマッチの火を近づけると『ありがとう』明瞭な発音でいった」。2階に誘われると「銀座通れば二階から招く、しかも鹿(か)の子の振袖(ふりそで)でか、ガハハハ」と豪傑笑いしたという。
 
 二人は、著者が『エロ事師たち』で文壇入りしてから、雑誌の対談などを通して交流を深めていく。ひまわりと月見草ほどに違う青春を過ごしながらも、そこにはいくつかの類似点があった。三島の父は農林官僚、その父は樺太庁長官。著者の実父もやはり官僚で戦後、新潟県副知事を務めた。ともに終戦の年、妹を失ったという共通項もある。そして驚くべきことに、家族史を遡ってもニアミスしている。
 
 それは、著者が生後まもなく養子に出された家にかかわる。養母は実の叔母、養父は神戸の貿易商だったが、この人も養子で、その父の実家は播州、今の兵庫県加古川市内にあった。そこから「六キロと離れていない」ところに三島父方ルーツの一つがあったという。
 
 このあたりから、話は封建時代を引きずる社会階層の亀裂に分け入っていく。三島の父方で言えば、祖父は播州の農家に生まれ育ち、そこから東京の帝大に進んで官僚となった。立身出世の典型とも言える。一方、もう一つのルーツは華麗だ。祖母は「徳川の枝」や「幕府若年寄」を先祖にもち、有栖川宮家で「行儀見習い」して公家文化にも触れていた。二人は明治の世に、ほんのふた昔前ならば「考えられぬ仕儀」の結婚をしたのである。
 
 夫婦には溝があったようだ。祖母は「生きる支え」を、孫の三島に求めたらしい。生後2カ月足らずで自らの庇護の下に置き、両親や妹弟との合流を許したのは12歳になってからだ。著者は、そこには「武家名門の流れと、公家の二つながら、三島に継がれた」との思い込みがあったとみる。そんななかで三島は、祖母のののしりにも「平然」とした祖父のほうに「無意識ながら、憧れを抱いていた」と推し量る。これが、マッチョ志向の原点か。
 
 著者の養家にも、隠されたなにかがあった。小学校への入学時、養父は「ここの学校にはやれない」と引っ越しを決断する。著者は、その理由をのちに祖母が思わず口にした言葉などから読みとろうとするが、真相はわからない。この作品を書きあげてもなお藪の中にある。ただ、この校区替えは、著者の心に深い傷を残した。終戦2カ月前、転居先が空襲を受けて養父は行方不明となり、養母は大やけどを負ったのである。
 
 自分の通学がきっかけで一家は不幸のどん底に落とされた。「ぼくはこの家を潰(つぶ)しに、もらわれていったようなものだ」。この痛恨事は、直木賞受賞作『火垂るの墓』の創作につながった妹の餓死と同じく、著者の反戦の原点となっているように思える。
 
 この作品には、戦前の闇とともに戦後の現実も赤裸々に描かれている。一例は1948(昭和23)年、著者が新潟の実父のもとで新制高校に通いだしたころの体験。「料飲店禁止令のさなか、土地の名だたる料理屋、待合で遊ぶというより、ひたすら酔払って、このツケはすべて父の公的交際費でおとせた」(「おと」に傍点)。今ならば父子ともにアウトだ。だが日本社会にそんな過去があったことは、僕たちも記憶にとどめておくべきだろう。
 
 ミシマの話と自らの話が境目なしにつながり、両者を行ったり来たりしながら、ついこのあいだまで人々の身近にあった暗がりを露わにしていく。そんな技は、ノサカの文体がなければ無理だっただろう。僕には、その文章の自在なリズムが懐かしかった。
(執筆撮影・尾関章、通算299回)
 
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『死の発送』(松本清張著、角川文庫、新装版)
写真》鉄道、そして駅
 
 この暮れ、東北の温泉郷へ1泊2日の旅に出た。東京駅から新幹線で2時間ちょっと、本1冊を読む間もなく下車駅に着く。そこから車に30分ほど揺られれば、もう山あいの鄙びた宿にいる。湯煙はよかったが、往路復路はあっさりしすぎていた。
 
 そもそも、日本列島の鉄道網は一様になるばかりだ。たとえば、新幹線の駅はどこも似ている。プラットホームはたいてい寒々しい。金魚鉢のような待合室、とぎれとぎれの安全柵。売店がない、駅員の姿が見えない、というところもある。地方在来線のたたずまいもそうだ。かつては電車であれ気動車であれ、乗客が向かい合わせの席に座っていたが、いまは山手線そっくりの車両がふえた。
 
 列車の種類分けも同様だ。大都市圏のJR路線では急行券の要らない快速列車が花盛りだが、それは地方路線にも広まっている。普通、準急、急行、特急というように序列づけられ、それぞれが個性をもって行き交っていた時代が懐かしい。とりわけ旅情をそそったのは、普通、すなわち鈍行だ。垂直の背もたれは窮屈だったが、停車駅で後続列車に追い抜かれる間に駅弁を買う楽しみもあったのである。
 
 で、今週は、昔の鉄道事情を改めて知る一冊。『死の発送』(松本清張著、角川文庫、新装版)。1961〜62年、二つの雑誌に断続連載されたものに筆を加えて、1982年にカドカワ・ノベルズの本になった。昭和30年代の空気が漂うミステリーである。
 
 この本は、中古本ショップで思わず手にとった。帯に「TVドラマ化」とあったからだ。2014年5月に「フジテレビ開局55周年特別番組」として放映されたらしいが、僕は観た記憶がない。2時間ドラマ(2H)好きとしては再放送を待つばかりだ。そのときのために原作をチェックしておくのは2H愛好家のたしなみである。とりわけ清張ものでは、原作との対比がドラマを10倍おもしろくしてくれる。
 
 それは、なぜか。ドラマが原作のままの時代設定なら時代考証の確かさを測れるからだ。一方、舞台を今に移しかえているときは、清張が描いた「昭和」を2010年代にどう落とし込んだかが見どころになる。
 
 このドラマが後者を選択したことは、フジテレビのサイトに入ってすぐわかった。この特番の紹介ページが残っていて、それを開けると、主役の向井理さんがスマホを耳にあてた画像がいきなり目に飛び込んできたからだ。番組広報文によると、ミステリーの鍵を握る鉄道小荷物は宅配便に置き換えられているらしい。その宅配便がトラックだけで運ばれたのか、それとも一部を鉄道に委ねたのかはわからない。楽しみは視聴時にとっておこう。
 
 ということで、ここからは原作の話をする。主人公の底井武八は「夕刊立売りだけの三流紙」の新聞記者。ことの発端は、中央省庁の元若手官僚が5億円もの公金を横領して刑に服し、7年たって出所したことだ。編集長の山崎治郎は、元官僚が「まだ、どこかに大金を匿(かく)している」とにらんで、彼の出所後の行動を見張るよう底井に命じる。尾行取材に走り回ると、府中の競馬場、神楽坂の料亭街。たしかになにかがありそうだ。
 
 ところがある日、元官僚は福島市飯坂温泉近くで絞殺死体となって見つかる。そこは亡母が眠る寺の裏山だった。底井は数日前、飯坂行きの話をつかんでいた。そのことを山崎に電話で告げると、出張費を届けるから上野駅へ走れと急き立てられた。だが結局、列車同乗に間に合わなかったのである。山崎は、殺害を知ってもなおこう言う。「奴はきっと巧妙に金を匿している」「どうだ、今度はその金の隠し場所を探ってみようじゃないか?」
 
 このあと、山崎自身が不可解な振る舞いを見せる。自ら内偵に乗りだしたらしい。ある朝、いつまでたっても出社しない。夕刻になっても三日が過ぎても、社に現れない。もちろん、自宅にも帰っていなかった。そして4日後、編集部に衝撃が走る。底井が帰社すると、デスクが告げる。「エライことが起こった。山崎さんの死体が見つかったんだよ」。発見場所は福島県の本宮。東北本線五百川駅に近い田園地帯だ。
 
 山崎の死体はトランク詰めだった。そのトランクは東京の田端駅から発送され、五百川の手前にある郡山駅で受取人の手に渡っていた。驚くべきは、田端駅にトランクを持ち込んだ男の人相が山崎そっくりだったと、駅の荷物受付係の証言からわかったことである。自らが送り手となったトランクにいつのまにか死体となって納まり、届けられるという奇怪さ。これが「死の発送」の意味するところだ。
 
 元官僚の背後には黒幕がいるのか。山崎はどうして危険な一線を越えたのか。そこには、清張ワールドらしい物語の展開が用意されている。だが、ミステリーなのでここから先は筋を追わない。ただ、鉄道のことだけを素描しよう。
 
 山崎殺害にかかわりがありそうな列車系統がいくつか出てくる。一つは、トランクの移動にかかわるものだ。田端を21時30分に出て、大宮で別の貨車へ移されて翌朝4時30分に出発、郡山へは日暮れの19時05分に着いた。もう一つは、山崎を乗せた旅客列車。急行津軽だとすれば、21時40分に上野を発った。ちなみに、その郡山着は翌未明1時29分。これに、山崎との接触が疑われる競走馬厩務員の動きが絡みあう。
 
 この厩務員が乗り込んだのは、家畜輸送車だ。田端発が20時50分、郡山には翌日21時10分に到着した。そして、トリックに使われたかもしれない列車に準急しのぶがある。上野16時30分発、郡山20時25分着である。
 
 ここでわかるのは、速い列車とのろい列車が混在して走っていたことである。東北本線のこの区間は1960年ごろ、一部に貨物用の線路が並行してあるものの、単線の箇所がまだ残っていた。東京都内から郡山まで、急行や準急は4時間弱。新幹線の約1時間20分には遠く及ばないが、当時としては高速だ。一方、貨物系統はほぼ1日かけてようやくたどり着く。いろんな駅で、ほかの列車に道を譲りながら時間を潰していたのだろう。
 
 この作品では、家畜輸送車の融通無碍に呆れてしまう。くだんの厩務員は、福島競馬の出走馬に付き添っていて「馬の調子が悪い」「矢板(やいた)駅に少し長く停ってくれたら、土地の獣医さんを呼んでくる」と車掌に訴え、受け入れられる。車掌の心づもりでは矢板駅(栃木県)での停車はせいぜい40分だったが、獣医が来て診療を終えるまでに約1時間半。このために別の列車を先に通す必要が出てきて、なんと10時間も駅に留まった。

 

 驚愕を通り越して圧倒されるのは、この車掌が底井の問いに答えて口にする能天気な言葉だ。矢板駅での対応について「ぼくは四十分間の停車と決めていた」「三、四十分くらいの延着だったら、わざわざ福島の車掌区や機関区に断わらなくともいいのですが」「厩務員の人が一生懸命に馬を介抱しているのを見ていると、ぼくも打たれました」。感動はいいが、停車時間が車掌の一存で決まり、30〜40分のズレなら現場任せとはどういうことか。
 
 これは小説の話だ。だがリアリズム作家の作品なので、まったくの絵空事とは思えない。
 
 今の鉄道はコンピューターとともにある。たいがいの路線では、中央の制御室が全列車の居場所や動きをつかみ、トップダウン式に運行を管理している。その視点で言えば、この車掌の言いぐさは言語道断だ。だが、コンピューターがなかったころは、それほどに突飛ではなかったのかもしれない。運行システムの技術としては、列車間の距離が狭まったことを知らせる信号などが頼りで、ボトムアップ式の管理に依るところも多かったのだろう。
 
 列車がより速く、より過密に走る今、鉄道にのどかさを求めるのは愚かなことだ。とはいえ、世の中には集中管理をしなくともよい物事がたくさんある。そんなところに、鉄道をかつて支えたボトムアップ式を転用する手はあろう。郷愁から、緩やかな知を紡ぎたい。
(執筆撮影・尾関章、通算296回)
 
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『チェルノブイリの祈り――未来の物語』
(スベトラーナ・アレクシエービッチ著、松本妙子訳、岩波現代文庫)
写真》文学賞発表資料と朝日新聞2015年10月9日朝刊
 
 今年のノーベル週も、僕はしばしばnobelprize.orgのページをのぞいた。このサイトでは、受賞者に対する電話インタビューをライブや録音で聴ける。文学賞を受けることになったベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんの第一声もその一つだ。
 
 彼女がしゃべっているのがどこの言葉かはわからなかったが、画面の注釈に「ロシア語」とある。科学者の間では、いまや英語が共通語なので、医学生理学、物理学、化学の理系3賞の受賞者は英語で話すのが習わしだ。だが、文学賞となれば事情が違う。コトバの文化を称える賞である。作家たちが日々頭のなかで思考を組み立てている言葉を用いるほうがふさわしいように思われる。
 
 で、ここで気づくのは、彼女はベラルーシ人でありながら、ロシア語の作家だということだ。ベラルーシは旧ソビエト連邦の共和国だった。日本では「白ロシア」の名で呼ばれていたものだ。日本外務省のサイトで調べると、「ベラルーシ語」と並んで「ロシア語」も公用語とされている。僕が1991年と94年にこの国を訪ねたときも、取材に同行してくれたのはロシア語の通訳。隣の大国の影響下にあることは否めない。
 
 だが、そこには欧州小国の落ち着きがあった。たとえば、ミンスクで立ち寄ったレストラン。たしか、石畳の旧市街にあった。女性客が晩餐を終えて出口でコートを着るとき、必ずと言ってよいほど連れの男性が手を貸していたように思う。しかも、彼女たちの手にはブーケがあったと記憶しているのだが、それは後付けの幻想か。ただそうしたしぐさのなかに、強国の風圧に曝され、社会体制の激変があっても揺るがない日々の営みが感じられた。
 
 一度目のベラルーシ滞在は、ソ連崩壊の直前だった。このときはウクライナにも入ったのだが、印象はだいぶ違った。ウクライナにはソ連離脱を求めるナショナリズムの熱気があったが、ベラルーシは静かだった。その分、内に秘めたものが大きかったのだろう。
 
 スベトラーナ・アレクシエービッチは1948年5月、母親の母国ウクライナの生まれ。父親はベラルーシ人で、やがて父の故郷へ移り住んだ。ここにすでに複眼の視点がある。日本流に言えば団塊の世代。西側のベビーブーマーは、大戦後の解放感のなかで育った。だが、東側の同世代は違う。彼女も少女期、青春期に旧ソ連の政治体制をくぐり抜けてきた。そのことが、作家として生きる動機につながっているのは間違いないだろう。
 
 さらにもう一つ、彼女が思考を深めることになった大きな出来事が37歳の春に起こる。1986年4月26日土曜日の未明、ウクライナ北端にあるチェルノブイリ原子力発電所が爆発したのだ。放射性物質が風に乗ってベラルーシにも流れ込み、上空を漂い、大地に降った。汚染地域の国土に占める割合はウクライナよりも大きかった。放射能禍が森や畑や牧草地を台無しにして、人々の暮らしをズタズタにしたのである。
 
 で、今週は『チェルノブイリの祈り――未来の物語』(スベトラーナ・アレクシエービッチ著、松本妙子訳、岩波現代文庫)。虚構の小説ではない。ウクライナやベラルーシで事故の直撃を受けた一人ひとりの証言集だ。事故から10年ほどして雑誌に発表された。
 
 文庫版の訳者あとがきによれば、著者はあえて「緊急レポート」を避け、「長い年月をかけて『自分の頭でじっくりものを考えている』人々をさがしてはインタビューし、彼らが体験したこと、見たこと、考えたこと、感じたことを詳細に聞きだした」のである。
 
 原発に近いウクライナの町プリピャチに住んでいた女性の話。事故当日の昼ごろ、夫が「原発が火事らしい」と聞きつけてきた。アパートから見えた「暗赤色の明るい照り返し」は、ずっと目に焼きついている。「ふつうの火事じゃありません。一種の発光です。美しかった」。夜には、ベランダというベランダが入居者やその友人知人で人だかりに。原発技師も物理教師も「悪魔のちりのなかに立ち、おしゃべりをし、吸いこみ、みとれていた」。
 
 同じプリピャチで少女時代、事故に遭遇した人の回想。「女の子や男の子たちは自転車で発電所にすっとんでいった」「発電所の上にたちのぼる煙は、黒や黄色ではなく、青色でした。でも、私たち、だれにもしかられなかったんですよ」。子どもたちは「危険なものは戦争だけ」とたたき込まれていた。ここで見ているのは「ただの火事」ではないか。そう思ったらしい。事故直後、原発近隣の人々には頭の片隅にも放射能という言葉がなかった。
 
 知識の欠如は、放射能への恐怖感が芽生えると逆に過剰反応を呼び起こした。アパートで「火事」を見た夫婦がベラルーシへ避難すると、息子は転校先の学校から「泣きながらとんで帰ってきました」。周りの子たちから「放射線をだしている」と怖がられ、「ほたる」というあだ名をつけられたのだ。原発の「火事」を見に走った少女も、大人になってから結婚相手の母に「まああなた、赤ちゃんを生んでもだいじょうぶなの?」と言われたりする。

 そんななかで働き手は、除染に駆りだされた。ロシア生まれの化学技師は「軍事委員部」に呼びだされ、「ミンスク郊外の野営地」へ送られる。1986年夏のことだ。任務が汚染土を削り、埋設地に運び込む作業だとは現地で知ったらしい。報酬は20km圏に入れば2倍、10km圏内では3倍、原子炉付近なら6倍と言われる。2カ月ほど働いて「ぼくらは決死隊じゃない」と訴えると、「交代させたんじゃ、採算が合わん」と一蹴された。

 
 原発というエネルギーの巨大生産装置が旧ソ連の政治体制に組み込まれ、暴発した。このとき、一方で人々が知るべきことを知らされないでいる閉鎖社会の膿が噴きだし、もう一方では人を労働力としてしかみない人間疎外が極限に達したのである。
 
 著者は、原子力科学者の証言も拾っている。ベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所の幹部は、著名な核物理学者が口にしたとされる「核爆発のあとでオゾンのとてもいいにおいがする」という言葉に「私の世代はロマンを感じる」と打ち明ける。原爆が広島、長崎に投下されたころは10代。「SFが好きで、ほかの惑星に行くことを夢み、私たちを宇宙に打ち上げてくれるのは核エネルギーだと思った」

 この人は大学で、物理エネルギー学部という「最高機密の学部」に入って、エリート集団の一員になった。待ち受けていたのは、徹底した「秘密主義」だ。原爆開発の細部もアメリカの文献で学んだという。チェルノブイリの事故後、現地に派遣された科学者の多くがひげ剃りを持って来なかったという話も興味深い。調査は「数時間」で終わると思っていたからだ。重大事態の情報は専門家の間でも共有されていなかったということか。
 
 同じ研究所の元所長も登場する。事故は、モスクワ出張中に知った。ベラルーシ中央委員会に電話で「住民と家畜を一〇〇キロまで立ちのかせてください」と助言したが、返事は「火事があったが、鎮火したということだ」。ソ連には「山ほどのタブー、党機密、軍事機密」があり、「わが国の平和な原子力は泥炭や石炭と同じくらい安全なんだと、みんなが教えられていた」。国民は「信念という迷信」で「がんじがらめ」だったという。
 
 エリート集団の「秘密主義」。原発は安全という「信念」。これらは、僕たちが東電福島第一原発の事故後にまざまざと見せつけられたものだ。その意味では日本社会も、「社会主義体制」という一点を除けば、似たような病に冒されてきたと言えるだろう。
 
 ただ、それだけで収まりきらないメッセージも、この本からは感じとれる。学校教師の回顧談――。事故後、生徒の親たちは通学服を毎日洗うよう求められたが、ピンとこない様子だった。そのことを教師はこう理由づける。「母親にしてみれば、汚れというのはインクや泥、油のしみであって、短寿命アイソトープとかいうものの影響じゃない」。科学技術は僕たちに人間の実感をはるかに超える難物をもたらした。そのことを忘れてはなるまい。
(執筆撮影・尾関章、通算286回)
 
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『顔に降りかかる雨』(桐野夏生著、講談社文庫)
写真》フロッピーがあった頃
 
 60年余を生きてきて、思ってもみなかったことはいくつも体験している。私事を言えば、新聞記者になるという未来図は少年のころ頭の片隅にもなかった。個人史とはそんなものだ。思いも寄らないことの蓄積が人生だと言っても言い過ぎではない。
 
 では、世界史はどうか。小さな出来事は偶然の産物だとしても、大きな流れは必然の定めに従う、という歴史観がかつては卓越していた。封建制から資本主義が芽生え、やがて社会主義、共産主義の世へ移っていく。それが、どういう手順でどれくらいの速さで進むかは別として、逆流することはない。そんな思い込みがあった。ところが1990年前後、「思ってもみなかったこと」が起こる。
 
 1989年11月のベルリンの壁崩壊。91年12月のソ連崩壊。一つめは、世界を政治体制で「東」「西」に二分していたカーテンが取り払われたことを意味する。二つめは、消滅したのが西ではなく東の中心だったということだ。「必然」の流れで言えば未来にあるはずのものが先に退場してしまった。これは、僕のように政治イデオロギーとは疎遠だった者にも、心にぽっかり穴が開くような虚無感をもたらした。
 
 興味深いのは、それが日本社会の変容と歩調を合わせたことだ。1990年前後、日本経済は地上げという言葉に象徴されるような投機マインドで膨らみきっていた。都心やウォーターフロントのディスコが賑わい、お立ち台でボディーコンシャスな装いの女たちが踊る。そのバブルがほどなくして、はじけたのである。あのころの僕たちは、ボディコン女子のように景気の高みで舞い、そこから一気に突き落とされたのではなかったか。
 
 物価と給料は上がりつづける、土地をもっていれば損はない、といった成長神話は崩れた。学校を出て会社に入り、定年まで勤めあげれば、そこそこの老後が待っているという安定神話も揺らいだ。世界の激動期、僕たちは日本国内でも「思ってもみなかったこと」を別のかたちで実感していたことになる。それが、あの時代ならではの心のありようをもたらしたのは間違いない。
 
 で、今週の一冊は、そんな時代状況を見事に切りだしたミステリー小説。『顔に降りかかる雨』(桐野夏生著、講談社文庫)。『OUT』『魂萌え!』『東京島』などを連打してきた著者の初期代表作だ。1993年に江戸川乱歩賞を贈られている。
 
 バブル末期の日本社会で危うい世界に片足を突っ込んでいた人々を描きながら、それに壁崩壊直後のドイツ社会の混乱を絡ませる。ハードボイルドタッチのミステリーでありながら、地球規模で同期した心の不安定が浮かびあがってくるところがおもしろい。
 
 主人公は村野ミロ、32歳。私立探偵の父に育てられた。大学を出て広告代理店に勤めていたが、今はやめている。結婚していたのに、上司との仲を噂されたのが退社のきっかけだった。恋愛関係とは言えなかったが、「互いに魔がさした瞬間があった」のは事実だ。夫はジャカルタに単身赴任中だったが、噂を察知して自殺した。彼女が離婚を望む手紙を出してまもなくのことだった。そんな心の傷が癒えないなかで事件に巻き込まれる。
 
 ミロの友人である宇佐川耀子が突然姿を消したのだ。耀子の交際相手で中古外車販売業を営む成瀬によれば、「預けた一億円ごと、どっかに行ってしまった」。金は親会社のものだという。それは、やくざともつながりのある企業。裏金なので紛失や盗難の届けも出せない。会長は、成瀬とミロに「ともかく、二人で探せ。女と金を早く見つけて来い」。無理筋で押しつけられた主人公の友人捜しが、このミステリーの本筋だ。
 
 耀子は、ノンフィクションライター。自室は「すべての物がひっくりかえされ」「ものすごい惨状だった」が、「ワープロだけは狼藉(ろうぜき)を免れていた」。ただ「フロッピーディスクを入れる部分が、空っぽ」で「システムファイルも何も見つからない」。事務所にも「やはり原稿の入ったフロッピーは一つもないようだった」。ワープロにフロッピーを出し入れして原稿を書いていたころだ。その消えたフロッピーが事件の鍵なのか――。
 
 親会社の会長と成瀬との出会いは、いかにもあの時代らしい。会長の回顧談。「私とどこで知り合ったと思いますか? 大昔のトウコウですわ。トウコウなんて知らないでしょう。東京拘置所(こうちしょ)」「私は恐喝(きょうかつ)。こいつは学生運動で入ってきててね。いやに頭の切れる奴だと思って聞いたら、東大全共闘だって」。それで自動車販売という生業を世話したという。世代も信条も異なる者同士が、そんな契りを結ぶ余裕があった。
 
 耀子も、まさに時代の子である。ミロとは高校の同級生。信用金庫に就職するが、ほどなくライターになった。ミロのような旧友には「あたしね、『高卒魂』忘れないんだ。だからやれるの」と心の内を明かすが、経歴を知らない人には「うちの大学じゃ、そんな手抜きの講義はなかったわ」などと言ってのける。真偽どちらの言葉からも、強い上昇志向が感じとれる。男女雇用機会均等の法制が整い、女性たちを鼓舞する気運は高まっていた。
 
 彼女の出世作は『従う肉体』という本。「若い女の子がスレイブやミストレスのボンデージのコスチュームを好んで着たり、からだじゅうにピアスをしたりして、ソフトSMの世界に入っていく過程を細かにレポートしたもの」である。耀子自身、SMショーの出演体験を綴り、表紙ではボンデージ姿も披露したので、評論家から「経験値文学というジャンルを確立した」などともてはやされた。
 
 彼女の周辺には、バブルの密林から出てきたような人物がうごめいている。たとえば、女装の霊感占い師ジュヌヴィエーブ松永。仕事場のドアに「プラスチックの葡萄(ぶどう)の葉や木蔦(きづた)がはいまわり、デパートのワイン祭りのような飾り付けがされている」。あるいは、耽美小説の書き手であり、ヴァイオリンの弾き手でもある川添桂。「暗黒夜会 エロスとディシプリン」と題するパフォーマンスを催したりする。
 
 その夜会は、こんなふうだ。「ハウスミュージックが突然かかり、同時に、小さなステージにぴっちりした黒いラバーのブラとショートパンツを身につけた美しい女が現れ」「房鞭を片手に、けだるく踊り始めた」。女や男のストリップがあった後、モノクロのビデオが映写される。ひと目で死体とみてとれる白人女性が、ステンレスの台上に横たえられている。解剖シーンだ。川添には、変死体の写真を集めるというおぞましい嗜好があった。
 
 ミロと成瀬が、耀子の謎を追って大手出版社を訪ねると、編集者が彼女の近況をこう語る。「実は、今度のルポはすごく力が入ってましてねえ。今までのフェティッシュものでは賞が取れないということで、O賞狙いの作品なんですよ」。O賞は「ノンフィクション物の一番権威ある賞」というから、大宅賞をイメージしたらよいのだろう。「今度のルポ」で彼女が取材に赴いたのが、大陸の向こう、壁崩壊後のベルリンだった。
 
 耀子は、助手にも「すごく面白いスクープつかんだから」と漏らしていた。「殺人の現場に居合わせたことがあるらしいんですよ。それはネオナチ同士の抗争だったらしいんですがね」と編集者。第1稿に加筆して、新事実を盛り込もうとしていたという。
 
 この小説では、登場人物の弁護士がネオナチを分析してみせる。その言によれば、彼らが旧東独で台頭した背景には「経済不振」があるという。統一で東の生活水準が西に追いつくと思われたのに、そうはならない。「外国人が大量に入ってきて仕事を奪う」という現実に反感が募った。加えて、社会主義統一党支配の終焉。「アンチテーゼとして圧(おさ)えられていたナチス信奉が急激に浮上してきたのだ、という考えかたもあるようですね」
 
 片や資本主義バブル社会の爛熟と腐乱、片や社会主義独裁体制の崩壊と反動。ユーラシアの両端で人心と世相の不安定が同時発生した。あのとき僕たちは、そんな共振の位相を目撃したのではないか。
(執筆撮影・尾関章、通算277回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『「カルピス」の忘れられない いい話』(山田太一、大林宣彦、内館牧子選、集英社文庫)
写真》初恋の味をもう一度
 
 夏の飲みものというと、真っ先にペットボトル商品が思い浮かぶ。ただの水から清涼飲料水まで品ぞろえは至れり尽くせりだが、猛暑の日の一番人気はお茶ではないか。少なくとも最寄り駅のホームにある自販機では、緑茶系から売り切れの表示が灯る。
 
 ペットボトルでお茶、という慣習が日本社会に広まったのは、そんなに遠い昔のことではない。かつて缶やボトルの非アルコール飲料は、ジュースやコーラなどの甘味系と相場が決まっていた。僕は人一倍の汗っかきで、すぐにのどが渇くたちなので、家では冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みしているのだが、外出するとそれができない。だから、お茶系の冷たい飲みものが街角の自販機に並んだときは、砂漠でオアシスに出会ったような感動を覚えたものだ。
 
 1980年代、まずは烏龍茶の缶が出回る。90年代に入って、それが緑茶にまで広がった。ペットボトルの小型容器が使われるようになったのは、90年代半ばのことだ。自販機のスロットに硬貨を落とす。取りだし口でドスンと音がする。かがんでボトルを引きだす。冷たい感触。ふたをギュッと回して、のどを潤した瞬間、渇きがみるみる癒えてゆく――あの至福のときを僕たちは手にしたのである。
 
 90年代後半、ニュース系科学誌の編集部にいたとき、お茶のボトルを記事にできないかと考えたことがある。きっかけは、世界のコークの日本法人、日本コカ・コーラがいつのまにかお茶系に進出していたことにある。これは、ローカリズムがグローバリズムをのみ込んだということではないのか。雑誌の特集としてはおもしろい、と思った。ただ残念なことに、僕のほうが企画を実らせる前に新聞部門へ戻ってしまった。
 
 思えば、そのころから日本社会では、人前でペットボトルを口飲みすることが、さほど失礼なこととは思われなくなった。背景には、熱中症を防ぐのに水分補給は欠かせない、という生活知が行き渡ったことがあるのだろう。だから今、電車の乗客がいきなりごくごく始めても、顔をしかめる人はほとんどいない。そもそも、駅のホームにあれほどたくさんの自販機が置かれているのは、人々が公衆の面前で飲み姿をさらすことを前提にしている。
 
 今回は、お茶のペットボトルなど影もかたちもなかった時代の夏に思いを馳せてみる。1950年代、60年代の子どもたちにとって、バヤリースや三ツ矢サイダーはハレの日にふさわしい高級品だった。ラムネ玉を突き落とす快感は格別だったが、これも夏祭りや盆踊りの夜などに限られていた。僕の場合、ふつうの日は色のついたシロップを水で薄めたり、粉末ジュースを水に溶かしたりして満足していたように思う。
 
 そんななかで異彩を放っていたのが、カルピスだ。贈答品の定番だったから高級感があった。あの酸っぱみを帯びた甘さには、子ども心に品の良さも感じた。それなのに濃縮したものを水で増量するという飲み方のせいか、ぜいたくとは思わなかった。
 
 で、今週の1冊は『「カルピス」の忘れられない いい話』(山田太一、大林宣彦、内館牧子選、集英社文庫)。カルピス株式会社が1997年の創業80年を記念して募ったエッセイの入賞入選作集だ。応募4940編から選りすぐられた72編を収めている。当欄のいつもの回と違って、書き手は市井の人々。私的な逸話に満ちあふれているが、ご本人が公募に応じて書き綴った作品なので、引用には氏名を添えることにする。
 
 まずは、カルピスの醍醐味。鹿児島県の塚田好智さんが1961年の第二室戸台風襲来後、父親と山仕事に出たときの記憶だ。現場近くに来て「父が私の目の前に差し出したのは、青い水玉模様の包装紙のカルピスの瓶だった」。知人の井戸を借りて、そこに「入れとけ」という。「冷蔵庫のまだ普及以前の山村で、竹籠に西瓜(すいか)や麺(めん)類を入れ、井戸の底に吊(つる)して冷やすのは、一つの生活の知恵だったと言えるかも知れない」
 
 カルピスには、冷たい井戸水がよく似合う。僕には瓶を井戸に沈めた経験はないが、幼いころ、カルピスの濃縮液につぎ足す水は手押しポンプで汲まれた井戸水だったように思う。それもやはり、家に電気冷蔵庫がないころのことだった。
 
 そう言えば、「水玉模様」もカルピスとともにあった。内山睦子さんは、福島県の実家に姉妹が集まったとき、納戸で雛飾りとともに「カルピス人形」を見つけたという。「それは母の手づくりでした。カルピスの瓶を包んでいた水玉模様の紙を、大事にとっておき、手でもんで柔らかくして、色々なデザインのドレスを、作っていたのです」。戦後の物不足のさなか、あの包装紙は洋風なおしゃれを演出する貴重な「素材」だった。
 
 カルピスが発売されたのは1919(大正8)年。当時は、逸品中の逸品だった。それを物語るのが見合い話だ。高橋とし子さんは執筆時点で80歳代なので、たぶん戦前の体験談である。「新し物好き」の父親は、娘が見合い相手に差しだす飲みものにカルピスを用意した。「コップの中で氷が風鈴のような音をたてるのを聞きながら、粗相のないように、カルピスをテーブルの上にお出ししました時は、もう汗びっしょりでございました」
 
 板谷ちや子さんは、今は亡き祖母のお見合いについて書く。「初めてお見合いをした後、お店に入りこれもまた生れて初めてカルピスを飲んだという。お見合いをした事より、甘いカルピスがおいしくておいしくて忘れられなかったそうだ」
 
 当然、恋ばなしもある。ここでは正真正銘、初恋の味を。三宅新作さんは小学校にあがったころ、隣家の庭でままごと遊びをした。近所の少女が草花の汁を絞ると「こんな汚ない飲み物は要らんよ!」「きれいなみかん色をしたのでないといやだ」。それを縁側で眺めていたおばさんがカルピスと缶詰のみかんをもってくる。果汁を落とすと「白いカルピスが部分的に色づいて、ほの酸っぱい香りが揺れた」。二人で、その色に心躍らせたという。
 
 後日談は、数十年後の同窓会。少女はすでに結婚していた。いっしょにおばさんに会いに行こうという話になって、入居先の老人ホームを突きとめる。手みやげは「カルピスの詰め合わせ」だ。時代は変わり、果汁入りの製品も含まれている。「今ではこんなに鮮やかな色のカルピスが出廻(でまわ)ってるのよ」と元少女。次の年も再訪するつもりでいたら、訃報に接する。間に合ってよかったね、とはこのことだろう。
 
 カルピスが末期の水になったという話や、末期のつもりで飲ませたら元気になったという話もある。突き抜けているのは、橘川春奈さんの「おじいちゃん」。彼女が生まれたとき、すでに故人だった。がんが進んで嚥下能力が衰えると、こう言ったという。「カルピスで氷を作ってくれ。口の中でとかしながら飲むとおいしいんだよ。こういう病気にでもならなかったら、このおいしさを知らないで一生をおわることになってしまったかもしれない」
 
 カルピスの味は海外でも通じるらしい。商社員の妻、打村クリスティナさんが中米で経験した話。ゲリラ3人組が休息の場を求めて自宅に入り込んできたという。早めに追い払おうとしていたら、メイドが出したカルピスに「デリシオーソ!(うまい)」を連発、お代りを求めてきたそうだ。「いつの間にかこのゲリラらしからぬ素朴な育ちの良さそうな若者たちに警戒心を失い、約二時間にわたり、いろいろなことを語り合って過ごした」
 
 とは言っても懐かしいのは、ゲリラではなく学校の先生の家庭訪問だ。芹田昌子さんの祖母は微笑ましい。1960年代だろうか、訪問日に2年続きで母が不在となり、彼女の出番となった。ハイカラを自負していたのでお茶は出さない。1年目はインスタントコーヒー。だが、粉末をスプーンで5杯も入れて大失敗。2年目はカルピスにしたが……。オチは明かさずともわかるだろう。先生は、次の家で水を2杯飲みほしたという。
 
 生活の折々に顔をのぞかせる飲みものは、あれやこれや思いつく。ただ、一つの商標でこれだけ多くの人々の人生を彩ってくれたものは、そんなにはない。
《おことわり》12段落目、高橋とし子さんの「高」は、正しくはいわゆるはしごだかです。
(執筆撮影・尾関章、通算274回)

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『安井かずみがいた時代』(島崎今日子著、集英社文庫)
写真》この2枚組にもZUZUの訳詞2曲、作詞2曲
 
 あなたとは住む世界が違うのよね。そう言われたことが僕にはある。若かったころのことだ。相手は、ちょっと憧れていた女子だったから、目の前でいきなり電車のドアを閉められたような気がしたものだ。
 
 思えば、この世に世界はいくつもある。僕も、自分とは違う世界に幾度となく触れてきた。まずは理系の学び舎。文系アタマなので、場違いなところに来たなと思った。新聞記者の仕事も同様だ。駆けだしのころ警察署を回っていると、自分が自分でない気分に襲われた。
 
 ただ、理系であれ、新聞であれ、そこにある世界は、違和感を抱きながらも入り込むことができた。ところが「あなたとは住む世界が違うのよね」は、接触そのものを遮断している。手を伸ばしても届かない世界が、遠くに浮かんでいるような感じだった。
 
 1970年前後、日本社会には「あなたとは住む世界が違う」と言える華やかな一画があった。戦前の上流階級とは違う。戦後の成金富裕層や高学歴エリートとも違う。いまどきのセレブでもない。あえて死語を用いれば、イカシタ人たちがいるところだ。進駐軍文化の名残のようなバタ臭さ、湘南文化に通じるお坊ちゃまお嬢様感、スパイスとしての適度の不良っぽさ。それらが混ざり合う世界。くだんの女子も、そんな雰囲気を漂わせていた。
 
 こんな話をもちだしたのは先月、ミュージシャンの加瀬邦彦さんが亡くなるというニュースに接したからだ。享年74。がんのために自宅療養中で、自死だったようだ。彼がリーダーを務めたザ・ワイルドワンズは、数あるグループサウンズ(GS)のなかでも、バタ臭さとお坊ちゃま感、不良っぽさの3要件が適度に満たされるという点で群を抜いていた。エレキをやるが長髪ではない、というところにそれは表れている。
 
 触れがたいイカシタ世界にいた人も死ぬ。当たり前の話だが、そんな事実を次から次に見せつけられるこのごろだ。このままいくと、僕たちが見あげていた世界は脳裏から消えてしまう。だったら今、それを歴史の1ページにしっかりとどめておくべきではないか。
 
 で、今週は『安井かずみがいた時代』(島崎今日子著、集英社文庫)。著者はジャーナリスト。1960〜70年代に数々のヒット曲を生んだ伝説の作詞家、安井かずみの人間像を追い、家族や元家族、友人、知人、仕事仲間に会ってまとめた本だ。そこには、加瀬も出てくる。主体は2010〜12年に『婦人画報』誌に載った記事だが、書き下ろし部分もある。13年に集英社から単行本が出て、この3月に文庫化された。
 
 安井は1939年1月に生まれた(この本に出てくる家族の話では、これは戸籍上のことで、実際は前年のクリスマスらしい)。父は東京ガスの技術者。横浜で育ち、フェリス女学院で学んで文化学院美術科に進んだ。愛称はZUZU。1994年3月に永眠した。だれもが知る歌は「わたしの城下町」「赤い風船」「草原の輝き」などだが、僕には60年代初めの訳詞がピンとくる。たとえば「アイドルを探せ」。ポップスに乗る詞を書ける人だった。
 
 ポップス志向は加瀬も同じだ。この本では、ワイルドワンズを解散して沢田研二のプロデューサー役に転じたいきさつをこう語る。「せっかく日本の音楽シーンをポップなものにしていこうと思ったのに、GSがだんだん歌謡曲みたいになってしまったでしょ。だから、ジュリーで巻き返したいと思ったわけ」。バタ臭さやお坊ちゃまお嬢様感、不良っぽさと波長が合うのは演歌であるわけがなく、クラシックでもなく、モダンジャズとも少し違った。
 
 二人の出会いは1960年代半ば。慶大生の加瀬が寺内タケシとブルージーンズのメンバーになったころのことだ。「あの頃、ZUZUは加賀まりこちゃんやコシノジュンコさんと三人で集まることが多くて、よく『ご飯食べない?』と呼び出された。どういうわけか男は僕一人だけ。あの三人、ぶっ飛んでたから、普通の男なんかではまともに太刀打ちできない。僕は、なんとなくヘラヘラしていたから、よかったんじゃない?」
 
 ZUZU人脈の迫力は満点だ。その風圧は、フォークソングの吉田拓郎も受けた。1970年代前半、かまやつひろしの誘いで、安井がマンションの自宅で開くパーティーをのぞいたときのことだ。「スリー・ディグリーズの『荒野のならず者』が流れていて、コシノジュンコさんが踊りながら出てきたんです。とんでもないものを見たって思いましたね」。マンションはプール付き。「夜中になると男も女も裸になってプールに飛び込むんです」
 
 吉田拓郎は、「テレビ出演拒否」で芸能界主流に対抗していた。だが、「フォークの連中をどこか嘘っぽく感じていた」と打ち明ける。「ZUZUの家に行って、モデルが裸になったりしているのを見て、『これのためなんだよ、東京に出てきたのは』って。行きたい方向がはっきりした」。正直と言えば、正直すぎる告白だ。当時の若者、とりわけ地方出身者の目に安井や加瀬の世界がどう映っていたかのヒントにはなる。
 
 吉田が受けた衝撃は、安井の本づくりを手がけた編集者矢島祥子の記憶にも通じる。「それはそれは美しい部屋だった。玄関が広くて、高い天井まで届くような大きなドア、壁は赤茶色で、リビングの南側一面には白いブラインド。赤茶色の革製の大きなソファが置いてあった」「私は弘前の出身で、家賃一万一千円の六畳一間の風呂なし電話なしのアパートに住んでいた頃だったので、田舎娘がいきなり都会の洗礼を受けたという感じだった」
 
 こうした別世界を支えていたものは何だろう。この本からは、その下部構造も見えてくる。文筆家玉村豊男の証言。すでに安井作品の量産期を過ぎてからの話のようだが、「ある時、ZUZUは僕に『玉さん、毎日印税入らないの?』と聞いたことがあります。『音楽は毎日入るけれど本は一発出たらお終い』と言うと、『そうなの?』って。カラオケ・ブームも始まってましたから、彼女には印税が毎日入ってきたんでしょう」
 
 作詞は生産性が高い。作曲家平尾昌晃は、安井の仕事ぶりを「鍵かけちゃって、一時間でも二時間でも一人書斎に籠もって書くタイプ」と評しているが、著者はこれと矛盾する目撃談も、加賀まりこの本から引用している。「わたしの城下町」の詞が生まれた瞬間だ。「一緒に出かける予定で迎えに行った私の目の前で、20分で書き上げたのがあの詞だった」(加賀著『純情ババァになりました。』講談社)
 
 この詞に、加賀は「格子戸はくぐり抜けないわよ」と反応したという。後段に「四季の草花が咲き乱れ」とあるのも不自然な季節感で、メロディーをつくった平尾は「ZUZUらしいよね」とあきれ気味だ。ひらめいた言葉をさっと書きとめるのがZUZU流なのだろう。
 
 1960〜70年代は、はやり歌が大量生産され、テレビという太いパイプで家庭に流し込まれた時代だった。印税制度は、そこで巨富を生む。それがバタ臭さやお坊ちゃまお嬢様感、不良っぽさを増幅して、憧れの的の憧れの度合いをますます高めていたのではないか。
 
 この本で友人知人が漏らした思い出からは、今ならば「いかがなものか」と言われそうな安井の一面も見てとれる。彼女が「私はフェリスだから」と口にするのを度々聞いたという話。ある大企業の愛唱歌を作詞して詞の一節にNGの懸念が出たとき、経営者を「○○パパ」と呼んで直接電話で話をつけようとしたという逸話。いかにも昭和風の高ビーではないか。ハラスメントが御法度で、コンプライアンスが第一の昨今の行動基準にはなじまない。
 
 安井は1970年代半ば、ミュージシャンの加藤和彦と結ばれる。これを機に「独身仕様」の生活は「夫婦仕様」に取って代わられたという。この本には、二人の豪奢な暮らしぶりがつぶさに描かれているが、それは当時のバブルな世相と「住む世界」を共有していた。
 
 「あなたとは住む世界が違うのよね」という甘酸っぱい言葉は、バブルが膨らむ前、憧れが成り立つ時代だからこその殺し文句ではなかったか。ほぼ半世紀を経て、僕はそう思う。
《おことわり》著者名にある「崎」は、つくりの上部が正しくは「立」です。

(執筆撮影・尾関章、通算263回)
 
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『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(保阪正康著、講談社文庫)

 今週は、まだ読んでいない本の話から。先月初め、朝日新聞読書面に『過剰診断 健康診断があなたを病気にする』(H・ギルバート・ウェルチ、リサ・M・シュワルツ、スティーヴン・ウォロシン著、北澤京子訳、筑摩書房)という新刊書の書評が出ていた。僕の関心事をずばりと突いた書名だ。いずれ熟読後、当欄でも話題にしたい。ただ今回は、その評者のことを語りたいと思って、この書評のことを書く。
 
 その人は、ノンフィクション作家の保阪正康さん。昭和史の語り部として知られ、日米開戦の真相に迫る著作は有名だ。ただ、それだけではなく安楽死や臓器移植など生命倫理にかかわる本もある。そんなこともあって、書評委員会でこの一冊に手を伸ばしたのだろう。死ぬことがないのに、あるいは症状が出ることすらないのに「あなたは病気」と告げる診断が医療現場に広まっていないか、と問う書物らしい。
 
 この書評で僕が思わず膝を打ちたくなったのは、次のくだりだ。「アメリカの医療技術や医療サービスは優れているのに、過剰診断のシステムがなぜ生まれるのか、本書は具体的に読者に知らせる。製薬資本が背景にあるからといった教条的な見方ではなく、『早期発見は常によいことだという社会的通念』や『(画像)検査により、医者はあらゆる種類の異常を見つける』といった理由が考えられるというのだ」
 
 ここで「製薬資本が背景にあるからといった教条的な見方」をとらないのは、この本を書いた人だけではない。評者に共感があるのだろう。僕もまた、そちらの側に立つ。なにか困った問題があると、かつては原因を下部構造としての経済原理にばかり求めがちだった。だが実は、世の中の通念や人々の行動様式に起因することが意外と多い。そこのところに目をとめ、論点として切りだしたことに僕は敬意を表する。
 
 保阪さんとは、僕が朝日新聞の書評委員だった5〜6年前、委員会の席で月に2回ほどお目にかかっていた。もの書き一筋、重厚で近寄りがたいという印象があったが、その発言の柔軟さから、60年安保世代でありながらイデオロギッシュな思考とは距離を置いてこられたのだろうと思ったものだ。早期発見至上論を絶対視しない医療モダニズム懐疑の書を目ざとくとりあげた感性も、そのことと関係があるのかもしれない。
 
 で、今週は『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(保阪正康著、講談社文庫)。どんな本であるかは、プロローグの一節をそのまま引くのが一番よい。「いまこれを記しているのは、平成十一年(一九九九年)の晩秋なのだが、私が『聞き書き』という旅をはじめて三十年近くの時間が経った。これまで延べ四千人近くの人びとに会って話を聞いてきたことになる。実際にはほぼ三千人の人びとにその人生を確かめてきたといっていい」
 
 単純計算をしてみよう。365×30÷4000を電卓でたたくと、2.73……という数字が出てくる。聞き書きは、ほぼ3日に1人のペースだったことになる。著者のインタビューは、新聞記者が日々の取材で人に会うのとは違う。ピンポイントの論題でデータや見解が得られれば済む話ではない。約3000人の「人生を確かめてきた」というのだから、一回一回が大仕事だったのだろう。それを考えると、驚異的な頻度とは言えないか。
 
 しかも、話を聞く相手はさまざまだ。「社会的に知られた人、とくべつに名もなく市井に生きてきた人、歴史的になにかを成した人、成そうとして成さなかった人、傍観者然として生きてきた人」。この本でとりあげた65人も、知名度の高低はばらつく。大物を並べて悦に入っているインタビュー集ではないのだ。しかも中身は、発言の再録ではない。受け答えの引用は絞りに絞り、著者の思いも溶かし込んで昭和という時代を回顧している。
 
 たとえば、高橋雄次。昭和20年代、兄の昭治とともに海外をオートバイで旅して名を馳せた人だ。著者が出版社に勤めていたとき、年長の同僚だった。だから、この兄弟の項は、例外的にインタビュー体験記ではなく人物観察記だ。1966(昭和41)年にビートルズが来日すると、車に録音機を積み、著者も同乗させて彼らのハイヤーを追いかけた。首都高で運転手に接近並走を命じ、開いた窓越しに「日本の印象はどうだい?」。
 
 これに、リンゴ・スターが「なにやら大声で応じていた」という。追跡劇の後、雄次は「あいつは面白い男だよ。日本の印象なんてあるわけないだろう、今着いたばかりなんだから、だってさ。でもどこの国のジャーナリストも同じだということだけはわかったよ、って言っていたな」。テープには「ただザーザーという風の音とタイヤの音が入っているだけ」。声はかき消されていた。著者の重厚なイメージからは想像もつかない軽やかな青春の一幕だ。
 
 もちろん、重い証言は多い。東條英機の妻カツは1979(昭和54)年、38年前の12月、日米開戦直前の夜更けの出来事を著者に打ち明けた。「タクの寝室から泣き声が聞こえてきたのです」「東條は布団の上に正座し、皇居のほうをむいて泣いておりました……」。これに続く地の文に「カツはしばらく沈黙のなかにいた」。夫の姿が脳裏に甦ったのか、それを史実に残すことにためらいがあったのか。静寂が彼女の想起に現実味を与える。
 
 1988(昭和63)年の秩父宮妃に対するインタビューも含蓄に富む。秩父宮は日英協会名誉総裁を務めた皇族で、英米との開戦には複雑な思いがあったことだろう。著者は「秩父宮殿下は、昭和十六年十二月八日には相当心を痛めたのではないでしょうか」と尋ねつつ、政治的な質問としてダメ出しされるのを心配した。「すると妃殿下は、しばらく答えずに目を中庭に移した」。芝生がきれいに整えられていて「そこを雨が静かにぬらしていた」。
 
 ここでも「しばらくの沈黙のあと、妃殿下が口を開いた」とある。「あの年の秋は雨の多い年でしたね。よく雨が降りつづいたように記憶しています」。なにも語っていないようで、なにかが語られているとは、このことだろう。「私はあの質問を口にしたとき、妃殿下が芝生に目を走らせたときの表情のなかに、ある時代の皇族の苦衷を見たと確信しているのである」と、著者は書く。
 
 僕がことのほか懐かしく感じたのは、戦後史に名を刻む二人の政治家の話だ。1960年安保当時の外相藤山愛一郎と、日本社会党で書記長などを務めたが1977(昭和52)年に党を飛びだした江田三郎。この本には没後、それぞれの息子が語った回顧談がある。
 
 藤山は、父雷太が築いた財を政治につぎ込んだが、自民党総裁選に3度出て3度とも敗れた。「井戸塀政治家」「絹のハンカチ」と呼ばれた人だ。長男覚一郎は言う。「そりゃあ本人自身は総理大臣になりたかったかもしれません。でも家族としてみれば、とても幸せだったと思いますよ」。遅い政界入りなのに外相などの要職に就いたのだから、「これで充分」「まあ、羨しい人生」というのだ。その言葉に著者は「なぜか心が安らぐ思いがした」。
 
 一方の江田は、党内で構造改革路線を掲げ、米国の生活水準や英国の議会政治の良さも認めて、教条的な左派の批判の的となった。父の遺志を継いだ長男の五月は「確かに父はひどい状況でがんばっていた」と振り返りつつ、「いま私がどう思っているかと問われても、憎しみをもっているわけじゃないし、社会党には父に理解を示す同時代の人たちもいましたし……」。著者が『アエラ』誌1991年9月10日号に載せた発言だ。
 
 著者には、この「自制のきいた答」が予想外で、それを聞いて「ひるんだ」という。もっと怒ってよい、ということか。江田は、離党届受け渡しの場を党本部のある社会文化会館にしようとして拒まれた。それは、会館建設の資金集めに奔走したとされる人への仕打ちとして「許せない」と断じる。この義憤の吐露に、あのとき社会党が江田を大事にしていれば党が変わり、日本の政治にも別の展開があっただろうに、という著者の無念を感じる。
 
 政治家が金を集めることに躍起となっていた時代、ひたすら自分の金を使いつづけた藤山愛一郎。硬直した社会主義が優勢だった時代、柔らかな社会改革の絵を描いた江田三郎。どちらも、世の趨勢とは位相の異なる生き方をした政治家だった。そういう人のことを記憶にとどめなければ、僕たちは一つの時代が捕らえそこなった可能性に気づかぬまま終わってしまう。その怖さが、この本を読むと痛いほどよくわかる。
 
写真》名刺の束は、さまざまな人に会ったことの軌跡。その出会いを思い返していくと、時代の断面が見えてくる。
(執筆撮影・尾関章、通算259回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
■原則として毎週金曜日に更新、通算回数は前身のブログ/
コラムを含みます。
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『時の潮』(高井有一著、講談社文芸文庫)

 このブログをどうして書きつづけるのか。そう自問して気づくのは、過去をひとまず記憶につなぎとめておきたいという願望が僕のなかにあることだ。この歳になると、もの忘れが激しいので、後ろを振り返っても自分の通ってきた道がぼやけているということがある。それは、ときに都合のよいこともあるのだが、やっぱりちょっともったいない。経験してきたことをいったん日なたに出して、記憶の整理箱に仕舞い直そうという気になるのだ。
 
 ブログの良さは、それが公開のものというところにある。書き手が僕のような無名人だと世間で広く読まれることはないが、それでも公共のネット空間に浮かんだ状態にはなる。日記はもちろん、自費出版と比べても、公にさらされている度合いは高いと言えよう。
 
 僕は記者という仕事を続けてきたおかげで、歴史的な出来事が起こったとき、その周辺をうろうろしていたことが多い。そういう体験を当欄に書きとどめて、開示しておくことも決して無意味ではあるまい。
 
 今回、ここに書こうと思うのは、1989年1月7日、すなわち昭和最後の日である。その朝、昭和天皇の「崩御」が発表され、午後には新元号の「平成」が官房長官から明らかにされた。その日までが昭和時代ということになっている。
 
 早朝、僕はホテルでたたき起こされた。「ご病状」の取材態勢で、前年秋から会社近くに宿をとることが多くなり、暮れから年明けにかけてはほぼ連日ホテル暮らしだった。宮内庁が動きだしたという手短な電話で、容易ならざる事態を知ったのだった。
 
 社に着いてまもなく、テレビに宮内庁の記者会見場が映しだされ、長官の会見中継が始まった。それを聞いた後、午前中に僕がどんな仕事をしたかはほとんど思い出せない。夕刊の記事には大した貢献をしなかったように思う。午後に入ってからだったか、夕方に東大で天皇の病理検査をめぐる発表があるという連絡が僕の所属していた科学部に届いて、同僚とともに出向くことになった。
 
 忘れもしないのは、築地の会社を出て本郷の東大キャンパスまで、ハイヤーの窓から見た東京の風景だ。冬晴れと言ってもよい晴天で、午後の日差しが柔らかに降り注いでいた。人々が喪に服している日にもかかわらず、どこか解放感のような空気が広がっているのを僕は感じた。それを決定づけたのは、湯島のラブホ街にさしかかったときのことだ。そこには昼下がりに人目をはばかることなく、ホテルに入る男女の姿があった。
 
 何があの空気をもたらしたのだろう。忘年会、クリスマス、新春と、本来ならば賑やかな季節に歌舞音曲を慎んできたので、その「自粛」の重しがとれたことによる反動なのか。いや、それだけではあるまい。「昭和」という旧時代が終わり、「平成」という新時代が始まるという展開に、人々は未来を感じとったのではないか。僕はそこに、元号がもつ魔力を感じないわけにはいかなかった。
 
 僕たちは年月日を表すのに、元号を使うか西暦表記にするかでいつも悩んできた。西暦は、年を数えるにも日本史と世界史を照らし合わせるにも便利だ。僕は西暦派だが、最近は元号の良さも感じるようになった。元号がときどきの世情を象徴していることが多いからだ。
 
 たとえば昭和と平成の区切りは、バブル経済の崩壊とほとんど時を同じくしている。昭和戦後の右肩上がり、それいけどんどんの位相が消えて、落ち着いて足もとを見直さなくてはならないモードに入ったのである。もっと昔に目を向けても、富国強兵の明治の後にリベラリズムの大正が続き、そして軍靴の音が響く昭和戦前に突入した、というように要約できる。これは、ただの偶然か。それとも、改元に人々の深層心理に働きかけるなにかがあるのか。
 
 で、今週の一冊は『時の潮』(高井有一著、講談社文芸文庫)。著者は、若いころに通信社の文化部記者だった芥川賞作家。1932年生まれなので少年期に戦争をくぐり抜け、戦後復興期に青春を過ごした世代だ。この小説の主人公は、著者と同い年の元新聞記者で、新聞社系の子会社に移り、「自分史」の執筆代行などをしている水品慶夫(みずしな・よしお)。冒頭の章は「崩御の日」と題され、「今日、昭和が終った」の一行で始まる。
 
 慶夫は妻との死別後、真子(まこ)という離婚歴のある女性と神奈川県葉山で共同生活をしている。その日、「せっかくの機会だから」「様子を見て来るかな」と言いおいて、海辺の御用邸に足を運ぶ。そこで町内会長に「記帳は済んだですか」と問われ、「見物に来ただけ」とは答えかねて、サインペンで自らの姓名を楷書で記す。名前の「慶夫」は、誕生日が「天長節」の3日後ということで、父が「国家の慶事に因んで付けた」ものだった。
 
 慶夫は、思春期に価値観の逆転を肌で感じた世代だ。だから、どうしても心に屈折がある。御用邸を「見て来るかな」というひと言にも、人に促されての消極的な記帳にも、その折れ曲がった心理が投影している。
 
 その天皇観は複雑だ。「皇太子の“テニスコートの恋”以来の、皇室の大衆化現象にはいかがわしさを覚え、天皇に戦争責任は当然ある、と考える半面で、天皇を天ちゃん、或いはヒロヒトと侮蔑的に呼ぶ風潮は、神経に逆らった」。戦前戦中と戦後では人々が皇室に向ける視線がまったく異なるものになったが、そのどちらにも波長を合わせられないということだろう。世の流れに雷同しない人の苛立ちがそこにはある。
 
 この小説には、1945年の転換点を大人として通過した人の天皇観も出てくる。終戦から間もないころのことだ。慶夫は、天皇が巡幸先で「機械仕掛の人形」のように帽子を振る映像を目にして「見ちゃいられなかったよ」と言う。すると父は、同世代の天皇の立場を慮って反論する。「生身の人間が、全国民の象徴になるなんて、そもそも不可能な事だ」「その矛盾に耐えるお苦しみに較べれば、帽子の振り方が少々おかしいくらい、問題じゃない」
 
 読み進んで気づくのは、昭和には内面に暗がりを隠しもつ人が少なくなかったことだ。きっと、戦争のせいだろう。たとえば、慶夫が「自分史」の仕事でインタビューしたビル経営者。戦時下、満洲映画協会で「いろんな仕事」に携わっていたという。満映理事長甘粕正彦が終戦直後、「大ばくち元も子もなくすってんてん」という句を残して自殺したことを絶賛、慶夫が乗ってこないと「あんたは、英雄が嫌いだな」「要するに、英雄が怖いのだな」。
 
 このインタビューは、新聞記者時代の先輩坂西陽二郎が投げだしたものを引き継いだ仕事だった。坂西は、そのビル経営者を評してこう言う。「あれは感情が死に果てた人間の顔だ。戦争中に何かがあって、それまでとはまるで変っちまった男を、俺が見たのは一人や二人じゃない。あいつはその手の人間の生き残りじゃないのか」「いつか言わなかったか、戦争で揉まれた人間と、そうでない奴等とは、まったく別の人種だって」
 
 その坂西自身、南方の戦地に赴いた戦傷者だった。慶夫が電話で「坂さん、あなたも自分の経験を洗い浚(ざら)い書きませんか」と水を向けると、「俺がそろそろ死ぬと思ってるな」「そしたらそのとき、俺の部屋をかき廻してみな」と思わせぶりに言う。
 
 慶夫は考える。「フィリッピンの敗戦時、ルソン島の山中に逃げ込んで以後の自分について、頑なに口を鎖した坂西が、胸の内に滾(たぎ)るものを吐き出すような手記を、秘かに書き綴っていたとしても、不思議ではない」。その推察通り、坂西はなにかを書き残していたのか、あるいは残さなかったのか。それは、読み手の心を惹きつける読ませどころなので明かさない。ただ、昭和とは秘密を抱えて生きる人々の時代だったとは言えないか。
 
 読んでいて明るさが見てとれるのは、家庭像の変容だ。慶夫は真子に「ぼく等は相交わる二つの円のような関係を保って行くようにしよう」と言う。重なりを「七割以下」にして、それ以上は干渉しないというのだ。男女のありようが変わったのも昭和だった。
 
 慶夫は最初から最後まで、昭和男らしい不機嫌さから抜けきれない。だが、真子が出てきて、それがやわらぐ瞬間がある。その一瞬が、作品の味わいをいっそう深くしている。
 
写真》新聞の欄外にも西暦と元号(朝日新聞の一部を拡大コピー)。僕たちの意識は二つの時間のなかにある=尾関章撮影
(通算238回)
 
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『小説帝銀事件』(松本清張著、新装版、角川文庫)

 夏の本読みで、ミステリーと並んで食指が動くものに重厚なノンフィクションがある。終戦の日とともに過去の記憶がよみがえる、という日本ならでは事情によるのかもしれない。夏休みのひととき、避暑地の緑陰であろうと、街のカフェテラスであろうと、本を開くときには自らの時間軸をいつもよりも長く伸ばせる。史実をゆったりと読み返したいという気分には、ぴったりくる季節だ。
 
 で、この夏もそんな本を手にとったのだが、それを当欄でとりあげようという段になって、ちょっと悩んでしまった。書かれていることが重すぎる。それなのに、どこまでが真実か、ということで確信がもてない。そんな理由からだった。
 
 思えば、新聞記者はいつも、そのことで苦しんでいる。記者は警察の発表であれ、裁判所の判決であれ、科学者の論文であれ、人の言葉をもとに記事を書く。それらは、十中八九ホントの話なのだが、ときにそうでないこともある。文面で「……によれば」とことわり、責任の所在を明らかにしていたとしても、伝え手となった記者は批判を免れない。もっと疑ってかかるべきだった、と深く悔いることになる。
 
 「ホント」でない話には、どんなものがあるのだろうか。取材相手がウソをついていた、というのはわかりやすい例だが、実はそうでないことのほうが多い。その人の思い込みが強かったということがある。記憶違いや計算違いをしていた、ということもある。だから、相手がどんなに誠実な人であっても、その発言に「ホント」を疑わせる要素がないか、記者は冷徹に吟味しなくてはならない。
 
 最近、かつて取材で世話になった科学者から、懐旧と友情の念を込めてこんな話を聞くことがある。「尾関さんの電話はしつこかったなあ。数字をとことん確認してくるんだから」。たしかにそうだ、数字よりもっと大事なことを聞くべきだったのにと猛省しつつ、内心で弁明する。人はだれも記憶を誤り、計算を間違える。だから質問を変えて、いくつかの数値を聞きだし、それらが整合するかどうか検算していたのだ、と。
 
 記者は、事実を畏怖する。だから、ノンフィクションを興味深く読むことはできても、それを論ずるとなると、身がすくんでしまう。この本に書かれていることを、どこまでホントの話として切りだしてよいのか。
 
 それでもやはり語ろうと思った一冊は『小説帝銀事件』(松本清張著、新装版、角川文庫)。「小説」と銘打たれているが、現実にあった事件を実在実名の人物を登場させて描き、真相に迫ろうとするノンフィクション部分が大半を占める。読み手の関心も、そこにあるのだろう。これが「小説」なのは、「新聞記者の回顧という形でストーリーが語られているからだ」(保阪正康さんの巻末解説)。実録に自由度をもたせる一つの方便ではある。
 
 1948年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で起こった毒殺事件。都の衛生担当者を装う男が赤痢の予防と称して行員ら16人に毒物を飲ませ、12人の生命を奪った。自らが先ず、それらしきものを飲んでみせるというトリック含みの犯行。8月にテンペラ画の平沢貞通(大臓鵬菁譴逮捕され、いったん自供するが、まもなく翻す。死刑確定後も再審請求で無実を訴えた。87年に医療刑務所で没。95歳だった。
 
 この本では、平沢画伯クロ説が当初、警視庁主流の見立てではなかったことが跡づけられる。そんな風向きのなかで、一刑事の執念が「平沢貞通容疑者」にたどり着く。それは、足で稼ぐ刑事たちのTVドラマを彷彿とさせるような展開だ。小説家松本清張の心情としては、上層部よりも末端の刑事に寄せる共感が大きかったように思われる。だが、そこで終わらせないのが、歴史家としての清張だった。
 
 警視庁主流が狙いをつけていたのは、旧日本軍の関係者やその周辺だ。毒物の威力や扱い方に精通した巧妙な手口が戦時中の「医療防疫」活動とのかかわりをうかがわせたからだ。ところが、それがあるときからしぼんでいく。
 
 この「小説」の主人公、R新聞論説委員の仁科俊太郎は、検事論告に「捜査陣営内にも、被告人に白説があって、その捜査が統一を欠く嫌いがあった」という一文を見つけて、こう思う。「軍関係の捜査は、どこで消えたのであろう。警視庁主流がラッパを鳴らし全力を挙げて、この方面に立ち向った筈(はず)だ」「しかし、軍関係は途中で潰滅(かいめつ)し、平沢だけが取り残された」
 
  仁科は軍関係の捜査について、記者仲間に聞いて回る。だが、明快な答えは返ってこない。「警視庁では軍関係の捜査は極秘の裡(うち)に行なった。それは種々な考慮、例えばその捜査の一部は占領軍関係の中にも伸びていたし、戦犯問題への配慮もあったから慎重だった」。思い浮かぶのは、戦時中の生物化学兵器研究だ。日本の戦後史に旧軍部からGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に連なる闇をみる清張史観は、そこを見逃さない。
 
 『小説帝銀……』は、1959年に単行本が文藝春秋新社から出た。著者は、翌年には『文藝春秋』誌で「日本の黒い霧」を連載、そこでも「帝銀事件の謎」を再びとりあげた。前年に書いたものに「どうにも納得できず、改めて筆を執ったとされている」(保阪解説)。『小説帝銀……』は、生煮えだったということか。だが僕には、それがかえって好ましいように感じられる。真実が何かを決めつけていないところに説得力がある。
 
 平沢画伯クロ説を支えるものには、「自供」のほかに直接、間接の「証拠」がある。帝銀事件に先立つ類似未遂事件で犯人が用いた名刺、犯人が帝銀で奪い、換金したらしい小切手に残る筆跡、犯人の人相が画伯に似ているという目撃証言、画伯の金回りが事件後によくなったこと……などだ。著者を代弁する仁科は、裁判記録などから検察側、弁護側の主張を並べ、「証拠」のどれもが決定的ではないことを明らかにしていく。
 
 そもそも、この事件には曖昧さがつきまとう。自供の信頼度を揺るがすのは、画伯自身の心の状態だ。「鑑定」では「すぐばれる嘘を平気でつく。企(たくら)みでなく、衝動的な嘘であって、大てい利益は眼中になく、無邪気な嘘である」とされた。
 
 彼は一転犯行を否認すると、金回りの好転は資金援助があったからと言いだすが、名前の挙がったパトロンの一人は捜査当局が探しても「その存在が判らず、結局これは平沢の作り上げた架空の人物ということになってしまった」。これではシロ説の裏もとれない。
 
 画伯と犯人の人相を比べる目撃者の証言もあやふやだ。「だんだん見ているうちに、だんだんちがうように見えてきた」「全体の感じから見て、似ているところもある」「ほぼ似ている、いちおうというより、もっと弱い」「似ているような感じ、ボヤッとした感じ」「体の恰好(かっこう)や、話し方が少し似ている。だんだん見ているとわからなくなる」。これらをどうとるかでは検察側、弁護側の見方が分かれたらしい。
 
 この本が書かれたとき、著者のなかでは「日本の黒い霧」につながる史観がすでに生まれていたはずだが、ここでは、その主張を押しつけず、曖昧さをそのままにして両論を併記した。その作法は、僕がこの本を紹介しようと思ったときに心に呼び起こされた新聞記者的なためらいを緩和してくれる。ノンフィクションは、かくあるべし。抑制の利いた書きぶりによって、著者の提起する疑問点がかえって印象に残る。
 
 仁科は、世間が事件直後に思い描いた犯人像は「医学的経験と毒薬の知識の所有者」だったとみる。「十六人を手もとにひきつけて、『予防薬』の飲み方を講釈し、自らも飲んで見せ、一分間に一挙に仆(たお)した」からだ。そして、当時捜査線上にあがった人物のなかで「皮肉なことに、平沢貞通だけが、この『医学的』な条件を持っていないのだ」。証拠の細部に拘泥する一方で、もっとも素朴な疑問が置き去りにされたとは言えないか。
 
 事件から数十年を経て読むノンフィクションは、それが歴史として確定してしまう一歩手前で、不確定部分の核心を改めてあぶり出してくれる。
 
写真》名刺の交換も事件捜査の手がかりになった=尾関章撮影
(通算226回)
 
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『東京プリズン』(赤坂真理著、河出文庫)

 蝉しぐれとともに戦争を思う。これは、新聞記者という仕事に就いていたからこその習性だろうか。8月に入ると、6、9、15という数列がさっと頭に浮かぶ。広島と長崎の被爆、そして終戦。この飛び石にタイミングを合わせ、1945年の夏をなぞるように「戦争もの」の記事を出す。この作業を、日本の新聞は戦後ずっと、おそらくはひと夏も欠かすことなく続けてきた。
 
 この企画でもっとも優先されるのは、戦前戦中の体験を聞くことである。僕が若かったころは、たやすくそうした話に触れることができた。年長の人たちは、例外なくだれもが戦争の記憶を心に刻んでいたからだ。
 
 翻って2014年はどうか。戦後70年まであと1年。戦中に大人だった人は90歳超か、アラウンド90である。いまなお、戦時に見たこと、聞いたこと、考えたこと、したことを率直にうち明けてくれる人がいる一方、貴重な証言を胸に秘めたまま他界する人も多い。体験談を通じて戦争の実相を伝えていくことが、いよいよ難しい時代になったと言えよう。これから僕たちは、どのように戦争のことを語り継いでいくべきなのか。
 
 ここでふと思うのは、戦争を知らない僕たちが戦後史を記録にとどめることである。戦後の風景をじっと思い返すだけでも戦争の影が見えてくるように僕には思える。
 
 たとえば、1960年代の高度成長。人々を突き動かした渇望感は、戦後の喪失感の裏返しだったとも言えよう。そのことは僕が50年代、幼い目で見た埃っぽい東京を思い起こすと腑に落ちる。駅には傷痍軍人の姿があり、駅前には仮設の店がひしめいていた。
 
 そして、70年前後の学生運動。それは、ただの政治闘争ではなく、口では戦後民主主義を唱えても旧道徳から抜けきれない親や教師たちへの異議申し立てでもあった。これもまた戦争の影である(当欄2014年7月12日付「限りなく∞に近い1970年」)。
 
 戦後史は、すべて戦争に端を発している。戦争の罪深さは戦後にも尾を引いている、ということだ。だから逆説を言えば、戦前戦中世代の体験談を積分しても、それだけでは戦争のすべてを記述したことにならない。戦後史がなければ戦争史は完結しないのである。ところが僕たちは、先行世代が戦争を語るほどには戦後を伝えていない。自分自身が生きた時代の証言を後継世代に残そうとしているようには思えない。
 
 で、今週の一冊は『東京プリズン』(赤坂真理著、河出文庫)。2010年〜12年に『文藝』誌に連載された長編小説で、12年に単行本(河出書房新社刊)が出た。文庫化は今年7月。著者は1964年生まれなので、青春が日本経済のバブル膨張期に重なる世代である。ひと回りほど上の僕の青春が、経済の実のある成長と、その鬼っ子とも言える若者の反抗に特徴づけられるのとは対照的だ。そこに興味を覚えて、この本を開いた。
 
 主人公はアカサカ・マリ。ページを繰っていくと、1980年代初めと2010年前後、10代と40代の彼女が代わるがわるに出てくる。15歳から16歳にかけては米国東海岸に留学している。40代半ばには日本にいて少女時代の自分を思い返している。どちらのマリも夢想の世界に入り、時空をたやすく跳び越える。さらに、母や祖母の話も織り交ざる。過去と現在、米国と日本、仮想と現実を貼り合わせたコラージュ風のつくりだ。
 
 そこに埋め込まれた1本の筋は、日本人少女マリが、戦後35年の米国で天皇の戦争責任を論ずるという課題を与えられる話だ。マリは現地高校で1学年下に編入させられたが、全校生徒の前で「日本について」の研究を発表すれば、本来の学年に戻すと言われる。
 
 マリが、能や歌舞伎のことを話すつもりだと教師に伝えると「そんな石器時代のことを言ってなんになる。現代アメリカ人にとって最も興味のあることはひとつだ」と、たしなめられる。それは「真珠湾攻撃から天皇の降伏まで」だった。期限が近づくと「天皇(エンペラー)の戦争責任のことは、取り上げてくれるね」。さらに「発表」はディベート形式に切りかえられ、「戦争責任あり」の側に立って論陣を張るよう求められる。
 
 苛酷な話ではある。母国ではメディアですらあまり語りたがらない問題を調べ、論理を組み立て、母国語でない言葉で語る。しかも、ディベートは討論のゲームなので、主張すべき結論はあらかじめ宛てがわれている。自分の考えを述べればよいというのではない。マリは、それにどう立ち向かうのか――読み手の楽しみを奪ってはいけないので、ここでは立ち入らない。むしろ、マリ世代だからこそ見えた戦後史の断面を切りだしてみたい。
 
 一つには、米国の見え方。自動車のことをこう書く。「この密室ではなんでも起こる。人は、この密室で起こることに耐えなければならない。いいことも悪いことも、ここで起こる。人はここで暖(だん)をとり、生き延び、屈辱(くつじょく)に耐え、いちゃつき、ときに子を宿し、髪の手入れをし、銃の手入れをし、いざとなれば子を産み、死に、たまには蘇生(そせい)するのだろう。あるいは殴られ、あるいは殺され、あるいは殺すのだろう」
 
 その一方で、こうも言い添える。「でも、どんなに居心地が悪くても、ちがう風景を持ってくるところは車の最大の救いである」「時速八〇マイルで走る車は、暴力的なまでに風景を手繰(たぐ)り寄せては蹴(け)り飛ばす」。冒頭の章で、米国生活を始めてまもないマリが学校の男友だちに誘われ、鹿狩りをしに森に向かうくだりに出てくる一節だ。同じ車には、キスに耽る男女や銃の手入れに余念のない男が乗っている。
 
 巨大な冷蔵庫も皮肉っぽく描かれる。ホームステイ先の母親が大量に買い込んだ食料品を庫内に収める作業中、口にするのは「アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ。はい復唱して」だった。これを言うとき、彼女の指は「指揮者がタクトを振るように」宙を舞う。
 
 僕が少年のころ、自動車と冷蔵庫は米国の自由と豊かさの象徴だった。だが、マリたちの世代にとって米国は、すでに遠くから眺めてあこがれる国ではなく、中に入って体感する存在となっていた。だからこそ、車には「いいこと」だけでなく「悪いこと」も潜んでいることを見抜いたのだ。食生活を冷蔵庫に頼る米国流を屈託なく誇る米国社会の傲慢さを冷やかにとらえたのだ。
 
 もう一つは、日本国内の住まいの変貌だ。マリの実家は東京・高円寺にあったが、バブルさなかの87年、郊外へ移る。「二番目の家は、いつも薄暗いように感じていた。最初の家にある、陰陽のひだのような暗さとは別質の暗さがその家にはあった。くすんだ感じ、と言ってもいいかもしれない」。そこは、谷地を埋め立てた住宅地。20年たっても歩道は仮設のまま。「工事現場を表す黒と黄色の縞(しま)模様の柵の間が、歩道である」
 
 2010年、マリは、母のいるこの家でソファに横たわって目をつぶる。すると、昔の高円寺の家が夢想世界に甦る。その描写は、五感を研ぎ澄ましたもので圧巻だ。「居間と続きの北側の空間は、ひんやりする。ここに食卓がある。さわってみるとべたっとする。私の家の台所に近いものはすべて、水で拭(ふ)いただけではとれない薄い油膜に覆われていた」。ここには、たしかに「陰陽のひだ」、谷崎潤一郎が礼讃したくなるような陰翳がある。
 
 台所には、ダイヤル式の黒電話。マリは母の電話番号簿を見つける。「表紙の裏に、別紙で、私のアメリカの滞在先が書いてあった」。そして、受話器をとり、「母」になりすまして過去の自分と言葉を交わす。おもしろいのは、2010年マリの電話は夢想の出来事だが、1981年マリは、それを現実と受けとめていることだ。この矛盾を作者があえて仕掛けたのは、過去が絶えず想起によって塗りかえられることを示したかったからではないか。
 
 翳りがある昭和の家とアメリカン・ウェイ・オヴ・ライフがつながった仮想の瞬間である。
 
 1980年代は、日本社会の国際化とバブル経済の時代だった。国際化で米国文化に対する崇拝は終わり、バブルで日常空間の質感が変わった。マリたちの世代は、それを肌身で切実に感じた世代と言えよう。この作品で、僕の戦後史はまた一つ豊かになった。
 
写真》今年も戦争回顧の季節がめぐってきた。いまや毎夏の回顧の積み重ねも戦後史の一部になっている=尾関章撮影
(通算224回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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