『技術への問い』(マルティン・ハイデッガー著、関口浩訳、平凡社ライブラリー)

 遠い昔の話だが、高校時代に実存主義哲学者カール・ヤスパースの本をドイツ語で読んだことがある。などというと、僕がおそろしく早熟の少年だったか、あるいはとんでもないひけらかし屋であるかのように誤解されるかもしれないが、そのいずれでもない。
 
 通っていた高校に第二外国語の授業があり、そこで採用されていた読本がヤスパースの論考だったのだ。講演の採録か、雑誌に載った小論だったのではないか。その主題は、原子爆弾にあった。
 
 印象に残るのは、本文中にAtombombeという単語が繰り返し出てきたことだ。「アトムボンベ」という発音を聞いて、ガスボンベのボンベも語源をたどれば「爆弾」なのかと妙に納得した覚えがある。論考の中身は、すっかり忘却の彼方だが、おぼろげな記憶を恥を恐れずに書き記せば、人間は原子爆弾を生みだしたことで人類破滅の危機という限界状況に直面した、という趣旨だったように思う。
 
 どうして哲学者が原爆なのか。あのころの僕には、そんな疑問があった。哲学は個々の人間の内面にかかわる学問のはずだ。実存主義ならなおさらそうだろう。科学技術の産物にそこまで大上段に構える必要はあるまい――もちろん、それは浅はかな決めつけだった。
 
 考えてみれば、哲学者にとって20世紀は大変な時代だった。このことは、一つの思考実験によって明らかになる。ソクラテスであれ、プラトンであれ、アリストテレスであれ、あるいはデカルトであれ、カントであれ、ヘーゲルであれ、古代から近世に至る哲学者がもし20世紀に生き直したら、と問うてみるのだ。彼らの思想は、いま哲学史に記されているものとは、かなり異なってくるのではないだろうか。
 
 そう思えるほどに劇的なことが20世紀には起こった。その立役者は、科学だ。それは知の領分にとどまらず、有史以来の人間の常識を超える怪物を生みだした。「現代技術」である。技術そのものは近代に入ってから着実に進んでいたが、科学が解き明かす自然界深層のしくみがそこに反映されたのは20世紀の出来事だ。その象徴とも言えるのがアトムボンベ――原子爆弾だった。
 
 で、今週は、その時代状況を察知して科学と技術について語った哲学者の本にする。『技術への問い』(マルティン・ハイデッガー著、関口浩訳、平凡社ライブラリー)。著者はヤスパースと因縁浅からぬ仲であり、やはり実存主義の系譜に位置づけられる大哲人である。
 
 この本には5編の論考が収められている。「技術への問い」(1953年)、「科学と省察」(1953年)、「形而上学の超克」(1936〜46年)、「伝承された言語と技術的な言語」(1962年)、「芸術の由来と思索の使命」(1967年)。「形而上学の……」を除くと、講演や講演原稿をもとにしている。具体論にどこまで立ち入っているかは論考ごとに濃淡があるが、通読すると著者の科学技術観を読みとることができる。
 
 まず、「技術への問い」で目を引くのは「現代技術とは自然科学を応用したもの」という通念を「虚偽の見かけ」と断じていることだ。近代科学が17世紀に生まれ、動力技術が18世紀後半に花開いたという史実を認めつつ、「史的確認にとって後のもの、つまり現代技術のほうが、それのうちで支配している本質という点においては歴史的により早い」と言う。ここには、著者の科学と技術を貫く深い洞察がある。
 
 読み進むと「現代技術の本質は、われわれが集-立と名づけるものにおいて示されている」という一文に出会う。「集-立」って何だろう。そう思って、定義らしい記述を探すと、「集-立とは、現実的なものを用立てというしかたで用象として開蔵するよう人間を調達する、すなわち挑発する、あの立てることを収集するものを意味する」とある。どうしてこうもわざわざ難しい言い回しをするのか、と文句の一つも言いたくなる。
 
 これを僕なりに読み解いてみよう。「開蔵」には「こちらへと-前へと-もたらすこと」という意味合いがあるらしい。「現代技術をくまなく支配している開蔵は、挑発という意味での調達の性格をもっている」(引用では、文中にカッコ書きで添えられた原語表記を省く。以下も)とも書かれているから、頭に浮かぶのは、今日の人間がなにものかから役立つものを引きだすことに急き立てられている姿だ。
 
 これは、自然と人間との関係を変える。たとえば、ライン河は水力発電用に「調達」される。詩的風景と対置される川のありようだ。地面にも同じことが言える。「大地は鉱石のために、鉱石はたとえばウランのために、ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達される」という。「ために」「ために」「ために」……核兵器も原子力発電所もそうした「開蔵」の産物だった。
 
 いや、それだけではない。人間自身も「用立てられる」ことがある。著者は、世に広まった「人的資源」という言葉をその証拠の一つに挙げる。「山番は森で伐採された木を測定する者だが」「今日、彼は木材を利用する産業によって用立てられている」
 
 では、どうして技術が科学に先立つのか。「科学と省察」では、現代科学を「現実的なものにたいして不気味に介入する加工」とみる見解が示される。それは「現実的なものがそのつど、働きをおよぼされたものとして、すなわちある設定された諸原因からの予測可能な諸結果として、提示されるようにする」。この営みは、科学者が「モデル化」と呼ぶ作業と重なって見える。
 
 「不気味に介入する加工」の正体は数理依存らしい。「伝承された言語と技術的な言語」では、近代科学が「自然事象があらかじめ計算可能なものであるためには、あらかじめ自然は対象領域としてどのように投企されなければならないか」という問いに制約されていることを指摘する。このくだりでは、量子仮説の提唱者マックス・プランクが示したとされる次の命題が引かれている。「現実的なものとは、測定されうるものである」
 
 著者は、近代科学の「計算可能な対象性にもとづいて自然を観察し記述する」ところをとらえて「現代技術の一変種かもしれない」という。この視点に立って「自然科学が技術の基礎なのではなく、現代技術のほうが現代科学を支える根本動向なのである」と言い切る。
 
 続く論考「芸術の由来と思索の使命」の表現を借りれば、科学は探究領域の「取り出し方」のところで「算定可能性」に「服属」しているのだ。科学は「計算可能」「算定可能」を最優先に、自然を切りだしているということだろうか。
 
 興味深いのは、著者が1960年代の時点で科学技術を見渡して、もっとも強く関心を寄せているのが情報だということだ。そこには、「算定可能なあらゆる世界事象の根本特徴は制御」とみるサイバネティックスの世界像がある。生命科学で細胞内に「遺伝情報の保管庫」が見つかったことで「確実に予想されるのは、いつの日にか人間を科学的-技術的に生産し繁殖できるようになるだろう、ということである」と踏み込んでいる。
 
 ハイデッガーが生きたのは、現代技術が突っ走った時代だった。「今日の人間は、供給のために自然を挑発せよという要求によって、みずから挑発されているのである」(「伝承された言語と技術的な言語」)という技術批判は、至言と言うべきだろう。
 
 その一方で、この本の科学批判が「計算可能」「算定可能」の束縛を見てとるところに重きを置いているのが、ちょっと物足りない。現代科学は自然界に対する「介入」や「加工」をめぐって、より哲学的な難問を発している。量子力学では、観測という行為が物理世界のありようを変えてしまうようにも見えることだ。その結果、自然科学の世界観に人間の主観をどう位置づけるかが大きなテーマとなっているのである。
 
 いまこそ、科学を語る哲学者の出番なのかもしれない。
 
写真》太陽光を捕らえて灯りに用立てる。防災グッズにも「集-立」の原型があるように思える。
(文と写真・尾関章/通算255回)
 
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『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書)

 タイムトラベルへ思いを馳せるSFファンは世に多い。あるいは、アインシュタインの間違いを見つけた、と言い張る人もいる。そのせいか、いまどきのサイエンスカフェ、これまでからある科学教室、科学講演会、科学講座の類で、会場から出やすい質問の一つに「時間」がある。そんな問いが出ると、科学者の科学者らしい話を聞き終えて弛緩した会場に、微笑と苦笑が広がっていく。
 
 どうして、世の中には時間好きが多いのか。あえて理由を探せば、時間には揺るぎなさとあいまいさが混在しているからだろう。揺るぎなさとは、僕たちの人生で過去現在未来の順序は入れ替えられないという掟があることだ。過去に戻れない。未来に飛んでいけない。この常識は、現生人類数十万年の経験にもとづく。だからこそ、タイムマシン願望はSF作品のもっとも魅力的なモチーフになっている。
 
 では、時間のあいまいさとは何か。それは、空間と比べてみるとよくわかる。空間は、〈ここ〉から前後左右に動いても、なんなくもとに戻って来られる。〈ここ〉を幾度でも確認できるのだ。〈ここ〉は、1m先、10m先の〈あそこ〉と切れ目なくつながっていることも実感できる。目で見たらわかる。音や匂いでもわかる。歩いてみれば足裏の触覚でもわかる。そんな実在感がないのが時間ではないか。
 
 空間軸の〈ここ〉に当たるのが時間軸では〈いま〉だが、その正体がわからない。「いまっ」と言った瞬間に〈いま〉は僕のところから消えている。それに〈いま〉から1分後と10分後の違いは、〈ここ〉から1m先と10m先の違いほどにははっきりしていない。10倍であることは時計の針で理解できるとはいえ、体感するのは難しい。確実なのは、1分後の原因がもとで10分後に結果が出ることはあっても、その逆がないことである。
 
 時間にはもう一つ、究極のあいまいさがある。それは、絶対不透明な未来が前途に立ちはだかっていることだ。これは、国連機関の未来予測の話ではない。地球のことなら、たとえ100年後に人類が絶滅しても荒廃した惑星がありつづけるだろうと思い描ける。だが、〈私〉個人の未来は違う。死後については確かなものがなにもない。意識をもって生きるものの宿命として、時間はあいまいだ。
 
 そんなこんなの事情があって、時間は多くの人の興味の的となっている。時間観や時間論は科学界を含め世に数多あるが、いずれも生ある存在としての人間を十分に納得させるだけの答えとなっていない。だからこそそれは、科学者でない人が科学者を交えて議論するのにふさわしい話題なのである。それなのに、科学対話の場では「時間」の話が出ると微笑苦笑を誘うだけで終わってしまいがちだ。残念なことではないか。
 
 で、今週の一冊は『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書)。著者は1947年生まれ。物理学出身だが大学の人文系学部の教授であり、SFも書く。幅の広い視野のなかで「時間」を語るのにはうってつけの人だ。
 
 書きだしの章には、「叱責を受けるのを覚悟でいえば」という断りを入れながら「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」「一方、科学者による時間論は、科学の枠から出ることがない。けっして人間的時間に立ち入ろうとしない」とある。哲学者は古典物理学に囚われ、科学者は日々の実感に無関心に見える、というのだ。僕も常々、そう思ってきた。
 
 著者はまず、時間には三つの顔があるという思考の整理をする。英国の哲学者ジョン・マクタガートによるA、B、C3系列の分類だ。A系列は、「現在」に軸足を置く「人間的時間」。B系列は、日時が「歴史年表」のように「過去から未来に向かって順番に並んでいる時間」。C系列は、ちょっと難しい。それは、「もはや時間とは呼べない」もので「ただの配列」だ。瞬間、瞬間を順序のない並びとみる考え方である。
 
 この本で重きをなすのは、C系列だ。読み進むと、現代物理では時間がC系列の色合いを強めており、物理世界はCの時間観をもって読み解くのが賢明らしいとわかってくる。最後に明かされる著者自身の驚くべき時間観もCのイメージをはらんでいる。
 
 その最終結論に至るまえに、著者は物理学の諸領域を相対論、量子論、素粒子論、熱力学と巡って、それぞれの時間観に切り込んでいく。そこには、ふつうの物理学解説書ではなかなか出会えない新鮮な視点がちりばめられている。
 
 たとえば、相対論の章には、「時間軸が『実』であり」「空間軸が『虚』である」という記述がある。これは、空間を横軸に時間を縦軸にとった図を見ればよくわかる。原点ゼロに立つ人は、立ちどまっていれば時間軸上を未来方向へ進む。ところが、空間軸上の左右移動は一切できない。左右へ動くには図上を斜めに進むしかない。空間移動には時間が必ず伴うのだ。だから、空間軸上の右と左は進入不能の「あの世」だというのである。
 
 量子論の章では、原子や電子のミクロ世界に時間の不在があるということが語られる。量子力学でエネルギーと時間は、一方の値が絞り込まれるともう一方がぼやける関係にあるので、エネルギーの値がきっちり決まった現象では時間の意味が消滅するという。たとえば、原子核の周りの電子がエネルギーの高い状態から低い状態へ落ちるのを、いつどれだけの時間をかけて、とは表現できない。青色LEDでは、これが起こっていることになる。
 
 素粒子論の章に出てくるのは、ミクロ粒子の物理で時間を逆向きにしたり、時間と空間を入れかえたりすることができる、という話だ。時間反転で言えば、粒子の電荷などを逆にした「反粒子」は「未来から過去へ向かって進む粒子」とみてもよいという。ミクロ世界は、出来事の順序が希薄になって「時空というキャンバスに描かれた一覧表」になる。時空込みの話なので、著者はこれをカッコ書きの条件付きで「(相対論的)C系列」と呼ぶ。
 
 熱力学の章では一転、人と等身大のマクロ世界に時の順序が厳然としてある現実に呼び戻される。それを仕切るのは、エントロピー増大の法則。世界は秩序から無秩序へ向かうという掟だ。整理整頓した机がしだいに書類の山になるという日常体験に引き寄せるとピンとくる。この流れは一応、「秩序ある状態の数と無秩序の状態の数を比べたときに、無秩序の数の方が圧倒的に多い」という確率論で説明がつく。
 
 ここに登場するのが生命だ。生体は「秩序なくしては存在しえない」ので、無秩序に向かう流れに逆らわなくてはならない。「それは、エントロピー増大の法則に反することだから、そこには『強い努力』が必要である。この『強い努力』は『意思』以外の何ものでもない。こうして、単なる自己増殖機械にすぎなかった初期の生命は、やがて〈本当に生きる〉ことになる」(〈 〉内は太字)。主観の芽生え、すなわちA系列の時間の誕生である。
 
 これは、一見すると人間原理だ。エントロピー増大則がなければ、その掟に抗う意思は成立しないので、この世界には増大則がなければならないという理屈のように見える。だが、よく読むと、著者の考えはそれとは微妙に異なるようだ。そこにあるのは、世界に秩序の度合いが異なる状態が順序なしに並立するC系列のイメージだ。ばらばらに散らばった状態を順序づけるメカニズムとして生命の意思がある、ということか。
 
 物理学を取材してきた者の一人として、この本には質問を投げかけたい点がある。それは、量子論の難題の多くをミクロ世界とマクロ世界の違いで説明づけていることだ。この論法は、かつては鉄壁に見えた。だが20世紀の終わりに量子力学の検証実験が盛んになって、ミクロとマクロの区分けがぼやけてきている。それでも、この理屈が成り立つのかどうか。僕にとっては未解決の問題である。
 
 締めくくりに書き添えたいのは、著者に対する敬意だ。人間としての好奇心から時間の謎に挑み、批判を恐れず歯ごたえのある論理を組み立てて世に問うたのは素晴らしい。時間を話題にすれば、だれもが哲学者になれる。文理の壁を超え、もっと果敢に論じあえばよい。
 
写真》時間はほんとうに測れるのだろうか。
(文と写真・尾関章/通算253回)
 
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『ドミトリーともきんす』(高野文子著、中央公論新社)

 クリスマスは過ぎたが、正月がある。バレンタインデーの後にはホワイトデー。卒業、進学、門出の春も控えている。贈りものを何にしようかと迷う季節だ。そんなときに思い浮かぶ選択肢の一つが本。押しつけ感はつきまとう。邪魔だなと感じる人もいるだろう。だが、それは茶系統が好きな人に緑のマフラーを贈るのとは少し違う。うまく選んで贈り手と受け手が一つの世界を分かち合えるなら、それはそれで意味深い。
 
 本のプレゼントには定番がある。本命は、おしゃれで気の利いた絵本だろう。幼い子だけでなく、大人がもらってもうれしい。意外なダークホースが科学本か。専門書ではない。やわらかな語り口で宇宙の彼方や太古の生物にいざなう、という類の本だ。
 
 と、ここまで書いて、僕はちょっと立ちどまってしまう。宇宙や太古が歓迎される背景には、科学に「夢とロマン」をみる発想がある。だが僕には、科学者を突き動かしているものが「夢とロマン」とは思えない。
 
 科学者が、ときに休日をなげうち、ときに徹夜もいとわず研究室にこもって実験や考察に没頭するのはなぜか。いまどきの研究者事情を言えば、それはサラリーマンの胸のうちに通じる。成果をあげなくては良い地位に就けない。良い仕事をするための資金も手にできない。そんな身過ぎ世過ぎの心情だ。では、それらを差っ引いて残る根源の動機は何か。科学者の心を大きく占めるのは、世界の見方を転換させたいという欲求のように思う。
 
 誤解を恐れずに言えば、「夢とロマン」という言葉は科学とは疎遠な人がそれをムリムリ身近に引き寄せようとしたときにもちだす方便に過ぎない。僕がいた新聞社でも、科学記者が宇宙論や古生物学などのニュースを出稿したときに編集者サイドが求めてくるのは「読者の夢とロマンをかきたてる書きぶりに」ということだった。読者目線という意味では正解かもしれないが、それでは科学の核心をつかみとれない。
 
 科学心は、「夢とロマン」に浮かれるほどふわふわしていない。そこには硬めの芯がある。それをきちんと伝える本は、クリスマスや新春の贈りものに不向きなのか。そう思っていたら、栗大福のように見た目軟らかで口に入れると歯ごたえのある本に出会った。
 
 『ドミトリーともきんす』(高野文子著、中央公論新社)。著者は、看護師経験もあるという漫画家。この本は三つの漫画作品から成る本で、表題作が真ん中にどんと構える。ここでは、それに絞って科学者の心を読み解いてみよう。
 
 この作品では、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹という名高い科学者がなぜか同年代の学生となって登場、「ドミトリーともきんす」という寮で共同生活するという設定になっている。この寮は物理学者ジョージ・ガモフの著作に出てくるトムキンスに因んで名づけられたようで、ガモフ自身も米国からふらりとやって来る。寮母のとも子と幼い娘のきん子が狂言回しを務めて、これらの科学者が著した一般向けの本が次々に紹介される。
 
 『鏡の中の物理学』(朝永振一郎著、講談社学術文庫)をとりあげた章では、トモナガ君が「なぜ鏡の中の世界では、右と左だけが反対になって」「上と下は、逆さにならないのでしょう」と悩み、とも子が台所でうどんをゆでながら「そういえばそうね」と相槌を打つ場面が、ほのぼのと描かれる。それは重力のせいなのか、それとも人体が左右対称だからか――トモナガ君の思索は、対称性が物理学者の一大関心事であることを映している。
 
 それぞれの章には、当該の著書からの引用もある。朝永は『鏡の中……』に収められた一編で、物理学者が「法則を鏡にうつしたとき、変るのか変らないのか、変るとすればどういう変りかたをするのか」を考えてきたことに触れている。これは「ひじょうに普遍的な問い」であり、そこで得られる答えは「すべての物理法則、ひいてはすべての自然法則を包括して規制するような」「法則の法則とでもいうべきもの」になるという。
 
 素粒子論の分野で朝永の良きライバルだった湯川も、別の角度から物理学者の普遍志向を語っている。まずは漫画のユカワ君。きん子が豆菓子を数えるのを見て「人はなぜ、数をかぞえるようになったのでしょう」「数えるものは豆でもなんでもよろしい」「そもそも数というのはあるのかないのか」と謎めいたことを言う。そして著者は、「数と図形のなぞ」(『宇宙と人間 七つのなぞ』〈湯川秀樹著、河出文庫〉所収)の一節を引く。
 
 そこで湯川は、数えられるものが「牛」であれ「ビスケット」であれ「コップ」であれ、数えるという行為は変わらないとして、こう論ずる。「かぞえられているものの性質は忘れてしまってよろしい。そういう意味でのものすごい抽象化が行なわれている」「この場合、抽象化ということは、同時に普遍化(ふへんか)にもなっている」。数は「個々の事物よりも抽象的であるがゆえに、どこにでも使える」というのである。
 
 これに対して、植物学者牧野富太郎が自然に向きあう姿勢はまったく違う。漫画のマキノ君は新春、寮に飾られた松竹梅を見て植物画の描き初めを提案する。梅の花をルーペでまじまじと見つめ、「五蕚片(ごがくへん)、五花瓣(ごかべん)平開シ」「多雄蕋(しべ)アリテ花瓣ヨリ短シ」とつぶやきながら細密な絵を描く。ここには、普遍よりも個別に目を向ける博物学流の探究がある。科学者は、ひと色ではないのである。
 
 思い出すのは、僕がかつて書評した『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』(ダニエル・ケールマン著、瀬川裕司訳、三修社)だ。同じ理系でも、博物学者A・フォン・フンボルトと数学者C・F・ガウスでは探究の様式が違った。「なんでもかんでも集めて回る。物事の多様さが好きな科学者がいる」「なんでもかんでもひたすら考える。多様の裏に普遍をみようとする科学者もいる」と僕は書いた(朝日新聞2008年7月20日付朝刊)。
 
 『ドミトリー……』からは、湯川や朝永が科学の流れを先読みしていたこともわかる。彼らは物質界の最小要素を追い求める還元主義のただなかにいて、素粒子世界の謎を解き明かした。だが、その限界も強く意識していて次の時代を見通していたように見える。
 
 たとえば、湯川本からのこんな引用。「自然は曲線を創り人間は直線を創る」(「自然と人間」、『湯川秀樹著作集1 学問について』〈湯川秀樹著、佐藤文隆編集・解説、岩波書店〉所収)。人は人体のような「曲線的な外貌」からも「直線的な骨格」を見いだすので「自然法則のほとんど全部は、なんらかの意味において直線的」と評しつつ、「しかしさらに奥深く進めば再び直線的でない自然の神髄に触れるのではなかろうか」と問いかける。
 
 ここで、湯川が自然界の曲線として挙げるのは「丘陵の輪郭」や「草木の枝の一本一本」「葉の一枚一枚」だ。科学界では20世紀後半に還元主義の行き詰まりが見えてくると、自然界を大局的にとらえる流れが台頭した。フラクタル理論もその一つ。山の稜線や木の枝分かれ、葉脈の分岐などのかたちに、遠ざかっても近づいても同じに見える入れ子構造を見いだした。湯川の予感通りに「直線的でない自然」を相手にする科学は芽吹いたのである。
 
 朝永の批判意識も鋭い。この本は、『朝永振一郎著作集 別巻2 日記・書簡』(朝永振一郎著、みすず書房)の「滞独日記」にある「物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な作りもの」という言葉を紹介している。「一度この作りものを通って、それからまた自然にもどるのが学問の本質そのものだろう。しかし、これでとらえられない面がものごとにはあるにちがいない」。自然を、単純化したモデルで考える手法は万能でないというわけだ。
 
 朝永は「活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう」と続ける。モノの動きをコマに帰着させるのはまさに還元主義だ。「これは何といっても無理にかたづけたもの」と過信を戒めている。
 
 突き詰めて言えば、科学とは世界をどう見るかということだ。その見え方は関心の向かう先が普遍か個別かで違ってくるし、要素か大局かでも異なる。一つ言えるのは、それは科学者だけのものでないことだ。科学がたとえ夢とロマンでなくても、科学本は贈りものになる。
 
写真》クリスマスの次はお正月。贈りものの季節は続く=尾関章撮影
(通算244回)
 
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『驚くべき雲の科学』
(リチャード・ハンブリン解説、村井昭夫訳、英国気象局制作協力、草思社)

 台風がたてつづけに襲来する秋だった。とりわけ18号と19号が10月に2週連続で上陸したのには打ちのめされた。今年は広島土砂災害があった。御嶽山の噴火もあった。自然はどうしてここまで日本列島を痛めつけるのか。そんな思いに駆られてしまう。
 
 18号と19号は太平洋上に赤ちゃん台風として姿を現したころから、テレビの天気予報の話題になっていた。天気図には扇形の進路予想が描き込まれている。その曲がり方を見ながら僕が思ったのは、台風はなぜ、こうも意地悪く日本列島に沿うように右折するのか、ということだ。もっと手前で東に転進してくれれば、せいぜい暴風圏の外縁がかすめるくらいで済むではないか。
 
 ここでふと気づくのは、僕たちが台風を生きもののように感じていることだ。太平洋の水面に突然現れた怪獣がのっそのっそと迫りくるイメージか。それどころか、人格まで付与して擬人法で語りかけることもある。「なんで、そんなところをうろうろしてるんだ」「いやな奴だなあ」「もっと早く曲がってくれよ」。口に出さないまでも、心のなかでそんなふうにののしる自分がいる。
 
 この台風生きもの論は、的外れではない。モノかコトかという点で両者が似ているからだ。台風は、生きものと同じように実体を伴う。だが、ふつうの実体ではない。僕たちには篠つく雨や吹きつける風として認識されるが、その雨滴も空気もおそらく太平洋の真ん中から運ばれてきたものではない。日本列島に近づいてから調達されたものだろう。生きものが外界から水や栄養や酸素を摂って、絶え間なく自らの体をつくり直しているのと同様だ。
 
 台風とは何か。それは洋上で生まれ、勢いを増しながら移動する。海面からたちのぼる水蒸気というモノを吸い込みながら、対流現象を渦状に持続させるコト――生きものの本性が生き延びるコトであるように、台風の本質もたゆみなきコトにある。
 
 生きものは、餌を求めたり、光や熱を好んだり、あるいはそれらを嫌ったりしながら動きまわる。台風も地球の表層、海陸の環境条件に左右されて進路を変える。日本列島直前の意地悪な右折も、それがなせる業だ。台風が生きものに見えるのも故なしとはしない。
 
 で、今週の一冊は『驚くべき雲の科学』(リチャード・ハンブリン解説、村井昭夫訳、英国気象局制作協力、草思社)。当欄としては異例の「見る本」である。事実上の著者と思われる解説者はロンドン在住の科学ライターという。
 
 今回、この本を選んだきっかけは一枚の写真にある。台風19号を国際宇宙ステーションからとらえたものだ。それを、朝日新聞「天声人語」の筆者は「ロシア民謡の『黒い瞳』を連想した」「みっしり渦巻く雲の中心に、ぽっかり開いた『目』が写っている」と書いた(朝日新聞2014年10月13日付朝刊)。稠密なモノの真ん中にあるモノの不在、という感じか。台風がモノよりもコトであると実感させてくれる力が、画像にはある。
 
 雲そのものが、やはり生きもの的なコトにほかならないと教えてくれるのが、この本だ。約90枚の掲載写真は、めったに見られない風変わりな雲をとらえたものが多い。地上から見上げたものばかりでなく、宇宙空間から見下ろしたもの、飛行機の窓越しに真横からとらえたものもある。撮影者には雲マニアもいるし、パイロットもいる。シャッターチャンスの妙と複数の視角が、空に浮かぶ雲も実は動的な現象であることを見せつける。
 
 「イントロダクション」の章にこうある。「かの哲学者デカルトは1637年に『雲はたくさんの雪が密集してかたまったものにほかならない』と述べている。物質という面に限って言うならば、彼の言葉は正しい」。雲は上空にある氷や過冷却水滴の集合体だから、H₂Oという点で正解というわけだ。過冷却水滴とは、氷点下でも液体のままでいる水のことを言う。先哲も、まずは雲をモノとしてとらえていたのである。
 
 ところが、それはただのかたまりではなかった。このイントロ後段では「雲たちはいつも私たちの注目に応えてくれる。というのも、雲に何も起こっていないと言える瞬間は決して存在しないからである。変わり続け動き続ける自然現象の中で最もダイナミックな構造物であり、普段は見ることができない荒れ狂う大気のプロセスを明らかにしてくれる」という記述に出会う。当欄では、そのダイナミズムを画像に頼ることなく紹介してみたい。
 
 ひと言ことわっておくと、掲載写真の信憑性については「疑問が何度か持ち上がった」と著者も打ち明けている。世間には、画像処理による「フォトショップ雲」も出回っているらしい。だが周到な確認作業の結果、その種の雲はこの本に「存在しない」と言い切っている。
 
 僕が強烈な印象を受けたのは、「フォールストリーク・ホール(穴あき雲)」だ。「過冷却水滴でできた雲が一部だけ急激に凍結し、できた氷の結晶が大きな穴を残して落下してしまうことによって生じる」。パイロットが「仕事場の窓」から撮ったその上空写真は「大きく広がった高積雲が沈む太陽によって下方から照らされて、中央部に煮えたぎった溶岩の湖があるように見えている」。高積雲は「ひつじ雲」。その雲の絨毯に現れた「湖」が穴だ。
 
 穴あき雲を下からのぞいた写真もある。オレンジ色に染まった雲から刷毛ではいたような噴流の筋が斜め下に延びている。氷晶を「夕方の空に放出している」ところだという。大気が雨を降らす条件になければ「落下する氷晶は暖かい空気を通過する間に昇華(この場合は固体から直接気体になること)して、地上に届く前に消えてしまう」。僕たちのあずかり知らない上空で、氷ができたり、その氷が水蒸気に戻ったりしているわけだ。
 
 もう一つ興味深いのは、「レンズ雲」だ。南スペインやニュージーランドなどさまざまな地域のものが載っている。ひと目見たところ、まるでUFO(未確認飛行物体)のようなものもある。「山岳地域ではそれほど珍しくない光景であり、安定で湿った空気層が山岳地形の影響で上昇させられ、水蒸気が凝結することでできる」。興味深いのは、その円盤形の雲が止まっている秘密が「定在波」だということだ。
 
 この本は聞きなれない言葉に訳注を添えており、「定在波」にもそれがある。「波形が進行せずその場に止まって振動しているように見える波動のこと。気流の定在波の頂上に雲ができると、その雲は空中に静止して動かないまま長時間存在する」。なるほど。理系出身者にはピンとくる人も多いだろうが、定在波は原子核の周りの電子のありようを量子論でとらえたときに出てくる。それと同じような波が山岳地帯の気流にも現れるらしい。
 
 地球上のあちこちに円盤が浮かんでいる。仮に万一、著者らの厳しい目をすり抜けて「フォトショップ雲」がこの本にひとつ紛れ込んでいたとしても、UFOそっくりのレンズ雲が存在することは間違いなさそうだ。頭上の円盤を宇宙人の来訪とみるのは早計に過ぎる。
 
 この本には、飛行機雲もたくさん登場する。それは、マイナス数十度の上空で「飛行機からの排気で放出される水蒸気によってできる」。地球の大気は、たかだか数百人の人間の営みに攪乱されるほど敏感だと言ってよいのだろう。「過去半世紀間の航空産業の発展の結果、飛行機雲はその影響が理解されないままに、世界で最もありふれた雲になった」という一文には思わずはっとさせられる。
 
 これに続けて紹介される話は示唆に富む。米国では2001年9月11日の同時多発テロ直後の数日間、商業飛行が禁じられたという。この間の気象データを見ると「昼間は少し暖かく、夜は少し低温となったことがわかった」。このことをもって、北米大陸の空に網の目のように走る飛行機雲が米国の気象を左右していると即断すべきではないだろう。だが、じっくりと解き明かしてみたい謎ではある。
 
 僕たちは今、地球環境のダイナミズムをさまざまな角度から視覚にすくいとれるようになった。それは、先哲デカルトにはできなかったことだ。「見る本」を手に、この惑星で起こるコトの本質に迫りたい。科学記者を続けてきた一人として、そう思う。
 
写真》コーヒーにも渦というコトが見てとれる=尾関章撮影
(通算237回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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『イデオロギーとしての技術と科学』
(ユルゲン・ハーバマス著、長谷川宏訳、平凡社ライブラリー)

 真夏なのに背筋を寒くさせる話に、通信教育大手の顧客情報流出事件がある。子どもたちの個人データが名簿業者の手に渡って売り買いされているらしい、という気味の悪さはもちろんある。だが、それ以上に怖いことがある。ザクッと言えば1000万人規模の人々の住所、氏名、生年月日などがいともたやすく、一人の人物を介してA社からB社に届けられるという現実である。
 
 これだけの量の情報を紙の文書にしたら、どのくらいになるのだろうか。氏名プラス数項目の特性なら、1人分をなんとか1行で記述できる。A4判1枚に50行、50人分は収まるだろう。両面印刷で1枚に100人。全体で10万枚の紙が要ることになる。これは、厚さにしてどれほどか。200ページの本はざっと100枚の紙でできている。そうしてみると、1000冊の本を重ねたくらいの分量ということになる。
 
 大したことないな、と思える数字ではある。名簿を運びだすには、段ボール箱数個に詰めて台車に載せればどうにかなる。ただそれは、引っ越しのときの話だ。情報だけを秘密裏にに入れるには複写の手間がかかる。10万枚をこっそり両面コピーするのは難作業だ。
 
 だとすれば、今回の流出事件の陰の主役は手のひらに載る記憶媒体ではないか。どんな媒体が使われたのかはともかく、大容量のものが介在したことは間違いないだろう。動画でもどんどん吸い込む数十ギガバイト級なら、文字列の保存は朝飯前のはずだ。
 
 で、僕が思うのは、この出来事を被害者の視点だけで見てはいけないということだ。僕たちは、悪意の漏洩犯にならなくても、過失漏洩の当事者にはなりうる。会社や役所でコンピューターを扱っている人は、ちょっとしたことで個人情報を流出する側に回ってしまう。マウスの操作でポインターの置き場所を誤り、だれか一人に送るべきメールを一斉送信してしまったというようなミスは日常よく見られることだからだ。
 
 USBメモリーにデータを移すとき、手違いで個人情報満載のファイルもコピーしてしまったとする。そのメモリーを入れたかばんをうっかり電車に忘れたとしよう。不運にもそのかばんが良からぬ人物の手に渡ったら……。個人情報ファイルはパスワードなどで守られていることが多いが、そういう対策がとられていないときに「手違い」と「うっかり」と「不運」が重なると悪夢のシナリオが待っている。これは善意の人にも起こる災厄だ。
 
 20世紀後半の電子工学は、素子の情報密度を高める道をまっしぐらに進んできた。回路の集積度は、半導体素子の線幅を細めることで高まる。いまや、数十ナノメートルという極細の配線でエレクトロニクスが成り立つようになった。
 
 心にとめておきたいのは、そういう技術の進展で僕たちは自らの行動様式を改める必要に迫られているということだ。書類だけを相手にしていた20世紀人と違って、指先の動きにまで細心の注意を払わなくてはならない。それは、ハンコを上下逆さに押したらまずいという域をはるかに超えている。ぼーっとしていたら、全人口の何割かの個人データを全世界にまき散らし、数百億円規模の損害を引き起こすこともありうるのだから――。
 
 そこで、今週は『イデオロギーとしての技術と科学』(ユルゲン・ハーバマス著、長谷川宏訳、平凡社ライブラリー)。書名にとられた論考など5編から成る。著者はドイツの社会哲学者。1929年生まれで、第二次大戦後の世界を見つめ、語ってきた論客である。この本の原書が出たのは1968年。プラハの春、パリ五月革命、ベトナム反戦や大学紛争の高まりがあり、既成社会に対する異議申し立てが世界同時に炸裂した年のことである。
 
 この年にドイツで、まだ若手と言ってよい哲学者が「技術と科学」に焦点をあてた論考を上梓していたことの意味は大きい。時代を的確に先取りしていたというべきだろう。平凡社ライブラリー版の初版第1刷は2000年。第2刷は2012年のことだ。遅い二刷りは、3・11後の日本社会で「技術と科学」への向き合い方を見直す機運がようやく高まったことの表れとみてとれる。
 
 著者の技術観はこうだ。「技術の歴史は、目的合理的行為が一歩一歩客体化される過程、という視点から再構成することができる」のであり、「技術の発展は、最初は人間の有機的身体のもとにあった目的合理的行為の機能範囲の基本的な要素を、人類がひとつまたひとつと技術的手段の平面に投影し、自身は当該の機能から解放されていく過程」と解釈できるという(論考「〈イデオロギー〉としての技術と科学」)。
 
 「運動装置(手と足)」「(人間の身体の)エネルギー産出機能」「感覚装置(目、耳、皮膚)」の働きが次々に「技術的手段」にとって代わられ、ついには「中心制御装置(脳)」に至る。USBメモリーは、技術がそこにたどり着いたことを物語っていると言えよう。
 
 著者は、こうした技術が社会に取り込まれるとどうなるかを考察する。人間は「目的合理的行為の構造が社会システムの水準に投射されたあかつきには、homo fabricatus〔工作される人〕として、技術的装置のうちにみずから統合されもするのである」。homo fabricatusは、旧来のhomo faber〔工作する人〕に対置させた概念だ。マウスの誤操作がないかどうかでびくびくしている自分は機械の一部だなと自嘲しつつ、この指摘にうなずく。
 
 その技術観をもとに著者の批判が向く先は、ドイツ観念論が台頭した18〜19世紀以来、知識人の間に浸透してきた科学観だ(論考「技術の進歩と社会的生活世界」)。科学理論が実践面で力をもつには「理論にかかわる人間自身の生活態度に理論の刻印がおされ、宇宙全体の理解をもとに自身の行為の規範もしめされ、かくて、哲学的教養人の行為をとおして、理論がその具体的なすがたをあらわすことによるほかはない」という立場である。
 
 これに対し、著者は現代科学の実態を突きつける。「研究の過程は、技術への転換や経済的利用とむすびつき、科学は、工業社会的な労働システムにおける生産や管理とむすびついている」。いまや「科学は教養をたかめる、というドイツ観念論の信念」は色褪せたという。
 
 この指摘に、僕はちょっとたじろぐ。宇宙論や素粒子論のような実益に直結しない純粋科学の意義を言うとき、それは文化の一部だ、と僕自身が言ってきたからだ。科学イコール文化論はドイツ観念論の名残と言えないこともない、というのが反省点。だが、その一方で、「技術への転換」や「経済的利用」や「工業社会的な労働システムにおける生産や管理」とかかわりの薄い科学もある、と弁明したい気持ちが心の片隅にある。
 
 ただ、「工作される人」に変質した現代人に、昔風の教養の効能が通じないのは確かだろう。純粋科学の研究者は、自らの探究の果実が「社会システム」の「技術的装置」に組み込まれた人間に何をもたらしうるのかを自問しなくてはなるまい。
 
 著者は「教養は、もはや、個人的行為の倫理的次元だけを相手とするものではありえない。むしろ、政治という中心的な領域においてこそ、科学的に説明された世界了解にもとづいて行為に理論的な指針があたえられる、というようでなければならない」という。時代が求める教養は、私的なものではなく公的なものになった、というのである。目を引くのは「世界了解」という言葉だ。そこには、純粋科学がもたらす世界観も含まれるだろう。
 
 この本には、科学ジャーナリズムを語った一節がある(論考「政治の科学化と世論」)。著者によれば、新聞の科学欄などは研究情報を「科学外の公共世界」に出す働きがある。科学を「日常語」で語るからだ。この情報ルートは、科学者が異分野の様子を知るのに役立つ。そして「科学と政治的公共世界の大衆との、危機にさらされたコミュニケーションを再建するうえでも、有利に働いている」。科学ジャーナリストには励みとなる一言である。
 
 再び「〈イデオロギー〉としての……」。未来学者ハーマン・カーンの知見を借りて「むこう三三年間」に予想される技術が列挙されている。たとえば「脳と直接に交信」。実験は進むが、僕たちにとってもまだ次世代技術だ。ハーバマスを読むのは今からでも遅くない。
 
写真》USBメモリーと書物。1冊の本もバイト数で数値化される時代になった=尾関章撮影
(通算223回)
 
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『死ぬまでに学びたい5つの物理学』(山口栄一著、筑摩選書)

 先々週の当欄で「数学がもともと苦手な僕には取り越し苦労かもしれないが、現実世界では数学的になることをほどほどにして……」と書いた。そうしたら、拙稿を「文理悠々」時代から読んでくださっているMayumi Takagiさんから「科学部門記者として数学は必要なのではないかと思うのですが」と突っ込まれてしまった(2014年7月4日付「サッカーと数学、そして小川洋子」コメント欄参照)。
 
 これに対するコメントで僕は、数式をじっとにらんでその意味するところがザクッとわかるくらいでも「科学は十分に味わえる」と弁明した。数式の理解は、xがふえればyは減る、pがふえればqは急速にふえる、といった感触を得るくらいでも、そこに込められた世界観を垣間見ることはできる、と言いたかったのだ。式が語りかけてくる深遠で芳醇な世界観を科学者だけのものにしておく手はない。
 
 で、今週は、そんな僕の考えを強めてくれる一冊。『死ぬまでに学びたい5つの物理学』(山口栄一著、筑摩選書)という今年5月に出たばかりの本だ。著者は1955年生まれ、東京大学で物理学を学び、NTT基礎研究所の研究者などを経て京都大学大学院総合生存学館の教授になった。「総合生存学」という言葉は耳慣れないが、京大のサイトによれば「文理融合能力」や「俯瞰力」を重んずる学域を指しているらしい。
 
 序章にはさっそく、僕たちが数式とどう向き合ったらよいかについて著者の助言が出ている。「心配は無用」と切りだして「最初から最後まで、一つ一つ理解する必要はありません。面倒なら飛ばしてもかまいません。ぼんやり眺めるだけでもいいと思います」。
 
 そのうえで、こう書き添える。「物理学という学問が、この世界をどのようなスタイルで把握しようとしているのか。『人類のもっとも美しい物語』はどのような形で描かれているのか。このわずかな数字とアルファベットの連なりに、この世界の成り立ちを知る手がかりがあることを、どこかで知っておいてほしい」。世界の本質が「わずかな数字とアルファベットの連なり」に凝縮されている。そのことへの敬意は必要だということだろう。
 
 「5つの物理学」とは「万有引力」「統計力学」「エネルギー量子仮説」「相対性理論」「量子力学」だ。いずれも、世界の見方を一変させる概念をはらんでいる。「量子仮説」と「量子力学」はひとつながりだが、著者がそれを分けるのは、節目となる発想に焦点をあてているからだ。ニュートン、ボルツマン、プランク、アインシュタイン、ドゥ・ブロイ、シュレーディンガー、ハイゼンベルクといった物理学者が次々に登場する。
 
 今回はあえて、とっつきにくい量子力学をとりあげたい。著者がまず目を向けるのは、1923年に「物質波」を提案したフランスのルイ・ドゥ・ブロイだ。1900年にマックス・プランクの量子仮説が生まれ、5年後にはアルバート・アインシュタインが光にも粒子の側面があることを理論づけた。「波と思われていた光はじつは粒子でもあったのだから、逆に粒子と思われていた電子が波であってもいいのではないか」。それが物質波の着想だ。
 
 ここには、物理学者の美意識が反映されている。波が粒なら粒も波、という二面性を肯定する強引な推論は、世界の根底に対称美をみたいという欲求の表れと言ってよいだろう。それを手助けしたのが数式だった。
 
 ドゥ・ブロイの思考を、著者の案内を頼りに数式でなぞってみよう。量子仮説や特殊相対性理論によると、光の粒、すなわち光子の運動量pは、定数hを光の波長λで割ったものになる。式で表せばp=/λ。ここで右辺と左辺にλを掛け、pで割るとλ=/pという式が得られる。これを眺めていると、運動量がpの粒子は波長λがh/pという値をとる波だと考えてもよいことに気づく。数式が物質のイメージを粒から波に変えてくれるのである。
 
 ドゥ・ブロイは87年、94歳で死去した。そのころ、僕は物理担当の科学記者だった。だから、この年の3月20日付朝日新聞朝刊で時事通信電の訃報本記に添えられた無署名の短行解説は、たぶん僕自身が書いたものだ。「この死亡記事はきちんと扱うべきだ」と部内で言い張った記憶もある。量子力学の建設に貢献した物理学の巨人たちが次々に世を去り、最後の巨星が墜ちたという感があった。科学史の区切りを告げる出来事に思えたのである。
 
 この解説のなかで、理論物理学者の高林武彦さんはこんなことを言っている。「実験家の頭の片隅にもなかった物質波のアイデアを提起した点で、今世紀屈指の理論物理学者だった」。それは、この本の著者が主張していることと見事に重なる。
 
 著者によれば「ドゥ・ブロイが物質波概念にたどりついた瞬間」はabductionだという。この言葉には「誘拐」の意味もあるが、ここでは「創発」と訳されている。米国の論理学者チャールズ・パースが、演繹(deduction)でもなく帰納(induction)でもない知的作業としてもち込んだ概念という。驚くべき事実が見つかり、それが一つの仮説の当然の帰結とみられるとき、仮説の正しさには根拠があると結論づけることだ。
 
 創発は、事実から仮説を導く点で帰納に似ている。ただ、創発にはパラダイムの破壊が伴う、と著者はみる。ここでパラダイムは「自然を人間が認識する仕方」を指す。ドゥ・ブロイの発想は量子力学の建設に向けて「『物質』概念を飛び越える最初の飛躍」だったという。
 
 この飛躍は20年代半ば、オーストリア生まれのエルヴィン・シュレーディンガーによって美しい波動方程式に結実する。ψ(プサイ)という文字で表される物質波が、時々刻々どのように変わっていくかを記した数式だ。量子力学は、このシュレーディンガーの波動力学と、もう一つ、ドイツ生まれのヴェルナー・ハイゼンベルクが同時期に築いた行列力学によって完成した。その二つは「数学的に同等」であることが、やがてわかった。
 
 物質波とそれを表現する波動方程式は、いま再び熱い視線を浴びている。20世紀最後の20年で実験技術のハイテク化が進み、物理世界を成り立たせているものが粒でもあり波でもある、ということの現実味が一気に高まったからだ。それは、量子情報科学という新しい探究分野を切りひらき、物理世界のありようやそれと向き合う人間の認識について、僕たちの既成概念を改めて問い直そうとしているのである。
 
 そう考えると、数式はスゴイ。p=/λを見つめてλ=/pを思わなければ、量子力学は波動力学なしに行列力学一本でできあがったかもしれないからだ。そうなっても量子力学が今のように深みのある問いをはらんだかどうか。科学史のイフとしてはおもしろい。
 
 もう一つ、「統計力学」の章に書かれている別の数式も紹介しよう。オーストリアのルートヴィッヒ・ボルツマンが見いだしたエントロピーの公式S=logWである。ここで、Sはエントロピー、kは定数。logWは、Wの自然対数という意味で、この本ではlogの右下に小さくeの文字を添えているが、ここでは技術的にできないので省いた。そしてWは、ミクロ世界がとりうる「場合の数」。液体分子の状態が何通りあるかというようなことだ。
 
 これをザクッと言えば、エントロピーとは、マクロの人間からは見てとれないミクロの状態数の目安ということになる。物事が秩序から混乱へ推移するとき、エントロピーが増大している、と僕たちは言う。これは、見えない世界の状態を一つに見極めることからどんどん遠ざかっていく状況を言い表している。本の山の乱雑度が高まるほど探しものの書物を見つけにくくなるのは、この理屈による。
 
 ここにも、僕たちの世界観、いや、それほど大げさでなくとも生活感覚を豊かにしてくれる数式がある。僕は数学が苦手だが、数式を毛嫌いするのはやめよう。数式はスゴイ、そして味わい深い。
 
写真》物質の本質は粒であり、波でもある=尾関章撮影
(通算221回)

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『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』(仲野徹著、岩波新書)

 夏になると思い出す甘酸っぱい体験がある。恋の話ではない。プールの話だ。中学校時代、学級別の水泳大会があり、僕は自由形で出場した。泳ぎが得意でもないのに、なんでそんなことになったのだろうか。たぶんその年、自分なりにはクロールが上達し、うれしい気持ちが先に立って、思わず手を挙げてしまったのではなかったか。結果はさんざん。50mをほかの選手の倍の時間をかけて泳ぎきった。
 
 これだけならただ苦いだけの話だが、数日後にもう一つ、忘れがたい思い出が加わる。社会科の先生が授業のはじめに僕の完泳をたたえたのである。なにごともあきらめないことが大切なんだ、オゼキくんはそれをやって見せてくれた――記憶から抹消したいことを改めてもちだされて、僕はちょっと辛かった。だが、一生徒の孤独な闘いをじっと見つめてくれていたことには心打たれた。
 
 僕たちの子ども時代を振り返ると、「努力」という言葉は学校生活の価値観で至上の地位を占めていた。オール1でも一生懸命に勉強すればオール5になれる――そんな建前が厳然としてあった。もちろん、そういう成功物語はなかなか叶わない。ただ、それでも望みを捨てず、努力を重ねることが称揚されたのだ。僕のへたくそなクロールは、その恰好の見本だったのかもしれない。
 
 背景には、戦後思想があったように僕は思う。子どものもって生まれた素質ではなく、育っていくときの環境を重んじる考え方だ。さらに一皮むくと、背後に旧ソ連でスターリン政権に後押しされて広まったルイセンコ学説の影がちらつく。
 
 農学者トロフィム・ルイセンコが唱えた説で、環境要因で身についた性質が親から子へ受け継がれるという。秋まきの小麦を春まきに変えられるということで増産第一の農業政策に取り込まれ、反対する学者に対する粛清もあった。政治イデオロギーが根拠の乏しい仮説をもちあげて科学を歪めた代表例。53年にDNAの二重らせん構造が見つかり、遺伝子の正体がわかるにつれて真実味が薄れ、やがて影響力を失った。
 
 もちろん、あの社会科の先生が、ルイセンコ学説を信じていたとは思わない。組合運動にかかわっていたかどうかを詮索する気もない。だが、あの時代、志をもった若手教育者の間にみなぎる空気は「素質よりも環境」だったのではないか。
 
 それが、ここ数十年でがらりと変わった。遺伝子と、それをかたちづくるDNAの時代の到来である。2003年には人のDNAの総体――ヒトゲノムが完読された。医学の領域では、遺伝子の異常で起こることがはっきりしている遺伝病だけでなく、生活習慣病でもその病気のかかりやすさが遺伝子レベルで解明されつつある。僕たちの一生は、かなりの程度までDNAに左右されているらしい。そう感じざるを得ない発見が相次いでいる。
 
 そんな科学の流れを映すように、最近の教育談議では、リベラル派も素質の大切さを言うようになった。勉強が苦手でも絵が上手な子がいたとしよう。そういう子には、勉強の無理強いはやめて絵の才能を伸ばしてやるべきだ――という具合に。
 
 そんなDNAの時代に、その揺り戻しのような学問が現れた。エピジェネティクスという。ジェネティクスは「遺伝学」、接頭辞のエピには「上」「外」「後」といった意味がある。生物の性質を決めるものはDNAだけではない、とみる新しい生命科学だ。今年、世間を騒がせているSTAP細胞も、実はこの話につながる。で、今週の一冊は『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』(仲野徹著、岩波新書)。
 
 著者は1957年生まれ。大阪大学で幹細胞などを研究する医学者だ。心惹かれるエピソードをふんだんに盛り込み、わかりやすさに工夫を凝らしている。だが、読むほうは、細部に入るとしんどくなる。「活性型ヒストン修飾であるH3K79のメチル化を生じさせるヒストン修飾の書き手酵素であるDOT1Lも、複数のMLL融合タンパクと結合することが知られている」といった文章に出会って、頭がこんがらがってくるからだ。
 
 ということで、ここでは、この本の要点の要点だけを切りとってみよう。
 
 まずは、エピジェネティクスとは何か。「エピジェネティックな特性とは、DNAの塩基配列の変化をともなわずに、染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれうる表現型」が、いまもっとも受け入れられている定義だという。
 
 生命体の細胞に宿るDNA(デオキシリボ核酸)の遺伝子部分はRNA(リボ核酸)に転写され、その情報が翻訳されてたんぱく質ができる。これは、DNA時代の生物学の中心教義(セントラルドグマ)と呼ばれる。ただ細胞では、いつもすべての遺伝子がこうした「発現」へ進むわけではない。細胞が置かれた状況に応じて必要な遺伝子だけが発現する。このときにものを言うのがエピジェネティクスだ。
 
 ここで、最低限知っておきたいのが「ヒストン」というたんぱく質のことだ。DNAが染色体をかたちづくり、細胞の核に収まっているのは、この物質のおかげだ。「総延長一・八メートルにもおよぶDNAの二本鎖が、わずか五マイクロメートル(一ミリメートルの二〇〇分の一)程度の直径しかない核の中にもつれずに収納されているのは、ヒストンという『糸車』に巻き付いて、コンパクトに折りたたまれているからである」
 
 エピジェネティクスの作用は、ヒストンやDNAが「修飾」されて起こる。「ヒストンがアセチル化をうけると遺伝子発現が活性化される」「DNAがメチル化されると遺伝子発現が抑制される」。ヒストンのメチル化は、飾られ方の違いで活性化にも抑制にも働く。
 
 著者は、DNAを書物に見立て、ヒストン修飾を「『この遺伝子は読み出してくださいよ』『この遺伝子は読んではいけませんよ』ということを示す付箋」にたとえる。これに対して、DNAに直接手をつけるメチル化は「伏せ字」だという。なるほどと思う。
 
 この本は、エピジェネティクスとみられる現象のいくつかを丹念に紹介している。その一つは、英国の疫学者デイビッド・バーカーの報告だ。男性5000人超の調査で「新生児期の体重が低いと、冠動脈疾患で死亡する率が高い」という傾向をみてとったのだ。これは胎児の栄養状態が数十年後の健康状態に影響する、という仮説につながる。本当なら、生命にはDNAによる遺伝ではない「記憶」があることになる。
 
 ミツバチの世界にも、それらしい現象がある。雌が女王バチになるか働きバチになるかを決めるのは、遺伝子ではなく餌の違いだ。では、そのしくみは何か。エピジェネティクスの研究者らは、数百個の遺伝子で「女王バチと働きバチでDNAメチル化のパターンが異なっていること」を突きとめたという。伏せ字が違っていたのだ。ただ、ここの違いが決め手、と言えるものは見つかっていないらしい。著者は結論を急がないように戒めている。
 
 おもしろいことに、プレーリーハタネズミという一夫一婦制動物の実験では、ヒストンのアセチル化で特定の遺伝子の発現が高まり、ステディーな相手との寄り添い志向が強まることがわかったという。身持ちの良さもヒストン修飾次第ということだ。
 
 ルイセンコの話も、すべてが誤りだったわけではない。秋まき小麦に低温処理を施すと、確かに春まきになる。これを「春化」という。その性質が遺伝すると言ったところに間違いがあったのだ。春化にも、エピジェネティクスがかかわっているらしい。そして、iPSやSTAP。分化した細胞を万能細胞に戻す「初期化」も「DNAメチル化をガラガラポンとまっさらに近い白紙に近い状態にしてやること」だという。
 
 DNAで何事も決まるという決定論には解放感がない。それに風穴を開けそうなのがエピジェネティクスだ。ただ、それも所詮は「ゲノム情報の読み出しメカニズムの一つ」という冷めた見方がある。生命観を塗りかえるのかどうか。いま、生命科学から目が離せない。
 
写真》ヒストンに巻きつくDNAのイメージ=尾関章撮影
(通算218回)
 
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●『エネルギー』(オストヷルト著、山県春次訳、岩波文庫)

 ついひと月前までコートが欠かせなかったのに、もう春もののセーター1枚で暑いほどになっている。あっという間にクールビズだな。そんなことを思って苦笑いし、もはや冬でもネクタイをしなくなった脱つとめ人の現在を確認した。
 
 「クールビズ」という言葉が、官製キャンペーンで世に広まったのは2005年のことだ。あのときは地球温暖化に歯止めをかけるため、CO2排出削減をめざして冷房を控えめにしようということだった。3・11の原発事故で電力事情が厳しくなることなど、まだだれも想定していなかったが、それを予感するように日本社会はライフスタイルの次元で省エネに踏みだしていたことになる。
 
 クールビズが始まったころ、テレビの討論番組や記者会見のニュース映像に出てくる政治家たちの襟元が、どうしようもなく痛々しかったことが思いだされる。上下揃いの背広でワイシャツからネクタイをとっただけ、という姿がほとんどだったからだ。「背広にネクタイ」しか知らない、というホワイトカラー男子のファッション感覚の貧困を思い知らされた夏ではなかったか。
 
 ちょっと自慢すると、僕は若いころから、夏はボタンダウンのシャツにノーネクタイでいることが多かった。ボタンで襟をとめるので、そこにアクセントをつけられる。冬は、この襟にネクタイを通していた。だから、拙宅にはふつうのワイシャツがほとんどない。
 
 ボタンダウンのシャツは10年前まで、自分のサイズに合ったものを手に入れるのが至難だった。アイビー系アイテムのせいか、中高年向けの品ぞろえが貧弱だったからだ。それが、クールビズで急に広まった。うれしくはあるが、襟元の個性が世間標準に埋没してしまったことへの一抹の寂しさもある。ただ、それは必然の流れだ。高温多湿地帯のど真ん中で「背広にネクタイ」にこだわってきた近代日本のありようこそが異様だったのである。
 
 そこで今回、焦点をあてようと思うのは、省エネの「エネ」だ。エネルギーをつづめて「エネ」と言うようになったのは、1973年の第1次石油ショックのころからだった。総需要抑制の掛け声とともに深夜のテレビ放送がなくなると、省エネのためだからしかたがない、と納得した記憶がある。この年、霞が関には資源エネルギー庁という役所が生まれ、やがてエネ庁と略称されるようにもなった。
 
 エネルギーは理系用語だが、「エネ」と呼ばれるようになって政治、経済、社会の言葉に取り込まれたように思う。これは、生態学を意味するエコロジーが「エコ」になって、環境保護全般に含意の幅を広げたのとよく似ている。ただし、「エネ」は「エコ」と違って日本語っぽい縮め方だ。エネルギーという難解な概念を「エネ」というこなれた呼び方に消化して日常用語に変えたのは、日本文化のしたたかさなのかもしれない。
 
 で、今週の一冊は『エネルギー』(オストヷルト著、山県春次訳、岩波文庫)。初版が1938年の文庫本を、岩波書店が今年2月に「リクエスト復刊」した。新装版ではないので字体や仮名づかいは昔のまま。読みづらいが、それが科学本ではかえって長所になる。理系知は年々更新されるので過去の本には現在の理解から外れたことも書かれているのだが、装いが古ければ、おのずと昔の視点に身を置けるからだ。
 
 著者は、今の表記に改めればヴィルヘルム・オストヴァルト(1853〜1932)。ドイツの化学者で1909年、化学平衡や触媒反応の研究でノーベル化学賞を受けた。この本の原著は、初版が1908年の刊行で、エネルギー本位の世界観をうたいあげている。〈当ブログでは、この本を引用するとき、旧字体、旧仮名づかいを現代風に改める〉
 
 序章冒頭は「一つの概念の発展歴史と並びにその内容を、私はここに描いてゆきたいと思う」の一文で始まる。それこそが「エネルギー」だ。「我々が今日までに見出した概念の中で我々の智識を最も豊富に、且つ最も生に充ちて肉体化したものと称せざるを得ない」「この概念と関係付けることの出来ないような事象がこの世界に起ることを知らない」と、著者は高らかに宣言する。
 
 著者が、エネルギー本位論の原点とみなすのは「失われた運動のエネルギーが熱として現われるという考え」(「熱」に傍点)だ。この本によれば、それをはっきりと打ちだしたのはドイツの科学者ユリウス・ロバート・マイヤーの1840年代の論文だった。マイヤーは「落下力」「運動」「熱」「磁気」「電気」や物質の化学的側面を同列に並べ、それらを互いに変換可能で総量が保存される「現実なる実体」とみたのだという。
 
 マイヤーは、この「実体」を「力」と呼んだ。「エネルギー」の名を与えたのは、英国の物理学者ウィリアム・トムソン(ケルビン卿)だ。俗に「活力」のことを言うのに使われていた用語を、そこに当てはめたということらしい。
 
 この本でもっとも印象に残るのは、エネルギー本位論が備えている時代変化への適応力を強調したくだりだ。「エネルギー論的理論は、後にそれの取扱う分野の科学が如何に発展しようとも、決してそれによって否定し去られるようなことがないのであって、これ恰かも科学の進歩が決して幾何学の三角形相似の法則を否認する如き事態を惹き起さないであろうというのと全く同様である」
 
 その一例は、19世紀末に発見された放射能だ。著者はエネルギー保存則に触れて、こう言う。「ラヂウムの休みなき熱発散の如き、これ迄の経験の範囲外に属する場合も、それが精密に知られなかった間は、保存法則と完全に背馳するものと思われていたのが、結局終にはそれと完き一致に持ち来らされた」。人知が原子核などの未知領域に及び、量子論や相対論といった新理論が生まれても、エネルギー論はそれに対応して生き続けるのである。
 
 この本が伸びやかなのは、最後の2章の表題を「精神的現象」「社会学的エネルギー論」にして、人文科学や社会科学の領域に果敢に踏み込んでいることだ。だが、それは決して危ういものではない。
 
 「精神的現象」の章では、「外部エネルギー」が「神経エネルギー」に変えられる、という構図を描く。ここでもちだされる比喩は「自働切符販売機」だ。当時でも券売機のたとえが通用した事実に驚くが、ここにあるのは生物をシステムとみる今日的な生命観だ。
 
 著者は、ここから人間の心にまで分け入って「自我」の本質をも考察する。「自我の基底に横わるもの」は「記憶」だとしたうえで、「自我が記憶を有する」(「を有する」に傍点)のではなく「自我が記憶である」(「である」に傍点)と言うべきだ、と主張する。さらに、自我をかたちづくるものとしては「潜在的記憶を任意に喚び返し得る能力をも考えなければならない」と言い添える。この深い人間観が化学者から発せられたことに圧倒される。
 
 こうしてみると、この本で展開されるエネルギー本位の世界観は、モノよりもコトを重んじる発想に立っている。化学者にはモノにこだわる人が多くいるが、そうでない人もいる。僕たちと同時代を生きた人で言えば、ベルギーのイリヤ・プリゴジン(1917〜2003)につながる系譜だ。カオス、フラクタル、複雑系などに関心が集まる近年の科学を読み解くとき、その根っこにある思想を探るうえで貴重な一冊だ。
 
 最終章の「社会学的エネルギー論」では、人々が手にするエネルギーに「太陽輻射」がある一方、「既往の太陽輻射が地中に化石炭の形で集積せしめたエネルギー」があるとして、僕たちが「エネ」と略して議論するエネルギー問題にも言及している。
 
 さて、エネルギー本位の世界観に立ってボタンダウンシャツに目を戻せば、ノーネクタイで冷房電力を節約することは、その分のエネルギーを産みだしていることと等価なのかもしれない。なんとなく襟元が立派なエネルギー源に思えてきた。
 
写真》ボタンダウンというモノの形に「ネクタイをしなくてもいい」というコトが宿り、それこそがエネルギーなのかもしれない=尾関章撮影
(通算211回)
 
■引用箇所はとくにことわりがない限り、冒頭に掲げた本からのものです。
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